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嬉々とした声に、はっと顔を上げる。
そこにはまるでお天道さまのように笑う満乃がいた。
「ふふ。大きい声を出してすみません。それでもやっぱり、お出しした料理を『美味しい』と言っていただけるのは、とてもとても嬉しくて。どうぞゆっくり召し上がってくださいね。あ、お替わりもありますから遠慮なくどうぞ!」
「……どうも」
なんだ。
さっきまで怒り心頭だったかと思いきや、こんなに無邪気な笑顔を晒すなんて。
飯は美味いが──妙に落ち着かない。
「カツレツの名は諸説ありますが、フランス語の『コートレット』、英語でいう『カットレット』という料理が由来だそうですよ。子牛などの肉に小麦粉や卵黄、パン粉を付けて、炒めたりオーブンで焼いたりする料理だったとか」
「でもこのカツレツとやらは、どう見ても揚げ料理だろ」
「それは、日本人の試行錯誤で完成された努力の賜物なんです。行程が多くなる従来の手順から、より効率的な揚げ料理に改良したんですよ。ちなみに隣にキャベツの千切りが添えられるようになったのも、日本の店舗から始まったことなんです!」
そう語る満乃の瞳は、遠い歴史の風景を見つめるようにきらきらと輝いていた。
「随分と博識だな。親御さんが料理人か?」
龍彦の問いに、満乃は首を横に振った。
「いいえ。でも母は料理がとても好きで、私もよく習っていました。今はもう父も母も亡くしましたが、色々な人の所縁をいただいて、今はここで暮らしています」
「そうか。俺も、両親はいない」
「そうでしたか……」
親がない身の上は、珍しいことではない。
江戸の動乱期が過ぎ去ったとはいえ、今も尚突発的な騒乱や刃傷沙汰、流行病の危険性があちこちに潜んでいる。
明日の身の上を保証されている者なんて、どこにもいない。
「両親を亡くしてからも、私をずっと支えてくれてきたのが料理でした」
湯気の立った熱い番茶を差し出し、満乃は微笑んだ。
「ここで料理をともにした皆さんとは、不思議なご縁を感じるんです。それが巡り巡って、皆さん同士のご縁も結べればいいなあと。そうすることで、私自身も何かしら、誰かの役に立てるのではないかと……そう思えるようになったんです」
「ご縁ねえ」
「ほら。『同じ釜の飯を食う』というじゃありませんか。ここでごはんを食べた方は皆、私の家族のようなものなんですよ。だから龍彦さんも、今日から私の家族です!」
「……はあ?」
すっかり皿を空にした龍彦が、目を丸くする。
「ですので、これからもどうぞ末永くよろしくお願いいたしますね。龍彦さん!」
「おい。勝手に話を進めるな」
「いいじゃありませんか。私、あなたの美しい体術に惚れたんです!」
満乃が、ぐっと一層顔を近づけてくる。
おべっかを使っているわけでも、色目を使っているわけでもない。
その表情は、純粋なる尊敬に満ちていた。
「あんた、体術に興味があるのか」
「これでも店一軒切り盛りする女店主ですから! 不埒な輩に店を荒らされないよう、ほんの少しの心得はあるんですよ!」
「なるほどな」
思えば、前も大の男を往来に投げ飛ばしていた。
女が体術とは、と思いはしたが悪い気はしない。
恐らくはこの娘も、自分と似た境遇で苦労を重ねてきたのだろう。
自分自身を守ることができるのは、結局自分自身だけなのだ。
「あんた、いい女だな」
「……え?」
「そういう心意気の人間は、嫌いじゃない」
出された熱い番茶まで一気に飲み干した龍彦が、目の前でぱんと両手を合わせる。
席を立つと、二人の上背にはそれなりの差があった。
突然差し迫った男の影に、満乃がぱちくりと目を丸くする。
「あんたの料理を食ってみて、同僚らがこの食堂に心奪われている理由も何となくわかった」
「! それはつまり、美味しかったということですねっ?」
「ぷっ、くくく……、ああ、そういうことになるな」
自信満々に胸を張る満乃に、龍彦は堪えきれず吹き出した。
そのまましばらく肩を揺らしていると、ふと満乃がじいっとこちらを見つめていることに気づく。
「? なんだ」
「龍彦さんって、笑うと少しあどけないですね」
「は?」
「むっつり眉間を寄せてばかりな人だなあと思っていましたけれど。笑ったお顔も、とても素敵ですよ」
「……」
その後も満乃は何やら嬉しそうに話し続けていたが、達彦の耳に入っていなかった。
「またどうぞお越しくださいね。今度はしっかりとお代もいただきますので!」
「人を食い逃げの犯人みたいに言うな」
「あははっ、その時は大手を振って警視庁上層部宛てに通報しますよ!」
「あんたならやりかねねえ」
見送りに出た満乃に、龍彦は一礼する。
背を向け歩き出した龍彦を、満乃はその背が見えなくなるまで見送っているのがわかった。
頭上に広がる夜空には、普段目につくことのない細かな星屑までもがきらきらと瞬いている。
まだ胸に残る満乃の微笑みは、夜風に冷える身体をぽかぽかと温める、時刻外れのお天道さまのように思われた。