第五章 柚衣の檻
薄曇りの名古屋の空。
午前3時過ぎ、街の騒ぎも少しずつ落ち着きを見せる頃。錦三丁目からほど近い、裏柳橋の古びたビル。その三階に、名を秘されたSMクラブ『RED ROOM』は存在した。
この店のナンバーワン、楠本 柚衣。
昼は誰にも知られず、夜にだけ現れる“女王様”。男たちの欲望を縛り、痛みを与え、恍惚の表情を引き出すこの店の頂点。
だが、それは外の顔。
柚衣の本当の姿は――この街の地獄を、蓮と同じように歩いてきた、ひとりの孤独なトランス女性だった。
控え室。
赤いソファに身を沈めた柚衣は、淡く光るスマホの画面を睨んでいた。
画面の通知には、“燈”の名前が浮かぶ。
『例の件、鳴海の情報を掴んだ。あとは絢斗の動き次第。気をつけろ。
もう誰も信用するな』
燈の短い文面が、より胸の奥を締め付ける。
柚衣は、自分の右手首をじっと見つめた。
赤いロープの痕が薄く残る。昔――絢斗に飼われていた頃、逃げることも、叫ぶことも許されず、ただ命令されるまま身体を差し出し、夜な夜な金のための玩具にされた。
痛みの記憶は消えない。
それでも、生きて、今の立場を手に入れた。
もう二度と、あんな檻には戻らないと誓ったはずだった。
だが、今夜、その檻の鍵を再び絢斗が握ろうとしている。
蓮が死ぬ。ユウトも。燈さえも、巻き込まれればただでは済まない。
この街は、弱者に選択肢を与えない。
選べるのは、裏切るか、裏切られるか。
クラブの扉が開き、客が帰った深夜四時。
柚衣は、一人の若い従業員を呼び寄せた。
「シンジ、私の言うとおりに動ける?」
小柄で人懐こい顔のシンジは、頷いた。
彼もこの街の闇を知る子だ。
「今夜、G-HAVENの倉庫に仕掛ける。あそこに録画用のドローンを飛ばせ。
それと、絢斗の車に発信器を。できる?」
「……できます。でも、柚衣さん、それバレたら……」
「死ぬわよ。わかってる。だからあんたも、そのあとすぐ名古屋を出ろ。いいわね?」
シンジは怯えたように、しかし強く頷いた。
「必ず助けて。蓮兄も、ユウトも」
「あんたもよ」
柚衣は微笑み、シンジの頭を撫でた。
幼い弟のような存在だった。
この街で、守れるものがまだいる。
だからこそ、もう檻の中では生きない。自分で鍵を握る。
午前4時半。
柚衣は自宅兼控え室の奥の、誰も知らない隠し扉を開けた。
そこには、古びた手帳とSDカード。
手帳には、過去の客の名前と住所、裏取引の記録。
SDカードには、鳴海議員と少年たちの映像。
「これさえあれば……」
手は震えていた。
そのとき、背後からかすかな足音。
振り向くと、そこに絢斗がいた。
「探したぜ、柚衣」
汗の匂いと煙草の煙。冷たい笑み。
「いいもん持ってんなぁ。なぁ、それ、俺に渡せよ」
柚衣の心臓は跳ねた。
だが、彼女はゆっくりと微笑み、再び檻の女王に戻った顔で囁く。
「これが欲しいの?なら……私の体で交渉しよ」
柚衣の声は甘く、艶やかだった。
その瞬間、絢斗は興奮に目を細め、柚衣の肩を掴む。
「いいぜ。その体、昔みたいに壊してやるよ」
柚衣は心の奥で冷たい炎を灯した。
今夜、この檻の鍵は私が壊す。
それが、蓮を、ユウトを、この街の誰かを救う唯一の方法。
名古屋の夜は、今、最後の檻の扉が開こうとしていた。