第1話 猫を飼うことにした
習作の名の通り、本作品は冒頭部分のみとなっておりますこと、ご了承お願いします。
太陽が最も高い位置にある南中をとうに過ぎてもなお容赦ない陽射しがまぶしいある夏の午後、長い庇のおかげで日陰となった縁側で母親が用意してくれた冷たい麦茶を前にして愛猫チロとぼんやりくつろぐ少年だった。白地に黒いブチ柄のこの雄猫が居ついてからどのくらい経っているのか、とにかく少年に物心がついた頃には既に家族の一員になっていた。
涼しい場所は猫に訊け、その格言通りここは時折涼しい風が通り抜けてゆく。ゆったりくつろぐチロの頭を少年がやさしく撫でると彼は耳とヒゲを微かに動かしてそれに応える。
こんな安らかなひとときがずっと続けばいいのに、そんなことを考えながらいつの間にか少年は猫の傍らで眠ってしまうのだった。
リビングのテレビから聞こえる芸人のやかましい声で目覚めた彼は昼下がりの縁側で猫を撫でる少年ではなく妻も子もいる休日のサラリーマンだった。惰性で流れるテレビには目もくれずソファーで手鏡片手にフェイスケアをする妻、今ではすっかり化粧っ気がなくなった彼女をぼんやりと眺めながら彼は二人が出会った頃を回想する。
「息子の涼多が生まれてからは化粧も最低限、それどころか俺たち夫婦の会話も必要最小限になってないか?」
彼の脳裏に今さっき見た夢のひとコマが過ぎる。
そうだチロだ、我が家に猫でもいれば夫婦の会話も増えるかも知れない。それに涼多の情操教育にもよいだろう。よし、ダメ元で持ち掛けてみるか。そんなことを考えながら彼はお肌の手入れに夢中の妻に声を掛けてみた。
「なあ、猫を飼わないか?」
そこは地域のボランティアが主催する保護猫譲渡会の会場だった。親子三人での楽しいお出かけ、しかしその出鼻はあっさりとくじかれた。
ベビーカーの入場はお断り。確かにそう広くはない会場だし主催者の気持ちもわからなくはない。しかし彼の心に火をつけたのはそこに掲示された譲渡に関する諸条件の内容だった。乳児・幼児のいる家庭は不可、高齢者と独身者も不可、加えて収入を証明する書類の提示などなど、むしろ要件に適合する例を挙げてもらいたいくらいにそのハードルは高かった。
「帰ろうか」
意気消沈した妻がそう言って涼多を乗せたベビーカーを押して出口に向かう。そして彼ら三人は終始無言のまま帰路に就いた。
「あら、猫ちゃん」
通りかかった商店街の美容室、そのウインドウに佇む子猫と妻の目が合った。なんと子猫とともに里親募集の張り紙もある。彼らは迷うことなく店の扉を開いた。
子猫は生後推定二ヶ月の雌だった。黒地の中に白い毛が混じる。よく見ると口元から喉元、胸から腹にかけてが白く、四肢の先もまた白い。その姿はまるでダークスーツを着ているようだった。このような柄の猫はタキシードキャットと呼ばれて海外ではかなりの人気なのだそうな。
彼が妻に猫を飼おうと切り出したとき、彼女は「雄がいい」と言っていた。しかし今この子を前にしたらそんなことはもうどうでもよくなっていた。そう、彼も妻もその猫にひと目惚れしてしまったのだ。
もうこの子しか考えられない。しかしさっきの譲渡会の件もある、彼らは保護者でもある店主に恐る恐る申し入れてみた。
野々宮家のダイニングテーブルにその猫はいた。
彼らが里親になったあの日から三日目にして子猫はリビングを自由に歩き回るほどこの家に馴染んでいた。保護者の躾がよかったのだろう、トイレもすぐに覚え息子の涼多ともよい関係を築いている。
まだまだ小さい身体ゆえ行動に限界はある。それでもとにかく皆が集まるダイニングテーブルが気になってしかたがないのだろう、食事の時間になるとトテトテとやってきてはちょこんと座ってじっとテーブルを見上げるのだ。まだ自力でジャンプができない彼女を彼はそっと抱き上げてテーブルに載せてやる。すると彼女は家族の食事風景を興味津々に見つめるのだった。
さて、この子の名前をどうするか。すると彼も妻もどうやら同じことを考えていたらしい、やはりタキシードにちなんだ名にしようと。そしてそれは意外にあっさりと決まった。
「モコ」
それが彼女に与えられた名だった。由来はその見た目、フォーマルスーツを着たような姿から「喪服」が連想されて「喪服猫」、その最初と最後を取って「モコ」と名付けられたのだった。
息子の涼多もモコも共にすくすく育っていく。そして彼の成長記録の中には常にモコの姿もあった。しかし命ある限り別れもまたある。それは涼多が大学生になった最初の夏のことだった。
彼が大学の友人たちと小旅行に出かけていたその日、モコはリビングのソファーの陰で息を引き取っていた。齢十七、楽しい思い出をありがとう、どうか安らかに。モコの遺影を前にして野々宮家の三人は揃って手を合わせた。
次回、いよいよ最終回です!