感染
2月16日
生ぬるい嫌な風が首筋を通り抜ける。じわりと鬱陶しい汗が滲む、春の朝。農夫はいつものように日の出とともに家を出て、畑に向かった。今日の雲は少し低い位置に浮かんでいる。微かに雨の匂いもする。
今日肥料を撒くのはやめよう。そんなことを思いながら、小高い丘の上の畑に着いた農夫は、目の前の光景に思考が停止した。
畑の西側の二畝が枯れている。昨日までは、確かに青々と葉が茂っていたのに。
カサッ。
足元に目を落とすと、まるで時間を早送りしているかのように、数秒足らずで葉が枯れ落ちた。農業を始めて二十年。経験値が追いつかないこの状況に、焦りを覚えたのも束の間。
ポツリ。
頭上はみるみると鼠色の雲に覆われ、大きな雨粒が落ちてきた。予想よりも早く、雨が降り始めたのだ。自然には、人間への慈悲などないのだろうか。
3月16日
「お利口さんだね、蒼。」
「どこがお利口さんなの?ただコムギの種を集めただけなのに。」
「蒼がその種を未来に運ぶからさ。」
「未来に運んだらどうなるの?」
「未来で、こことは違う別の場所で、蒼がその種を大地に播いたら、このコムギの遺伝子が子孫へと受け継がれていくからさ。」
「あおむはどこにも行かないよ、ふうゆう君。」
「もう——、どうしようもないんだよ。」
「どうしてそんな悲しい顔をしているの?」
また、いつものように、悲しげな風が蒼の隣を通り過ぎた。
今どこにいるの? なにをしているの? もう一度、もう一度でいいから私をその優しい声で褒めてよ——。
「蒼。あーおーむ。・・・あおむっ!!」
「んー。うるさいなあ。もう少し寝かせてよ晴臣君。」
「その甘える時だけ君付けやめよろな。」ソファで寝ている蒼から目を逸らして、晴臣は微かに頬を赤らめた。
「集中講義出なくていいのかよ。」
「二年生の時に四年生までの座学の単位は取り終えたからね。今は研究室配属の結果を待ってるの。」蒼は、返事をしながら、今見た夢を反芻していた。十五歳の頃から見るようになった夢だ。七歳の時の記憶だと思う。今日で二十二回目。いつものように、悲しげな風が吹くと目が覚めて、彼の残り香を寝起きの蒼に届けてくれる。
「呑気なもんだな。世界は食糧難の危機だっていうのに。」
「エネルギーを使わない生活は生存戦略の一つだよ。睡眠は、一時間にたった五十キロカロリーしか消費しないんだから。」
「蒼、『風の調べ』読んでないの?」晴臣は寝起きの蒼の話をばっちりスルーした。
「読んでるよ。農作物を枯らす謎の伝染病。カビか細菌かウイルスか...。私には意図的としか思えないけど。こういうのなんて言うんだっけ。バイオテロ?」蒼は短く伸びをして、身体を起こした。
「ちょっと待って、なんで意図的って思うんだよ。」
「だって明らかにおかしいもの。どの文献にも載っていない伝染病が、動植物が活動を始める春に一斉に広まった。被害は春に芽吹く農作物だけじゃない。越冬させた畑の農作物も次々枯らしていってる。今のところどの農薬も太刀打ちできていないみたいだし。それに——。」
「それになんだよ。」
「それになによりも、伝染経路がわからない。」
晴臣は、少し驚いた。蒼がこんなに喋るとは思っていなかった。それになんだか...、
「蒼、少し怒ってる?」
「いや...、別に——。」「うん、まあ少し怒ってる。晴臣が私のお昼寝を邪魔したからね。」と言いながら、蒼は微笑んだ。
「蒼、その言葉の頭に”お”ってつけるのやめなよ。恥ずかしくない?」
「やっぱりとっても怒ってる。」蒼は、晴臣になにか飲み物をだそうと、キッチンに向かった。