第二章 ヴェルヴェットの調べ
夜も更け、錦三丁目の空気はさらに淫靡さを増していく。時計の針はすでに午前一時半を指し、街に残るのは、酔いどれと、金と快楽に溺れる者、そしてそれを喰らう者たちだけだった。
ゲイバー『Velvet』の奥の控え室。蓮は化粧を落とし、短めの金髪を乱暴にかき上げ、煙草に火を点けていた。
鏡越しに映る己の顔は、妙に青ざめている。
――G-HAVEN。
あの名を口にした絢斗の目の奥に、異様な熱が宿っていた。あの男に呼ばれるというのは、単なる見世物か、あるいは売りとして差し出されるか。どちらにせよ、碌なことはない。
吐き出した煙は天井に滲むように漂い、部屋には静寂だけが残る。
ノックの音。
「……誰?」
「私よ、柚衣」
ドアがゆっくりと開き、楠本 柚衣が現れた。
トランス女性の柚衣は、濃紺のドレスに身を包み、夜会巻きの髪を揺らしながら、ゆっくりと入ってくる。化粧の下の白い肌は、どこか哀しげだった。
「大丈夫?」
「……何が」
「絢斗、来てたでしょう。アイツが動くとき、まともな話じゃ済まないわ」
蓮は煙草をもみ消し、柚衣の差し出すウイスキーのグラスを受け取る。
「……今夜、G-HAVENに行かされる」
柚衣の顔色が一瞬で変わった。グラスを置き、手を握る。
「行っちゃダメよ、蓮。あそこは、普通の“裏”じゃない。ただの売り買いじゃ済まない。女の子も男の子も、行ったまま帰ってこない子だって――」
「……分かってる」
柚衣の掌は細く、爪先に赤いネイル。少し震えていた。
「私が昔、アイツに売られかけたこと、知ってるでしょ」
「ああ。あのとき、助けてくれたのが燈だったんだろ」
新堂 燈。
この街で女装の情報屋として暗躍する人物。絢斗やその上に繋がる議員、組織の動きも掴んでいると言われる。
「今夜、燈に会って。絶対に」
「……分かった。でも、柚衣、あんたこそ気をつけろよ。アイツは昔の女も男も平気で使い捨てにする」
柚衣は苦笑した。
「そんなの、今さらでしょ。私たち、もう綺麗な世界には戻れないもの」
ふたりはグラスを合わせた。薄く響くカランという音。
それは、この夜の運命を告げる小さな鐘のようだった。
午前二時。
蓮は、鶴舞の倉庫街へと向かった。
人気のない裏路地に、黒塗りの車が数台。どの車も名古屋ナンバーだが、運転手の顔はどれも冷たく、目を合わせる者などいない。
倉庫の鉄扉が開き、中から微かな音楽が漏れてくる。
ベース音の低いビートと、甘ったるい煙草と香水の匂い。
中に入ると、異様な光景が広がっていた。
薄暗い照明の中、男と男、女と女、トランス女性、ドラァグクイーン、果ては少年までもが入り乱れ、身体を絡め、酒と薬と精液の匂いが充満する。
中央には鳴海 駿介――名古屋市議会議員が、女装した少年を膝に乗せ、酒を煽っていた。
「おお、滝川くんか。お前も今日は楽しんでいけ」
その顔は、テレビで見る清廉な政治家のものとはまるで違っていた。蓮は目を伏せ、絢斗の姿を探す。
奥の個室の扉。そこから絢斗が手招きしていた。
「よぉ、蓮。遅かったじゃねぇか」
「……何の用だよ」
絢斗は煙草をふかし、にやりと笑った。
「今夜の目玉だ。新しい子が入った。お前も一発どうだ?」
そこに、ボロボロのシャツを纏った少年が連れて来られた。まだ十五、六。痩せた体。怯えきった目。
蓮の心臓がざわつく。
この世界の底辺にいる自覚はある。だが、これ以上堕ちたら、人間でいられなくなる。
「……俺は降りる。こんなもん、見たくもねぇ」
その瞬間、絢斗が銃を取り出し、蓮の額に突きつけた。
「降りる? お前にそんな選択肢、あったか?」
乾いた金属音。蓮の首筋を冷たい汗が伝う。
「この街じゃ、誰もお前なんか助けねぇよ。差別も偏見も、弱ぇ奴は喰われるだけだ」
蓮は、血の味を噛みしめた。
どこかで聞こえる淫靡な音楽。酔った男たちの嬌声。
地獄の調べは、今夜も名古屋の夜に響き渡っていた。