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前編

 繰り返し夢に見る。煌めく刃、影を纏ったような真っ黒な男たちの興奮したような荒い息、腹部に熱を感じて目の前が真っ赤に染まる____


「っはっ…は……」

今日もあの日の夢を見た。

 枕元にあるラベンダー色のサシュを手のひらで転がし、推し抱いてそっと香りを吸い込む。

「ふぅ……」

この香りは落ち着く。香り自体がそうなのもあり、何よりこのサシュをくれたが私に味方してくれている。そう、感じるから____



あの日、私に何が起こったのか____




「オスカー様はご無事かしら」

 幼馴染であり、婚約者のオスカー様が病気で学院を休んだらしい。伯爵家の娘である私、リンジー・スコットはいつも優しげと言われる顔を痛々しそうに歪めた。


 オスカー様は、ガノシア侯爵家の次男。婚約を結び、いずれ婿入りする彼は、がっしりとした恵まれた体躯を持ち、将来は有望な騎士になるだろうと言われている。硬めの黒髪短髪、グレーの瞳は整ってはいるがキツい印象を与えるが、それすらも騎士になるべくして生まれてきたのだと言われていた。


 そんないつも鍛えていて、健康なイメージしかない彼が病気……。

王立学園から帰り、ココアブラウンの髪をさっとまとめ直した私は鏡を見る。蜂蜜色の瞳が不安そうに揺れているように見えて、きゅっとあえて口角を上げて笑ってみた。


「だめよね。お見舞いに行くのに、ご病気の本人より具合の悪そうな顔をしていたのでは」


自室の扉を開けたところでキラキラとした笑顔を見つけた。

「リンジーお姉様」


「アニカ? 何か用?」

 いいえ、とゆるゆると首を振る。彼女はアニカ・スコット。豪奢な金髪に青い瞳を持つ美少女で、もともとは父の弟であるラルク叔父様の娘だ。しかし、騎士であった叔父が戦死し、母一人では養いきれなかったために、今はスコット伯爵家の養女になっている。元従姉妹で今は義理の妹。


 少し複雑な関係だけれども、私は彼女が嫌いではなかった。

「オスカー様のお見舞いに行かれるのですか?」


 そうよ。と頷くと、仲が良くて羨ましいです。と彼女は笑う。

 アニカは大輪の花のような少女だ。少し気が強くもあり、私と違ってきちんと自分の意思をはっきりと言う。けれど、その明るさで少しも嫌味に思われない。


 少し遠慮してしまうところがある私としてはとても羨ましく眩しく思う。


「気をつけて行ってきてくださいね」




 見送られて____けれど、結局私はオスカー様のところに辿り着けなかった、らしい。

 夕刻、父を出迎える準備をしていた使用人に、屋敷の門前で座り込んでいるのを発見された。それすらも、人から伝え聞くばかりで朧げだ。馬車と御者は忽然と消えてしまってどこを探しても見つからなかったという。


 それからだ。酷い悪夢にうなされるようになったのは。

 聞いたことのないはずの矢が空を切る音。驚いたような馬のいななき。焦ったような誰かの声と、身体を襲う衝撃。紛れも無い悪夢。


 今日は、学院をお休みしてしまった。

 もう、悪夢が3日続いている。昼もうなされてがたがた震えてしまうので、眠ることも出来ず、心配をかけるのが嫌で閉じこもってしまっている。


 その日の夜。いつもの血に塗れた最後には続きがあった。倒れるリンジーに優しく、悲しげに、大丈夫だよ、と繰り返す知らない男性の声と、髪を撫でるひんやりとした手の感触、長い腕にそっと引き上げられるようにして光に導かれて__


 はっと覚醒すると微かな香りを鼻に感じた。


 枕元をみると手のひらに包みこめてしまうくらいのサイズの、見慣れないラベンダー色のサシュ。優しい香りに、これが悪夢から救ってくれたのだと分かる。


でも____

「一体、誰が?」

誰が、どうやって、これをここに置いたのだろうか。

 上品な香りは、メイドが身につけるものでもなさそうだし、そもそも深夜、主人の部屋に勝手に入るだろうか。けれど、不審者が入ってきたと片付けるには、閉められた窓と荒らされた形跡のない部屋が裏切っている。


チェストの上に小さなメモが置かれているのを見つけた。


『君の妹と婚約者に気をつけて』


急いで書いたような走り書きで、でも____


「この方は、あの日何があったのかをきっと知っているのね」


 名前のないメモ。でも悪戯と片付けるには不審なことが起こりすぎている。おそらく、これを書いたのは男性。彼は何らかの手段でこの部屋に来た。そして、リンジーに注意を促している。




「確かめなくては」


 次の日、学院に登校すると、気のせいか遠巻きにされている気がする。ひそひそとひそめられた声は、内容までは聞き取れないけれども、決して良いものではないだろう。


 居心地の悪さを感じながら教室に入ると、泣きそうな顔をした友人が飛びついてきた。


「リンジー、もう大丈夫なの?」

「ネリア、私が休んだ間に、何かあった?」


 尋ねるとダークブロンドの髪を揺らしてちらちらと辺りを確認する。ネリア・マーゴット子爵令嬢。彼女は小動物めいた仕草が可愛いなと、こんな時なのになごんでしまいそう。彼女はその緑の瞳を吊り上げて憤慨したように言った。


「どうもこうもないわ。あのあなたの妹」

「アニカ? アニカがどうかしたの?」


 彼女によると、昨日から、リンジーはオスカーが具合が悪いのにも関わらず下町の男と相引きしに行って、駆け落ちしようとしたが捨てられて逃げられたと噂が出回っていると言う。


 私はどちらかといえば大人しく、優しげな顔をしているので、そのギャップがものすごい悪女! と面白がられて、すごい勢いで噂が回っているのだとか。


「絶対あの子よ。アニカ様とオスカー様、昨日からずっと一緒にいるんですもの」


「普通、義理とはいえ姉が体調不良で休んでいるのに、その婚約者とべたべたしたりする? あの子おかしいわ」


その日、ずっと見ていると、確かにアニカはオスカー様と一緒にいた。

「言ってくれればよかったのに……」


 アニカとオスカー様は想い合っていたのだろうか。オスカー様とは幼馴染だけれども、特別な感情を抱いていたわけではない。打ち明けてくれたら、私だって身を引けたわけだし、こんなやり方しなくたって……と思わなくもないけれども。


帰りがけのこと、馬車を待っていると呼び止められた。

「リンジー、良い身分だな」

「オスカー様?」


 噂について否定しないのか? 本当に俺を裏切っていたんだな。見損なったぞ、アバズレが!

煮えたぎるような怒りをたたえた瞳で睨み据えられて、あまりのことに硬直してしまう。


「噂を信じられたのですか?」

まさか、あれを信じたのだろうか。彼とは長い付き合いのはずなのだけれども、こんなに信用されていなかったとは。言われた内容もさることながら、彼が噂を信じてしまったことの方がショックだった。


「俺が休んだ日、リンジーは見舞いに行くと言って家を出たそうだな」

ええ、と頷く。

「だが、お前は来なかった。他の男に会いに行っていたからだろう! 馬鹿にしやがって」

「いえ、違います。本当にお見舞いに____」


彼は辛そうに顔を歪めた。

「なら、なぜ来なかった」

 絞り出すようにして出された声。感情を押し殺したような声に彼が本当に怒り悲しんでいるのが分かる。

「それは____」

それは、わからない。何しろ私にはあの日の記憶がないのだ。


「答えられないんだろう。やはりアニカの言った通りだった」

口元を歪にゆがめて、オスカー様は暗く笑う。


「リンジー・スコット伯爵令嬢、婚約破棄だ」

その言葉は重々しく響いた

帰ろうとしていた他の学生たちがざわざわと騒いでいる。


「安心しろ、伯爵家との契約は破らない、俺はアニカ・スコット伯爵令嬢と婚約する。責はお前にあるのだ。伯爵も頷いてくれるだろう」


 オスカーの後ろにアニカが立っている。彼女がにんまりと笑ったのが目に入った。すぐにその表情を消して悲しげな顔を作ってしまったけれども。


「お姉様、だからあのようなことはお辞めになってと言ったのに」

「アニカ、あなた何を言って____」


一歩アニカに近づくとオスカー様が彼女を守るように前に出た。

「アニカに近づくな売女がっ」

 吐き捨てるように言って、彼はアニカの腰を抱く、まるで、見たくないと言わんばかりに目をこちらに向けることもなく。そのままぼうっと去っていく二人を眺めていると、つつっと温かいものが頬を伝った。


「リンジー……」

 ネリアが気遣わしげに声をかけてくれるけれども、遅れて後から後から感情がやってきて、とても相手をしていられなそうだ。

「……馬車、来てないの。御者が来たら伝言頼めるかしら?」

「リンジーはどうするの?」


少し歩くわ。頭を冷やしたいの。とぎこちなく微笑むと彼女は悲しそうな顔をした。


 王立学園は王族も通うこともあって、警備のしっかりした中心街にある。伯爵邸までは普段馬車を使っているけれども、歩けないこともない、と思う。


 ふらふらと歩く。道ゆく人が遠巻きにしている気がするのは、今の私が少しおかしいからかしら。


 ふふふ、と乾いた笑いが出てしまう。何を間違えてしまったのだろう。アニカはオスカー様のことが好きだったのだろうか。そんなこと一切聞いたことがなかったけれども。


 でも、そうだとしたら____

「私ってひどい女よね」

 好きな人が義理の姉と婚約していたら、酷いことをしてしまうのが普通になってしまうのかしら。そこまで追い込まれるほど人を好きになれるってすごいことだわ。私には想う人は居ないから、わからないけれども。


「あら、ここは____」

 この辺りはオスカー様のお屋敷に向かうのによく通った道だわ。懐かしい__

少し感傷に浸りながら眺めていて、くらり、と目眩に襲われた。


 息が、上がる。冷や汗が流れ、身体が震える。はくはくと苦しくて、倒れそうになった。何かがフラッシュバックする。そうあの日は夕方____



「大丈夫か」

 はっとするほど近くで低い声がする。いつの間にかひんやりとした手に腕を掴まれて、倒れそうな身体を支えられていた。振り仰ぐと、黒いローブのようなものを頭から被った男性がいた。


「落ち着け」

と言われるが、彼が現れてから、不思議と冷や汗も止まり、ゆっくりと震えが治る。


「あの、どなたか存じませんが、ありがとうございます」

「いや、気にしなくて良い」

 お礼を言って離れようとした時にふわっと感じた香に覚えがあって、思わず、彼の腕を掴み返していた。


 彼は何も言わずに私を見下ろしているようだった。目元はローブでわからないが下半分には、透けるような肌とそこから伸びるすっと通った鼻筋が覗いている。


 勢いで腕を掴んでしまったものの。何と言って声をかけたらいいものか。

ここ数日で経験したものは人に話すには不思議な体験すぎて、そのまま話せば頭の可笑しな人間だと思われるならまだ良い方で、不審者だと通報されてしまったら困る。


 口を開いたり、閉じたりして、困ったように眉を寄せる。先ほどとは別の意味で泣きそうだった。


「俺に、聞きたいことがあるんだろう?」

 彼がややあって口を開いた。弾かれたように見上げると、わかっている、というように頷かれた。


「こちらも、伯爵を訪ねたいと思っていた。お前の義妹に知られずに会うことは可能か?」

「お父様に?」


 ああ、と彼は頷く。あの日何があったのか、知りたいのはお前だけではないはずだ。そう言われて、父に心配をかけてしまったことを思い出す。


「今日は家にいるはずです。どうか、このまま一緒に」

「了解した」


 彼と並んで歩き出す。緊張で口がカラカラに乾いた。

強張った顔をしていると、彼は話題を振ってくれた。


「しかし、酷い目にあったな」

今日学院であったことを知っている? 顔に出ていたのか彼は頷く。


「気になって見ていた。なんとも醜いことだ」

「醜い?」


見ていたとはどうやって? と不思議に思うものの聞く前に彼は言った。


「お前は醜い感情に巻き込まれただけだ。何も悪くない」


 真っ直ぐにこちらを見られ、その時彼の瞳が深い紅をしていることを知った。珍しい、とても綺麗な色だ。力強く言い切られて、思わずぼろっと涙がひとつ溢れた。


「大丈夫だ。伯爵に会いに行こう」


 この声に大丈夫と言われるとひどく安心する。やはり、悪夢の終わりに見た男性はこの方なのだろう。伯爵邸はもうすぐだ。

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