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 瞬間、店内に残る女給たちや数名の客人が、一斉にこちらを見遣った。


 そしてまるで急流に従うが如く、残った定食を掻き込んだ客たちはそそくさと会計を済ませ店をあとにする。

 女給たちも去った客の皿を素早く片付けると、厨房裏から恐ろしいものを見る顔をしてこちらを窺っていた。


 かくして店内に残されたのは、どうやら禁句を踏んだらしい龍彦と女店主の満乃のみだ。


「『適当』。今の言葉は些か問題かと存じます。『自分に適した』という意図でお使いでしたか? 私にはどうも、『何でもいいどうでもいい』という意図に聞こえましたが」

「……まあ、そうだな」


 まるで雪山に現れた雪女のような、冷たい冷たい眼差しだ。

 一瞬本心を告げるのは躊躇われたが、ここで偽った方がかえってまずい予感がして、龍彦は正直に首を縦に振った。


「適当なお料理なんて、当店ではお出ししておりません!」


 ごん、と凄まじい音とともに、水の入ったグラスがテーブルに置かれる。

 グラスが危うくテーブルにめり込んだと思わせる音だった。


「待て落ち着け。ここの料理を適当と言っているんじゃない。腹が膨れるほどの量があれば、内容は問題にならないと」

「尚のこといけません! 食を侮って生きるのは、命を軽んじるのと同意です!!」


 ごん、と凄まじい音とともに、先ほどのグラスが再度テーブルに突き立てられる。

 そろそろ割れるんじゃないかと、思わず心配になった。


「……なんだなんだ。御託を並べるためにここに呼ばれたのか。俺はあんたが来て欲しいと言うから、忙しい合間を縫って赴いたんだが」

「っ、それは……」


 ため息交じりに告げれば、満乃の勢いが一気にしぼむ。


「生憎、説教ごとは塀の中で満腹だ。気に入らないっていうのなら、俺はここで失礼する」

「! お待ちください!」


 席から立った龍彦の腕を、満乃が素早く両手で捕らえる。

 こちらを見上げる瞳は思いのほか必死だった。


「気分を害してしまい、大変申し訳ございません」

「……おお」

「ただ今お料理をお持ちいたしますので、どうぞこのままお待ちください」

「わかった」

「食事を軽んじる龍彦さんがぐうの音も出ない料理を用意させていただきますね」

「……どこの誰が申し訳ないって?」


 呆れ口調で突っ込む龍彦に、満乃がにっこり笑顔を向けた。


「帰らないでくださいね。もし黙って帰られたら、神無月さまにその旨お伝えして今後の単独鍛錬は中止にしていただきますからね」

「は? あんた、どうしてそのことを」

「花ちゃーん。お客さまのお冷やを取り替えて差し上げて」


 笑顔で厨房に告げた満乃に、花と呼ばれた女給が「はいっ」と新しい水を運んでくる。


 どうやら先ほどの二度の衝撃で、グラスの水は半分以上零れ出ていたらしい。

 テーブルの水たまりを布巾でさっと一拭きすると、満乃は意気揚々と厨房に戻っていった。


 その後、どうやら他の女給かちも帰らせたようだ。

 厨房から微かに聞こえてくる調理の音に、テーブルに残された龍彦はひとり漏れ出たあくびをかみ殺していた。


 龍彦にとって、食事とはすなわち空腹を満たすもの以外の何ものでもなかった。


 気づけば戦争孤児として生きてきた龍彦は、生きるために最小限のものを喰らって生きてきた。

 必要があれば野生の動物を狩ることも、その辺に生えた雑草を喰らうこともあった。

 毒草にあたって生死を彷徨ったこともある。


 喧嘩の腕を買われてろくでもない連中の用心棒をしていたときも、溢れるほどの料理で豪遊する者たちの影で、自分は骨についた魚の切れ端で腹を満たした。


 世話焼きな恩人に拾われ、警視庁に所属することになってからは、給金とは別に三食の弁当をただ無心で頬張った。

 でもそれは、感動で言葉をなくしていたわけではない。


 もはや龍彦は、食に関して何も感慨を抱かなくなっていたのだ。


「……、……?」


 腕を組み暇を持て余していた龍彦の耳に、ふと小さな歌声が届いた。


 厨房から漏れ聞こえてくる声は、どうやら満乃の奏でるものらしい。

 よほど気分よく調理をしているのが窺える一方で、龍彦は不思議とこの歌が耳から離れなかった。


 心地のいい音の旋律は、まるで赤子に聴かせる子守歌のようだ。

 その歌を追うように聴こえてくる何かを火にかける音と、辺りに漂ってくる香ばしい薫り。


 龍彦は次第に落ち着かない心地になり、無意味に厨房と戸口付近を視線をゆらゆら揺らしていた。


「お待たせいたしました!」


 満面の笑みで現れた満乃に、ぎくりと肩が跳ねる。

 次いで盆にのせられた器を目にした瞬間、龍彦の目が大きく見開かれた。


「みたしや食堂の看板品目、カツレツ定食でございます! 連日、こちらの品目を目当てに遠くから足を運んでくださる方もいらっしゃるんですよ!」

「……カツレツ」


 存在自体は、うっすらと知っていた。

 明治の世から徐々に浸透していった洋食の、代表品目のひとつ。


 しかし、龍彦が実際こうしてお目見えしたのは今回が初めてだ。


 薄い大判型の肉が、油で照り返す茶色の衣をふわりとまとっている。

 その上にとろりとかけられた濃茶色の液体の香ばしい薫りが、龍彦の食欲を一気に引き出した。

 脇を彩るキャベツの千切りの瑞々しさが、料理の主役の魅力をより一層引き立てている。


 同じく盆に収まった白米と味噌汁もまた、ほかほかと優しい湯気をまとっていた。

 風合い豊かな定食の品々が、何とも幸せそうにこちらを見つめている。


「カツレツは、こちらのフォークとナイフを用いて食べていただきます。使い方はご説明いたしますか?」

「ああ、頼む」

「承知しました! まず、利き手側の手にナイフを、利き手と反対側の手にフォークを、それぞれこのように持ちます。カツレツの端を優しく押さえるようにフォークを差し込みまして、ナイフをこのように動かしますと……」

「こうか?」

「わあ、そうですそうです! すごい。一度のご説明で完璧に使いこなすことができるなんて、なかなかいらっしゃいませんよ!」

「……そういうもんか?」


 大仰に手を叩く様子に龍彦は怪訝な顔をするが、満乃は本気で驚いたらしい。


 なにせまだまだフォークとナイフの使用方法が浸透していない大正の世。

 フォークの力加減を誤ってカツレツをべちゃりと床に落としたり、口内に切っ先を突っ込んで流血沙汰が起こるなんて悲劇は、食堂では日常茶飯事なのだという。


「お話が長くなりましたね。どうぞ、冷めないうちにお召し上がりください」

「いただきます」


 両手を合わせたあと、龍彦はさきほど一口大に切り取ったカツレツを、そっと口に頬張る。

 しゃく、という音と、追って口内に広がった味わいに、龍彦はその瞳を煌めかせた。


 その感動はまるで、初めて目にする強者と対峙したときのようだった。


「……うまい」

「! 本当ですか!」

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