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第185話 和解

◇◇◇


 サトラの町の中心部にある、石造りの外観に囲まれた二階建ての洋館の一室。

 そこは、貴族御用達の個室サロンだった。


 天井が高く、深紅のカーテンに重厚な家具が配された空間。

 壁際には色とりどりの花が活けられた陶器の花瓶が並び、ほのかな香りが満ちている。

 広々とした部屋の中央には、艶やかな木目のローテーブルと、それを囲むように配置されたソファセット。 ローガンとアメリアは並んで腰をかけており、その正面には、黒髪を乱暴に後ろに流し、濃い軍務服の上に埃をまとわせた大柄な男──ローガンの兄、クロード・へルンベルクが座っている。


(クロード様……確か、戦場にいたはずでは……)


 あまりにも突然の登場だった。つい先日、ローガンがラスハル自治区への赴任を固辞した際、まだ現地にいると聞かされていたはずだ。


 それが今、目の前にいる。


 まるで嵐が扉を押し開けたような、そんな威圧感。

 つい先ほどまであった、噴水のきらめきと花の香りに包まれた穏やかな時間は、すでに過去のものとなりつつある。


 代わりに訪れたのは、ぴんと張り詰めた乾いた緊張感。


 場に立ちのぼったのは、互いに交わす言葉よりも重く、澱のように沈んだ空気だった。


「クロード、元気にしていたかしら?」


 どこか弾んだ声色でそう言ったのは、クロードの隣に座るセリーヌ。

 その声音には、ローガンに向ける時のような冷たさはなかった。


 むしろそこには、母親としての素直な懐かしさが、わずかに滲んでいた。


「まあまあってところだ、母上。この通り、泥まみれの戦場から飛んできて、今はやけに小綺麗なソファに座っている」


 そう口にしたクロードの声は、相変わらずの粗雑さを帯びていたが、アメリアの目には気になるものが映った。


 その頬は、以前よりもわずかに痩け、口元の影は心なしか濃くなっている。


 背筋は相変わらずまっすぐだったが、ほんの少しだけ、足取りに重さを感じた。


(お疲れ、なんですね……)


 戦地という過酷な環境に身を置いているからだろう。

 肌の色もどこか悪く、額に張り付く髪の隙間からは、薄く冷や汗が覗いていた。


「ローガン」


 名を呼ばれたローガンが顔を上げる。


「俺がここにいる理由はわかっているな?」

「夕食のお誘いですか?」

「馬鹿いえ」


 真面目な話だとばかりの一声で、空気がより一層沈む。

 兄弟の間に流れるのは、血の繋がりではなく、責任と誇りの重さだった。


「前線に来い、ローガン……お前の頭脳が必要だ」


 言い淀むような一瞬の間のあと、クロードは低く続けた。


「戦況は芳しくない。第三師団はすでに限界に近い。俺では持たない場面が増えてきた。……お前が必要なんだ」


 その言葉に、アメリアの心がざわめく。

 クロードがこうして王都に戻ってまで直談判するのは、単なる兄弟の情からではない。


 それほどまでに、戦場の状況は追い詰められているのだろう。

 だが、ローガンの返答は静かだった。


「……俺は、行けません」


 短く、しかし揺るがない声。


「婚約者を、置いていくことはできない」


 その一言に、アメリアは思わずローガンの顔を見上げた。

 真っすぐで、迷いのない横顔。


(ローガン様……)


 その言葉に込められた想いが、胸にじんと染みてくる。

 対するクロードの表情は、明らかに不満げだった。


 歪んだ口元。怒りというよりも、呆れを通り越して軽蔑すら滲むような目付きだった。


「貴様、女一人に骨抜きか?」


 冷たい声が、まるで刃のように空気を裂く。


 嘲りを隠そうともしないクロードの言葉に、アメリアの背筋がぴくりと震えた。


「社交界で暴虐公爵、冷酷無慈悲とまで恐れられたお前が、今では政務も軍務もそこそこに、女の手を引いてダンスでもしているのか……堕ちたものだな」


 肩が強張り、胸がきゅっと縮こまる。

 表情を崩すまいと、アメリアは懸命に唇を噛んだ。


(そこまで言わなくても……)


 声に出そうになるのを、ぎゅっと奥歯を噛みしめて耐えた。


 これはローガンとクロードの問題で、自分が口を挟む余地などないのは重々自覚している。


 ふと、隣に立つローガンに目をやる。


 その表情はいつも通り、感情を抑えた静かな仮面だったが、クロードを真っ直ぐ見据えたまま口を開いた。


「……なんとでも言えばいい。だが、俺は──アメリアを守ると、そばにいると決めた」


 静かに、それでいて刃のように鋭く、彼は言い切った。

 声を荒げるでもなく、感情的になることもなく、ただ揺るがぬ意志だけがそこにあった。


「俺は彼女に救われた。ただただ空虚だった日々を……彼女が満たしてくれたんだ」


 ローガンの指先が、そっとアメリアの手に触れる。

 彼は視線を逸らさず、クロードを見据えて言葉を続けた。


「俺は、アメリアのそばを離れない。だから、すまないが兄上の要望には応えられない」


 その場に、言葉を失ったような沈黙が訪れた。だがその沈黙を破ったのセリーヌだった。


「黙って聞いていたら……情けないことばかりね」


 冷ややかな声が、サロンに響く。


「兄の危機よりも女への情を優先するなんて……それでも、ヘルンベルクの名を継ぐつもりなの?」


 その声音は冷淡でいて、どこか非情さを滲ませていた。


 けれどそれは、ただの感情の吐露ではなかった。


 長年、家名と責任を背負ってきた者だからこその、痛みを孕んだ問いだった。

 アメリアの心に、また一つ、冷たい重石が落ちる。


 自分の存在が、ローガンの歩むべき道にとって重荷になっているのではないか──そんな思いが、喉奥で静かに疼いた。


(……この人は、ずっとこの名と、責任と一緒に生きてきたんだ)

 ローガンの背に宿る重みを思い、アメリアは唇をそっと引き結んだ。


「守る、ね……」


 クロードが嘲笑するように言う。


「何が言いたい?」

「この女が誘拐されたことすら防げなかったくせに」

「……っ」


 クロードの言葉が重くのしかかる。


 声音は低いのに、どこか鋭く、腹の奥に突き刺さる毒を持っていた。


「お前は、守るべきものを守れず、ただただ現状のぬるま湯に甘んじているだけだ。この腑抜けが」


 瞬間、アメリアの視界が滲むように歪んだ。

 あの夜、ハグルの実家で震えていた自分。


 暗闇と恐怖に押し潰されそうになりながらも、ローガンが駆けつけてくれた光景が、鮮明に蘇る。


(ローガン様は……あのとき、私を命懸けで守ってくれたのに)


 アメリアにとって大事な記憶を、こんな風にあしらわれることが、たまらなく悔しかった。

 アメリアの指が、震えたまま両手を握り締める。


 そのとき、隣にいたローガンの気配が、はっきりと変わった。


「言っていいことと、悪いことがある」


 静かな声だった。

 だがその響きには、ひやりと刃をなぞるような鋭さがあった。


 アメリアは思わず息を呑む。

 ローガンが立ち上がり、前に出る。


 凪いだ水面に小石が落ちたように、サロンの空気がきりりと張り詰めていく。

 対するクロードも立ち上がり、ローガンの前に立ち、微動だにせず視線を受け止めた。


 そしてその口元にわずかな皮肉を滲ませる。


「だったら黙らせてみろ」


 淡々とした声音のまま、クロードの足が地を蹴った。


 ――瞬間、空気が爆ぜた。


 大振りの腕がうねるような軌道で振るわれ、鋭い拳がローガンに向かって突き出される。


 アメリアの目に映ったのは、まるで弓を弾くような踏み込みからの、躊躇のない攻撃。


 ローガンの身体がぶれるように動いたかと思うと、鋭い拳を肩で受け止め、そのまま体をひねって勢いを殺す。


 重い打撃音が、サロンの床に鈍く響いた。


「反応速度だけは上等だな」


 クロードの目が細くなる。


「ローガン様!!」  


 アメリアが叫ぶ。手を伸ばしかけたその刹那。


「大丈夫だ!」


 ローガンが叫ぶように言い放った。


 その声に、アメリアの手が空中で止まる。

 いつもは冷静沈着で穏やかなローガンの声が、まるで戦場で指揮を執るかのように鋭く、怒気を孕んでいた。


 切羽詰まったその響きに、アメリアはごくりと喉を鳴らした。

 ふたりはそれ以上何も言葉を交わさず、無言のまま間合いを詰め合る。


 空気の密度が一気に高まり、緊張が走る。

 ふたりの間に走る殺気は鋭く、見守るアメリアの背筋にも冷たいものが走った。


 先に動いたのはクロードだった。

 地を蹴る踏み込みから繰り出される一撃は、壁を砕くほどの威力。


 しかしローガンは半身でそれを受け流し、即座に懐へ踏み込む。

 肘打ちはかわされ、足払いは蹴りで返される。


 互いの動きはまるで呼吸を読むように噛み合い、拳が風を裂き、足が石床を打つ音がサロンに響いた。


 アメリアは、そんな二人を見守ることしかできなかった。


「セリーヌ様! 止めないのですか!?」


 アメリアはセリーヌに助けを求めた。しかしセリーヌは、あくまで落ち着き払った様子で、用意されていたカップの紅茶に口をつけていた。


 香りを確かめるようにゆるく目を伏せ、一口、啜ってから言う。


「いつもの兄弟喧嘩よ」


 静かで、なんの波風も立てない声音だった。

 その余裕のある佇まいに、アメリアは言葉を失う。


 世の中にこんな兄弟喧嘩があるのかと絶句した。


「己の主張は力で奪い取れ──へルンベルク家の家訓のひとつよ」


 紅茶を啜りながら、セリーヌが何気なく告げたその言葉は、あまりにも当然のような口調だった。 


 だがアメリアの胸には、ずしりと重く響いた。


(そんな……)


 驚愕とともに、思わずセリーヌの横顔を見つめる。


 そこにあるのは気高さと冷静さ、そして一切の迷いを含まぬ強靭な意志だった。

 まるで、荒波の中で揺るがぬ灯台のように。


「ローガン様……」


 アメリアは、そっとローガンの名前を呟いた。


 声に出すことでしか、この胸に湧き上がる思いを受け止められない。

 ふたりの戦いは、もはや兄弟喧嘩と呼ぶには激しすぎた。


 クロードが踏み込む。


 躊躇いのない踏み込みから繰り出された拳が、空気を裂いてローガンに迫る。その軌道を読み切ったかのように、ローガンは一歩身を引き、ぎりぎりの間合いでそれをかわした。


「やるな」


 クロードの口元がわずかに吊り上がる。


 すぐさま体勢を立て直し、連撃を畳みかける。


 蹴り、打突、掌打。

 体重を乗せた打撃の一つ一つが、木造の床を震わせるほどの威力を帯びていた。


 しかしローガンもまた、それに応えるように無駄のない動きで応じる。


 捌く、いなす、そして返す。


 鋼と鋼がぶつかり合うような応酬が、屋敷の広間に張り詰めた空気を震わせていた。


 アメリアはただ、息をするのも忘れるようにふたりを見つめていた。


 ――だが、その時。


(あれ……?)


 アメリアの目が、ふとクロードの動きに違和感を覚えた。


(今の、呼吸……)


 肩が大きく上下し、息が乱れている。

 それだけではない。顔色が悪い。


 戦いの疲労だけでは説明のつかない、どこか病的な蒼白さ。


(まさか……)


 疑念が、アメリアの中に浮かぶ。

 そして、その刹那。


 ローガンの拳が、クロードの守りの隙間を突き、腹部に鋭く打ち込まれた。

 クロードの身体が揺れ、踏みとどまろうとした足元がぐらつく。


 さらに続けざまに、ローガンが体を翻し、低く踏み込んでから背負い投げのように動きを制した。


「ぐっ……」


 クロードが息を吐きながら、後方のソファへと倒れ込む。

 そして次の瞬間、ローガンの拳が、その喉元すれすれでぴたりと止まっていた。


 寸止め。


 だが、それは明確な“勝ち”を示すものであり、戦いの幕を引くものだった。


 静寂が、広間を包む。

 寸止めされた拳の先端から、目に見えない緊張の余波が波紋のように広がっていた。


 クロードは、ソファに押し倒されたまま天井を見上げ、わずかに口元を吊り上げる。


「……なるほど、少しは骨のある男になったか」


 息の中に、かすかな笑いと苦味が混じっていた。


 ローガンは拳を静かに下ろし、一歩下がる。その動作はまるで、兄への礼を尽くすように丁寧で――だが、どこか鋭い警戒の残滓を含んでいた。


 アメリアは、胸に手を当てたまま、何も言えずにその光景を見つめていた。


 勝った。それは確かだった。


 だが、彼女の視線はローガンではなく、いまだソファに体を預けたままのクロードへと向いていた。


「あら、珍しいわね」


 セリーヌが紅茶のカップを受け皿に戻しながら、小さく呟いた。


 紅茶の水面が、静かに波紋を描く。  


 その瞳には、わずかな驚きと、否応なく認めざるを得ない現実への苦味が浮かんでいた。


「現役の軍人に勝つとは。腕を上げたな、ローガン」


 低く笑うような声で、クロードがそう告げた。  


 ソファに体を預けながらも、彼の瞳は弟をしっかりと見据えている。


「兄上……」


 ローガンは拳を下ろし、ゆっくりと一歩近づいて言った。


「今すぐ、医者にかかりましょう」

「は?」


 クロードは眉をひそめ、面倒そうに顔を背けた。


「兄上、体調が優れないでしょう? 戦いながら、ずっと感じていました。呼吸も浅く、汗が異常に滲んでいて、動きも本来の兄上のものではなかった」


 ローガンの声には確信があった。


「くだらん……弟に心配されるほど落ちぶれてはいな……」


 クロードはそう言いながら、ゆっくりと身を起こそうとした。だが――


「っ……」


 その瞬間、足元がぐらついた。

 無理に踏み出した足が耐えきれず、バランスを失った体が傾ぐ。

 クロードの巨躯が、そのままソファの端から崩れ落ちるように倒れた。


「クロード!」

「兄上!」

「クロード様!」


 三人の声が、時を同じくして空間に響き渡った。

 ローガンが力強く兄の体を抱きとめる。


 その腕には焦りと不安がにじみ、いつもの冷静さなど一片もなかった。


「兄上! どうしたのですか!? 兄上、しっかりしてください!」


 その必死な叫びが、アメリアの胸を強く締めつけた。

 彼女も慌てて近づき、ローガンの傍に膝をつく。


 セリーヌもまた、驚愕と不安に満ちた面持ちになった。


「ああ……クロード……! なんてこと……っ」


 今まで毅然とした態度を崩さぬセリーヌの表情が、今は明らかに心配と焦燥に染まっていた。


「ちょっと見せてください……!」


 アメリアはすぐさまクロードの傍ににじり寄り、膝をついた。

 動揺の色を浮かべながらも、指先には迷いがない。


「な、何する気?」


 セリーヌが声を上げた。

 その声音には、明確な困惑と警戒が滲んでいた。


「クロード様の容態を見ています!」


 アメリアはきっぱりと返す。

 その瞳は真っすぐで、迷いなど一片もなかった。


「あなた、医者じゃないでしょう!? 何を勝手に――」

「任せてみてください」


 割って入るように、ローガンが言った。

 その声は低く、だが強く響く。


「アメリアには、知識があります。信じてください、母上」


 その一言に、セリーヌは息を詰まらせる。

 だが、ローガンの確信に満ちた横顔と、クロードに手を添えるアメリアの必死な姿を見て、反論の言葉を飲み込んだ。


 アメリアはクロードの額にそっと手を当てた。

 高熱。汗ばんだ肌。そして、乱れた呼吸。


(高熱に、荒い息遣い……)


 彼女の脳裏に、かつての記憶が蘇る。


 以前見た”あの病気”とあまりに酷似している。

 アメリアは震える指で、クロードの胸元に手をかけた。


「少しだけ……失礼しますね」


 戸惑いを隠しながらも、彼女はクロードの上着のボタンを外し、布地を丁寧にずらしていく。


 そして――。


「……っ!?」


 思わず息を呑んだ。

 彼の胸元から腹部にかけて、無数の赤い斑点が浮かび上がっていた。


 それはまるで、皮膚の下に滲み出た炎の痕のように、不規則に広がっている。


「やっぱり……紅死病……!!」


 アメリアの声が、かすれた悲鳴のように響いた。


◇◇◇


 クロードはすぎにサロンから屋敷へと移送することになった。

 護衛たちによって迅速に運び込まれたのは、重厚な白を基調とした寝具に囲まれた主寝室。

 豪奢なレースのカーテンは風もないのにそっと揺れ、どこか不穏な静けさを際立たせている。

 クロードは冷えたタオルを額にのせられ、重ねられた掛け布の下で浅く息をしていた。


 燭台の明かりが汗に濡れた頬や喉元を淡く照らし、そのたびに彼の異常な青白さが浮かび上がる。


「……発熱、痙攣、呼吸の浅さ。そして何と言っても赤い斑点……紅死病の典型的な症状です」

 アメリアは、静かにそう言った。


「やっぱりか。兄上はラスハルにいたから、感染したのだろうな」


 そんなやりとりをするアメリアとローガンに、セリーヌが訪ねる。


「ねえ、こうし……びょう? ってなんなの?」


 その問いに、ローガンが応じた。


「ここ最近、発症報告が相次いでいる未知の伝染病です。皮膚に紅斑が現れ、高熱、呼吸困難、そして……重篤化すれば命に関わる」


 その説明に、セリーヌの視線がふたたびクロードの胸元へと向く。

 赤い斑点──それが、紅死病の印だった。


「信じられない……クロードが、そんな……」

 小さく絞り出したその声には、これまで見せたことのない母としての脆さが滲んでいた。


 クロードの逞しい胸板が、小刻みに上下している。

 まるで、体の奥で火を吹く病魔が暴れ回っているかのようだった。


「これ、大丈夫なの……? 治るんでしょう?」


 冷静なはずのセリーヌの声はわずかに震えていた。


 クロードは荒い息を吐きながら、苦しげに喉を鳴らす。

 そしてゆっくりと首を横に振った。


「紅死病を罹ったら終わりだ……俺の部下も、何人もこれで……死んでいった」


 その言葉は、かつてないほど弱く、脆い響きを伴っていた。


 軍人としての誇りと無力感の狭間で揺れる彼の声に、セリーヌが「そんな……」と表情を歪める。


「で、でも、薬とかあるんじゃないの?」

「薬は、裏ルートで……仕入れてはいたんだがな……もう他の感染者に使ってしまった。一体、何のために、大金を払ってきたんだか……」


 クロードが自嘲するように笑う。

 その言葉に、ローガンの眉がぴくりと動いた。


「いいえ、大丈夫です」


 深刻そうなクロードの一方で、アメリアの声には焦りはない。


「きっと、治るので」


 アメリアは、震えを押し殺すようにして薬箱を開く。

 手際よく小瓶を選ぶその手には、焦りも迷いもなかった。


「あった、これね」


 アメリアは一つの小瓶を手にした。


 それはかつて、ライラの母・セラスの命を救うために調合した、紅死病の治療薬。

 まだ学会での正式認可は下りていない、紅死病の新薬だった。


「これを飲んでください」

「……毒じゃないだろうな?」

「違います! とにかく、飲んでみてください」


 クロードは疑わしげな目をしていたが、やがて薬を受け入れた。

 小瓶を受け取って、苦しげに喉を動かしながらも薬を飲み下す。


 ──効果はすぐに現れた。


 クロードの胸元に浮かんでいた赤黒い斑点が、ゆっくりと、確実に、薄れていった。


 皮膚の炎症が引いていく様はまるで幻のようで、見慣れた肌色が徐々に戻り始めている。

 呼吸も次第に整い、先ほどまで荒く波打っていた胸の動きが、穏やかになっていく。


「なっ……」


 今、自分の身に起こっていることが信じられないとばかりにクロードが目を見開く。

 数分前まで、死を覚悟していたのだ。


 自らの身体がここまであっさりと楽になるなど、到底受け入れきれないのだろう。

 それでも呼吸は安定し、苦しげだった眉間の皺も薄らいでいた。


「クロード……大丈夫なの……!?」


 セリーヌが思わず身を乗り出し、掠れるような声でそう問いかける。


「あ、ああ……かなり楽になった……」


 クロードの言葉に、セリーヌは胸を撫で下ろす。


「よかった……本当によかった……」


 そう呟く声は、先ほどまでの冷静さとは違い、母としての本音が滲んでいた。


(効いた……よかった……)


 アメリアは、ベッドの傍らでそっと息をつく。震えを隠すように、手を胸元で組みながら、ゆっくりと目を閉じた。


「やっぱりすごいな、君の薬は」

 穏やかな声が、アメリアの耳に届く。


 振り向くと、ローガンが感心したように頷いていた。

 その言葉に、アメリアはふわりと頬を染めた。

「いえいえ、とんでもないです。前に作った残りがあってよかったです……」


 照れ隠しのように視線を伏せながら、小さく言い添える。

 そのとき、クロードが少し身を起こし、息の合間に声を絞り出した。


「一体、何をしたんだ?」 


 彼の目には、まだ信じきれない色が残っていた。

 アメリアは姿勢を正し、丁寧に言葉を選びながら口を開いた。


「以前、紅死病に罹った方のために調合した薬があって……少しだけ、余っていたんです。それを……」

「作った!?」

 アメリアの説明が終わる前に、セリーヌが思わず声を上げていた。


「薬を、あなたが作ったって……どういうこと……?」

「実は、少々……植物採取と調合が趣味でして。自己流ではありますが、薬を作れるんです」

「全然少々じゃないけどな」


 ローガンの突っ込みをよそに、セリーヌの目がわずかに見開かれた。


「……じゃあ、まさか、昨日、私にくれた手首の薬も……」

「はい。あれも、私が調合したものです」


 アメリアが静かにそう答えると、セリーヌは目を瞬き、言葉を失った。

 彼女の瞳はわずかに揺れ、現実をうまく受け止められずにいるようだった。


 まさか、この少女が――何の肩書きも持たない、ただの婚約者だと思っていた彼女が。

 薬を、自らの手で生み出していたとはと。


 セリーヌは信じられない気持ちでいっぱいのようだった。

 そしてそれはクロードも同じ気持ちのようで。


「……嘘を……つくな……」


 病み上がりの声はかすれていたが、その響きにははっきりとした怒気が滲んでいた。

 クロードがゆっくりと顔を上げ、鋭くアメリアを見据える。


「お前みたいな……小娘に、そんなことができるはずがない」


 浅い呼吸の合間に、吐き捨てるように言葉を継ぐ。


「紅死病は、ただの病気じゃない。難病中の難病だ。俺の部下が……どれだけ死んだと思ってる」


 喉を震わせ、まるで自分自身に言い聞かせるかのように続けた。


「名医たちでも治せなかったんだぞ……それを、薬を作ったと言って……信じろと?」


 その言葉に、空気が張り詰める。疑いと怒り、そして失われた命への無念がない交ぜになったクロードの声に、アメリアが息を呑んだその時。


 扉の外から、控えめな「コンコン」というノックの音が響いた。

 アメリアがわずかに顔を上げると、扉の隙間から見慣れた声が柔らかく届く。


「失礼します。アメリア様、いらっしゃいますか? ウィリアム様が、お見えになっています」


 声の主は、侍女のシルフィだった。

 彼女はそっと扉を押し開きながら、一歩室内へと足を踏み入れ、顔をのぞかせる。


 そんなシルフィにクロードが鋭い声で言う。


「見ての通り、取り込み中だ。後にして……」

「いいや、ちょうどいい」


 クロードの言葉に割って入って、ローガンは少しだけ口角を持ち上げて言った。


「ウィリアム氏に、入ってもらえ」


◇◇◇


「す、すみません……急ぎアメリア様にお伝えしたいことがあって……お取り込み中でしたでしょうか……?」


 戸口に現れたのは、やや困惑した面持ちのウィリアムだった。

 眉をひそめながらも、必死に状況を読み取ろうとしている様子がありありと伝わってくる。


(ウィリアムさん……なんというタイミングに……)


 アメリアはなんとなく申し訳ない気持ちになった。

 ウィリアムの目が病床のクロードと、その傍らで見守るセリーヌとローガンに向けられる。


 そして、自分に。

 状況が飲み込めず戸惑っているのが表情に出ていた。


「大丈夫だ。むしろ、来て欲しかったくらいだ」


 ローガンがそう声をかけると、ウィリアムは一瞬きょとんとした後、「は、はあ……」と浅く頷いた。

 それでもなお、不安げな様子を残したまま、彼はちらりとセリーヌとクロードに目を向ける。


 アメリアはその視線に気づき、小さく微笑んで口を開いた。


「こちら、ローガン様のお義母様、セリーヌ様と、お兄様のクロード様です」


 紹介の声に、ウィリアムは目を丸くした。


「ローガン様のお義母様と……お兄様!?」


 思わず裏返るような声で繰り返し、表情を一気に強張らせる。

 どうやら事態の重みをようやく理解したらしい。


 そのとき、ベッドに横たわっていたクロードが、うっすらと瞼を上げた。


「……誰だ、お前は」


 その問いに、ウィリアムは気圧されつつも一歩前に進み、丁寧に頭を下げた。


「名乗りが遅れて、失礼いたしました」


 そして、柔らかな声音で言葉を続ける。


「私はカイド大学にて研究員を務めております、ウィリアムと申します。専攻は薬学および植物学。このたびは、アメリア様の件でご挨拶とご報告に参りました」


 その名を聞いた瞬間、室内の空気が一瞬ぴたりと静止した。


「カイド大学……?」


 セリーヌが驚きに目を見開き、震えるような声でつぶやく。


「それって……王都でも――いえ、大陸でも随一の学術機関じゃない……」


 まるで王侯貴族の名前を耳にしたかのように、畏敬と衝撃が混じった声音だった。

 ウィリアムはセリーヌの反応にひとつ頷いたのち、アメリアへと視線を戻し口を開いた。


「それで……何があったのですか? 見たところ、ローガン様のお兄様に何か――」


 そう言いながら、彼の視線は自然とクロードへと向けられる。


「えっと、実は……」


 アメリアは小さく息をつき、簡潔にこれまでの経緯を語った。

 クロードが紅死病に倒れたこと。苦しむ彼を見て、自分がかつて調合した薬を投与したこと。


 そして、それが効いて症状が和らいだこと。


「なるほど……そんなことが……」


 納得したようにウィリアムが小さく呟き、クロードに目を向ける。

 寝台に横たわるクロードの呼吸はすでに穏やかになっていたが、顔色はまだ悪く、頬や首元には紅斑の痕が微かに残っていた。


 ウィリアムは一歩、前に進み出る。

 蒸した空気の中、彼の瞳は冷静に、しかし真剣にクロードの容態を測っている。


「だいぶ落ち着いたようですね。アメリア様がいらっしゃらなければ……おそらく一刻を争う事態になっていたでしょう。運が良かったですね」


 その言葉に応じるように、クロードがゆっくりと首を持ち上げた。


「……その令嬢が、紅死病の新薬を作ったのは自分だと……言っていた」

 

 クロードは、ウィリアムに視線を向けて問いかける。


「それは、本当なのか……?」

「えっと……」


 ウィリアムは一瞬、アメリアに目をやりながら、言葉を探すように口を閉じた。

 顔を伏せ、思案するように唇を引き結ぶ。


 こういった場で、学術的成果を口に出すことは、時として騒動の種となる。

 功績の大小に関わらず、誤解と軋轢を生む可能性があるのだ。


「言っても大丈夫だ」


 ローガンが静かに言葉を継いだ。


「この部屋にいる者は、すべて俺の家族だ。機密事項を漏らすような者たちではない」


 その言葉に、ウィリアムは目を伏せ、静かに息を吐く。

 次に顔を上げたときには、揺るがぬ覚悟が宿っていた。


「はい。正真正銘、アメリア様が紅死病の新薬を調合されました」


 重い沈黙が、寝室に落ちる。

 クロードの目がわずかに見開かれた。


 呼吸が荒くなることもなく、怒声も上がらなかった。

 ただ、驚きと、理解と、わずかな悔しさがない交ぜになったような、複雑な色をたたえていた。


「……そうか」


 低く、擦れるような声。

 カイド大学の教授も同意したとなると、アメリアの所業を否定することはもはやできない。


「お前が……作ったのか」


 アメリアはゆっくりと頷いた。

 怯えることなく、誇るでもなく。


「はい。私が作りました」


 ただ、正直に、自分の手で為したことを受け止め、堂々と肯定した。

 クロードの表情に驚き、畏怖の感情。


 そして……わずかに、目の奥が潤んだ。次の瞬間、彼がぐらりと身を乗り出すようにしてベッドの縁に手をつき、よろよろと立ち上がった。


「クロード! まだ動いちゃ……!」


 セリーヌが思わず叫ぶ。

 だが、クロードはそれを制するように片手を上げ、低く、しかしはっきりと告げた。


「大丈夫だ」


 そのままふらつきながら数歩進み、アメリアの目前で片膝をついた。

 床に膝をつき、深く頭を垂れる。


「……すまなかった」


 アメリアは息をのむ。

 威圧的で、誰にも頭を下げぬという雰囲気を纏ったクロードが、自分に膝をついている。


 その光景が信じられなかった。


「命を……救ってくれて、感謝する。そして……」


 アメリアを真っ直ぐ見つめて、クロードは言葉を口にした。


「これから救われる多くの命に代わって、改めて感謝をする」


 その言葉には威厳などなかった。

 だが、偽りのない誠実さと、誰よりも深い謝意があった。


「……いえ、そんな……当然のことをしたまでです」


 戸惑いながらも、アメリアは丁寧に頭を下げた。

 そう、当然のことだった。


 困っている人がいたから助けた。

 ただそれだけ。


 見返りが欲しかったわけでも、褒めてもらいたかったわけでもない。

 けれど、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。



 夕方の庭園。

 ひと気のない白亜のガゼボは、木々の影を映しながら静かに佇んでいた。


 葉擦れの音が風に溶け、小鳥たちのさえずりが遠くから微かに聞こえる。

 アメリアは、その白い東屋の一角に座っていた。


 隣にはローガン。


 そして、向かいのベンチにはウィリアムが腰掛けている。

 クロードは、依然として主寝室で横になっている。


 セリーヌも疲れを考慮され、しばし部屋を外していた。


「改めて、お時間をいただきありがとうございます」

「いえ、こちらこそ! なんだかバタバタしてしまってすみません」


 ペコペコと頭を下げるアメリア。

 一方のローガンはウィリアムに尋ねる。


「それで、本題とはなんだ?」

「その件なのですが……」


 静けさの中で、ウィリアムが膝の上に置いた鞄をそっと開き、綴じられた資料の束を取り出す。

 その動作は慎重で、どこか重みを感じさせた。


「アメリア様」


 彼の声音は、低く落ち着いているが、どこか慎重な響きを帯びていた。


「今回、あなたが調合した紅死病の治療薬は、効果・再現性ともに驚くべきものでした。それは私個人としても断言できます。ただ……」


 ウィリアムは一度言葉を区切り、視線を静かにアメリアに合わせる。


「この薬を、王国医療連盟に正式認可させ、広く流通させるためには、もう一段階“証明”が必要になります」


 アメリアは軽く目を見開いた。


「証明……とは?」


 隣で僅かに眉を寄せるローガンに、ウィリアムは続ける。


「新薬の流通には、通常は論文や標本を提出し、専門の査問委員会を経て認可されるのですが……今回は前例にないほどの緊急事態です。紅死病の蔓延は拡大していて、既存の治療法も高価で流通率が低い。ゆえに――」


 彼は手元の書類を軽く叩いた。


「王国の学術中枢・カイド大学にて、研究者たちの前で紅死病新薬の調合実演を行っていただき、迅速に薬を流通させたいのです」


 アメリアの呼吸が、一拍遅れて揺れた。


「実演……ということは、人前で、新薬の調合をするということですか?」

「その通りです」


 ウィリアムは、言葉を選ぶように続けた。


「実演会の場で効果を示し、再現性を確認されれば、そのまま薬として正式に認可され、王立医療連盟の通達により、王国全土で流通が開始されます。救える命の数は――通常の手続と比べると、桁が違います」


 その言葉の意味を、アメリアもローガンも理解した。

 しかし、そのためにはアメリアが人前に立たねばならない。


 しかも、ただ立つのではなく、王国中から注目を集める公の場に。

 実演となれば、薬学関係者や貴族、政治家まで多くの目が集まり、関心を寄せることになる。


 つまり、それだけ危険も孕んでいる事を意味していた。


「……話にならんな」


 ローガンの低い声が、鋭く空気を裂いた。


「多くの人の前にアメリアを立たせるなど、危険だ。先日、アメリアは誘拐されたばかりだというのに……誰が狙っているかわからない状況で、また身を危険に晒すのは……」

「……それは、わかっています」


 ウィリアムが重々しく言葉を返す。


「正直、推薦者である私自身、気が進みません。しかし……薬の効果があまりにも影響力が高いがゆえに、すでに直々に王命が降りました」

「王命が……?」


 ローガンの目が細められ、沈んだ声が漏れる。

 その言葉の重みを誰よりも知っているからこそ、口調は鋭さを増していた。


「ええ。王命は、基本的には拒否できません。たとえどれほど危険を伴う内容であっても……従わねば、国への反逆と見なされかねないのです」


 その言葉に、ガゼボの中の空気がぴりつくように緊張した。


「しかし……だとしても……」


 それでもローガンは納得がいかないというふうに葛藤を見せる。

 ただ純粋にアメリアを危険な目に合わせたくないという思いが。ローガンの胸中を渦巻いていた。


 一方のアメリアは、心の底に芽生えた決意をそっと抱きしめながら、ゆっくりと顔を上げた。


「……私、やります」

「アメリア……!」


 ローガンの声が、驚きと焦りを孕んで響く。

 アメリアは続ける。


「私が作った薬で、救える人がいるなら……私は、その責任から逃げません。危険があったとしても……それ以上に、たくさんの命を救えるのなら、私はやりたいです」


 陽が傾き、ガゼボの屋根越しに差し込む光が、彼女のワインレッドの髪をやさしく照らした。


「苦しんでいる誰かがいるのは、見過ごせない。それだけなんです」


 アメリアの真摯な言葉に、ローガンの表情が苦悩に染まる。

 何かを言いたそうに開いた口が、しかし音にならず閉じられた。


 アメリアは、自分の中で灯った想いを噛み締めていた。

 なぜ、自分はここまでして「やる」と言い切ったのか。


 心の奥で言葉にならないものが、ゆっくりと形をなしていく。


(あのとき……紅死病に罹ったセラスさんを前に、泣きながら救ってほしいと言うライラの姿を見て、思い出した……幼い頃、母が倒れたとき、私は何もできず、ただ震えて、泣いていた。救えなかった、あの悔しさと哀しさ……)


 今でも思い出す、母が亡くなる寸前の言葉、すっかり失った体温、そして絶望──。


(同じ思いを、もう誰にもしてほしくない。だから私は、自分の薬でセラスさんを救えたとき……本当に、嬉しかった)


 人の命は、奇跡のように儚い。


 それを救う手段を持っているのなら、使わない理由はない。


 それが、今のアメリアを突き動かしていた。

 そんなアメリアの内心を知ってか知らずか、ローガンが深く息を吐き、隣で静かに頷いた。


「……そこまで言うなら、俺は反対しない」


 穏やかでありながら、決して軽くはない言葉だった。


「ただし、君の身は俺が守る。実演の間、徹底した護衛を付けさせてもらう。少しでも危険が感じられたら、すぐに中止する。それでいいな?」

「はい……ありがとうございます」


 アメリアの手が、そっと彼の手に重ねられる。

 その手の温もりが、言葉以上にローガンに伝えていた。


 ウィリアムは、そんな二人を見守りながら、静かに頷く。


「ありがとうございます、アメリア様……では……特別講演の手配を、こちらで進めておきます」


 アメリアはこくりと頷いた。

 心の中には恐れもあった。


 それでも、自分の中にある“すべきこと”への道筋は、もう揺るぎないものとなっていた。

 しばしの沈黙の後、ローガンは向かいに座るウィリアムへと視線を移す。


「ウィリアム氏、アメリアを攫った犯人に、何か心当たりはあるか?」


 問いに、ウィリアムは僅かに眉をひそめた。

 長年、王都の学術界に身を置いてきた男にとって、それは口にするにも苦い話題だったのだろう。


「……正直に申しますと、紅死病に関する新薬は、既存の医療利権を大きく脅かす存在です」

「だろうな」

「ええ。これまで“特効薬”として使われてきた薬品には、ザザユリという特殊な植物成分が使われていました。この植物は高価で、取引価格も極めて不安定。その流通を抑えていたのは……一部の貴族層です」


 アメリアの胸が微かにざわめいた。


 誰かが命のやり取りの裏で、金銭や権力を握っていたという事実。

 その重さに、思わず口元を引き結んだ。


「新薬が広まれば、そのザザユリは不要になります。つまり、それまで独占していた者たちは――すべてを失うことになる」

「それで、アメリアを……」


 ローガンの拳が、そっとテーブルの縁を叩いた。

 小さな音だったが、それが抑えきれない怒りの現れであることは明白だった。

 ローガンの瞳が、静かに、しかし怒気を帯びて揺れている。


「そんなことのために……アメリアが危険な目に晒されたというのか……ふざけている」


 唇を強く噛み、言葉を飲み込む。

 その沈黙には、怒りと無力感、そしてアメリアを誘拐から守れなかった悔しさが滲んでいた。

 一方のアメリアは、ローガンとウィリアムの会話を聞く中で、ある疑問にたどり着いた。


 重苦しい空気だが、自らが気づいた“可能性”を口にせずにはいられなかった。


「あの……偶然かもしれませんけど……」


 アメリアはそっと口を開いた。


「ウィリアムさん……以前、ザザユリは人工的に作られた植物だと仰っていましたよね?」

「ええ。私どもも研究を進めてはいましたが、未だに成分構造も出所も、ほとんどが謎のままでした」


 アメリアは、手元のノートから一枚の紙片を取り出す。

 それは数日前、自室で夜遅くまで検証していた記録だった。


「私の方で、気になってザザユリの成分を詳しく分析してみたんです。すると……この新薬に使われているスーランと、ほぼ一致していることが分かりました」

「……なんですって?」


 ウィリアムの声が跳ねる。普段はどこか冷静な男の目に、はっきりと驚愕の色が宿った。


「それが、本当なら……いや、まさか……」

「何か、知っているのですか?」


 アメリアの問いに、ウィリアムは躊躇しながらも答える。


「現在流通している旧来の特効薬の調合法は、セルヴァ帝国からの輸入が始まりでした。彼らがどんな技術でザザユリを作ったのか、我々大学側でも調査はしていたのですが、ほとんど手がかりなしでした」


 アメリアのその言葉に、ローガンの表情が一気に険しくなった。


「セルヴァ帝国……」


 アメリアと呟きに、ローガンは言う。


「五十年前までトルーア王国と戦争をしていた隣国だ。表向きは講和しているが、実態は長く続く睨み合い。宗教観の違いに、資源と領土をめぐる確執。国境付近では今も小競り合いが絶えない」

「そ、そんな国から輸入された者だったんですか……?」


 アメリアの背筋を、冷たい風が抜けていくようだった。


「それはともかくとして……アメリア様、どういう方法でザザユリの成分がスーランと一致していたのか、後ほど、教えていただけますか?」


 いつもは落ち着き払った態度の彼の目に、今は純粋な好奇と尊敬が宿っている。

 アメリアは一瞬だけ思案するように頷いたあと、柔らかな微笑を浮かべて言った。


「ええ、もちろんです。私のやり方でよければ……」


 そう答えながらも、アメリアの胸の奥にはひとつの小さな疑問が芽生えていた。

 その違和感は、すぐにローガンの言葉によって形を持つことになる。


「……だが、おかしくはないか?」


 低く、しかし明瞭な声が、ガゼボの静けさを破った。


「スーラン単体であれだけの効果があるなら、なぜザザユリとして“化合”した形で薬を流通させる必要があった?」


 ローガンの眉はわずかにひそめられ、冷静な瞳がウィリアムへと向けられる。


「セルヴァ帝国の研究者たちが、スーランの効能に気づかないはずがない。にもかかわらず、より複雑で、手間も金もかかる薬に仕立てた――その理由が、どうにも解せない」


 確かに、理に適っていない。

 無駄が多すぎる処方だ。


 なぜ、わざわざ“遠回り”をするような設計にしたのか。

 答えを探しかけたそのときだった。


「――そのあたりにしておけ」


 背後の茂みの影から、低い声が割って入った。

 アメリアがはっと振り返ると、そこには、つい先ほどまで寝室で静養していたはずのクロードが立っていた。


「クロードさん……! まだ、安静にしていなきゃ……!」


 驚いて駆け寄ろうとしたアメリアを、クロードが軽く手を上げて制した。


「もうだいぶ回復した。動ける」


 その声は少し掠れてはいたが、意識ははっきりしている。

 額にうっすらと汗を浮かべながらも、背筋はまっすぐに伸びていた。


「す、すさまじい回復力ですね……」


 アメリアは思わず呟く。

 戦場という過酷な環境に身を置き、幾多の修羅場を生き抜いてきた男の生命力。


 その強さに、内心舌を巻く。

 ローガンは、じっと兄を見据えたまま、ひとつの問いを口にした。


「兄上。先ほど“薬を裏ルートで仕入れていた”と仰っていましたね」

「……ああ」

「何か……知っているのですか?」


 クロードの目がわずかに細くなる。

 風がガゼボの屋根を通り抜け、葉擦れの音を連れてきた。


 しばしの沈黙ののち、クロードは苦笑ともため息ともつかぬ呼気を吐き、呟くように言った。


「俺に薬を卸していた男がいる。名前は伏せるが……奴は、“紅死病の特効薬”について、いくつか妙な噂を洩らしていた」

「噂……?」

「紅死病そのものが、人工的に作られた病気なんじゃないかって噂だ」

「意図的に……!?」


 ギョッとアメリアは目を見開いた。あんなにも恐ろしい病気が自然由来ではなく、人の手で作られたのかと想像すると、身の毛もよだつ思いだった。


「その男に会わせていただけませんか。直接、話を聞きたい」


 ローガンの申し出に、クロードの表情がほんの一瞬だけ硬化しつつも、すぐに強い言葉を口にした。


「駄目だ」

「……なぜですか?」


 クロードは首筋を僅かに傾けてから、視線をアメリアのほうにちらと流し、再び弟へと向き直る。


「俺がやっていたことは、いわば非合法だ。王都の上層部は黙認していたが、違法にあたる。俺が口を割れば、あの男も全てを喋るだろう。そして――俺は現職から外される。最悪、首が飛ぶ」


 淡々とした口調だったが、その言葉には現実味と、そして責任感が滲んでいた。


「俺がラスハルの前線を離れれば、戦況は崩壊する。我が国にも多大な損害が出る。……無関係な民間人だって、数多く死ぬことになる」


 言葉の重みに、アメリアは口を噤むしかなかった。

 だがその後、クロードはふと視線を動かし、弟へと向けた。


「もっとも。お前が代わりに赴任してくれるなら、話は別だがな」

「その線は、諦めてください」


 ローガンは静かに、しかし断固たる声で言い切った。

 クロードは短く鼻で笑い、そして、アメリアのほうを見た。


「ああ、わかってる。お前の婚約者には、命を救われた借りがある。そこは……素直に感謝している」


 言葉とともに、ほんのわずかに口元が緩んだ。


「だが――王命が降る可能性は、十分にある。その時は……腹を括れ」


 風が再び、木々を揺らす。


 どこか遠くで、鳥の声が小さく響いた。

 だが、それをかき消すように、三人の間には、ただ重い沈黙だけが漂っていた。


◇◇◇


「それでは、正式に講演の準備を進めさせていただきますね」


 ウィリアムは立ち上がると、丁寧な所作で深々と頭を下げた。


「アメリア様、ローガン様のご協力に、心から感謝します」


 その言葉は、ただの礼儀ではなかった。

 彼の口調には、研究者としての誠意と、人の命に関わる重大な責任を背負う者としての静かな覚悟が滲んでいた。


(と、とんでもないことになってしまったわ……)


 淡い風が頬を撫でる。アメリアは胸の奥でその事実を改めて噛み締めるように、小さく息を吸い込んだ。


「それでは、講演会の詳細ですが……」


 ウィリアムは懐から封筒を取り出し、そこから丁寧に折りたたまれた用紙を一枚抜いてアメリアに差し出した。


「日が浅く恐縮なのですが……講演は三日後になります」

「えっ、三日後!?」


 思わず声が裏返る。

 アメリアは紙面を受け取り、目を走らせた。


 そこには、学会の正式名称や開催日時、場所、集合時間、服装規定などが細かく記されていた。

 文字は端正で、いかにも学術機関らしい整然とした文面だったが、読むほどに顔から血の気が引いていく。


「思った以上に急だな」


 ローガンの隣から、低くぼやくような声が聞こえた。


「大学としても、紅死病に対する正式な認可を一刻も早く進めたいということでして……」


 ウィリアムの言葉は淡々としていたが、その裏には焦燥と責任の重みが滲んでいた。


「わかりました」


 アメリアは、手にした紙をそっと膝に置き、小さく頷いた。


「できる限りのことを尽くします」

「ありがとうございます」


 最後にもう一度、ウィリアムは深々と頭を下げた。


◇◇◇


 日がすっかり傾き、空の茜色が黒に染まった頃。

 へルンベルク家の食堂には、一日の終わりを告げる夕餉の香りが立ちこめていた。


 燭台にともされた蝋燭の光が、水面のようにゆらりと揺れ、天井のシャンデリアの影が壁にゆらめいている。


 白地に金糸の刺繍が施されたクロスの上には、陶器の皿と磨き上げられた銀のカトラリーが整然と並び、メインの皿には湯気を立てる仔牛のステーキ、ガルニチュールには人参のグラッセと彩り野菜のブレゼ。


 そして、スープカップからは香草の芳香が静かに立ち上っていた。


(ふふ……今日も美味しそう……だけど……)


 アメリアはその香りにうっとりしつつも、妙な緊張感に身体を強張らせていた。

 彼女の右隣にはいつも通りローガンが座っている。


 しかし対面にはクロードとセリーヌが座していた。

 クロードは病み上がりでありながらも、夕食に顔を出せるまでに回復していた。


 とはいえ、椅子の背もたれに軽く体を預ける様子からは、まだ全快とは言えない疲労の色が見て取れる。


 一方で、セリーヌはいつもの端正な姿勢を崩さずにいたが、アメリアの目には、どこか柔らかな余韻がその顔に滲んでいるようにも見えた。


 そんな静かな時間のなか。


「兄上、それ……また残しているんですか?」


 ローガンの静かな声が、テーブルの片側を渡って届いた。


 クロードは、スプーンを中空で止めたまま、面倒くさそうに眉を寄せる。


「……ああ?」


 その視線の先には、整えられたローストの皿の脇に、ちょこんと取り残されたグリンピース。

 盛りつけの一部として添えられていたはずのそれは、綺麗に片隅に寄せられていた。


「相変わらず、野菜嫌いですね」


 ローガンの声に、クロードは渋面のままナイフとフォークを置き、言い放つ。


「緑の悪魔を、わざわざ口に運ぶような愚は犯したくない」


 まったく真顔での一言だった。その瞬間、アメリアは思わず吹き出しそうになったのを、懸命にスプーンで唇を押さえることで堪えた。


(なんだか……かわいい)


 口には出さずとも、アメリアの胸の内には、そんな素直な感想が芽生えていた。


 戦場では指揮官として鋭い眼光を放ち、百戦錬磨の将として知られるクロード・ヘルンベルク。


 そんな彼が、食卓でグリンピースを前に真剣な顔で抗議している――その光景は、どうしても彼女の中でギャップを生みすぎて、頬がゆるむのを抑えられなかった。


 ローガンの方も、呆れたように肩を落としながらも、その目元には淡い笑みが浮かんでいる。


 まるで昔馴染みの子どもが、また同じいたずらをしているのを見守る兄のような、柔らかな空気だった。


 アメリアはそんなふたりの様子を交互に見つめながら、じんわりと胸の奥に広がる温もりを感じていた。


(やっぱり……おふたりは、ちゃんと兄弟なんだなぁ)


 それは血のつながりだけではない、時間と関係が織りなす家族のかたち。

 ローガンがいつか語った、厳しい家庭のこと。


 孤独な訓練と、信頼を築けぬまま過ぎた日々のこと。

 それを思えば、今こうして一緒に食卓を囲み、他愛ないやりとりができるというだけで、奇跡のように思えた。


 そのときだった。


「ねえ、あなた」


 セリーヌの声が、細く割れるように響いた。

 アメリアが顔を上げると、セリーヌはじっとこちらを見つめている。


「はい、いかがしましたか?」


 アメリアはにこやかに尋ねると、セリーヌは逡巡のそぶりを見せてから口を開いた。


「昨日、私にくれた薬もやあなたが作ったのよね?」


 わずかに震える声。

 疑いではない、確認の色を帯びたその問いかけに、アメリアはそっと微笑んで頷いた。


「はい。昨日のご昼食の時、少し辛そうにされていたので……パパッと調合しました……」

「パパッとって……そんなおやつを作るみたいに……」


 セリーヌは改めて、驚きを表情に滲ませた。

 世間知らずの田舎娘だと思っていた少女が、まさか薬を即興で調合できる才能を持っているとは思ってもみなかったのだろう。


「あの薬を塗ってから、手首の調子が良いのよ」

 セリーヌはそう言って、ゆっくりと自分の手首に触れる。

「食事の時もちょっとした動きで、痛みが走ることがあったのだけれど……今はこの通り」


 そう言いながら、手首を軽くぷらぷらと振ってみせる。 無理のない、自然な動き。


 それができることの喜びが、その仕草から滲み出ていた。


「お役に立てて、よかったです」 


 アメリアはほっとしたように微笑み、小さく頭を下げる。


 そんなアメリアを見つめながら、セリーヌの目元がふと和らいだ。

 その口元には、微笑とも溜息ともつかない、感慨深げな表情が浮かぶ。


「ローガンは、とんでもない婚約者を娶ったのね」


 その言葉には、呆れと感嘆、そして微かな羨望すら滲んでいた。


「そんな、とんでもないことです」


 アメリアは小さく首を振りながら、柔らかく微笑んだ。


「私のこの力が活かされるようになったのは……ローガン様がいたからです。ローガン様が、私のこの能力をすごいって言ってくれて、認めてもらえたことが、どれほど心強かったか……」


 素直な言葉に、ローガンが思わず視線を逸らし、わずかに咳払いする。

 そんな様子を見たセリーヌはふっと力を抜いてから言った。


「私は、あなたを誤解していたわ」


 まるで水面に一滴、雫が落ちたような、静かでいて強い響きを持つ声だった。


「誤解……?」


 アメリアはそっと問い返す。

 セリーヌはまっすぐにアメリアの方を見ていた。


 その視線は、もはや冷たくもなければ、突き放すものでもなかった。


「最初はね、あなたがローガンの婚約者にふさわしいとは思えなかったの。とてもじゃないけど振る舞いはなってないし、教養や作法も王族に並ぶ場で通用するとは思えなかったし、あなたは笑っているだけで、何も考えていないように見えるし……」

「ゔっ……」


 グサグサっと、アメリアの心の芯を何かが貫いた。


「正直、ふさわしくないと判断すれば、婚約を破棄させようと思っていたわ。それが、私の夫――ローガンの父の命でもあったから。“愚かな女が血筋に入るのは言語道断”とね。私自身も、その言葉に疑いを抱かなかった」


 静かな語調だったが、その一つ一つの言葉には、長い時間をかけて積もった過去の澱と、今こうしてそれを打ち明けるために必要とした覚悟が、確かに滲んでいた。


 アメリアの唇が、無意識に引き結ばれる。

 今までの数々の視線や言葉、遠ざけられていた理由が、今ようやく形を持って差し出されたことに、心がかすかに震えた。


「そう……だったんですね……」


 ぽつりと漏れた言葉には、怒りでも憎しみでもない、複雑な痛みがにじんでいた。

 そのやり取りを聞いていたローガンが、ゆるやかに眉をひそめる。


「父上……勝手なことを……」


 深く静かな声音には、抑えた怒気が含まれていた。

 一方でクロードは、ステーキを切り分けながら半ば呆れたように肩をすくめる。


「まったく……あの親父らしいな」


 低くつぶやく声には、皮肉と諦めが入り混じっていた。


「けれど……」


 セリーヌはゆっくりと目を伏せた。

 微かに揺れるまつげの奥に、言葉にできない感情の揺らぎが見える。


「あなたを見ていて、少しずつ……考えが変わっていったの」


 目元を優しくしたまま、セリーヌは言う。


「あなたは、自分の利益なんて顧みず、誰かのために動き続けていた。ずっと、誰かの心に寄り添おうとしていた。言葉ではなく、行動で周囲の人の心を動かす姿を見て……とても、魅力的な子なんだと思った」


 一呼吸、静かな間が落ちる。

 そしてセリーヌは、まっすぐアメリアに視線を戻した。


「私がずっとわからなかったものを、あなたは自然と持っていたのね」


 アメリアの胸の奥で、何かがそっとほどける音がした。

 思わず唇が震え、それでも精一杯、感謝の笑みを浮かべて答える。


「……ありがとうございます」


 それしか言えなかった。

 けれど、その言葉に込められた思いは深くて、言葉以上に強く、温かかった。


「アメリア」


 その名を呼ばれた瞬間、アメリアは小さく肩を跳ねさせた。


(……はじめて、名前を……)


 胸の奥に、ほのかな熱がじわりと広がっていく。

 セリーヌは口元をほころばせ、まるで長年の誤解が解けたようなやわらかな表情を浮かべた。

「あなたは、ローガンの婚約者として、胸を張りなさい」


 大きくも強くもない声だった。


 けれど、それは確実な認可だった。


 まるで許しでもあり、祝福でもあった。

 アメリアは手のひらを膝の上で重ね、小さくうなずいた。


(認められた……ちゃんと、受け入れてもらえたんだ……)


 目頭が熱を帯びる。

 思わず涙が溢れそうになるのを堪えて、弾けるような笑顔でアメリアは言った。


「はい、これからもよろしくお願いします」


 そんなアメリアに、セリーヌは今まで見たことのないほど穏やかで、愛しい我が子に向けるような微笑みを浮かべるのだった。


「姑問題、解決だな」


 クロードがプリンをぱくぱく食べながら、あっけらかんと呟く。


「もっと他の言い方はなかったんですか?」


 ローガンが呆れたようにツッコミを入れた。


◇◇◇


 翌朝。

 冬の陽光が昇り始めたばかりの空は、絹のように滑らかで、雲ひとつない青に染まっていた。


 へルンベルク家のエントランス前では、出立の支度が着々と進んでいた。

 石畳には朝露が残り、足音がしんと響く。


 凍りかけた空気のなか、馬たちは白い息を鼻先から吐き出し、ぴんと耳を立てている。

 馬車は金縁の細工が施された上等なもので、従者たちが荷箱を丁寧に積み上げるたび、革紐の軋む音が静けさを裂いていった。


 その馬車のすぐそばで、セリーヌはふと歩みを止め、くるりと振り返った。

 朝のやわらかな光が横顔に差し込み、その輪郭を清々しく照らしている。


「それじゃ、私は家に戻るわ。久しぶりに、庭の世話でもしておかないと」


 朗らかに言いながら、ふと視線をローガンに向ける。


「母上、お気をつけて」


 ローガンが静かに頭を下げると、セリーヌは軽く微笑み返した。


「お花、ありがとう。あれ、玄関のテーブルに飾っておくわ。家が少し華やかになるわね」


 その声はどこか軽やかで、柔らかい。

 ローガンもつられて口元を緩ませた。


「講演会、成功を祈っているわ。アメリアちゃんに恥をかかせるような真似はしないでね?」


 ふっと目を細めて、からかうように言ったその声には、冗談めいた調子と、ほんの少しの本気が滲んでいた。


「しませんよ……」


 苦笑しつつ、ローガンは視線を逸らす。


(……“アメリアちゃん”、だなんて)


 つい昨日まで“あなた”としか呼ばれていなかった相手が、まるで娘のように、名前を優しく呼んでくれるようになった。

 その変化に、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。


 アメリアは思わず、目を大きく見開いていた。


「アメリアちゃん」


 再び名前を呼ばれ、アメリアが顔を上げる。


「愚息をよろしくお願いするわね」


 穏やかな声で、けれどその瞳はまっすぐで、母としての思いが宿っていた。


「はい……こちらこそ、今後ともよろしくお願いします」


 アメリアは小さく頭を下げる。

 セリーヌとは、もうしばらくは会えない──。


 そう思った瞬間、ふいに胸の奥がきゅっと寂しくなった。


「お義母様っ……!」


 気づけばアメリアは、抑えきれない衝動のままセリーヌの身体にぎゅっと抱きついていた。

 その身体は驚くほど華奢で、けれど背中には一本、まっすぐな芯が通っている。


 柔らかな香りとともに、背中にかかる腕がそっとアメリアの肩を抱いた。

 たった数日だけど、ぶつかり、すれ違って、それでも諦めずに向き合った時間が、この一瞬にすべて報われるような気がした。


「……お気をつけて」


 そう囁いた声は、少しだけ震えていた。

 セリーヌは何も言わず、ただ一度だけアメリアの髪を撫でると、ひるがえるマントとともに馬車へと乗り込んだ。


 車輪が静かに動き出す。

 冷たい石畳を滑るようにして、馬車はゆっくりと庭先を離れていく。


 飾り窓からわずかに覗くセリーヌの横顔は、すぐに光と影の向こうに隠れてしまった。

 しかし、うっすらと見えたその微笑みは――たしかに、温かいものがあった。


 馬車の後ろ姿が遠ざかり、門の向こうへと完全に姿を消す。

 その静寂を破るように、背後から重みのある声が届いた。


「俺も戦場に戻る」


 聞き慣れた、低くよく通る声だった。

 アメリアがはっと振り返ると、クロードが黒い外套を翻しながら、ゆるやかにこちらへと歩いてくるところだった。


 朝の光を受けた黒髪は、ほんのわずかに揺れ、裾が石畳をかすめるたびに布擦れの音が静かに響いた。


「もう少し療養してもいいのでは?」

「馬鹿いえ。俺が一日いないだけで、屍の数がかさむ」


 そう言うクロードは紅死病から回復したばかりとは思えない足取りだった。

 まっすぐ背を伸ばし、戦場に立つ者としての威厳を一片も手放していない。


「どうか、お元気で。クロード様」


 アメリアは丁寧に頭を下げた。


「それと……ごめんなさい、薬、渡すことができなくて……」


 そう言うアメリアのその心中は複雑な思いが広がっていた。

 本当は――渡したかった。


 今手元にある、ありったけの紅死病の新薬を。

 戦地に戻る彼に、せめてもの備えとして持たせたかった。けれど、それは叶わなかった。


 まだ認可が降りておらず、流通経路も整っていない今、正規の手続きを経ずに渡すことは許されない――そうローガンに言われた。


 それは理屈としては正しい。

 だが、遠い戦場で苦しむ人々を救える手段が手の中にあって、それを行使できないという事実が、ただただ歯痒かった。


「気に病むな。俺一人の命が助かっただけでも充分だ。君には感謝している」


 そう言って、クロードは控えめに頭を下げた。


「結局、紅死病を治しに来ただけになったな」


 ぽつりと零したその一言は、皮肉めいた冗談のように聞こえた。

 だが、そこに混じっていたのは安堵だった。


 あのまま自分が倒れていたら、命を落としていたかもしれない。

 そんな現実を笑いに変えてしまうような、重さと軽さが同居する声音だった。


「兄上……どうかお気をつけて」


 ローガンが小さく言う。

 静かで、誠実で、たしかな敬意が込められていた。


 クロードは微かに目を細めて言う。


「お前こそ、くれぐれも過労で死ぬなよ。お前に何かあって、彼女が抜け殻になったら……」


 小娘、という言い回しに、アメリアは思わず肩をすくめかけるが、その続きに不意を突かれた。


「この国にとっての途方もない損失だからな」


 口調は粗雑だったが、その奥に隠された“情”のようなものがアメリアには届いた。


「ええ、わかっています……それはそうとして、本当に良かったんですか? 俺はもう、赴任しなくて」


 その問いに、しばしの静寂が落ちた。

 馬の鼻息だけが、遠く響く。


「なんだ。今さら戦場に興味が湧いたか?」


 からかうような言葉の裏に、どこか嬉しげな響きがあった。


「まさか……ただ、その……戦況は芳しくないのでしょう?」


 言い淀みながらも、言葉を紡ぐローガンの横顔に、アメリアはそっと目を細めた。


(ローガン様……)


 クロードは、そんな弟を見つめながら、ふっと苦笑する。


「心配するな」


 クロードがゆっくりと歩み寄り、ローガンの肩にがっしりと手を置いた。


「へルンベルク家の家訓は、俺一人で背負えばいい」


 そう呟いたクロードの瞳には、まるで決意をそのまま映したかのような静けさがあった。


「兄上……」


 ローガンの声には応えず、そのままクロードはゆっくりと背を向けた。

 朝の光に照らされた背中は、大きく、重く、そしてどこか孤独で――だが、まさしく誇り高き騎士のそれだった。


 アメリアとローガンは、ただその後ろ姿を黙って見送る。


 風が一陣、白い外套の裾を舞い上がらせる。

 まるで、その人が背負ってきたものの重さと覚悟を、空までもが認めているかのようだった。


◇◇◇


 トルーア王国の首都、カイド郊外。


 昼の喧噪など嘘のような深い静寂が、夜の廃教会を包み込んでいた。

 かつて神に祈る人々で賑わったその聖域は、今では崩れかけた石造りの瓦礫と、蔦に絡まれたアーチの残骸だけが時の流れを物語っていた。


 屋根の半分は朽ち果て、祭壇の上には、月光が天井の裂け目からそっと降り注いでいる。

 風はなく、空気はしんと冷えていたが、ただひとつ、人の気配だけが存在していた。


 その男は、祭壇の脇の闇に立っていた。


 長身痩躯。


 黒ずくめのローブに身を包み、影の中に溶け込むような佇まい。


 顔はフードに覆われ、月光に浮かび上がるのは、整った輪郭と薄く歪められた口元だけだった。


 彼の足元には、一人の部下が片膝をつき、深々と頭を垂れていた。


「……例の実演会が、明後日に決まったとのことです。場所はカイド大学、中央講堂」


 その報告に、男は動かなかった。

 ただ、手の中に持っていた封蝋つきの紙片を、ゆっくりと指先で弾いた。


「明後日、か。随分と急だな」


 静かな声が廃墟に落ちる。だがその声は、石のように冷えていた。


「非常に困る」


 男はそう呟くと、ゆるく片眉を上げた。

 まるで滑稽な喜劇でも見ているかのような目だった。


「紅死病に新たな特効薬が生まれたとあっては、非常に、非常に困ったことになる」


 男の視線が封筒の宛名に滑る。

 その紙には、アメリアの名が記されていた。


「あの令嬢の善意と才能には感服するが……それとこれとは話が別だ」


 彼は視線を上げ、傾いた天井を通して月を仰いだ。


「新薬の効能が、公式の場で証明されるわけにはいかない」


 その言葉には、怒気も、焦りもなかった。

 あるのはただ、事実を受け入れた者の決意だった。


「貴族院も、商会も……この王国の経済の幾層にも、多くの利権が絡んでいる。長年、裏で動いてきた連中がそれを手放すはずがない」


 男の口元が歪む。


「皮肉なものだ。救世の花が、毒の根に変わるなんて……」


 手元の書類をぽんと投げ捨て、くるりとマントを翻す。


「これ以上の失敗は許されん。今すぐ動くんだ」


 闇の中から、複数の影が現れ、音もなく膝をつく。

 そのすべてが、仮面と黒装束に身を包んでいた。


「新薬が証明される前に――」


 月明かりが再び薄雲に遮られた時、男の声が最後に響いた。


「――証明する舞台ごと、壊してしまえばいい」


 そう呟いたその顔は、やはり月に照らされず、影のままだった。


◇◇◇


 カイド大学の大講堂──その舞台袖に隣接する控え室は、歴史ある大学らしい厳かな造りをしている。

 重厚な木の扉に、床を飾る絨毯は深い藍色。

 

 壁には植物学の歴史を物語る学術画が並び、厚いカーテンの隙間から洩れる夕陽が、黄昏の光で室内を静かに染めていた。


 あっという間に特別実演会の日──の前日。

 実演会の前夜パーティに、アメリアとローガンはやって来ていた。


(へ、変じゃないかしら……?)


 アメリアはその一角、姿見の前に立ち尽くしていた。


 身に纏っているのは、やわらかなセージグリーンのドレスだった。 淡く落ち着いたその色は、彼女の赤髪と絶妙なコントラストを描きながら、華やかさよりも知性と清潔感を引き立てている。

 素材は薄く光を受けてやわらかく揺れる上質なシルクジョーゼット。


 胸元から裾にかけては、薬草を思わせる植物の蔦模様が、同系色の銀糸で繊細にあしらわれていた。軽く巻いた髪はゆるやかにまとめ上げられ、耳元では翡翠の小ぶりなイヤリングが、控えめに存在を主張している。


 その美しい装いとは裏腹に、アメリアの表情には緊張の色が濃く浮かんでいた。


(まさか、大勢の人の前で、調合の実演をしなきゃいけないなんて)


 明日、自分が登壇するのは“特別実演会”と銘打たれた紅死病の新薬調合の場。

 その実演の成否が、薬の正式な認可を左右するのだ。


(それに、前夜パーティなんて……うぅ……何話せば良いのかしら……)


 控室の静けさが、かえって緊張を際立たせる。

 外では今まさに、自分のために開かれた前夜祭のパーティが始まろうとしている。


 王国中の頭脳が一堂に会する場が扉一枚向こうにそれがあると思うと、どうしても身がすくんでしまっていた。


「アメリア」


 穏やかな声が、背後からそっと呼びかける。

 振り返ると、ローガンがタキシード姿で立っていた。


 黒の礼装に赤のタイ。

 普段は装飾を嫌う彼にしては珍しく、胸元には一輪の花のブローチが飾られていた。


 いつものような冷たい感じではなく、今日はどこか柔らかい空気をまとっている。


「ローガン様!」


 アメリアはさながら飼い主を見つけた子犬のように表情を明るくし、ローガンに駆け寄ろうとすると。


「あっ……!」


 次の瞬間、彼女の足がふいに止まる。

 ドレスの裾を踏んでしまい、バランスを崩しかけた。


 ――倒れる、と思ったその刹那。


 しっかりとした腕が、アメリアの腰を支えていた。


「大丈夫か?」

「は、はい……ありがとうございます」


 柔らかな布越しに伝わる体温。

 気づけば、彼女はローガンの胸の中にすっぽりと収まっていた。


「緊張してるんだな」


 囁くような声が、耳元に落ちる。

 顔を上げると、ほんの数センチ先にローガンの顔があった。


 至近距離でまっすぐ見つめられ、アメリアの心臓がどくんと跳ねる。


「ば、ばれてましたか……」


 恥ずかしさが一気にこみ上げて、頬が熱く染まる。

 それでも思わず口元が緩んだ。


 つい先ほどまでの緊張が、どこかへ消えていくようだった。

 ローガンは、そんなアメリアを見つめながら、ゆっくりと腕をほどいた。


 彼の手が離れても、温もりだけはしばらく肌に残っている。

 それだけで、アメリアの肩の力は、ほんの少し抜けていた。


「俺は婚約者としてここにいる。つまり、君の味方だ。それだけは、忘れないでくれ」


 ローガンはそう言って、アメリアの左手を取った。


 薬指にはめられた、ワインレッドの宝石が瞬く。

 その指輪に、ローガンは軽く口づけをした。


「これは、君が自分の力で掴んだ証だ」


 あのとき、美術館で交わした約束。


 互いを選び、支え合うと誓った瞬間を思い出すと、アメリアの胸の鼓動がすうっと整っていく。


「……ありがとうございます、ローガン様」


 目を伏せて小さく息を吐いたとき、ようやく呼吸が深く吸えるようになっていた。


 身体の芯を貫いていた緊張の棘が、少しずつほぐれていくのを感じた。

 ローガンがその手を取ったまま言う。


「君がやると決めたなら、俺はそれを支える。それだけだ」


 まっすぐな言葉に、アメリアの胸がじんと熱くなる。


 控え室の外では、楽団の調律音が小さく響き始めていた。

 前夜祭が始まるまで、あとわずかだ。


「……さあ、行こう」


 ローガンが手を差し出す。

「はい」


 アメリアはその手をしっかりと握り返す。

 二人の手が重なった瞬間、指輪がわずかに揺れ、光を受けてきらめいた。


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― 新着の感想 ―
役に立つ娘とわかってからの義母と義兄の手の平返しおもろ。
うーん、王命で実演会が決まったんだよね。 その前に誘拐されてるよね。 なんで王国は王命を遂行するためにアメリアを守らないの? そして前夜パーティー・・・えっと戦争中で負けそうなんだよね? 物凄い余裕…
 アメリアの善性に義兄と義母は陥落、あとは本丸(義父)だな!  妨害しようとしてるのは帝国の間者か、はたまた王国の悪意か。
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