第四章 裏切りの口づけ
名古屋の夜は、決して静寂を許さない。
欲望と差別、金と性、そして血の匂いに満ちた街の片隅で、またひとつ、歪んだ約束が交わされようとしていた。
その夜、倉庫街の一角。
絢斗は蓮に告げた通り、少年を逃がしたと報告し、あたかも何事もなかったように振る舞っていた。だが、蓮にはわかっていた。
絢斗は人を信じない。
それどころか、利用するために近づき、切り捨てることに何の躊躇もない男だ。
「お前も変わったな、蓮。昔はもっと、素直で可愛げのある顔してた」
絢斗が酒を煽りながら呟く。
「生きるために変わっただけだよ、この街で」
蓮もグラスを傾ける。口の中にウイスキーの熱さが広がり、喉が焼ける。
「ところでな、蓮」
絢斗はわざとらしく、スマホの画面を見せる。
そこには――さっき逃がしたはずの少年・ユウトが、別の男たちに車へと押し込まれる映像。
蓮の血の気が引いた。
「何だよ、これ……」
「悪いな。お前が逃がしたガキ、俺の手の者がちゃんと追ってた。今ごろ、あの場所さ」
絢斗の唇が吊り上がる。
「嘘だろ、約束は……っ」
「馬鹿だな、蓮。お前も、この街も、人を信じた時点で負けなんだよ」
その瞬間、蓮の怒りは頂点に達した。
グラスを叩き割り、絢斗の胸倉を掴む。
「今すぐユウトを返せ!殺したら承知しねぇぞッ!」
だが、絢斗は微動だにせず、逆に蓮の顎を掴んだ。
「お前、本当に昔からバカだな。そんな感情、この街じゃ邪魔なんだよ」
そして、唐突に――
唇を奪った。
強引で、暴力的な、支配の口づけ。
蓮は必死に振りほどこうとするが、絢斗の力は強い。顎を固定され、唇を押し付けられ、舌をこじ入れられる。
薄暗い倉庫の一室、汗と酒と薬の臭いの中、無理やりの口づけ。
蓮の身体が震える。
絢斗は舌を絡ませ、耳元で囁いた。
「いい顔するじゃねぇか、蓮。俺のものになれよ。昔みたいにな」
その声に、蓮の胸の奥に封じ込めた過去の傷が疼いた。
それは、十代の頃――
一度だけ、絢斗に抱かれた夜。
捨て子同然だった自分に、手を差し伸べるふりをして、好き勝手に弄ばれたあの夜。
そして、それを振り切って逃げた過去。
蓮は叫び声をあげ、絢斗を突き飛ばした。
「ふざけんなッ!!」
息を荒げ、唇を拭う。
「二度と俺に触れんな。俺は、お前みたいなクズの下なんかにいねぇ」
絢斗は鼻で笑った。
「いいぜ。ならその代わり、今夜、ユウトの命と引き換えに、お前の動画をばら撒く。
議員相手の裏仕事も、誰に股開いたかも、全部名古屋中にバラしてやる」
蓮の顔色が変わった。
それは、死と同じだった。
この街で秘密をバラされることは、生きたまま地獄に堕ちるのと同義。
仲間は消え、客は離れ、借金は跳ね上がり、行き場も居場所もなくなる。
「……くそが」
蓮は震える手でスマホを握りしめ、柚衣に電話をかけた。
「柚衣、助けてくれ。ユウトが……俺も終わる」
受話器の向こうで、柚衣の声は静かだった。
『燈に話は通した。今夜、あんたを逃がすルートを作る。ただし、誰かを裏切っても構わない覚悟があるならね』
「わかった。全部捨てる。もう誰も死なせねぇ」
蓮は唇を噛み、もう一度絢斗の前に立った。
「いいぜ、絢斗。最後の賭けだ。俺とお前、どっちがこの街のクズか証明してやろうじゃねぇか」
この瞬間、裏切りの口づけは、
名古屋の夜を、血と欲望で染める開戦の合図となった。