真理の織り手:魔法とイメージの交差
魔法の本質について、もう少し説明しておこう。
魔力量は、詠唱や魔道具を用いて発動される魔法では増加しない。しかし、大魔導士のように、無意識であっても「イメージ」によって魔法を発動させている場合、少しずつではあるが魔力量を増やすことが可能となるのだ。
さらに、この世界では「物理法則」や「科学法則」という概念が存在しない。しかし、物理も科学も厳然と存在している。
例えば、「ストーン」という呪文を用いて敵を攻撃する場合を考えてみよう。
通常の「ストーン」の詠唱では、周囲に存在する魔素と自らの魔力を用いて石礫を具現化し、それを敵に向かって発射することで攻撃を加える。しかし、その石礫は魔力の供給が途切れると同時に消失してしまう。
一方、膨大な魔力を用いて物質化した石礫や実際に存在する石礫を召喚した場合、それらは攻撃後もそのまま存在し続ける。
また、「ファイア」と詠唱して薪に火をつける場合も同様だ。具現化された炎は物理的には存在していないが、薪が燃焼した瞬間、物理的な火として存在するようになる。科学的には、燃えるもの(薪)と燃やすもの(酸素)があれば、具現化した炎であっても現実の火に転化することができるのだ。
しかし、この世界には物理や科学の概念がないため、「ファイア」と唱えれば火がつく、と単純に考えられている。
「ウォーター」の呪文についても同じことが言える。魔素と自らの魔力によって具現化した水と、「イメージ」によって実際の水を召喚する、もしくは周囲の水分を集積して物質化した水では、本質が異なるのだ。
つまり、物理や科学、そして魔法という概念が交錯する中で、「イメージ」の力は非常に重要であり、魔法の本質そのものと言える。
俺は、この真理に気づくまでそれほど時間はかからなかった。
日々の生活を観察する中で、住人たちは魔法を当たり前のように使用しているが、それはあくまで決められたルールに従い、手段の一つとして捉えているに過ぎないと感じた。
学院に通い始めて数週間が経過した頃、俺は周囲の生徒よりも魔力の消費量が少ないことに気がついた。それは、無意識のうちに「イメージ」の力を利用していたからだ。
このことに気づいた俺は、自らの身体を見えないバリアのようなもので覆い、常に無詠唱で魔法を使い続けるという方法を試みた。最初のうちは、半日も持たずに魔力が尽きてしまったが、1ヶ月後には周囲の大人と比較しても桁違いに魔力量が増加していることが明らかになった。
魔力量は魔法を行使する上で最重要な要素の一つであり、多ければ多いほど良いとされている。魔力量が多いことで高度な魔法が使えるようになり、物質化や召喚魔法も可能となる。
さらに、「イメージ」を用いた魔法は、通常の詠唱や魔道具を使った魔法に比べて魔力効率が良く、消費を抑えることができるという利点もあるのだった。
次回 退屈な日常と錬金術
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