01-01:遭遇の蓋然性と、黒歴史ノートという名の特異点
我々の関係性を証明するにあたり、まず提示すべきは「理由 (Reason) 」である。
なぜ、学園カーストの頂点に君臨する天道まなかと、その生態系における底辺のプランクトンですらない俺、市井理屈の人生が交差したのか。
多くの者は、これを「事故」と呼ぶかもしれない。
あるいは「魔が差した」とも。
だが、俺の見解は異なる。
これは、確率論的な必然であり、カオス理論におけるバタフライ・エフェクトの帰結だ。
時計の針を、二ヶ月前の四月、ある放課後へと巻き戻そう。
すべての始まりは、一冊の、あまりにも痛々しいノートとの遭遇だった。
◇ ◇ ◇
四月の中旬。
新学期の浮ついた空気がまだ校舎内に充満している時期だった。
俺、市井理屈にとって、放課後の図書室は聖域である。
理由は三つ。
一、空調が最適化されている。
二、人口密度が極めて低く、他者との不必要な接触 (コミュニケーション) を回避できる。
三、ここには論理的な静寂がある。
俺はいつものように、最も死角となる奥の閲覧席を確保し、ノイズキャンセリングイヤホンを装着して、カントの『純粋理性批判』のオーディオブックを倍速再生で聴いていた。
世界から隔絶された、至福の時間。
思考の海に沈んでいると、視界の端に異物が映り込んだ。
机の下。
パイプ椅子の脚に隠れるようにして、一冊の大学ノートが落ちていた。
普通のノートではない。
表紙は一般的なキャンパスノートだが、そこには金色の油性マーカーで、独特の装飾文字が踊っていた。
『神殺しのラグナロク ~第7聖典~』
……なんだこれは。
俺は眉をひそめた。
タイトルから漂う、濃厚な「中二病」の香り。
誰かの落とし物であることは明白だ。
無視するのが最も合理的である。
関われば、面倒事に巻き込まれるリスクが増大する。
だが、俺の中にあるもう一つの人格――ネット小説界の辛口レビュアー「ロジカル・カッター」としての性分が、微かに疼いた。
『第7聖典』というナンバリング。
これはシリーズ物である可能性が高い。
そして、これほど堂々と表紙にタイトルを書く自意識の強さ。
俺は周囲を見渡した。誰もいない。
数秒の葛藤の末、俺は「持ち主を特定して届けるため」というもっともらしい理由 (エクスキューズ) を捏造し、そのノートを拾い上げた。
表紙をめくる。
一ページ目には、キャラクターのイラストらしきものが描かれていた。
画力は……まあ、頑張っている方だ。
眼帯をした少女と、包帯を巻いた少年。
そして、その下には設定資料がびっしりと書き込まれていた。
『名前:ルシファー・ナイトメア・愛 (アイ) 』
『能力:創造再生 (クリエイション・リバース) 。ただし使用すると寿命が削れる』
『口癖:「世界の理 (コトワリ) が、私を拒絶している……」』
俺は天を仰いだ。
痛い。物理的な痛みではないが、精神的ダメージに脳が削られる。
だが、ここで止めるわけにはいかない。
俺はページをめくり、本文へと進んだ。
手書きの文字は丸文字で読みやすい。
だが、内容は混沌 (カオス) そのものだった。
冒頭から「千年の時を超え、漆黒の雷鳴が学園の屋上に轟いた」という書き出し。
文法は破綻していない。
語彙も豊富だ。
しかし、展開があまりにも性急すぎる。
主人公がいきなり最強の力を手に入れ、その三行後にはヒロインがピンチになり、次のページではなぜか異世界へ転移している。
論理的整合性 (ロジカル・コンシステンシー) が欠落している。
俺の指が震えた。
これは……ひどい。
しかし、同時に奇妙な感覚も覚えた。
この文章には、異常なまでの「熱」があった。
読み手を置いてけぼりにするほどの疾走感。
設定の矛盾を力技でねじ伏せようとするパッション。
「……もったいない」
無意識に、そんな言葉が口をついて出た。
素材は悪くない。
アイディアの断片には光るものがある。
例えば、この「寿命を削る」という代償設定はありきたりだが、その後の「削られた寿命が具現化して敵になる」というギミックは斬新だ。
だが、構成がすべてを台無しにしている。
俺の手が、筆箱から赤ペンを取り出していた。
これは批評ではない。校正だ。
論理の通っていない回路を繋ぎ直し、情報の渋滞を整理する。
俺は憑かれたようにペンを走らせた。
『P4:主人公の動機が不明確。なぜ戦うのか、理由 (Reason) を提示せよ』
『P8:前述の設定と矛盾。魔力枯渇状態での魔法発動は論理的エラー』
『P12:描写過多。形容詞を三割削れ』
気づけば、三十分が経過していた。
ノートの余白は、俺の赤字で真っ赤に染まっていた。
ふぅ、と息をつき、ペンを置いたその時だ。
ガララッ!
図書室の扉が、乱暴に開かれた。
静寂が破壊される。
俺は顔を上げた。
入り口に立っていたのは、一人の女子生徒だった。
肩で息をしている。長い黒髪が乱れ、制服のリボンは少し曲がっている。
その顔を見て、俺の思考回路が一瞬停止した。
天道まなか。
生徒会長にして、この学園の象徴。
普段は涼しげな表情で生徒たちを統率する「氷の女王」が、今はまるで迷子の子犬のような、あるいは獲物を探す肉食獣のような、必死の形相をしていた。
彼女の視線がすばやくめぐらされ、閲覧室を高速でスキャンする。
そして、俺の手元にあるノートで止まった。
「あ……」
彼女の喉から、小さな音が漏れた。
俺の手にある『神殺しのラグナロク』。
彼女の顔色が一瞬で蒼白になる。
次の瞬間、沸騰したように真っ赤になった。
状況証拠から導き出される結論は一つ。
この「黒歴史ノート」の作者 (クリエイター) は、天道まなかである。
彼女は口をパクパクさせながら、俺に近づいてきた。
「そ、それ……私の……」
声が震えている。
俺は冷静さを保ちながら立ち上がった。
ここで笑えば、彼女の尊厳は死ぬ。
仮に「何も見ていない」と嘘をついても、彼女は疑念を抱き続けるだろう。
ならば、取るべき態度は一つ。
事実 (ファクト) に基づく誠実な対応だ。
「拾った」
俺は短く告げ、ノートを差し出した。
まなかはひったくるようにそれを奪い取った。
そして、そのノートが「赤くなっている」ことに気づき、息を呑んだ。
「……え? な、なにこれ……落書き……?」
「校正だ」
俺は即答した。
「こ、こうせい……?」
「中身を読ませてもらった。持ち主を探すためだ。不可抗力であることを主張しておく」
「よ、読んだ……の……?」
まなかの目が限界まで見開かれた。彼女の脳内で「転校」や「出家」や「記憶消去」といった単語が渦巻いているのが手に取るように分かる。
彼女は震える手で、俺が書き込んだ赤字を目で追った。
最初は怒りや羞恥で顔を歪めていたが、次第にその表情が変化していく。
真剣な眼差し。
食い入るように、俺のコメントを読んでいる。
『P15:ここの伏線回収は見事。ただし配置が早すぎる。後半に回すべき』
その一文を見たとき、彼女がハッと顔を上げた。
「……分かるの?」
彼女の声から、震えが消えていた。
「何がだ?」
「ここの伏線……誰も気づいてくれなかったの。ネットにアップしても、『意味不明』って叩かれて……でも、貴方は……」
彼女の瞳が潤み始めていた。
まずい。
これは想定外の反応だ。怒られるか、泣いて走り去るかの二択だと予測していたが、まさか「感謝」のフラグが立つとは。
「論理的に読めば、著者の意図 (インテント) は明白だ。ただ、出力 (アウトプット) の精度が低いだけだ」
俺は突き放すように言った。
だが、まなかはノートを胸に抱きしめ、一歩、俺に近づいた。
その距離は、パーソナルスペースの限界値ギリギリ。
彼女から、微かに質の高いシャンプーの香りがした。
「すごい……」
彼女は呟いた。
「私の頭の中にしかなかった『正解』が、ここに書いてある……。ねえ、貴方、名前は?」
「市井理屈だ」
「リクくん……」
彼女は俺の名前を反芻し、そして、パッと顔を輝かせた。
それは、学園で見せる営業用の微笑みとは違う。
もっと無防備で、危険なほど純粋な笑顔だった。
「私、探してたの! 私の世界 (カオス) を理解してくれる人を!」
「は?」
「運命だわ! これは因果律の収束よ! 貴方、今日から私の『参謀 (エディター) 』になりなさい!」
彼女はビシッと人差し指を俺に突きつけた。
「……断る」
俺は即答した。
「理由は三つ。一、面倒だ。二、俺にメリットがない。三、君の作品は手直しするには骨が折れすぎる」
「メリットならあるわ!」
まなかは食い下がった。
「私が生徒会長権限で、図書室のエアコン温度設定を貴方の好きにさせてあげる!」
「……今の設定で満足している」
「じゃあ、学食の裏メニュー『幻のプレミアムンプリン』を毎日確保する!」
「甘いものは脳の働きを鈍らせる」
「むぅ……!」
まなかは頬を膨らませた。
その仕草があまりにも子供っぽくて、俺は思わず毒気を抜かれた。
これがあの、天道まなか?
まるで駄々っ子だ。
だが、その瞳だけは真剣だった。
自分の作品を、より良くしたいという渇望。
それは、俺がネットの海で探し求めていた「本物の創作者」の目だった。
「……一つだけ、訂正する」
俺は眼鏡の位置を直しながら言った。
「骨が折れる、と言ったが、修正不可能なレベルではない」
「本当!?」
まなかの表情がパッと明るくなった。
「あぁ。素材は……悪くない。論理的補強 (ロジカル・リーンフォースメント) を行えば、凡百の作品よりはマシになる可能性が、微粒子レベルで存在する」
素直に褒めることはできない。それが俺の性格だ。
だが、まなかにはそれで十分だったらしい。
「やった! 契約成立ね!」
彼女は俺の手を取り、ブンブンと縦に振った。
「ちょ、待て。俺はまだ承諾してない」
「契約書はないけど、言質は取ったわ! これからよろしくね、リクくん! あ、私のことは『マナ様』って呼んでいいわよ!」
「……絶対に嫌だ」
これが、すべての始まりだった。
俺、市井理屈の平穏な日常が終了し、天道まなかという台風の目の中に巻き込まれた瞬間。
確率論的な「事故」にして、運命的な「必然」。
◇ ◇ ◇
現在に戻ろう。
壇上の俺は、聴衆に向けて指を一本立てた。
「これが、我々の接点 (コンタクト) だ。彼女は、孤独な創作者としての『需要』を抱え、俺は、偏屈な批評家としての『供給』能力を持っていた。市場原理に基づけば、我々のマッチングは極めて合理的である」
俺の言葉に、体育館の空気が少し変わった。ざわめきの中に、「なるほど……?」という困惑交じりの納得感が漂い始める。
だが、これはまだ序の口だ。
単なる協力関係が、どうして恋人関係へと発展したのか。
そのプロセスには、さらに深い論理的飛躍が存在する。
「しかし、単なる『編集者と作家』の関係で留まらなかったのには、さらなる理由がある」
俺は言葉を切り、次のスライドへ移行するように一呼吸置いた。
隣でまなかが、小さく頷くのが見えた。
彼女との共犯関係は、まだ始まったばかりだ。
-つづく-




