第192話 不意打ちの──
その後もアメリアは、ビュッフェ台と席を何度か往復した。
一度に多くは取らない。
少しずつ選んで、味わって、また次を見に行く。
その合間に、何人もの使用人に声をかけられた。
お祝いの言葉だったり、遠慮がちなお礼だったり、素朴な質問だったり。
その一つひとつに応じるたび、胸の奥に小さな灯が増えていく。
そんな中、ビュッフェ台の前でふと足を止めた人影があった。
「「あ」」
同時に声が重なる。
リオだった。
「アメリア様、改めておめでとうございます」
「ありがとう、リオ」
「勉強のこととかは……正直、よく分かんないんすけど」
一拍置いて、ぐっと背筋を伸ばす。
「やっぱり、アメリア様は凄いっすね」
真正面から言われて、アメリアは一瞬だけ言葉に詰まった。
それから、柔らかく微笑む。
「リオも、剣の稽古を欠かしていないでしょう? とても立派だと思うわ」
「……っ」
褒められたことによる照れなのか、リオはわずかに目を逸らした。
「俺が、これからアメリア様の護衛にあたることになりました」
照れを振り払うみたいに、声を張る。
「今度は必ず、守り抜いてみせますから」
その言葉に、アメリアの胸が静かに締まった。
以前、リオがアメリアを護衛していた際。
武装勢力の襲撃を受け、孤軍奮闘の末に倒れたリオと、自分の誘拐。
リオの中にも、その苦々しい記憶が深く残っているのだろう。
アメリアは一度リオに向き直り、頭を下げた。
「よろしくお願いするわ、リオ。……あなたがいてくれるなら、心強いわ」
「はいっ」
短い返事なのに、そこに込められた決意は重かった。
それからまた料理を何品か取って再び席へ戻ろうとした、その途中。
「よくぞ決断してくれましたぁ、アメリア様ぁ!!」
聞き覚えのある、しかし思わず肩がビクッとするような声に振り向けば、ウィリアムがいた。
顔が赤い。眼鏡は少しずれている。
そして何より、目が潤んでいる。
普段の冷静沈着な彼からは、想像もつかない姿。
「私と一緒にぃ!! 世界の病気を撲滅しましょうねぇ!!??」
明らかに酔っ払いのそれだった。
「落ち着いてください、ウィリアムさん! まずはお水です!」
反射的に、アメリアは水が入ったグラスを差し出した。
ウィリアムはそれを両手で大事そうに抱え込み、子どもみたいに一気に飲む。
そして、盛大にむせた。
「けほっ……! アメリア様の……この、心遣いが……胸に沁みるう……!」
「ああもう、もっとお水飲んでください!」
側から見ていたライラは腹を抱えて「これは珍しいお姿ですねー!」と言い、「普段物静かな方ほどこうなると言いますね」とシルフィは淡々と頷く。
アメリアは、苦笑しながらウィリアムを見た。
おそらく、彼は普段、責任と期待に挟まれて、さまざまのものを抑えて生きているのだろう。
だからこそ酒が入ると、こうして感情が溢れてしまう。
(……飲んだら泣き上戸、なのかしら)
そんなことを思っていると。
「楽しめているか?」
取り皿を持ったローガンが現れて、アメリアに気遣うように言葉をかける。
「はい! どれも美味しくて、夢みたいです!」
「望めば明日からの食事は毎日ビュッフェ形式も可能だが」
「うっ……魅力的な提案ですが、遠慮しておきます……豚さんになってしまいます」
自分の好きなものを好きなだけ取れるのは素晴らしいシステムだが、それ故に歯止めが効かなくなって食べすぎてしまうのを、アメリアは自身の性格から重々承知している。
ふと、ローガンの視線がアメリアのグラスに落ちる。
「ジュースか」
「はい。明日がありますし、今日は飲みません」
「殊勝な心がけだ。飲むと、また記憶を飛ばしてしまうからな」
「そんなに飲みませんってば」
拗ねたみたいな声が出てしまう。
「改めて、許可を出してくださってありがとうございました」
「礼には及ばない。アメリアがこれから、大きな舞台で羽ばたけることを、俺は嬉しく思う」
本心とばかりにローガンは言う。
けれど、その視線がほんの一瞬、遠くを見た。
ローガンの周りだけ静けさが生まれる瞬間。
アメリアはそれに気づいてしまう。
アメリアの大学行きを、ローガンは肯定した。
背中を押してくれた。
でも、押した手のひらが、少しだけ名残惜しそうだ。
──君と過ごす時間が減るのは……正直、寂しい。
昨日のローガンの言葉が脳裏に思い浮かぶと、アメリアの胸がじわりと締まる。
嬉しいのに、胸が痛い。
この痛みをどう扱えばいいのか、まだわからなかった。
「……アメリア」
低く名を呼ばれて、アメリアは顔を上げた。
「はい?」
次の瞬間、ローガンの手が伸びてくる。
迷いのない動きだったが触れ方は驚くほど慎重。
余計な場所に触れないよう、目的だけを果たすような所作だった。
親指が、アメリアの口元をそっとなぞる。
「……っ?」
一瞬、何をされたのか分からずアメリアは瞬きをする。
次いで唇の端に残った温度で、ようやく理解した。
「……ソースがついていた」
ローガンはそう言って、手を引く――はずだった。
けれど、離れない。
そのままアメリアの顔を、じっと見つめる。
まじまじと、逃げ場を与えない距離で。
「ロ、ローガン様?」
アメリアは息を止めた。
見られている事実だけで胸が落ち着かない。
ローガンの視線が、目から頬、口元へとゆっくり下りていく。
そして、ぽつりと。
「……やはり、かわいいな。アメリアは」
低く、抑えた声だった。
からかいでも、冗談でもない。
心に浮かんだ言葉をそのまま口にした、といった声だった。
「え……?」
意味を理解するより早く、影が落ちる。
ちゅ。
額に、短く、軽い感触。
触れたのは一瞬。
「っ……!?」
熱が一気に頭へ上る。
顔が、首筋が、耳まで一斉に熱くなる。
ローガンはすでに離れていて、何事もなかったかのように立っている。
まるで、当然のことをしたとでも言うように。
(な、なに……今の……)
動揺が身体の芯から全体に広がっていく。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
深呼吸をしようとして、喉がうまく動かない。
「どうした、アメリア? 大丈夫か?」
心配そうに覗き込むローガンの挙動に一歩後ずさった。
慌てている今の姿を見られるのが恥ずかしい。
反射的にそう思った。
ちょうどその瞬間、ウェイターが銀の盆を持って横を通り過ぎる。
盆の上に並ぶグラスの一つが、アメリアの手の動線と重なった。
(お水……!!)
考えるより先に、アメリアはそのグラスを掴み、口をつける。
一気に煽る。
冷たい水が喉を通る、はずだった。
舌に触れた瞬間、細かな泡が弾ける。
甘い果実の香りと花を思わせる酸味。
「――っ」
思考が止まる。
水じゃない。 これは――。
「ア、アメリア様!? これ、シャンパンですよ!?」
ウェイターが慌てたように言う。
その言葉を裏付けるように、遅れて泡が喉の奥でほどけ、じんとした熱が残った。
「あ……」
間の抜けた声が、ぽろりと落ちる。
次の瞬間、喉奥からぶわっと熱が立ち上がった。
胸の奥を駆け上がり、喉を通って、頬へ、耳へと広がっていく。
「あ、れ……?」
視界の輪郭が、少しだけ柔らぐ。
シャンデリアの光が、必要以上にきらきらして見える。
床が、ほんの少し遠い気がした。
息を吸う。空気まで、どこか甘い。
「アメリア! 大丈夫か!? しっかりしろ!」
誰かの声が、やけに大きく響く。
呼ばれているのは分かるのに、返事がうまく作れない。
唇が勝手に緩み、理由もなく笑ってしまいそうになる。
(あ、だめ……)
そう思った瞬間、身体がふわりと何かに抱き止められた。




