第186話 実演会
◇◇◇
カイド大学・本館中央に位置する大講堂は、王国でも指折りの由緒ある学術空間だった。
重厚な天井は丸天井構造で組まれ、梁の随所には古代植物を模した彫刻が施されている。
壁面には歴代の学者の肖像画が並び、窓には淡いステンドグラスがはめ込まれ、月夜を柔らかく反射していた。
花台には、薬効や鑑賞用として知られる花々が並び、緑と彩りが入り混じる様は、さながら“学問の庭園”と呼ぶにふさわしい風格を湛えていた。
そんな会場の隅、装飾柱の陰に隠れるように、数人の男たちが声を潜めていた。
身に纏うのは、医務局や王立大学に所属する正式な研究者の礼装。
格式ある濃紺のローブに金の縁取りが施され、胸元にはそれぞれ十字の紋と薬草の葉が交差する紋章が刻まれている。
「……それで、本当にあの薬を作ったのが、貴族の娘だって言うのか?」
年嵩の一人が眉をひそめ、ワイングラスの縁を指先でなぞる。
「信じられん。大学の課程も修めていない素人が、紅死病の新薬を作った? そんな戯言、通用すると思ってるのかね」
「それも、推薦者がウィリアムとか言う若造だ。あれでも一応、薬理の教授だが……最近はどうも節操がない」
「まったくだ。若造が己を目立たせようと足掻いているようにしか見えん」
誰ともなく吐き捨てるように言った。
耳障りにならない程度の声量でありながら、その声にはあからさまな軽蔑と猜疑が滲んでいた。
「仮にその“令嬢様”が実演に成功したとしても、だからなんだというんだ。民間の療法を学会に持ち込むなど前代未聞だ」
「紅死病の治療は、我々のような体系的な研究と認可の積み重ねによって成り立っているんだ。学問の場で思いつきが許されるわけがない」
そんな会話を交わしていたその時だった。
「お集まりの皆様――アメリア様が、到着されました!」
朗々とした声がホールに響き渡った。
司会役のが張りのある声で告げたその瞬間、扉の方へと一斉に視線が集まる。
会場に訪れたのは弾けんばかりの拍手……ではなく、静かなざわめき。
高く開け放たれた大扉の向こうから、ゆっくりと歩を進めてくる一組の男女。
ドレスを纏い、赤髪を巻き上げた少女が一歩、また一歩と進む。
上品なシフォンとサテンが重なり合うその装いは、華美すぎず、しかし彼女の白い肌と凛とした佇まいを引き立てていた。
細やかに整えられた装いと、落ち着いた立ち居振る舞い。
だがその深い瞳には、かすかに緊張の色が滲んでいた。その隣を歩くのは、きっちりとしたタキシードに身を包んだ男――へルンベルク家当主、ローガンだった。
ふたりの姿に、会場の数名が思わず息を呑む。それも無理はない。
ここは、王国中の医薬研究者や学者たちが集う知の殿堂とも呼ばれる場。
そこへ現れたのは、貴族然とした佇まいの青年と、可憐でひときわ目を引く赤髪の令嬢。
艶やかなドレスと堂々たる歩みは、まるで社交界の舞踏会を思わせ、場の空気とはあまりにかけ離れていた。
あくまで学問と実績で評価されるこの場所において、ふたりは華やかすぎる存在として、否応なく目を引いてしまったのだった。
「あれが……世紀の新薬を生み出した者というのかね」
誰ともなく、呟く。
観葉植物に講堂に入場するの姿を、無数の視線が追う。
その空気は、歓迎と興味と、そして一部の敵意をもはらんで、静かに濃度を増していくのだった。
◇◇◇
広間に足を踏み入れた瞬間、アメリアは自分に注がれる無数の視線を肌で感じた。
前夜パーティの会場は荘厳で静かで、それでいてどこか張りつめていた。
高い天井から吊るされたシャンデリアの光が、ステンドグラスの反射と混じり合い、青白い月のように足元を照らしている。
壁に沿って並べられたテーブルにはビュッフェ形式で食事が並んでいるものの、この空気ではいくら食いしん坊のアメリアも食欲をそそられなかった。
(やっぱり……すごく、場違いな気がする)
静寂をまとった学者たちの群れは、貴族の社交界とはまるで違う。
誰もが眼鏡の奥に冷ややかな眼差しを湛え、静かに見定めるようにこちらを観察していた。
「あれが例の……」
「貴族の令嬢というのは本当だったか……」
かすかに聞こえる囁き声が、アメリアの胸をざわりと揺らす。
好奇と侮蔑と、そして興味が入り混じった声。
どれもはっきりとした言葉にはなっていなかったが、雰囲気でわかる。
自分は、決して歓迎された存在ではないと。
(でも……)
アメリアは胸元をそっと押さえた。
だがその指の震えは、かつてほど大きくはない。
(エドモンド公爵家のお茶会に比べれば……まだマシね)
あのとき感じた社交界の鋭利な圧とは違うし、隣にはローガンがいる。
それに……。
(わあっ……綺麗なお花たち……)
ふと視線を巡らせると、今回の実演会の主題に沿ったためか、広間には至る所に植物が飾られている。
中央には円形の花台が設けられ、そこには鮮やかな花々や薬草の鉢植えが彩り豊かに並べられていた。
「大丈夫か?」
そっと隣からかけられた声に、アメリアははっと顔を上げた。
「は、はい! 植物たちがいるので……なんとか、平気です」
口にしてから少し恥ずかしくなったが、ローガンはふっと目元を緩めて低く笑った。
「なんだ、それは。相変わらずだな」
だがその声音には、呆れではなく、安心したような色が混じっていた。
「アメリア様、ローガン様」
その時、見慣れた人影がやってきて声をかけてきた。
「ウィリアムさん……!!」
アメリアは思わず、声を漏らしていた。
いつもの白衣姿ではなく、礼装用の黒いタキシードを羽織ったウィリアムがやって来た。
知った顔に出会えた安堵が、自然とアメリアの表情を和らげる。
「ようこそお越しくださいました。お迎えが遅くなり申し訳ございません」
「いえいえ! ウィリアム様もお忙しい中ありがとうございます」
静かに頭を下げるウィリアムに、アメリアも丁寧に礼を返す。
ローガンはウィリアムの服装を見て、顎に手を添えながら言った。
「いつも白衣だからか、タキシード姿はなかなか新鮮だな」
「オセロのように色が裏返ったみたいで落ち着きません……」
あはは……とウィリアムが頭を掻いていると。
「ようやくご本人に挨拶できるってわけだな」
ウィリアムの背後から横合いに、がっしりとした男がひょいと顔を出した。
「噂の“紅死病の天才令嬢”に会えると聞いて、胸が躍ったぜ」
体格のいい男だった。
薬学者とは思えぬほど筋肉質な腕、白衣の胸元には大学付属研究機関の紋章バッジが光っている。
短く刈られた髪に、やや整っている髭。
どこか陽気な軽口の裏に、揺るがぬ知性を滲ませていた。
「えっと、あなたは……」
「リード・ブランシェだ。ウィリアムの……まあ、悪友ってところだな。気軽に“リードさん”とでも呼んでくれ」
冗談めかしたその声に、アメリアは戸惑いながらも礼を返した。
「は、初めまして……アメリア・ハグルです」
「うん、うん。礼儀も正しいし、お育ちが良さそうだ!」
彼は楽しげに頷きながら、アメリアの隣にいるローガンへも目を向けた。
「で、そちらの御方は……噂に聞くローガン・へルンベルク公爵でいらっしゃいますね?」
ややくだけた口調ながらも、それなりに敬意を払った言い回しでリードは尋ねた。
「……どのような噂かは知らんが、その名で間違いない」
ローガンは短く返しながらも、視線にかすかな警戒を滲ませた。
その応じ方に、リードは一瞬だけ目を細め──そして、すぐにいつもの飄々とした笑みを浮かべて呟く。
「──“醜穢令嬢”に“暴虐公爵”」
そのつぶやきに、アメリアの心臓がひやりと冷たくなり、ローガンが眉をピクリとさせる。
「実際のお二人を見ていると、噂なんて全然当てにならないかがよくわかるな」
あっけらかんとした表情で言うリードに、アメリアは「あはは……」と乾いた笑みを漏らすばかりであった。
「で、アメリア嬢、ちょっといいか?」
「は、はい、なんでしょうか?」
「あのスーランを見つけた経緯、ぜひ詳しく聞きたいんだが! まさかそこらへんの雑草がザザユリの代替になるなんて、どうやって見抜いたんだ? 植物の選定プロセスとか、研究者として興味津々なんだよ!」
「あっ、え、えっと……」
アメリアは戸惑いながら言葉を探す。
リードの勢いに押され、口を挟む隙もない。
「それに、スーランを培養する時の管理温度、あれ、どうやって安定させたんだ? あの環境なら蒸散率が高くて維持が難しいはずだろ? てことは、温度だけじゃなくて湿度管理も工夫したのか? それとも、周囲の植物との相互作用を──」
「少し落ち着け」
ローガンが静かに割って入った。
彼は自然とアメリアの前へと立ち、リードとの間に距離を置くように身を寄せる。
その仕草に、ほんの一瞬、空気が引き締まった。
「初対面で質問攻めにするのは礼を欠く行為だ。少なくとも、彼女の立場を思えばわかるはずだろう」
ローガンの声は低く、静かなものだったが、そこには紛れもない威圧がこもっていた。
リードはようやく我に返ったように目を丸くし、すぐに、気まずそうに首の後ろをかいた。
「……申し訳ない。つい、研究者の性ってやつでしてね。こういうときは冷静にならなきゃって、口でわかっててもなかなか難しくて……」
弁明するように言うリードに、ウィリアムが急混じりに口を挟んだ。
「すみません、ローガン様、アメリア様。彼は根は悪くないのですが、人との距離の詰め方が少々……独特でして」
アメリアは慌てて首を振り、頭を下げた。
「い、いえっ! お気になさらず……! 研究のお話をこんなに熱心に聞いていただけるなんて、光栄です……!」
緊張しながらも、アメリアの頬にはほんのりとした赤みが差していた。
そんなアメリアの反応に、リードは「助かったぁ……」とばかりにホッと胸を撫で下ろす。
「じゃ、俺はそろそろ知り合いの教授陣に顔を売りに行ってくる。アメリア嬢、明日は頑張ってな」
軽くウィリアムに目配せし、リードはそのまま逃げるように人混みへと溶け込んでいく。
飄々とした足取りだが、その背に僅かな緊張が残っているのをアメリアは見逃さなかった。
「なんだか、ユニークな方でしたね……?」
「まあ、あれでも大学では結構慕われているんです。見た目に反して、意外とお茶目なところもありましてね」
ささーっと去っていったリードを見て、ウィリアムが小さく肩をすくめる。
「そんなことよりも」
ふっと軽口の空気を切り替えるように、ウィリアムは声の調子を少し落とした。
あれだけ朗らかだった口調が、一瞬で真剣なものへと変わる。
「ご存じかもしれませんが、明日の“特別実演会”は、極めて異例の対応です」
静かな語り口だったが、その言葉には重みがあった。
アメリアは自然と背筋を伸ばし、視線を向ける。
「本来であれば、新薬の認可には年単位の臨床記録、複数機関による検証、そして公的な論文審査が不可欠です。ですが今回は、紅死病の流行拡大を受け、王室医師団と王都大学、それに保健省が異例の緊急連携を行い、“即時承認”のための特例措置が組まれました」
淡々としながらも、その裏にある壮大な動きがにじむ。
「す、すごい……そんな大事になっていたのですね……」
アメリアは思わず口元に手を添え、小さく息を飲む。
ウィリアムは一拍置いて、はっきりと告げた。
「はい。つまり、明日、アメリア様の実演が成功すれば、その場で承認が下ります。そして、最短で翌月には王都を皮切りに各地へ薬の供給が始まる予定です。現場の医師たちが、すぐに治療に使えるようになるんです」
その言葉に、空気が重く澄んだ。
アメリアの胸が、ぐっと締めつけられる。
──紅死病を罹ったら終わりだ……俺の部下も、何人もこれで死んでいった。
頭の中で、クロードの静かな声がよみがえる。
冷えた地面に寝かされた兵士たち。
何もできずにただ死を待つばかりの絶望。
そんな光景を想像してしまう。
(この薬の認可が降りれば……たくさんの命を救うことができる……)
アメリアは、胸の奥から込み上げる想いを抑えるように、ぎゅっと胸元で拳を握りしめた。
けれどその手はわずかに震えていた。
決意の裏に、張り詰めた緊張が忍び込んでいたのだ。
(失敗は許されないわ……私、本当に、やりきれるのかな……?)
そんなアメリアの緊張を、立つローガンは感じ取ったのだろう。
「気負う必要はない」
低く落ち着いた声で、ローガンはアメリアに語りかけた。
「君が今まで積み上げてきたものを、そのまま見せればいい。誰よりも努力してきた君が、その結果を見せるだけだ……信じている」
その声はいつになく静かで、けれどしっかりと強さと温かさを孕んでいた。
アメリアの瞳が、はっとしたように揺れる。
彼の言葉は、冷えそうになっていた心にそっと灯りをともすようだった。
視線を向ければ、ローガンの目は真っ直ぐに彼女を見ていた。
深いところで、何の揺らぎもなく彼女を信じていると、その瞳が語っていた。
ウィリアムもまた、そっと微笑む。
「誰も奇跡を求めているわけではありません。いつも通りのアメリア様を、見せていただきたいんです。それだけで十分です」
アメリアは、ゆっくりと深呼吸をした。背筋が自然と伸びる。
「はい、ありがとうございます。頑張ります」
その声には、震えながらも芯のある決意が宿っていて──。
ぐうううううぅ〜〜……っ
静寂の中、場にそぐわぬ音が空気を震わせた。
「……っ!? や、やだっ、私ったら……!」
アメリアの顔が一瞬で真っ赤に染まった。
思わずお腹を押さえて俯くが、誤魔化しようもない。
「随分と大きな腹ペコ虫だな」
「緊張がほどけたら、お腹が……その……」
しどろもどろに言い訳を繰り出すアメリアに、ウィリアムがくすりと笑った。
「ふふ、アメリア様らしいですね」
ローガンも小さく息を吐いて、視線をアメリアに向ける。
「食事をとりに行くか」
「は、はいっ……」
先ほどまで張り詰めていた緊張が、すっと霧散していくようだった。
三人は連れ立って、談笑まじりに会場の奥へと歩き出した。
──けれど、その朗らかな空気とは裏腹に。
会場の片隅、柱の影。
観葉植物の奥の薄暗がりから、じっとその様子を見つめている視線があった。
それは、感情の読めぬ目。
冷えた水のように、澄んで、どこか濁っている。
無言のまま、じっと、三人の背中を見送り続けていた。
◇◇◇
会場の一角に設けられたビュッフェコーナーは、まさに王都の美食文化の粋を集めたような豪奢さだった。
照明にきらめく銀器のトレイには、芸術品のように盛り付けられた前菜。
香ばしい香りを立ちのぼらせる肉料理、芳醇なソースに包まれた魚介料理。
カラフルな果物と繊細な細工菓子をあしらったデザートの数々が、目にも鮮やかに並んでいる。
「わああ〜〜……っ!」
アメリアの目がきらきらと輝く。
緊張も相まって空腹だったアメリアにとって、この上ない幸せな光景であった。
「これ、全部食べていいんですか……?」
「ビュッフェ形式だから、何を取ろうが自由だ」
「自由……!!」
ぱあっと表情を明るくしてから、アメリアは大皿と銀製トングを手に取った。
「こんなにたくさんだと迷ってしまいます……!!」
と言いながらも、目についたものから次々と皿へ乗せていくアメリア。
焼き色の美しいキッシュ、艶やかなソースがかかったローストチキン、ほんのりバジルが香るグラタン、オレンジリキュールが香るゼリー寄せ……気がつけば皿の上は、てんこ盛りになっていた。
「その一皿だけで、僕の三日分の食事量をゆうに超えそうです」
「ウィリアム様は食べなさすぎるのですよ」
冷静に言うウィリアムに、アメリアは突っ込みを入れた。
その隣で、ローガンが静かに言う。
「ほどほどにな。食べすぎで明日の実演会に出られない、なんてことになったら洒落にならん」
「そっ、それはさすがにありませんよ!? ……ちゃんと計算して……いや、ちょっとだけ、でも……」
そんなときだった。
「──失礼。アメリア様でいらっしゃいますね?」
背後から落ち着いた、よく通る男性の声が届いた。
柔らかくも威厳を感じさせるその声音に、アメリアはぴくりと肩を震わせる。
振り返ると、そこには白髪を丁寧に撫でつけた老紳士が立っていた。
深緑の礼服に身を包み、金の飾緒が肩で静かに揺れている。
所作一つ一つに無駄がなく、長年の鍛錬が自然と滲み出ているような立ち居振る舞いだ。
その佇まいには、年齢を感じさせない気品と風格、そして不思議と近づきがたさのない温和な雰囲気が同居していた。
「あっ、はい。アメリア・ハグルと申します。あの、えっと……」
何者かも分からぬまま、思わず深々と頭を下げるアメリア。
その隣で、ウィリアムが小声で囁いた。
「うちの学長です。カイド大学の」
「がががが学長さん!?」
アメリアの手がびくっと震え、手にしていた山盛りの皿が傾きかける。
すかさず、隣にいたローガンが手を伸ばし、その皿を受け取った。
流れるような動作だった。
落ちたのは料理ではなく、アメリアの緊張だった。
「あ、ありがとうございます……」
「造作もない」
小声で礼を言いながら、アメリアは赤面したまま姿勢を正す。
「ハルディス・デュメインと申します。カイド大学の現学長を務めております」
紳士はにこやかに名乗ると、ローガンに軽く会釈した。
「まさか、こんなにもお若い方が、明日の実演会で主役を務められるとは。学院でも話題になっておりましてね、ぜひ一度ご挨拶をと思っておりました」
「し、失礼いたしました! あの、えっと、その……大変光栄ですっ!」
完全にテンパっているアメリアの隣で、ローガンは無言のまま皿を支え続けていた。
彼の手元にはアメリアが盛った料理がぎっしり詰まっていて、思わず彼女は「……なんか、すみません、お恥ずかしいところを……」と呟いてしまう。
しかし、ハルディスの微笑みは崩れない。
その眼差しは若者を試すためのものではなく、むしろ未来を託す者を見るような、優しさと、期待がこもったものだった。
一方で、ローガンが静かに一歩進み出て、丁寧に礼を取る。
「ローガン・へルンベルクと申します。アメリアの婚約者です」
その名を聞いたハルディスが、少しだけ目を細めた。
何かを思い出すように、軽く顎を引いて頷く。
「へルンベルク公爵家の……ふむ、噂どおりの沈着なお方だ」
その口調に、敵意も堅苦しさもない。
むしろ、ささやかな評価の言葉だった。
その隣で、ウィリアムも軽く頭を下げる。
「ご無沙汰しております、学長。お招きいただき、ありがとうございます」
「おお、ウィリアム教授。久しぶりですね。研究部の引き継ぎ以来ですか……?」
「はい。もう二年になりますね」
「ますます精力的に動いておられるようで、頼もしい限りです」
「いえいえ、とんでもございません」
面識のあることが一目でわかる、朗らかな笑みが交わされる。
その空気に、アメリアの緊張もようやく和らぎはじめていた。
ハルディスがアメリアに向き直って言う。
「改めて、アメリア様。此度はようこそいらっしゃいました。お招きに応じてくださり、心より感謝いたします。明日の特別実演会、我々教員一同、たいへん楽しみにしておりますよ」
「あ、ありがとうございます」
アメリアは丁寧にお辞儀をしながら、少しだけ表情を引き締めた。
「私などがこの場に立つには、まだ未熟かもしれませんが……せめて、出来ることのすべてを、しっかりとお見せできればと思っております」
その言葉に、ハルディスは穏やかに目を細めて首を振った。
「遠慮は不要ですとも。君の発明は、我々が長年かかっても越えられなかった壁を乗り越えた。立場や肩書きなど、もはや重要ではありませんよ」
そしてふと、ホールの中央にあしらわれた植物の装飾へと目を向ける。 柔らかな灯に照らされた数々の草花が、場の空気に潤いと深みを添えていた。
「明日の実演会は、この会場で行われます。空間の緊張を和らげ、少しでも心が安らげばと、植物をあしらってみたのです。どうです、気に入っていただけましたか?」
「え、はいっ! あの……」
アメリアが視線を観葉植物に向けて言う。
「あちらに咲いてるフィルバーナって本物ですか? この季節にはあまりみない品種なので……まさか、温室で越冬させたんですか!?」
早口になってしまったことに気づき、アメリアは一瞬慌てたように唇を結んだ。
しかしハルディスはにこやかに頷く。
「ええ、どちらも学内の研究温室で育てたものです。水分調整には『透湿鉱石』を使っています。ご存じでしょう?」
「っ……! はい!」
驚きに目を見開いたアメリアは、思わず隣のローガンの袖を握っていた。
その指先には、感嘆と共鳴がこもっている。
同じ植物の知識を深く知る者同士だと、アメリアはすぐにわかった。
「ハルディス学長は、植物学をご専門にされています。紅死病の基礎研究にも、初期から長らく携わっておられた方ですよ」
ウィリアムが補足するように言うと、アメリアは感謝と覚悟を込めて、しっかりと頭を下げた。
「明日は……精いっぱい、努めさせていただきます」
「うん、頼もしい限りです。……どうか気負わずにね」
ハルディスは柔らかく微笑むと、副学長らしき人物に軽く頷き、そのままゆるやかにホールの奥へと歩を進めていった。
その背中を目で追いながら、アメリアは胸の奥にあった恐れが少しだけ薄れるのを感じていた。
◇◇◇
「美味しいっ……!」
アメリアは会場の隅に設えられた長テーブルの一角で、スプーンを口に運び、感嘆の声を漏らした。
立食形式のこのパーティでは、貴族や研究者たちが思い思いの皿を手にしながら、歓談と舌鼓を楽しんでいる。
彼女の手にあるのは、ハーブと胡桃の香りが漂う雑穀ライスのテリーヌと、淡いバラ色のローストビーフをあしらった一皿。
見た目だけでなく、口に含めば思わず頬が緩むほどの味わいだった。
「もう三皿目だぞ。大丈夫か?」
「まだまだいけます!」
僅かに心配を含んだ表情で尋ねるローガンに、アメリアは元気よく応える。
「やはり圧倒的な成果を出す秘訣は、たくさんのカロリーなのでしょうか……? 見習って自分も一日一食を二食にするのも検討の余地がありますね」
ウィリアムはブツブツとそんな事を言っている。
──そんなささやかな安らぎの時間は、唐突な声によって破られた。
「明日の主役が、随分と呑気な者ですね」
冷たい刃のような声音が、背後から突き刺さるように届いた。
アメリアは条件反射のように体を固くし、ゆっくりと振り返る。
そこにいたのは、金糸の刺繍が豪奢に施された濃紺の礼装を纏う、中年の男だった。
背筋を伸ばし、ひと目でわかる格式と威圧を纏っている。
背後には、同じ意匠の礼装に身を包んだ男女が数人、静かに控えていた。
一見、柔和そうな笑みを浮かべている彼の目は笑っておらず、むしろ観察対象を値踏みする学者の視線でアメリアを見据えていた。
(……どちら様でしょう?)
その姿に、アメリアが思わず眉をひそめた瞬間、ウィリアムが隣で声を潜める。
「……保守派の連中です。王立薬草研究会の古い派閥、紅死病に関しても、伝統的な治療法を重んじている奴らですよ」
ウィリアムの声には、彼らに対立している事を示す響きがあった。
アメリアの手が無意識にスプーンを握りしめる。
相手の発した言葉の棘が、意図的であることはすぐに察せられた。
「失礼、私どもは王立薬草研究会の者です。少々……気になってしまいましてね」
その男は、丁寧な口調とは裏腹に、明らかに主導権を握ろうとするような態度で一歩前に出た。
「薬の調合をするのは……あなたなのですか?」
「は、はい……そうです」
アメリアは静かに答えたが、内心ではざらりとした違和感が広がっていた。
問いの形をしてはいたが、そこに尋ねる意志はなさそうだ。
淡々とした声音の奥に感じたのは、まるで「どうせ違うのだろう」と言外に決めつけているような、乾いた確信。
ああ、この人は最初から答えを聞くつもりなんてない。ただ、責任の所在をあぶり出して、揚げ足を取る機会を窺っている──そう、直感で分かってしまった。
嫌な空気を感じた瞬間、すっとアメリアの隣にローガンが立った。
彼の視線は冷たく鋭く、保守派の男に向けられる。
「質問の体を取れば、侮辱が許されるとでも思ったか?」
静かながらも毅然とした口調だった。
ローガンの一言に、男の周囲にいた数人の空気がぴりりと引き締まる。
だが、中心の男はあくまで余裕を崩さなかった。両手を軽く上げて微笑みを浮かべる。
「それは失礼。侮辱などとんでもない。……ただ、これほどの大発見を成した方がどのようなお方か、興味が尽きなかっただけのことです」
明らかにはぐらかすように言う男に、ウィリアムは前に出て言った。
「失礼ですが、彼女は“素人”ではありません。紅死病に対する効果的な処方を自ら調合し、その実績と論文をもって、この実演会が認可されたのです」
ウィリアムの毅然とした言葉に、男たちの表情がわずかに強ばった。
場の空気が一瞬、ぴたりと静まる。
「……では、ひとつ試させていただきましょうか」
柔らかな声音とは裏腹に、どこか挑むような響きを含んでいた。 一歩前に出た男が、丁寧に頭を下げる。
「グレンと申します。王立薬草研究会、保守派に所属する者です」
肩章には、薬壺と銀糸の円環──保守派の紋が刺繍されていた。
よく見ると、取り巻き含め皆同じ紋章をつけている。
「会場奥に飾られているあの観葉植物……あれは《オーリクス》ですね。さてアメリア様、《オーリクス》の根部に含まれる主成分は何か、ご存じですか?」
一見穏やかな問いだったが、その目には明らかな“試す意図”が浮かんでいた。
植物学に詳しくなければまず聞き覚えのない名前。
答えられなければ「やはり素人」と断じるつもりなのだろう。
ウィリアムがわずかに眉を寄せ、ローガンが静かに視線を鋭くする。
だが、二人ともあえて口を挟まなかった。
アメリアは一度、そっと息を吸った。
「アリシア酸です。根部に多く含まれ、強い抗炎症作用を持ちます。ただし、肝機能に影響を与える恐れがあるため、調合には乾燥処理と希釈が必要です」
簡潔かつ的確な返答だった。 その声にわずかな緊張はあったが、迷いはなかった。
取り巻きのひとりが舌打ちし、グレンが唇を歪める。
「……なるほど。教本どおりの模範解答ですね。では……」
軽く言い返そうとしたその瞬間、アメリアがそっと首をかしげた。
「……あの、そもそもなのですが」
グレンが眉をひそめる。
「あの植物ですが……あれは《オーリクス》ではありません。葉縁には細かな切れ込みがあり、花弁には淡い紫の縁取りが見られました。これは《セントグリナ》の特徴です」
グレンの表情がこわばる。
アメリアは、そのまま静かに続けた。
「おそらく勘違いの原因は、近縁種である《グリナス・ベルタ》の存在かと。見た目が酷似していて、論文でも鑑別には注意を要するとされています」
ウィリアムが目をぱちりと瞬き、ローガンの口元がわずかに吊り上がる。
「また薬効分類としては、スーランと同系統ですね。おそらく、明日はスーランを使った実演会ということで、会場側がチョイスしたのだと思います」
アメリアの言葉が終わると同時に、その場に冷たい沈黙が落ちた。
グレンの顔から、すうっと血の気が引いていくのが分かった。
唇がかすかに震えている。
「……っ」
何かを言いかけたものの、喉奥で言葉が詰まったのか、声にならない。彼の取り巻きたちも目を伏せたり、互いに視線を交わしながら、露骨に気まずそうな様子を見せていた。
中には舌打ちを漏らす者さえいた。
「グレン様……」と、誰かが小声で呼びかける。
だが当の本人は悔しさと屈辱に顔を紅潮させ、「いくぞ」とだけ言い、ぎこちなく踵を返す。
その背筋は、先ほどまでの余裕など欠片も残っていなかった。
まるで敗走する兵のように、一団はホールの向こうへと姿を消していった。
「植物知識に関しては、君の右に出る者はいないな」
ローガンの低く落ち着いた声が、そっとアメリアの耳元に届く。
ふと隣を見ると、彼がわずかに笑っていた。
「ありがとうございます」
アメリアは照れくさそうに目を伏せ、小さく頷いた。
「まったく、私の心配など不要だったようですね」
ウィリアムも苦笑しながら肩をすくめる。
(……知っていて、よかった……)
胸の奥に、じんわりと小さな自信が灯った。
その後も数名の研究者がアメリアに声をかけてきたが、彼女は丁寧に、そして的確にそれぞれの質問に答え続けた。
時折、ウィリアムが補足を入れたり、ローガンがさりげなく背を守るように立つ姿もあり、次第に素人と揶揄していた者たちの態度が、静かに変わっていくのが分かった。
まるで、会場全体の空気が、アメリアの存在を、認め始めているようだった。
◇◇◇
前夜祭も終わりの頃。
「それでは、アメリア様。明日はどうぞよろしくお願いいたします」
「よろしくお願いします! ウィリアムさんも、ずっと付き添ってくださってありがとうございました」
アメリアが頭を下げると、彼は「とんでもございません」と微笑し、観客の波へと身を消した。
「そろそろ行くか」
「はい!」
ローガンに手を引かれて、アメリアは前夜祭の熱気を抜ける。
そしてふたりが辿り着いたのは、カイド大学の隣に併設されたホテルだった。
白を基調とした石造りの外観は、長年の歴史の中で洗練された気品を漂わせており、軒先には黄金色の灯りがゆらめいている。
ロビーに足を踏み入れると、柔らかな絨毯と静謐な空気が、パーティの喧騒とはまるで別世界のように迎えてくれた。
「豪華なホテルですね……」
「ここは王侯貴族や名士たちが好んで滞在する、一流ホテルらしい」
「す、凄い……」
磨かれた大理石の床、年代物の重厚な調度品、天井まで届くカーテン。
どれを取っても、訪れる者に格の違いを感じさせた。
アメリアとローガンが案内されたのは、最上階のスイートルームだった。
扉が開かれた瞬間、ふんわりと漂ってきたのは、ほのかに甘い木香の香り。
深緑と金を基調に整えられた室内は落ち着いた上品さを纏っており、中央には羽毛たっぷりのキングサイズベッドがゆったりと据えられていた。
「つかれたあああ〜〜……!」
部屋に入るなり、アメリアは悲鳴ともつかない声を上げながら、ベッドに背中からぼふっと倒れ込んだ。
全身から一気に力が抜けるように、大の字でぐったりと天井を見つめる。
そんなアメリアの隣にローガンは腰を下ろす。
「お疲れ……よく頑張ったな」
その声音は静かで、優しい労いをにじませている。
ローガンはそっと手を伸ばす。
温かく、大きな掌がそっと額に触れて、アメリアは猫のように目を細めた。
「ローガン様も、付いてきてくださってありがとうございました。私一人だと、どうなっていたことか」
アメリアは心からそう言って、こくりと頭を下げる。
「礼なんていらない……むしろ、君は一人でも毅然としていて、とても誇らしかった」
アメリアがまぶたを閉じると、ローガンの指先が耳の後ろを撫でるようにすり抜け、髪を優しく梳いてくれる。
「本当に……今日の君は立派だった」
低く囁くその声は、柔らかで、けれどどこか切なげでもあった。
まるで、成長した我が子に思いを馳せる親のような響き。
「……ありがとうございます。けど……」
アメリアはゆっくりと体を起こし、ベッドの上に座り直した。
ローガンの隣で、肩と肩が触れ合う距離。
小さく息を吸い込み、恥ずかしそうに視線を逸らしながらも、ぽつりと呟いた。
「本当は、結構緊張してたんです。うまく話せなかったらどうしようって……足が震えちゃいました」
えへへと頬を人差し指で掻きながら言うアメリアに、ローガンは何も言わず、ただそっと両腕を広げた。
「おいで」
アメリアは一瞬だけ戸惑った。
しかしすぐふわりと笑って、その胸に身を預けた。ぎゅう、と彼の腕が回される。
しっかりと、でも優しく包み込まれるその感覚に、アメリアの肩の力がふっと抜けていく。
「あったかい……」
落ち着く体温、落ち着く匂い。胸元に顔を埋めたまま、アメリアが小さく呟く。
しばらくそのまま沈黙が流れた。
お互いの鼓動が静かに重なる時間。
やがてアメリアがそっと顔を上げると、ローガンの視線と自然に重なった。
深く澄んだその双眸に、自分が映っていることがたまらなく嬉しかった。
「ローガン様……」
ためらいがちにアメリアは少しずつ顔を近づける。
ローガンもまた、その距離を拒まない。
ふたりの唇が──そっと重なった。
ふわりとした、けれど胸の奥まで届くキス。
最初はそっと触れるだけだったが、互いの呼吸が混じるうちに、自然とその熱は深まっていく。 何度も唇を重ねながら、アメリアの指がローガンの胸元を掴み、ローガンの腕も彼女の背中をしっかりと抱き寄せる。
「んっ……あっ……」
思わず声が漏れる。
普段の自分からは想像の出来ない、本能を煽るような声。
空気が、熱を帯びていく。
触れる指先が、交わる視線が、もう戻れない場所へと踏み込もうとしていた。
「アメリア……」
名を呼ぶその声は、普段よりも少し掠れている。
どこか余裕のない声。
それがまたアメリアの胸をくすぐった。
「ローガン様……わたし……っ」
アメリアは言葉を詰まらせつつも、心の奥に渦巻く想いを、ローガンへと目で伝える。
ローガンもまた、迷いなく応えた。
「アメリア……愛してる」
その言葉に、アメリアの瞳が潤む。
胸が、じんわりと満たされていく。
「私も……愛してます、ローガン様」
指先が頬をなぞり、唇が再び重なる。
そしてそのまま本能に身を任せそうになって──。
その瞬間、脳裏に浮かぶローガンの声。
『──そういうことは、正式に結婚して、夫婦になってから したい』
思考が、まるで冷水を浴びたかのよう冷静になった。
ローガンの真剣なまなざしと、その時の言葉が胸の奥に突き刺さる。
(いけない、これ以上は……)
ローガンの温かな腕に後ろ髪を引かれつつも、アメリアはわずかに身を引く。
「え、えっと……あのっ、わ、私……っ」
言葉にならない動揺が口から漏れる。
「す、すまないっ……」
彼ローガンもまた、同じ熱に飲み込まれていたのだろう。
ハッとしたように、アメリアを抱く腕をそっとゆるめた。
「そ、そろそろ、着替えますねっ!」
慌てて立ち上がったアメリアは、赤くなった顔を隠すように両手で頬を覆う。
その時、スカートの裾がふわりと揺れ、勢い余って足元のカーペットに軽くつまずいた。
「きゃっ……!」
「おっと」
バランスを崩したアメリアを、すぐさまローガンの腕がそっと支えた。
抱きとめられた瞬間、アメリアの全身に、先ほどまでの熱とは違う種類のときめきが走った。
「大丈夫か?」
「……す、すみませんっ!」
顔を真っ赤にしながら、慌てて身を離そうとするもうまく動けない。
視線を上げると、ローガンは困ったように微笑んでいた。
怒るでもなく、からかうでもなく、ただ、愛しさに満ちた瞳でアメリアを見つめている。
「焦った姿も可愛いよ、アメリア」
耳元で囁かれたその一言に、アメリアの頬はさらに熱くなった。
「も、もう……っ! また、そんなこと言わないでください!」
思わず上ずった声を上げながら、アメリアは彼の手からするりと抜け出す。
そしてスカートの裾を握りしめるようにして、バスルームの方へ駆け出した。
「き、着替えてきますっ!」
扉の前でちらりと後ろを振り返ると、ローガンは口元にかすかな笑みを浮かべていた。
その表情に、アメリアの胸の奥がまたきゅうっと締めつけられる。
(うぅ……恥ずかしすぎる……)
顔から火を出しながら、アメリアはバスルームの扉をぱたんと閉める。
中に入ってドレッサーの前に立つと、鏡に映った自分の顔が真っ赤に染まっているのがわかた。 両頬に手を当てると、火照った熱がじんわりと伝わってくるのだった。
◇◇◇
深夜、灯りを落としたスイートルームには、静寂と夜の深みがしんと満ちていた。
華やかだった大学での前夜祭も、街のざわめきも、ここには届かない。
高層階のベランダに出れば、まるで世界全体が一段下にあるかのようにさえ感じられる。
街の明かりが遥か遠くにまたたき、空にはいくつかの星がかすかに浮かんでいた。
アメリアは、ベランダの手すりに両肘をつきながら、夜空をぼんやりと見上げていた。
髪をほどいた赤い長髪が、夜風にそっと揺れて肩にかかる。
静かに目を細めていても、その眼差しは夜の空の向こう側に、何かを求めるように漂っていた。
「流石に、眠れないわね……」
かすかに漏れた呟きは、ひとりごとのようだった。
背後から聞こえる時計の微かな針音と、街のざわめきが遠くに霞む中で、その声は夜気に溶けて消えていった。
心は、ざわざわと怪しい音を立てていた。
胸の奥に、冷たい重石のような感情が沈んでいく。
──もし、明日失敗したら。
たったそれだけの想像が、思考を支配していく。
気づけば、指先がわずかに震えていた。
手すりに添えていた両手を見下ろし、アメリアはそっと組み直す。
知らず知らずのうちに、肩に力が入っている。
背筋に冷たいものが走った。
どれだけ言葉を尽くされても、不安だけは簡単に拭えない。
自分は、正式な医師でもなければ、大学で講義を受けた学者でもない。
ただ植物が好きだった。
それだけの少女が、手探りの中で薬草を学び、偶然のように生まれた薬を研究者たちの前で発表しようとしている。
明日、壇上に立てば、王国中の注目がその肩に降りかかる。
(本当に、私で良いのかな……)
その問いが何度何度もも胸を巡り、答えを得られないまま、ただ夜の空に沈んでいった。
そのとき、背後からカーテンの揺れる音がして、室内の柔らかな絨毯を踏みしめる足音が近づいてくる。
「眠れないのか?」
低く穏やかな声が、肩越しに届いた。
驚きはしなかった。
アメリアは、ゆっくりと振り返った。
月明かりに照らされたローガンの姿。
ナイトガウン姿の彼は、髪の一部を無造作にかき上げ、どこか寝起きの気配を残している。
けれどその瞳は醒めたままの静けさを湛えていた。
彼は無言のまま、アメリアの隣に立つ。
そしてふたり並んで、夜空を見上げた。
しばし、言葉はなかった。ただ静寂がふたりの間に流れ、遠くの鐘の音や風のざわめきが、まるで意識を解かすように包み込んでくる。
「ローガン様……」
名前を呼ぶ声は、小さく、頼りなく、それでも彼に届いていた。
アメリアは、どこか言葉を探すように唇を開いた。
そして、胸の奥に積もっていた重いものを、そっとひと粒、こぼす。
「……本当に、私でよかったんでしょうか」
言葉の終わりに、かすかなかすれが混じった。
自嘲のようにも、不安のようにも聞こえる声。
「あんなに期待されて、皆の視線を一身に浴びて……もし、明日、失敗してしまったら」
視線を落としたアメリアは、自分の両手を見つめる。
丁寧に整えた指先が、わずかに震えていた。
ゆっくりと指を組み、ぎゅっと握りしめる。
「私なんかが、あんな舞台に立っていいのかって……正直、怖くて仕方ないんです」
震える声は、まるで心の底からすくい上げるようにして紡がれていた。
ひやりとした夜風が袖口から忍び込んで、背筋をぞくりと撫でた。
深く息を吸おうとしても、うまく肺の奥まで届かない。
胸がつかえ、呼吸が浅くなった。
そのとき、ふいに肩にぬくもりが落ちた。
ローガンの手が、そっとアメリアの肩に触れていた。
彼の手は、言葉より雄弁に、彼女の不安を包み込んだ。
「アメリアじゃないと、駄目なんだ」
ふわりと囁かれた声。
あたたかくて、どこまでも静かで、けれど、決して揺るがない強さがある。
「君がこれまで、どれほど努力してきたか……俺は、誰よりもわかる。君には、その場所に立つ資格がある。いや、むしろやり遂げられるのは、君しかいない」
迷いも、飾りもなかった。 信じている者にしか持ちえない、真っすぐな言葉だった。
アメリアは静かに瞬きをする。
その表情には、言葉にできない想いが溢れ、胸の奥に静かに染み込んでいくようだった。
「ローガン様……」
囁くような声で名を呼びながら、アメリアはふと顔を上げた。
視線の先にいる彼は、どこか優しい面差しで彼女を見つめ返していた。
そのままローガンは、そっと自分の手をアメリアの手の上に重ねる。
彼の体温が、まるで夜の冷たさを溶かすように、じんわりと伝わってきた。
その瞬間だった。
アメリアの視界の隅で、月明かりがローガンの薬指にきらりと反射した。
自分の指にも、同じ意匠の指輪が光っていることに気づき、彼女はそっと目を細める。
重ねられた手の中で、ふたつの指輪が静かに触れ合っている。
紅の宝石が、夜空の下で淡く煌めいていた。
ローガンは、そんな彼女の小さな反応を見逃さなかった。
「少しは落ち着いたか?」
そう問いかけられ、アメリアは微かに頷いた。
「……ええ。ありがとうございます。さっきより、だいぶマシになりました」
「何よりだ」
短く、けれど深く頷いたローガンは、アメリアを見つめたまま少し言葉を探すように間を置いた。
「明日、俺は客席の近くで見守っている。壇上から何か異変を感じたり、不穏な動きを見かけたら、すぐに俺に合図してくれ」
「はい、必ず」
その言葉に、アメリアは胸の奥から湧き上がる安心感を感じながら、はっきりと答えた。
「何も起こらないのが一番ですけど……でも、そう言ってくださるだけで、心強いです」
「万一に備えるのが、俺の役目だからな」
彼は軽く口元をほころばせると、そっとアメリアの手を引いた。
「もう遅い。今日は休もう」
「はい」
素直に頷いたアメリアは、ローガンに手を引かれるまま、ベランダから室内へと歩を進める。
背後では夜風がカーテンを揺らし、外の灯りが静かにまたたいていた。
部屋に戻ると、ローガンがそっと扉を閉めた。
静寂がまたふたりを包み、あの夜空の広がりも、街の灯りも、遠い夢のように感じられた。
アメリアの胸にあった高鳴りは、少しだけ、落ち着いていた。
◇◇◇
「アメリア・へルンベルク、壇上へ」
司会者の張りのある声が、静まりかえった講堂に響き渡った。
その瞬間、場内にざわりとさざ波のような空気が走る。
視線が一斉に、一人の少女に集まった。
少女──アメリアは小さく息を吸い、胸元でそっと両手を重ねて立ち上がる。
(……いよいよ、この時が来たのね)
自分の鼓動が、耳の奥でやけに大きく鳴っているのがわかる。
深く一礼しながら、わずかに震える足を前へと踏み出す。
壇上までのほんの十数歩が、今にも足を止めたくなるほど長く感じられた。
壇上に上がった瞬間、視界が一気に開ける。
大講堂全体に設置された椅子は人で埋まっていた。
その多くはカイド大学に所属する研究者のもの。
誰もが、壇上のアメリアに鋭く、重たい視線を注いでいる。
(ううぅ……わかってはいたけど、すごい重圧……)
一瞬、足から力が抜けて倒れそうになる。
しかし最前列にローガンの姿を見つけて、少しだけ緊張が和らいだ。
彼はまっすぐにアメリアを見つめている。
瞳には不安が混じりつつも、静かな信頼と誇らしさが宿っていた。
その隣にはウィリアム。
やや姿勢を崩しつつも、ローガンと違ってウィリアムは見てわかるほどハラハラしているように見えた。
(ローガン様も、ウィリアム様も見ていてくれる……)
顔見知り二人の姿を確認して、アメリアはそっと息を整えた。
壇上中央の調合台へと進み、正面を向いて静かに立つ。
光の差し込む講堂は、聴衆の気配と熱気を内に孕みながらも、いっそ神殿のような静寂に包まれていた。
調合のための器具の並ぶ机、張りつめた視線の嵐、未知の環境。
不安がないと言えば嘘になる。
けれどもう、後戻りできない。
(大丈夫、きっと出来るわ)
彼女はまっすぐに前を見据え、背筋を正した。
「ではこれより、紅死病の新薬調合に関する特別実演会を開始いたします」
司会者が会の開始を告げる声が、淡々とした音色で響いた。
「本日は、アメリア嬢よりご報告いただいた植物三種──イルリアン、タコピー、そしてスーランを本学にて揃えております。調合対象の素材は、全て公平性を期すため、学術監査局の監修のもと、同一の生育環境下にて採取・保管されたものです」
場内が、ぴんと張りつめる。
「今回の実演会では、アメリア嬢ご自身の手で薬を調合していただき、その場で効果を証明していただきます。調合された薬は、あらかじめ待機している紅死病の軽度患者に服用していただき、一定時間内に回復傾向が見られた場合、効果ありと認定いたします」
その言葉に、会場のあちこちで筆記音が走る。
医師や研究者たちが記録を取りながら、じっと壇上の様子を観察していた。
「なお、公正性の担保のため、調合が完了し、投与されるまでの間は、調合者であるアメリア様は壇上から一切降壇できません。万が一、壇上を離れた場合は実演の継続権を失い、無効といたします」
会場内に、いっそう緊張が走る。
「また、調合の過程は全て筆記で記録され、後日、学会及び王国医療局にて正式な検証対象とされます。使用される器具についても、全て事前に精査・洗浄済みであります」
司会者の口調には、一切の揺らぎがない。
この場に集う者たちに対する、徹底的な透明性と信頼性の提示でもあった。
アメリアは静かに頷くと、調合台に目を落とした。
そして、深く息を吸い込む。
(いつも通り……いつも通りよ……)
と、自分に言い聞かせた。
「まもなく、紅死病の患者と、調合に必要な薬草が搬入されます」
司会者の声が壇上に響いた瞬間、扉が静かに開く。
二人の補助員が、白布をかけた担架を押しながら壇上へと姿を現した。
担架に横たわる青年の顔色は、まるで蝋細工のように白く、血の気がまるで感じられない。
唇は紫がかり、乾いてひび割れていた。
額からは玉のような汗が浮かび、胸の上下は早く、浅い。
うわごとのような声をかすかに漏らしているが、その内容は判然とせず、意識はもうろうとしているようだった。
そして──彼の首筋から襟元にかけて、うっすらと浮かんだ赤い斑点。
紅死病に特徴的な症状であり、病が進行している証だった。
(紅死病の中期、まだ回復が望める状態ね……)
アメリアはそう判断して、そっと安堵をする。
自分の薬を証明したいという気持ちがあったが、何よりも今目の前で苦しんでいる青年を助けたいという思いが強くなった。
薬草と器具の搬入を終えた補助員たちが下がり、調合の準備が整ったことを告げる軽い礼をする。
「ありがとうございます」
アメリアも礼を返すと、補助員は気持ち不思議そうな顔をして退場していった。
アメリアは慎重に調合器具の確認を済ませ、次に薬草が納められた木箱に手を伸ばす。
束ねられた薬草の札を順に確認していき、最後に──スーランと記された束を手に取った。
「……あれ?」
小さな声が、反射的に漏れた。
目の前にあるそれは、確かにスーランの名札がつけられていた。
けれど、その葉の色が淡すぎる。
縁の鋸歯は浅く、葉脈の分岐も甘い。
顔を近づけると、スーラン特有の清涼感を伴う香りは微かにしか感じられず、代わりに甘く鈍い芳香が鼻腔をかすめた。
(違う! これ、スーランじゃない……!!)
「アメリア嬢、何か質問はありますか?」
実演前の最後の質問に、アメリアは頷き、司会者のもとへ歩み寄った。何かの間違いかもしれないと、会場には聞こえぬよう、声量を抑えつつも、明瞭な口調で告げる。
「この植物、スーランと表記されていますが、実際はハーヴェルです。酷似種ではありますが、薬効はまったく異なり、このままでは調合が不可能です」
司会者は一瞬、目を伏せて書類に視線を落とすと、淡々とした口調で応じた。
「植物の手配は、事前に提出された調合リストに基づいております。記載名に誤りはなく、見た目も確認済みです。交換の対応はいたしかねます」
「ですが……」
「ルールはルールですので」
わずかに声を強め、司会者は彼女の言葉をさえぎった。
毅然とした拒絶に、アメリアは思わず目を細めた。
その肩にある刺繍が、ふと視界に入る。
黒の制服の左肩──そこに織られていたのは、薬壺と、銀糸で円を描く環状の紋。
(この紋章……)
昨晩、ウィリアムが口にした言葉が脳裏をよぎる。
──保守派の連中です。王立薬草研究会の古い派閥、紅死病に関しても、伝統的な治療法を重んじている奴らですよ。
すり替えられていた。
新薬の効果を証明させないために。
その事実が、アメリアの胸にずんとのしかかった。
保守派の意図的な妨害。
「……わかりました」
ここで騒ぎ立てる事も出来ず、アメリアは調合台へと戻ったが、先ほどまでの冷静さは揺らぎを見せ始めていた。喉の奥がひりつくように乾いている。
足元がじわじわと冷え、呼吸も浅くなる。
(どうすればいいの……)
額に汗が滲むのを感じながらも、顔は上げたまま、震えを見せないよう努める。
そして、司会者の声が無慈悲に響き渡る。
「それでは、調合を開始してください」
その言葉に、アメリアの背筋がびくりと強張った。
それでも、時間は待ってくれない。
彼女は震える指先を抑えながら、もう一度植物を確認した。
イルリアン、タコピー。
スーラン以外の素材は、本来通りの品質だった。
アメリアはそれらをゆっくりと精製器具へ投入し、手を動かす。
あえて調合速度を落としながら、必死に思考を巡らせる。
(どうしよう、どうしよう……)
どう考えても、このままでは完成しない。ハーヴェルでは効能が足りない。
患者を救うどころか、副作用すら起こしかねない。
だが、ここで延期を申し出れば、今日を境に変わるはずだった流れが、すべて頓挫する可能性がある。紅死病に苦しむ人々の希望が、また遠のいてしまう。
それに……。
ちらりと、担架に乗せられた青年を見遣る。
今ここで紅死病の薬を飲ませないと、一刻の猶予を争う事態になる。
(でも……このままじゃ……)
ふと昨晩のことが脳裏に蘇る。
──壇上から何か異変を感じたり、不穏な動きを見かけたら、すぐに俺に合図してくれ。
ローガンの低く、静かな声。あのときの、まっすぐな眼差し。
(助けを呼ぶ……?)
逡巡する。
呼びかけるべきか、否か。その葛藤の中で、アメリアの視線が、講堂の壁際へと彷徨った。
そこで、彼女の目がある一点に吸い寄せられる。
壇上の背後、装飾用として配置された鉢植えたち。
その中に、鮮やかな淡紫の縁取りを持つ、白い小花が混じっているのを見つけた。
葉の縁には、細かな鋸歯。
(……セントグリナ!)
昨日の前夜祭。 保守派の学者に知識比べを挑まれたあの時。
アメリアは、その植物を目にしていた。
──あれは《オーリクス》ではありません。葉縁には細かな切れ込みがあり、花弁には淡い紫の縁取りが見られました。これは《セントグリナ》の特徴です。
──また薬効分類としては、スーランと同系統ですね。おそらく、明日はスーランを使った実演会ということで、会場側がチョイスしたのだと思います。
そう語った自分の声が、記憶の奥から甦る。
(あれなら……!!)
アメリアは迷わなかった。 顔を上げ、客席に向かって大きく叫んだ。
「ローガン様!!」
その声に、ローガンがすぐさま反応する。視線がぶつかる。
壇上のアメリアの目が、不安と決意を湛えて必死に訴えていた。
彼は瞬時に悟った、これは、ただごとではないと。
アメリアは一拍の間も置かず、叫ぶ。
「壇上後方の装飾花──セントグリナです! ほんの少し、花弁を数枚で構いません! 持ってきてください!」
ローガンの脳裏に、昨晩の宴の場が、ありありと蘇る。
『一度見たものを決して忘れない』彼の異能は、その植物の特徴と昨晩の出来事を正確に記憶していた。
「……!! わかった!」
椅子を押しのけ、ローガンはすぐに立ち上がった。
黒の礼服の裾が舞い、まるで風を切るように会場の端へと走り出す。
ざわ……ざわざわ……。
会場が揺れる。
聴衆たちの間で、何が起きたのかと不穏なささやきが広がっていく。
重厚な講堂の静寂は破られ、思いも寄らぬ展開に、視線が次々と壇上へと向けられた。
最前列に座るウィリアムも、眉を寄せて立ち上がりかけた。
彼にしては珍しく、表情にあからさまな不安の色が浮かんでいる。
隣にいたローガンの突然の行動も、アメリアの叫びも予想の外だったのだろう。
「アメリア嬢、何を……!?」
司会者の声が壇上に響く。
困惑と戸惑いを隠しきれない口調だった。
彼の目は、会場端のローガンを見て見開かれていた。
鉢植えの中から必要な花を見極め、丁寧に素早く切り取っていた。
そしてわずか十秒ほどで壇上へと戻る。
「これで良いか?」
「ありがとうございます……!! それでだいじょう……」
アメリアの前に差し出されたそれを、司会が慌てて制止しようとする。
「だ、ダメです! それは規則違反です、事前に申請されていない素材を用いることは!」
しかし、アメリアは一歩、前へと出た。
その目に宿る決意が、先ほどとはまるで違っていた。
「新しい調合レシピを思いつきました!」
その一言が、さらに会場の空気を揺らす。
驚き、動揺、そして好奇の入り混じった視線が、壇上に注がれる。
アメリアは胸の内の葛藤を振り払い、声を張った。
「スーランが使えないなら、薬効成分が同系統のセントグリナを使えばいいことに気付きました! セントグリナの主要成分は、スーランとほぼ同様の作用を持ちます。同量では効果は落ちますが、濃縮抽出をかければ、十分代用可能なはずです!」
彼女の目が真っ直ぐに司会を捉える。
会場はざわついたままだ。
まさか、実演会用の植物がすり替えられて使えないとはほとんどの来場者が気づいてないだろう。
「お願いです。試させてください。彼は、助かる可能性があるんです!」
アメリアが、苦しそうに息を漏らす青年を指して言う。
それでも司会は躊躇したままだ。
手にした書類を見返し、唇を震わせながら絞り出すように言う。
「しかし……規則では……そのような……」
その時だった。
「──良いじゃないか」
重々しい、しかしどこか温かみを帯びた声が、講堂に反響した。
ざわついていた空間が、一瞬にして静まり返る。
声の主は、最前列の中央にいた初老の男性──カイド大学学長、ハルディスだった。
白髪混じりの髭に、深い皺を刻んだ額。
だがその目は、底の見えない知性を湛えており、柔らかな笑みとともに、アメリアを見つめていた。
「時として、ルールよりも尊重されるべきものがあります」
学長の声は穏やかだが、一語一語が講堂全体を貫くように力強かった。
「重要なのは、誰がこの場で命を救える可能性を持っているか。それだけです」
司会者が何かを言いかけたが、学長は手を挙げて制した。
「この場が、紅死病という苦しみに立ち向かうために設けられたことを、どうか思い出していただきたい。目的を履き違えてはなりません」
静まり返っていた講堂が、次第にざわ……と再びざわめき出す。
ただし今度は反対ではなく、どこか賛同を含んだ空気だった。
誰もが視線を交わし、頷き合っている。
ハルディスは、最後にもう一度アメリアを見つめ、静かに頷いた。
「君の知識と勇気が、真実かどうか、この場で証明してごらんなさい」
アメリアは唇を震わせながらも、頷いた。
目元がかすかに潤んでいたが、そこにあるのはもう、恐れではなかった。
「ありがとうございます、学長……絶対に、証明してみせます」
彼女はローガンからセントグリナを受け取り、調合台の前に立つ。
(……この組み合わせなら、いける)
心を定めたアメリアは、深く息を吸い込み、肺の隅々まで澄んだ空気で満たしてから、まっすぐ前を見据える。
「調合を開始します」
静かに、しかし凛とした声が場内に響いた。
再びざわめきが起こるが、それは先ほどまでの混乱ではなく、注目と期待の色を帯びたものだった。
最前列のウィリアムは、固唾を呑んで彼女の一挙手一投足を見守っている。
ローガンはアメリアから少し離れた場所で、何かを噛み締めるように静かに彼女を見つめていた。
アメリアの手が動く。
セントグリナの花を選び取り、息をするように自然な手つきで、慎重に摘み取っていく。
淡い花弁が揺れ、葉の縁に刻まれた繊細な模様が一瞬、光を宿した。
石のすり鉢に花を置き、ゆっくりと力を込めてすり潰していく。
乾いた音が辺りに広がり、ほのかな香りが空気に溶けていく。
粉末となったそれを小瓶に移し、慎重に湯と合わせる。
熱を加えた器の上で、しずくがひとつ、またひとつ、淡く色を変えていく。
香りは次第に甘く、柔らかに壇上を満たしていった。
他のタコピー、イルリアンも同様の動作で調合を進めていった。
その様子は、まるで祈りを捧げるかのように静かで、息を呑むような集中がそこにあった。
誰一人、声を上げる者はいない。
会場に集う百人以上の視線が、たった一人の若き調合師の動きに吸い寄せられていた。
──さほどの時間は要さなかった。
「……完成です」
アメリアの声が響いたとき、調合台の上には琥珀色に輝く薬液が一匙、銀のスプーンに満たされていた。
司会はしばらく口を噤んでいたが、やがて硬い声で言う。
「……では、患者に服用させてください」
補助員のひとりが進み出る。 担架に横たわる青年の口元にスプーンが近づけられ、震える唇が薬液を受け取る。
静寂。会場の空気が止まったように感じられた。
数秒後、青年の荒かった呼吸が、すうっと整い始めた。
熱に浮かされていた額に浮かんでいた汗が次第に引き、紫がかっていた唇の色が、ほのかな血色を取り戻していく。
そして、青年の首元、襟の間から覗いていた肌に、わずかに赤く浮かんでいた紅死病特有の斑点が──ゆっくりと、しかし確実に薄れていった。
「治癒反応……出ています!」
誰かが叫んだ。
次の瞬間、どこからともなく拍手が湧き起こり、それは講堂全体へと波のように広がっていく。
席を立つ者、震える手で口元を押さえる者もいる。
まるで、沈みかけた船が再び浮上するのを見たような、そんな空気が講堂全体を満たしていた。
「良かっ、た……」
熱狂が包み込む中で、アメリアはつぶやく。
そんなアメリアの肩に、ローガンがそっと手を置いた。
「よくやった」
その静かな声には、誰よりも深い誇りと安堵が込められていた。
瞬間、張り詰めていた気力の糸が切れたように緩む。
「あ……」
アメリアの膝が、ふらりと崩れかけた。
彼女が倒れるより早く、ローガンがその腰をしっかりと支える。
「無理もない……緊張しっぱなしだったろう」
「ええ……本当に……」
ローガンの腕の中で、アメリアはぐったりと身を預けた。
だがその顔には、微笑みが浮かんでいた。
恐れも不安ももうない。
やり遂げたのだという実感がアメリアの胸を満たしていた。
観衆の熱気が残る壇上で、アメリアはローガンの腕に支えられたまま、わずかに息を整えている。
その傍らへ、ウィリアムが小走りに駆け寄ってきた。
「アメリア様、大丈夫ですか? いったい、何があったのです?」
問いかける声には、心配と戸惑いが滲んでいた。 アメリアはこくりと頷き、額の汗を拭いながら、静かに口を開いた。
「調合台に用意されていたスーランが、ハーヴェルにすり替えられていたんです。薬効が違いすぎて、あれでは調合に使えません。命に関わるものなのに……」
「なんですって……?」
ウィリアムの表情が凍りつく。
彼はすぐさま調合台の傍へと向かい、使用されなかった材料の入った箱を覗き込む。
そこには、スーランと酷似した外見を持つが、わずかに葉の形状が異なる植物が整然と並べられていた。
その場にしゃがみ込んだウィリアムは、一枚の葉を摘み取り微かに眉を寄せている。
そんなウィリアムの傍ら、ローガンが低く唸る。
「いったい誰が、こんなことを……」
その瞬間だった。
朗々とした声が、場の空気を裂いた。
「いやあ、すごかったな!」
弾むような足取りで現れたのは、ウィリアムの同僚、リードだった。
白衣に身を包み、飄々と笑みを浮かべながら近づいてくる。
「この場で新しい新薬のレシピを編み出すなんて、さすがは天才アメリア様。いやはや、俺には到底真似できないなあ」
言葉とは裏腹に、その笑みはどこか芝居がかっていた。
リードは軽く手を伸ばし、アメリアの肩に触れようとした──その時。
パシン、と乾いた音が響く。
「……今、何をしようとした?」
間に割って入ったローガンが、素早くリードの手首を掴んでいた。
ローガンが強引に開かせたリードの手のひらから──ぽろりと、小さな小瓶が覗く。 中には、わずか数滴、無色の液体。
「それは……」
ウィリアムの表情が、目に見えて険しくなった。
「おっと、驚かせてしまったかな? ただ、労いの気持ちを伝えたかっただけだよ」
「その小瓶はなんですか?」
「ああ、これは……」
「当ててみましょうか?」
ウィリアムらしからぬ低い声。
「セレニア抽出毒。触れるだけで皮膚から吸収される遅効性の毒です。初期症状はほとんどなく、数時間後に心臓に負荷を与えて死に至る」
「毒だと……!?」
ローガンが声を上げる。
アメリアの心臓もひやりと冷たくなった。
もし、あの小瓶から少しでも液体が漏れて皮膚に触れていたら……。
「貴様、ふざけているのか!?」
鋭く睨みつけながらリードに詰め寄ろうとするローガンの肩に、ウィリアムが手を置いた。
「お待ちを、ローガン様」
彼は視線を逸らさず、静かに言う。
「──知の蔵に潜む闇は、光の灯火の足元にある」
リードの目をまっすぐ見て、ウィリアムは言う。
「思えば、当たり前のことでした。アメリア様の調合スキルを知っているかつ、彼女の父親を囮に使って誘き寄せる……つまり、家族関係や貴族界の内情に通じていなければ出来ない芸当を持つもの」
ウィリアムの目が、リードをまっすぐに射抜く。
「……黒幕は、あなたですね。リード」
その場に、静寂が落ちた。
リードは、わずかに目を見開いた後、短く鼻で笑った。
「……はは、何言ってんだよ」
両掌を上に向ける、やれやれのジェスチャーをしてリードは言う。
「俺が犯人だなんて。ずいぶんと冗談が過ぎるんじゃないか?」
リードは肩を揺らして笑ったが、その笑いにはどこか無理があった。
口元には笑みを浮かべていても、その瞳は明らかに揺れている。
(この方が……黒幕……?)
展開についていけないアメリアはその様子をじっと見守るしかない。
沈黙の中で、ウィリアムが調合台へ歩を進めた。
騒然としていた会場が、彼のその動きひとつで張りつめた空気に包まれる。
ウィリアムは迷いなく、薬具の中から一本の銀製の薬匙を手に取ると、リードに見せた。
「この器具、あなたのものですよね?」
──指で持ち手を擦る癖、治さないんですか?
──それしないと、落ち着かなくてね……真っ二つにる誰かさんよりマシだと思ってるよ。
以前、研究室でウィリアムと交わした言葉をもいだしながら、ウィリアムは淡々と説明する。
「持ち手のこの部分、擦り減っています。薬匙を握るとき、親指で位置を確かめるあなたの癖ですね。以前、あなたが僕に貸してくれた器具にも、同じ擦れ後がありました」
リードの表情が微かに引きつったのを、アメリアはしっかりと見た。
「今回の実演会の準備は、あなたの担当ではなかったはずです。なのに、なぜ……」
「いいや、知らないね。そんなもの、見覚えがない」
そう答えるリードの声は、どこか乾いていた。
昨晩の軽やかさは、そこにはなかった。
ウィリアムは冷静な声音のまま、さらに言葉を重ねた。
「おっちょこちょいのあなたのことです。植物をすり替える際、何かしら不備が生じたのでしょう。たとえば器具の一つを壊してしまって、予備がないことに気づいた。焦って手近にあった自分の私物と入れ替えた──違いますか?」
場の空気が張りつめる。
沈黙が押し寄せ、息を呑むような静けさが広がった。
リードはウィリアムを睨みつけた。
その目に、もはや演技の余地はなかった。
「しつこいぞ、ウィリアム」
低く吐き捨てるようなその声には、明確な怒気が込められていた。
もはや愛想も取り繕う気もない、剥き出しの苛立ち。
「第一、俺がアメリア嬢を葬ろうとする動機がどこにある! こんな茶番で人を貶めようとするなら、決定的な証拠を出してみろ!」「証拠なら、あなたが所持していた小瓶で十分だと思いますが……」
ウィリアムは少しだけ首を傾げてから、静かに言った。
その時だった。
「見苦しいぞ、リード」
低く、威厳に満ちた声が場の空気を断ち切った。
壇上に、強い存在感とともに一人の男が姿を現す。黒曜石のような光沢を放つ軍服に身を包み、冷厳な光を湛えた双眸は、一瞥で人を射抜くほどの鋭さを持っていた。
背筋をぴんと伸ばしたその佇まいには、一切の隙がない。
まるで、軍勢を率いる将のように。
いや、まるで、ではない。
彼はまさしく、軍を率いる男だった。
「……クロード、様?」
困惑を含んだアメリアの声が漏れる。
クロード・へルンベルク。
その名が口に出されずとも、場の誰もが彼の正体を理解した。
ローガンの兄にして、帝国屈指の軍人
リードの顔から、一瞬で血の気が引いたのが見えた。
先ほどまで何処か余裕を見せていたリードが、今や完全に蒼白になっている。
その様子に、ローガンも驚愕を隠さず声を上げた。
「兄上……なぜここに?」
だがクロードは、弟に視線を向けることなく、ゆっくりと壇上を歩く。
彼の足取りに、誰もが無言で道を開けた。
「借りは作らない主義でな」
そう言って、クロードはぴたりと足を止め、真っ直ぐにアメリアを見た。
「こ、こんにちは……」
アメリアは慌ててぺこりと頭を下げた。
クロードは会釈すらせず……しかしその口元をほんの僅かに緩めてから……視線をローガンとウィリアムへと移して言った。
「ザザユリを用いた紅死病の特効薬。それを……」
クロードの指がリードへと向く。
「先日までそいつと裏で取引していた」
「なんですって……!?」
ウィリアムの声が裏返る。
目を見開いた彼は、信じたくないものを見るようにリードを振り返った。
「リード……薬を横流ししていたのですか!? 私的な流用など、重罪では済まされませんよ!?」
ウィリアムの剣幕にリードは一歩退きながらも口を開く。
「な、なに勝手なこと言ってんだ!? 第一、俺はお前を知らない! 全部でっち上げだ!」
必死の弁明。だが、その声音にはすでに焦りが滲んでいた。
彼を責め立てるように冷ややかに変わっていく。
クロードはそんなリードを一瞥しただけで、冷ややかに言い放った。
「なら、ラスハルの軍医部隊が保管している、お前から渡された薬瓶の殻を見せてやろう。瓶底には、王国の医学研究局の刻印とともに、“お前が検査責任者として登録された個体番号”が彫られている。検査記録も保存されてるんだろう? 言い逃れはできん」
「……っ……!」
瞬間、リードの膝が崩れた。
両手で顔を覆った彼の姿は、もはやあの飄々とした男の面影を残していなかった。
直後、職員たちが素早く動いた。
「リード・ブランシェ、あなたを背任と殺人未遂の容疑で拘束します」
冷徹な声とともに、二人の職員がリードの両腕を押さえ、抵抗の隙を与えぬまま拘束具をかける。
彼は呻き声を漏らしながらも、もはや抗う力はなかった。
腕を捕まれ、うつむいたまま引き起こされるその姿は、悲惨なまでに小さく見えた。
アメリアは、その光景を呆然と見つめていた。
横顔を彩る蒼白さは、怒りでもなく驚きでもなく、ただ打つ手を失った者の色だった。
隣ではウィリアムが唇を噛みしめ、拳を強く握りしめていた。
その手の甲には、白く浮き上がった血管が走り、爪が掌に食い込むほど力がこもっている。
「……どうして……どうしてこんなことを……!」
その問いに、沈黙していたリードが、ゆっくりと顔を上げた。
「……決まってるだろ」
もうどうにでもなれとばかりに、リードは言い放つ。
「金だよ」
乾いた声だった。笑いすら混じるその口調に、皮肉が混ざっていた。
「紅死病の薬にはな……王国中の権力者が群がってる。研究予算、特許、供給ルート、原料の栽培利権。どれもが一枚噛んでる。……そんな中で、お前らがやってるような安価な新薬が完成して流通したら──それら全部が吹き飛ぶ」
彼は苦笑した。
「新薬さえ、開発されなければよかった。今まで通り、金が巡って問題なかったんだ! それの何が悪い!」
その瞬間だった。
ぱんっ──と、乾いた音が講堂に鋭く響き渡る。
リードの頬が大きく弾け飛ぶように揺れ、彼の顔が思わず横を向く。
わずかに遅れて、その場にいた誰もが目を見張った。
アメリアが、右手を大きく振り抜いていた。
その細い肩が震えている。
唇は怒りにきつく結ばれ、瞳は濡れたように潤みながらも、烈火のような光を宿していた。
「人の命を、なんだと思ってるんですか……!」
震える声が、絞り出されるようにして吐き出される。
リードは顔を押さえもせず、ただ呆然としたまま、アメリアを見つめ返していた。
「お金なんかが命より重いと、本気で思ってるんですか……?」
一歩、アメリアが前に出る。
その足取りは決して揺るがず、怒りに突き動かされるようだった。
「あなたも……誰かを救いたくて、研究者になったんじゃなかったんですか!?」
その言葉に、リードの瞳がわずかに揺れる。
アメリアの声は、徐々に熱を帯びていく。
「紅死病に苦しんでる人たちは、あなたの私欲のために、苦しみ続けろと? 新しい薬を待つ間に、死ねと? それがあなたの研究者の矜持なんですか!?」
その怒りは、ただの激情ではなかった。
命を大切に想う者としての、魂の叫びだった。
リードは、目を逸らしていた。
アメリアの言葉を正面から受け止められず、ただ俯いて、沈黙していた。
そんな彼女の姿を、ローガンは黙って見つめていた。
怒りに頬を紅潮させ、瞳を潤ませながら、なおも誰かの命を思って声を上げるその姿を。
「アメリア……」
その名を呼ぶ声は、ごく低く、優しかった。
アメリアの言葉を受けて、リードは俯いたまま、わずかに口を開いた。
「……まあ、昔は、確かに……そうだったよ」
その声は、かすれていた。
まるで、過去の自分を自嘲するかのように。
「でもな……現実は甘くない。薬一つで世界が救えるなんて、そんな理想だけで研究者をやっていけるほど、この国の仕組みは優しくないんだ……生き残るには、長いものに巻かれるしかない」
言い訳のようで、どこか悔恨のようでもあった。
彼の声が消えた直後、二人の職員が言う。
「連行します」
静かな声と共に、リードは無言のまま引き立てられていった。
足元はふらつき、先ほどまでの姿は、もうどこにもなかった。
場内が再び静まり返る。
その沈黙を破ったのは、新たに現れた二人の男だった。
男はクロードの前に立ち止まる。
揃いの制服、胸元に王国紋章の刺繍。
大学の機関の出で立ちではない、軍人の装いだった。
「クロード・へルンベルク様ですね。紅死病の特効薬に関する裏取引の件について、王都保安局より正式な要請です。いくつかお話を伺いたい。恐れ入りますが、ご同行いただけますか」
一切の猶予を与えぬ調子で告げる二人の男。
「兄上……」
と、ローガンが小さく漏らす。
動揺は隠しきれない。
一方のクロードはわずかに顎を上げ、涼やかな声音で答えた。
「心配するな。少しばかり休暇だ。すぐに戦場に戻る」
彼はローガンへとちらりと目をやり、次いでアメリアへも一瞥を送った。
その視線には、言葉では伝えきれぬ何かが込められていた。
そして彼は、一歩、また一歩と迷いなく歩き出す。
その足取りは一切揺るがない。
まるで、己が選んだ道をただまっすぐに進んでいるだけのように。
堂々と、クロード・へルンベルクはホールを後にする。
その姿は、どこか晴れやかで、呪縛から解き放たれた者のようでもあった。
◇◇◇
木漏れ日の差し込む午後、大学の最上階。
重厚な扉を抜けた先にある学長室は、静けさと荘厳さを併せ持っていた。
壁には歴代学長の肖像画が並び、高い天井には緻密な装飾が施されている。
部屋の中心に据えられた広い机の向こうで、ハルディスが椅子に深く腰を下ろし、重々しい視線を二人に向けていた。
ローガンとアメリアは、整えられた革張りの椅子に並んで座っている。
アメリアは背筋を伸ばしつつも、緊張した面持ちを隠しきれずにいた。
ローガンは彼女の隣で静かに腕を組み、様子を見守っている。
ハルディスは一拍の間を置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「……まずは、二人には感謝してもし尽くせない。あの場での君たちの対応がなければ、我々の名誉も、紅死病に苦しむ多くの患者たちの希望も、闇に葬られていたところだった」
その言葉に、アメリアは控えめに頭を下げた。
「いえ……私一人では到底……ローガン様や、皆様のおかげです」
隣のローガンが、小さく首を振ったのが視界の端に映る。
ハルディスは軽く頷き、手元の書類に視線を落とすと、改めて語り始めた。
「アメリア嬢が開発した紅死病の新薬は、すでに認可が下りた。スーランを用いたレシピも、そしてあの緊急時に調合されたセントグリナの代替レシピも、正式に薬事委員会に受理され、速やかに製造準備に入っている。各地の療養所には、まずは優先的に試験投与が行われる予定だ」
アメリアの喉が小さく鳴った。
手のひらが膝の上でぎゅっと握られる。
「……本当に、流通するんですね……? あの薬が……」
「間違いないとも。君の新薬は、これから多くの命を救うことになる。誇っていいことだ」
その言葉に、アメリアの胸がじんわりと熱くなるのを感じた。
ようやく。ようやく、届くのだ。
あの薬が、紅死病に苦しんでいる人たちのもとへ。
ハルディスはわずかに表情を引き締めると、続けた。
「一方で、今回の事件についても、調査は続行中だ。リード・ブランシェ は現在、王都の中央拘置所に拘束されている。調合台のすり替え、毒物の所持、そして殺人未遂の容疑で取り調べが行われている最中だ。だが、彼一人で動いたとは考えにくい」
重苦しい空気が、部屋に流れる。
「彼の背後に誰がいたのか。何の目的で薬の実演を妨害しようとしたのか……大学内外を含め、我々はあらゆる可能性を視野に入れて動いている。中でも、今回の紅死病新薬の利権や、保守派の影響がどこまで及んでいたのかが、鍵になるだろう」
その言葉に、ローガンが低く唸るように続けた。
「利権のために人命が犠牲にされるなど、断じてあってはならない……俺の方でも、調査を継続させます。公爵貴族として、黙って見過ごすつもりはありません」
「頼もしいですね……この件に関しては、我々が一枚岩となる必要がある。二人の働きは、既に学会にも王宮にも大きな衝撃を与えている。だが……真に意味があるのは、これからだ」
静かな間が落ちたあと、ハルディス学長はふう、とひとつ息を吐き重々しく立ち上がった。
重厚な机越しに歩み寄ると、年嵩の身を深く折って、頭を垂れる。
「……アメリア嬢。今回の件、我が学術機関の一員が関与していたことを、大学を代表して深く謝罪する。本来であれば、君がこのような危険にさらされることなど、絶対にあってはならなかった。我々の監督不行き届きだ」
その謝罪には、威厳ある学長としての言葉でありながらも、個人としての誠意と悔恨が滲んでいた。
アメリアは思わず椅子から立ち上がり、慌てて手を振る。
「と、とんでもありません! そんな……お気になさらないでください」
頬をわずかに紅潮させながら、彼女はまっすぐに言葉を返す。
「薬がちゃんと認められて、必要としている人のもとへ届く……それが叶っただけで、私はもう、十分ですから」
ハルディスはその瞳をじっと見つめ、穏やかに微笑んだ。
そして、少し表情を引き締めながら口元に手をやると、今度は別の話題を切り出した。
「それはそれとして……実は、君にひとつ提案があるんだが」
「……提案、ですか?」
アメリアが不思議そうに首を傾げると、ハルディスは机に戻りながら、書類の束を一つ取り上げた。
「リードが正式に懲戒免職となったことで、学内の植物薬学部門、とりわけ薬草分類と調合応用研究室のポストが、ひとつ空いてしまってね」
さらりと述べられたその言葉に、アメリアは耳を疑った。
「……と、言いますと?」
アメリアの目をじっと見据えて、ハルディスは言い放った。
「君の類まれなる薬草学の知見と、何よりその実行力は、今の我々にとってかけがえのないものだ。大学に属する研究者として、引き続き薬草の調査と応用研究にあたってもらえないか。もちろん、設備や助手、研究予算も用意する。条件面は……できる限り優遇するつもりだよ」
あまりの展開に、脳が処理しきれない。
言葉の意味を理解するまでに、数秒の間が必要だった。
そして。
「え、ええええええっっ!?」
アメリアの声が、学長室に響くのだった。