第188話 寂しい
屋敷の広間は、いつにも増してしんと静まり返っていた。
高い天井から吊るされたシャンデリアが柔らかな光を落とし、磨き上げられた床には格子状の窓枠が淡い影を描いている。
アメリアはその中央に置かれたソファに腰掛け、両手を膝の上でそっと重ねていた。
向かいの席には、ローガン。
いつもなら紅茶や茶菓子が置かれているテーブルの上には、今日は何も置かれていない。
ただ、静かな空気だけが横たわっていた。
先に口を開いたのは、アメリアだった。
「話……というのは、昨日のことですよね」
声が自然と小さくなった。
ローガンは一瞬だけ目を伏せ、それから短く頷く。
「ああ」
その返事だけで、十分だった。
昨日。カイド大学の学長室で告げられた、あの話。
思い出そうとすると、胸の奥に小さな波紋が広がる。
「気分は、どうだ?」
探るようなローガンの言葉に、アメリアは視線を落としたままゆっくりと言葉を紡ぐ。
「今でも、信じられません。学長から、正式に研究員として来ないかって、お話をいただくなんて」
そう口にした瞬間、心臓が少しだけ強く脈打った。
王国の最高学府、カイド大学の研究員への抜擢。
名誉だと、誰もが口を揃えてそう言うだろう。
けれど、アメリアの胸に最初に浮かんだのは嬉しさや誇らしさではなく、戸惑いだった。
脳裏に、数日前の光景がよみがえる。
カイド大学の講堂。
紅死病の新薬実演会の壇上で、用意されていたはずのスーランが、酷似種のハーヴェルにすり替えられていた。
規則を盾に交換も許されない中、アメリアは窮地で装飾花のセントグリナを見つけ、即興の代替レシピで調合を完成させた。
薬を飲んだ患者の斑点が薄れ、回復の兆しが現れた瞬間、講堂は拍手に包まれた。
しかしそんな熱狂の裏で、妨害の仕掛け人が露わになる。
ウィリアムの同僚で研究者のリードが毒を所持していたことが発覚し、ラスハル自治区への紅死病の薬の横流しの証拠も突きつけられ、彼は拘束された。
その数日後――学長室に呼び出され、大学の監督不行き届きへの謝罪とともに告げられたのが、リードの失脚で空いた研究員の席への誘いだった。
──君の知見と実行力は、今の我々に必要だ。大学に属する研究者として力を貸してくれないか。
その言葉を思い出すたび、アメリアの胸はきゅっと縮こまる。
「すごいこと、なんですよね」
ぽつりと呟くアメリアに、ローガンは言う。
「ああ。少なくとも、凡人では一生願っても手に入ることのないポストだ。大学の設備、資料、薬草の温室、どれをとっても、薬草の研究をするには王国一の場所だろう」
ローガンが言葉にすればするほど、その環境の魅力がはっきりと浮かび上がる。
「でも……」
アメリアは、そこで一度、言葉を切った。
膝の上で重ねた指先に、ぎゅっと力が入る。
「私に、そんな大役が務まるのか、わからなくて……」
ローガンの眉が、ほんのわずかに動いた。
「研究員になれば、責任も増えますし……もし何かに失敗したら、たくさんの人々に迷惑をかけるかもしれない」
声が震えないよう、意識してゆっくり話す。
「それに……屋敷を空ける時間も、増えてしまう……」
言い終えた瞬間、胸の奥がひり、と痛んだ。
誰かに必要とされる場所を、ようやく得たばかりなのに。
そこから離れてしまうことへの、言い知れぬ不安。
ローガンは、しばらく黙っていた。
やがて、低く落ち着いた声で言う。
「大事なのは、君が何を一番大切にしたいか、だと思う」
アメリアは顔を上げた。
「普通の貴族令嬢なら、学問は一般的な教養さえ知っていれば問題ない。家にいれば、守られ、与えられ、困ることなく生きていける」
ローガンは続ける。
「だがアメリアの才能は本物だ。君の力は望めば王国中……いや、世界中の人々を救うだろう。人を救いたいと思う気持ちが本物なら、俺はそれを止める気はない」
淡々とした口調だった。
けれど、その言葉の奥には確かな温度があった。
「大学に行くかどうかを決めるのは、アメリア自身だ。俺の立場や、屋敷の事情を理由に、選択を狭める必要はない」
「ローガン様……」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
いつもそうだ。
彼は決してアメリアの前に立って進路を塞がない。
背中を押すことはあっても、引き留めることはしない。
その優しさが、時に心強く、時に切ない。
「……ただ」
ローガンは、ほんの少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
それから視線を逸らし、ぽつりと続ける。
「アメリアと過ごす時間が減るのは……正直、寂しい」
その一言は、思いのほか静かだったが、アメリアの鼓膜を大きく振るわせた。
胸の奥が、きゅん、と小さく鳴る。
アメリアは、思わず息を呑んだ。
彼の言葉は、甘い告白のようでも、束縛の言葉でもない。
ただ、ありのままの感情だった。
「……すみません」
なぜか、謝るような言葉が口をついて出た。
「謝る必要はない」
即座に返される。
「俺が勝手にそう感じているだけだ。君の選択を、左右するつもりはない」
アメリアは、胸元をぎゅっと掴んだ。
嬉しい。
とても。
こんなふうに想ってもらえていることが。
それでも――。
「……もう少し、考えさせてください」
そう言うのが、精一杯だった。
今すぐに決断するには、気持ちが追いつかない。
期待と不安が絡まり合い、どちらも無視できなかった。
ローガンは、静かに頷いた。
「わかった」
それだけ。
急かすことも、期限を切ることもない。
その態度が、かえって胸に染みた。
広間に、再び静けさが戻る。
窓の外では、風に揺れた木々が葉擦れの音を立てていた。
アメリアは、そっと目を閉じる。
(……私、どうしたいんだろう)
答えは、まだ見えない。
ただ一つ確かなのは――。
この迷いそのものが、自分の中で何かが変わり始めている証だということだった。
アメリアは、まだ結論を出せないまま、胸の奥に渦巻く想いを抱えて静かに息を吐いた。




