故郷を呑む
「今度いつ帰ってくるの?」
母からそんなメールが届いていた。
帰る予定は今のところ、ない。仕事が忙しくて、休日には13時間ぐらい寝ている生活だ。ゴールデンウィークが近い。しかしそんな特別の連休を、娘の私ごときが邪魔するわけにはいかない。きっとみんなで楽しんでいるだろうから。
何より私は故郷を捨てた気でいるのだ。
医大に進学しなかった私を父は憎んでいる。医者の男性と無理やり結婚させようとした父を私は避けている。父は私を疎ましく思い、私は父を嫌っているのだ。そんな故郷になど帰りたいと思うはずがない。
親しい友達でもいればそういう気にもなるかもしれないが、生憎私はぼっちだった。懐かしい風景を見て一時追憶に遊び、仕事に戻った時の鋭気を養うにも、故郷の景色はあまりにも変わりすぎていた。
学生時代に通ったあの店はもうない。好きだったあのラーメン屋の味も代替わりしてしまった。
兄にも会いたくない。
「血を見るのが嫌いだから」という理由で病院を継がなかった兄は、私を憎んでいる。私さえ医者の男と結婚し、婿に病院を継がせていれば、すべては一件落着だったのだ。そうなれば兄は今よりももっと気楽に、自室に引き籠もった生活を謳歌していられたことだろう。
とにかく私にはもう、故郷などないのだ。
故郷よりは都会の、この町に住んでもうすぐ9年になる。
この町にも親しいひとなどいないが、今は私にとってこの町こそがリアルなのだ。この町で私は今を生きている。
大型トラック運転手なんて仕事をしているので、宮崎〜仙台まで、寝床は毎日、日本各地に渡ってコロコロ変わるが。
スーパーの酒売場で、偶然それを見つけた。
倉吉ウィスキー『山陰』──
私の故郷の酒だ。思わず手に取り、ラベルを見る。製造者は『松井酒造』──あぁ、なんか聞いたことある。よくは知らんけど。
馬鹿にならない値段のそのウィスキーを買ってしまったのは、べつに故郷を想ってのことではない。ただ、美味しいハイボールが飲みたかっただけだ。
真っ暗な山の中の駐車スペースで大型トラックを停め、今日の仕事を終えた。
エンジンを止めると、寂しさのような無音が私を包んだ。ここで8時間半ほど休息し、明朝7時過ぎに出発する。
部屋から氷を詰めた紙コップを持ってきていた。保冷剤が効いて、2時間経っても氷は溶けていなかった。
『山陰』のキャップの封を開けた。
香りを嗅いだだけで嬉しくなった。まるでプーさんがハチミツの匂いを嗅いだように、笑顔になった。
これだけが今日のお楽しみ。美味しいハイボールが飲めますように。
氷ではち切れそうな紙コップに『山陰』を注ぐ。
有名銘柄のように「トクトクトク」という音はしない。ペットボトルのお茶を注ぐような音ともいえない音を立て、しかし危ない香気を漂わせて、それは紙コップの中をいい色にした。
いただきます。
コクンと飲んで、声が出た。
「うんま!」
淡麗なウィスキーだ。それでいて甘い味わい。なのにガツンとくるアルコールの力は逞しい。
「美酒って、こういうものだったのか!」
コンビニで買った炭酸水を注ぎ、おつまみというか夜食に持ってきていた唐揚げやコロッケを開ける。食べきるつもりはなかったが、どうやら食べきることになりそうだ。
「美酒! 美酒!」
私の故郷にはこんなに美味しいお酒があったのか。まるで仙人が集めた笹の露。
大型トラックのキャビンの中、ひとりで騒ぐよっぱらい。
「びしゅ! びしゅ!」
だんだんと何かを投げるように、擬音語のようになるひとりごと。
「びしゅ! びしゅ! ビシュッ!」
それとともに想い出が、私のところへ投げ込まれてきた。
幼い頃、両親に連れて行ってもらった海辺の景色が蘇る。何も悩みのなかった私は、裸足で砂浜を駆け回り、世界の広さに小さな手を広げていた。暮れゆく海の浮かべる炎の道に、どこまでも未来はあると、信じて疑わない笑顔をばかみたいに浮かべていた。
襲いかかってくる想い出に包まれて、いつしか私は毛布にくるまっていた。山の空気は涼しい。涼しすぎるぐらいだ。窓を閉めて、エンジンは消して、静寂という名の喧騒に包まれて、楽しい夢の中へ入っていった。
高校時代のクラスメイトと一緒に『ウィー・アー・ザ・ワールド』をハモった。自分の125ccバイクに鍵をつけっぱなしにしていたら盗まれたので、代わりに400ccのバイクを兄からもらい、そのあまりの遅さにプッと笑った。
夢の中では私は子どもだった。哺乳瓶のミルクを飲むようにウィスキーを飲んだ。
朝、目覚めると、私は故郷を呑んでいた。
ゴールデンウィークぐらい、帰ってみようかな──




