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第190話 決断


 翌日。

 へルンベルク邸の応接間には、朝の光がいつもより早く入り込んでいた。

 レース越しの白が、ゆっくり揺れる。

 磨いた床に落ちた淡い影まで、呼吸しているみたいに見えた。


 アメリアはローガンの隣に座っていた。 湖畔でほどけたはずの迷いは、まだ胸の奥に温度を残している。


 熱いわけじゃない。

 触れたら、ちゃんとそこにあると分かる程度の、ひそかな温度。


 その温度が確かなほど、これから話すことに妙な緊張が混ざるのも否めなかった。


 控えめなノック。

 使用人が、扉の前で声を整える。


「ウィリアム様がいらっしゃいました」


 アメリアが返事をするより早く、ローガンが短く頷いた。


「通せ」


 扉が開く。 現れたウィリアムは、白衣ではなく外套姿だった。

 研究室の匂いをまとったまま、別の場所の礼儀だけを着てきたような格好。


 部屋に入るなり、ウィリアムは迷いなくアメリアの前へ出た。 椅子に腰掛ける気配すらなく。


 膝を折る。

 そしてそのまま、床に額がつきそうな勢いで、深く頭を下げた。


「アメリア様……大変申し訳ありませんでした!」


 声が、震えている。

 いつもの早口でも、熱に浮かされたような昂りでもない。

 苦い、そして重い。


「本当に……取り返しのつかないことを……」


 アメリアは息を呑んだ。

 隣に座るローガンは何も言わない。


 ウィリアムの謝罪を、黙って静観していた。

 アメリアの椅子の背に預けていた体が、わずかに前へ動く。


「ウィリアムさん。どうか……頭を上げてください」


 自分の声が思いのほか落ち着いていて、アメリアは小さく驚いた。 言葉が落ち着いているのに、胸の奥は忙しい。


 怖さが残っているせいじゃない。

 ウィリアム自身、自分も深く責めているのがわかるからだ。


 アメリアに声をかけられても、ウィリアムは動かない。

 床に向けたまま、言葉を押し出した。


「リードは……私の、同僚でした」


 絨毯に落ちる声が、妙に鮮明に耳に入る。


「同じ場所で研究し、切磋琢磨し、議論もして……私は、彼のことを……少なくとも危険な人間ではないと……疑いもしませんでした」


 謝罪の言葉が、まるで自分の喉を切って出てくるみたいだった。


「結果として、アメリア様を追い詰め、命すら狙われる状況に……私が気づかなかったせいで……」


 握りしめた拳が、絨毯に沈む。

 白い指先が微かに震えている。


 アメリアは胸の奥が、きゅ、と縮むのを感じた。 怒りじゃない。責めたいわけでもない。


 ただ――この人が「自分のせいだ」と言い切ってしまう痛みが、刺さるほど伝わってくる。


 アメリアは膝の上で指を組み直し、ゆっくり言った。


「私、気にしていません」


 嘘ではなかった。

 あの日、怖かった。

 足がすくんだ。

 けれど、誰が最初から見抜けただろう。

 あのすり替えを。あの周到さを。


 それに何より、ウィリアムは最後までアメリアの味方だった。


「ウィリアム様が私を危険に遭わせたわけじゃありません。……むしろ、助けていただきました。ですから、どうか……頭を上げてください」


 言葉にした瞬間、胸の内側が少し軽くなった。 自分で決めた言葉は、こうして自分を支える。


 ウィリアムはようやく、ゆっくり顔を上げた。 眼鏡の奥の瞳が濡れたように揺れている。

 唇が一度噛みしめられ、息が細く漏れた。


「……寛大なお言葉、感謝いたします」

 

 いつもの、生徒と教師という関係ではなく、貴族令嬢と庶民という関係性の言葉。

 それが妙に、アメリアの胸をちくりと刺した。


 ローガンが低く言う。


「謝罪は受け取った」


 淡々とした声。 アメリアは横で、ほんの少しだけ背筋が伸びるのを感じた。


「次は同じようなことが起きないよう、細心の注意を払ってくれ」


 ウィリアムは背筋を正し、深く頷いた。


「承知しております」


 そんなやりとりを経て、ようやくウィリアムは椅子に腰を下ろした。


「学長が、アメリア様を研究員として迎えたいと仰っていることは……伺っています」


 アメリアの心臓が、ひとつ跳ねた。

 ウィリアムは言葉を選ぶように一拍置き、続けた。


「先に申し上げておきます。――無理に受ける必要はありません」


 アメリアが目を瞬かせると、ウィリアムは苦い笑みを浮かべた。


「大学は……理想だけで動く場所ではない。研究は、正しさだけで守られない。……今回の件で、アメリア様も痛感されたはずです」


 瞳がわずかに曇る。

 そこに映るのは、学問の誇りではなく、人の厄介さだ。


「学内には、あなたを快く思わない者が必ずいます。紅死病の新薬が、どれほどの利権を動かしたか……」


 アメリアの指先に、ほんの少し力が入った。

 ウィリアムは続ける。


「リードは拘束されました。ですが、背後はまだ曖昧です。……彼一人で、あそこまで周到に動けたとは考えにくい」


 ローガンの視線が鋭くなる。 ウィリアムはその視線の重みを受け止めながら、アメリアへまっすぐ言った。


「アメリア様が、もし少しでも怖いと思うのなら……今は断るという選択も、私はありだと思います。あなたが傷つく必要はない」


 その言葉には研究者の合理ではない、ひとりの人間の気遣いがあった。 アメリアの胸の奥が温かく、そして少し痛む。


(みんな、私のために……)


 守ろうとしてくれている。 ローガンは力で守る。

 ウィリアムは言葉で守る。

 形は違うのに、どちらも同じ温度がある。

 アメリアは息をひとつ吸った。


「……お気遣い、ありがとうございます」

 膝の上の手をほどき、前を見た。

 逃げるための視線じゃない。決めるための視線だ。


「でも私、決めてるんです」


 声が震えそうになる。 けれど、震えを許さないように背筋を伸ばす。


 昨日の迷いを、今日の言葉にする。


「大学に行って、研究したいと思います」


 ウィリアムが、ぽかんと口を開けた。 眼鏡の奥の目が何度か瞬く。


「アメリア……」


 ローガンが静かにアメリアの名を呼んだ。

 止める声ではない。試す声でもない。 ただ、受け止める声。


 アメリアは頷く。


「……実家にいた頃の私は、自分の知識なんて……意味がないと思っていました」


 言葉にした途端、閉じた部屋の匂いが蘇る。

 冷えた床、湿った空気、自分が無価値な人間だった時間。


「どれだけ知識があっても、薬を作っても、役に立たないって……そう思っていました」


 喉の奥が少し苦くなる。


「でも、ここに来てから……違うって知りました」


 アメリアは視線を落とさずに言う。

 思い出すのは、結果だ。

 自分の手が動いて、誰かに笑顔が浮かぶ瞬間。


「シャロル様の肩も、セラスさんとクロードさんの紅死病も……エドモンド公爵家のお茶会での、ミレーユさんのアレルギーも」


 痛みで歪んでいた顔が、ふっと緩んだ瞬間。 その一つ一つが、今でも鮮明に思い出せる。


「私は初めて、自分の手が……誰かのためにあるって思えたんです」


 言った瞬間、胸の奥に熱が走る。 誇りというより、もっと柔らかくて、でも揺らがないもの。


 ウィリアムは何も言わzず、ただ聞いている。 アメリアは静かに息を吐き、最後の言葉を落とした。


「私……誰かの役に立てるのが、好きです」


 綺麗ごとじゃない。

 自分の存在が誰かの痛みを軽くできるなら。

 誰かの明日を繋げるなら、こんなに嬉しいことはない。

 それを知ってしまった今、知らなかった頃には戻れない。


「だから、大学に行きたいです。大学に行って、たくさん研究をして、たくさんの薬を作って……たくさんの人を、笑顔にしたいんです」


 ローガンの家に来るまで、植物の知識を得たり、薬を調合するのは自己満足の部分が大きかった。

 自分が好きだから、やっていた。


 でも、今は違う。


 誰かの役に立ちたい。

 自分の知識で、薬で、人々を笑顔にしたい。


 そんな強い気持ちが、アメリアの胸に灯っていた。


 ローガンが椅子の背から体を起こし、アメリアを見る。 その目に浮かぶ微かな光は――誇らしさだった。


「よく決断したな」


 短い言葉が、胸の奥に真っ直ぐ落ちる。 嬉しさで泣きそうになって、アメリアは唇をそっと噛んだ。


 ウィリアムはようやく息を吐いた。


「アメリア様がそう仰るのなら……歓迎ですが……」


 笑みは大きくない。

 浮かれてもいない。 けれど、声の端に“願ってもない”が滲んでいた。


「……本当に、大学としては……いや、私としても、救われますが。ただ……」


 空気がまた引き締まる。


「学内の反発は必ず出ます。今回の妨害が失敗したからといって、彼らが引くとは限らない。……背後関係が未だ不明である以上、なおさら」


 ローガンの声音が低くなる。


「護衛を常時つける」

「ローガン様……」


 アメリアが口を挟む前に、ローガンは視線を逸らさず言い切った。


「あの時、お前がどれほど危ない場所に立たされていたか、俺は忘れていない」


 それは優しさというより、誓いだった。 守る、と決めた者の声。


 ウィリアムも同意するように頷いた。


「賛成です。大学内でも、アメリア様の動線はなるべく限定しますが、それでも、完全には防げないので……」


 ローガンが冷たく言い切る。


「背後にいた連中は、俺の方でも探る」

 頼もしく言い切るローガンの一方で、アメリアは胸の奥で、そっと決めた。


(私も、守られるだけじゃなくて……)


 自分の足で立つ。

 学び、力を増やす。

 自分も、守れる人になる。

 アメリアは小さく頷いた。


「ありがとうございます。護衛、お願いします」


 ローガンの目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


「よし」


 ウィリアムが真面目な顔のまま、しかしどこか安堵したように息を吐いた。


「では……これで、正式に決まりですね。アメリア様の大学行きは」


 アメリアは胸の奥で静かに言った。


(いよいよ、始まるんだ……)


 春は、始まりの季節だ。

 あの頃の自分には想像もできなかった始まりが、今、目の前にある。


 怖い。 けれど、それ以上に――進みたい。


 アメリアは窓から差し込む光を見て、そっと目を細めた。

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