第三章 濡れた約束
絢斗の冷たい銃口が、蓮の額に押し付けられる。
その感触は、鉄の硬さというよりも、命の終わりの温度に近かった。
「冗談だよ、そんな顔すんなって」
絢斗はニヤリと笑い、銃口を下ろした。蓮の心臓は激しく脈打ち、掌がじっとりと汗ばむ。
「ビビりすぎだっての。なぁ、蓮。お前と俺、昔からの腐れ縁じゃねぇか。もう何年になる?」
絢斗は昔を懐かしむように笑ったが、その目は昔と同じ、いや、それ以上に濁っていた。
「お前にひとつだけ、いい話を持ってきたんだ」
「……なんだよ」
「鳴海駿介の弱みを掴んだ。動画だ。あの偽善者が、男娼のガキを飼ってる映像な。こいつを俺が握ってる」
絢斗はスマホを取り出し、画面を蓮に見せる。
そこには、明らかに中学生ほどの少年と、笑みを浮かべる鳴海の姿。
そして、その先に、ベッドの上での行為の一部始終。
「……最低だな、アイツ」
「最低なのは、そいつだけじゃねぇ。この動画をネタにして、G-HAVENの所有権の半分を奪える。お前、俺と組め」
蓮は喉の奥が焼けるようだった。こんな地獄のような場所で、権力を得てどうする。
だが――
「一つだけ条件がある」
「ほぉ?」
「今夜、あの少年を解放しろ。外に逃がしてやれ。俺は見殺しにできねぇ」
絢斗は一瞬、目を細めた。
「優しいな。蓮は昔から変わんねぇ」
そして、肩を竦めて笑う。
「いいだろ。あのガキの始末なんざどうでもいい。お前が逃がしたって、街のどっかで野垂れ死ぬだけだ。だが、約束だ。今夜、お前と俺は正式に手を組む。それでいいな」
蓮は、唇を噛んでうなずいた。
「……それでいい」
濡れた約束。
それは、名古屋の夜に浮かぶ濁った血の契約だった。
倉庫の裏口。
蓮は少年の手を取り、暗闇の中を走る。
「……しっかり掴まってろ。声出すなよ」
少年は怯えたまま、力なくうなずく。顔に残る痣。痩せ細った手首。唇には切り傷。
蓮はこの街で何度もこういう光景を見てきた。
いや、自分も、過去に同じ目に遭った。だからこそ、見捨てられなかった。
路地を抜け、人気のない鶴舞公園へ。
「ここなら、もう大丈夫だ。ほら、これ」
蓮は少年に、札束とスマホ、そして交通ICカードを渡した。
「今すぐ、名駅まで行って。新幹線乗り場から静岡行きに飛び乗れ。あとは適当なとこで降りて、二度と戻ってくんな」
「……ありがとう」
かすれた声。少年は泣きそうになりながら、頭を下げる。
「名前、なんていうの?」
「……ユウト」
「いい名前だ。生きろよ、ユウト」
少年は小さくうなずき、夜の街へと消えていった。
その背中を見送りながら、蓮は煙草に火を点ける。
胸の奥で、何かが確実に壊れていく音がした。
その頃。
柚衣は、名駅裏の薄汚れたアパートで、新堂 燈の到着を待っていた。
インターフォンの音。
扉を開けると、燈が銀色のロングウィッグを揺らし、サングラスを外して入ってくる。
「久しぶりね、柚衣」
「燈……お願い、蓮を助けて。あのままじゃ、殺される」
燈は静かにため息を吐いた。
「蓮もお前も、この街から抜け出す気なんて、最初からなかったでしょう。みんなそう。差別も偏見も、社会も法律も、誰も私たちを守ってなんかくれない。だから、生き残るには、誰かを裏切るしかないのよ」
その言葉は、どこか寂しく響いた。
「でも、私は蓮だけは守る。……私に任せなさい」
燈の瞳は、長いまつ毛の奥で、静かな炎のように燃えていた。
名古屋の夜は、濡れた約束と裏切りの匂いに満ちている。
すべては、まだ序章に過ぎない。