第184話 歩み寄り
前話の前半に、前々話の内容を丸っと掲載するという大ポカをやらかしました。
現在は修正しております。
混乱させてしまい申し訳ございませんでした。
昼下がりの陽光が、芝の上に柔らかな斑模様を描いていた。
まどろむような暖かさが地面から立ちのぼり、空気に微かなゆらぎをもたらしている。
(この庭を歩くのは、いつぶりになるだろう……)
セリーヌは石畳の感触を足裏に確かめながら、ふと背筋を伸ばした。
身体が、重い。昼寝から覚めたばかりの肉体の関節という関節が、動くたびに鈍く軋んでいる。
寝起きの身体を目覚めさすため、散歩に出た次第だった。
「歳は取りたくないものね……」
ぽつりと独りごちて、吐息をひとつ。
空気が肺の奥で跳ね返り、思いのほか深く響いた。
かつてこの屋敷で過ごした日々の名残が、ひとつ、またひとつと胸の底から浮かび上がってくる。
並んだ木々の高さも、花壇の縁取りも、小道のわずかな曲がり具合すらも、どれも変わっていない。
それなのに、風景全体が薄く膜をかけたように遠く感じるのは、きっと自分自身が年月によって変わってしまったからだ。
懐かしさと、微かな寂寥、そしてちくりと滲むような胸の痛み。
それをひとつずつ足元で踏みしめるように、セリーヌはゆっくりと歩を進めている。
「顔を最後に見たのは……もう一年以上も前か……」
ぽつりとセリーヌは溢した。
久しぶりに会った息子ローガンは、第一印象こそ「相変わらず」だった。
細身で、色白で、神経質そうな目元と口元。
どこか頼りなさをまとったその姿は、記憶の中の姿とほとんど変わっていない。
この子に、本当に、この家を託してよかったのだろうか。
そんな疑念が、ほんの一瞬で胸を過ぎった。
しかし母親というものは、残酷なまでに、小さな変化に気づいてしまう生き物だ。
目、だった。ローガンの目が、変わっていた。
瞳に宿る光は、以前のような臆病一色ではなかった。
そこには、覚悟にも似た静かな強さがあった。
何が。いや、誰があの子を変えたのか。
──はいっ、ありがとうございます!
脳裏に、あの明るく澄んだ声が蘇る。
アメリア・ハグル。
ローガンの婚約者。
初対面の印象は、率直に言って悪かった。
田舎臭く、洗練とは程遠い衣服の組み合わせ。
髪型も垢抜けておらず、貴族の娘としての振る舞いにも粗さが目立っていた。
それでも、なぜだか妙に、印象に残る娘だった。
笑えば頬が柔らかく動き、声には素直な温度がある。
どこか人懐っこく、無防備な雰囲気。
取り繕う術を知らないまま、それでもまっすぐ誰かに手を差し出せるような、そんな気配をまとっていた。
ローガンとは、対照的だった。
あの子のような、やや無頓着で無防備な性質に惹かれるのも、理解できなくはない。
むしろ、そういう存在に惹かれてしまうこと自体、彼の内側に空白がある証拠なのかもしれない。
それでも──。
「……馬鹿馬鹿しいわね」
小さく吐き捨てるように呟いたその声は、自分でも気づかぬほど低かった。
言葉の棘が、風に紛れて、芝の向こうへ溶けていく。
その声音には、呆れとも諦めともつかない色が滲んでいた。
冷ややかさの奥に、ひとしずくだけ澱んだ感情が混じっていた。
アメリアが、ローガンを変えた?
例えそうだとしても、所詮は、どこにでもいる素直でお人好しな娘。
貴族としての洗練に欠け、社会の苛烈さも知らず、誰かに笑いかけられればすぐ心を許す。
そういう類の人間が、社交の渦の中で無事に立っていられるとは思えなかった。
いずれ傷つき、立ち上がれないほどに打ちのめされる。
それが、ああいう“優しいだけの子”の末路だと、セリーヌは誰よりも知っている。
――なのに、なぜだろう。
今のローガンの目に宿っていた、あの変化だけは胸に引っかかっていた。
彼が本質的に変わることなど、ありえないと思っていた。
けれど、事実として――“何か”が違っていたのだ。
その何かの正体が、あの少女にあるのだとしたら。
「厄介な話ね……」
呟きと共に、セリーヌは視線を落とす。
思い出すのは、この屋敷に来る前に告げられた、夫の低く抑えた声だった。
――ローガンの婚約者を見極めてこい。
もし、へルンベルク家にふさわしくないと判断したら、その時は……我々の名を以て、婚約を破棄させよ。
冷徹で、非情。
それでいて、揺るぎがない。あの人らしい命の下し方だった。
情を切り捨て、理を通す。血よりも家の誇りを守ることを最優先に。
それが、彼の信念であり――かつての自分も、そう教えられ、そう生きてきたはずだった。
だというのに。
そっと、セリーヌは胸に手を添えて思う。
今この胸に、微かに澱のように残るこの感覚は、いったい何だろう、と。
花壇が視界に入る。石畳の先に広がる一角。
かつて、セリーヌが最も好んでいた場所。毎朝のように手を入れ、季節ごとの花を植え替え、色と高さのバランスを緻密に計算して整えていた。
邸宅の中でも、もっとも「自分の美学」が息づいていた一画。
「あら」
足が自然と、そちらへ向かっていた。
近づくにつれて、崩れた輪郭が目に入る。伸び放題の茎。咲き終えて黒ずんだ花弁。
手入れの行き届いていない葉陰には、枯れかけの蕾が埋もれていた。
「これは……見苦しいわね」
ため息に近い声が漏れた。
裾をさっと払ってしゃがみ込み、手近な葉を払いながら、懐から小さなハサミを取り出す。
刃の重さを指先に感じながら、一枝、また一枝と切り落とす。
古い記憶が、指先に宿る感覚を蘇らせていく。
風の匂い、枝の弾力、切ったあとの葉の輪郭。
そのひとつひとつが、昔の自分の延長線上にあると、思い出させてくれる。
思わず夢中になりかけた、そのときだった。
「……っ」
鋭い痛みが、手首の奥を突くように走った。
反射的に手を引くと、関節の内側に鈍い熱がこもっているのを感じる。
(……やれやれ、またか)
指先でそっと手首を押さえながら、ひとつ、ため息をついた。
かつて無理を重ねた古傷が、冷えや疲労のたびにこうして顔を出す。
切り傷でも打撲でもない、じわじわと蓄積してきたものが疼く感覚だった。
「やっぱり歳ね……昔は一日中手入れをしても平気だったのに」
苦笑を浮かべながら、スカートの裾で手を拭う。
そして草花の揺れる先にそっと目をやったその時。
「あのっ、お義母様!」
背後から飛び込んできた、明るく、澄んだ声。
その声を耳にした瞬間、振り返るよりも早く、セリーヌの胸の内にはあの、どうにも掴みきれない少女の名がくっきりと浮かんでいた。
◇◇◇
昼下がりの庭園は、初夏の陽光に穏やかに照らされていた。
木洩れ日の落ちる砂利道を、小さな足音がひとつずつ吸い込んでいく。
遠くでは風鈴草が揺れ、茎と茎が触れ合うたびに、ほそく涼やかな音を立てていた。
アメリアは、両手でそっと包むように握った小瓶を見つめながら、ゆっくりと歩を進めていた。
ほんのさきほど、偶然にも花園で作業をするセリーヌの姿を見かけたのだ。
長いスカートの裾を品良く翻し、剪定鋏を手にバラを手入れする様は、まるで静謐な絵画の一場面のようだった。
(……今、声をかけるべきかしら)
躊躇いが、心臓の鼓動を一拍ごとに重くする。
けれど、自分は先ほど、お義母様に認められようと決意したばかりだ。
怖じけそうになる心を内側から押し留めるように、アメリアは小さく呼吸を整え、足元を見据えて踏み出した。
「あのっ、お義母様!」
明るさを精一杯に織り込んだ声が、澄んだ空気を震わせた。
その裏で、喉の奥に忍ばせた緊張が、冷たく肌を撫でる。
アメリアの声に、セリーヌが、手を止めて振り向く。
光を弾いた瞳は変わらず涼やかで、その奥にどんな感情があるのかを伺わせない。
「……なんだい?」
低く抑えた声が返ってきた。
短く、感情を削ぎ落とした声音。
思わず足を止めたくなる自分を叱咤しながら、アメリアは静かに一歩を踏み出した。
両手に持った小瓶をそっと掲げる。
「これ……もしよければ、お使いください」
アメリアは、そっと両手で小瓶を差し出した。
瓶の中では、淡い黄緑色の液体がわずかに揺れている。
「ご昼食のとき、手首を押さえてらっしゃったので……」
言葉を選びながら、アメリアは慎重に言葉を続けた。
「ローガン様にお伺いしたら、昔、落馬されたことがあると……そのときに捻ってしまったのではないかって……」
その瞬間、セリーヌの目元がかすかに動いた。
「……ローガンめ。余計なことを……」
吐き捨てるような声の中には、わずかに苦笑めいた色が混じっていた。
続くため息は、どこか諦めたような響きを帯びていた。
「これはね、古傷なのよ。もう治るようなものじゃないわ。冷えたり、疲れが溜まったりすると疼く……ただ、それだけ」
まるで、長年の付き合いに匙を投げるような声音だった。
だが、アメリアはひるまなかった。
両手に包んだ小瓶を、ほんの少し前に出す。
「この薬は、慢性的な炎症や関節の腫れにも効果があります。自然由来の成分ですが、深部の熱やこわばりに働きかけて、痛みを和らげるんです」
言葉は丁寧に、けれど語気には揺るぎがなかった。
「完治とまでは言えません。でも、今より少しでも、楽になると思います」
そのまっすぐな視線に、セリーヌは短く息を飲んだ。
しばしの沈黙が流れる。
風の音さえ遠のいたかのように感じられた。
「……じゃあ、ありがたくいただくよ」
静かにそう言って、セリーヌは小瓶に手を伸ばした。
その手は、震えもせず、戸惑いもなく、まるで何かを受け入れることを、ほんの少しだけ許したようだった。
「ありがとう」
その一言は、囁くように小さかった。
頑なな氷の表面に、ごく小さな温もりのしずくが落ちるような、そんな声。
かすれたその一言に、明確な感情があるわけではなかった。けれど。
アメリアには、しっかりと伝わった。
昨日までの張り詰めた冷たさ。
氷の膜で覆われていたような言葉の質感が、ほんの少しだけ、変わっていた。
氷に、陽が射したときの、あのじんわりと解け出す感覚に似ている。
アメリアは、はっと目を瞬き、それからぱあっと顔を綻ばせた。
「どういたしまして……!」
その笑顔は、まるで春先に差し込んだ陽だまりのようだった。
胸の奥にしまっていた不安が、するするとほどけていくのが自分でもわかる。
(嬉しい……受け取ってくれた……少しだけど、心を許してくださった気がする)
そう思うと、こみ上げてくるものがあった。
まだ何も始まっていないかもしれない。
けれど今のひと言、”ありがとう”だけで十分のように感じた。
アメリアが再び穏やかに頭を下げたその隣で、セリーヌは誰に語るでもなく、ひとりごとのように呟いた。
「……うちに薬師なんて……いたかしらね」
その声は、ごくごく小さく。
そして、アメリアには届かないほどの、風の中に沈んでいった。
アメリアが顔を上げると、セリーヌは視線を逸らしたまま、小瓶をしっかりと握っていた。
アメリアは、そっとその横顔を見つめる。
風が、花壇の薔薇を撫でて通り過ぎていく。
淡く澄んだ香りが、陽の光に乗って漂い、葉陰が揺れる。
一枚の花びらが、空からひらりと舞い降りた。
(な、何か、話題を……)
単純に次の言葉が出てこなくて、アメリアの額にじわりと汗が浮かんだ。
薬を渡すことだけは考えていたが、そこから何か会話を広げようとは考えていなかった。
セリーヌはローガンの母親らしく、自分から話の種を撒くつもりはないらしい。
(えーと、何を話せばいいかしら……? 天気のこと? お花のこと……? えーと、えーと……)
頭の中をぐるぐるさせていると、喉の奥に言葉がせり上がってきた。
単なる立ち話ではすまないそれは、関係を一歩進めるほどの威力を持つ提案。
それを押し出す勇気と、ためらいとが拮抗する中で、アメリアはそっと小さく息を吸い込んだ。
「あの、お義母様」
呼びかける声に、セリーヌの肩がかすかに動いた。
それだけで、鼓動が跳ねた。けれど、自分の声が思っていたよりも震えていなかったことに、アメリアはほのかな安堵を覚えた。
「もし、よろしければ……」
言葉を噛まないように、心を込めて、丁寧に。
ゆっくりと、相手の心の扉をそっと叩くように、アメリアは言葉を紡いだ。
「ご一緒に……お茶など、いかがでしょうか?」
◇◇◇
午後の陽射しが、庭のテラスを斜めに照らしていた。
白薔薇の垣根が風に揺れ、葉擦れの音が静かな律動となって空気を撫でる。
テーブルの上には、光沢を帯びた銀のティーポットと、青い花模様のティーカップ。
香り高い一杯のためにと、アメリアが慎重に火を入れた、選りすぐりの茶葉――自分の知識と経験のすべてを注ぎ込んだつもりだった。
セリーヌは、対面でカップを手に取る。
その動作はまるで絹糸を引くように優雅で、わずかな乱れすらない。
静かに口元に運ばれるそれを、アメリアは固唾をのんで見守った。
(どうか、お気に召しますように……)
祈るような気持ちで、セリーヌを見守った。
目の前で、カップのふちに唇が触れる。
ひと口、淡い音を立てる。そして、沈黙。
やがてセリーヌは、ゆっくりとカップをソーサーへと戻し、目線を下ろしたままぽつりと言った。
「……悪くないわね」
その言葉の淡さに、拍子抜けするほどほっとする。
胸の奥で張り詰めていた何かが、ふっと緩んでいく。
「本当ですか……? よかった……」
安堵と、どこか掠れた声が同時にこぼれた。
「何の茶葉を使っているのかしら?」
セリーヌが視線をこちらに向ける。
鋭くはないが、透き通るような観察者の眼差しだった。
「えっと……これはリュクシアの香草紅茶と呼んでいます。ローズマレーとレモンハーム、それにカモミーを少し。すべてエルト高原で採れる野草です。低温でじっくり乾燥させて、香りを逃がさないようにしてから……」
言葉が止まらなくなっていることに気づき、アメリアは慌てて口を閉じる。
「……って、申し訳ございません、ベラベラと……」
「聞いたことのない組み合わせね。もしかして、市場には出回っていないの?」
「はい。市販ではなく、私の……自作です」
少しだけ恥ずかしさを感じながらも、アメリアはまっすぐに答えた。
言葉に含まれる自信は、控えめながら確かだった。
「自作……」
予想外だったのか、セリーヌは僅かに目を丸める。
そして再びカップを手に取り、もうひと口。
今度は、やや長めに口に含んで味を確かめているように見えた。
その目元に、わずかな思案の色が差して。
「……紅茶を淹れる腕は、あるようね」
その声は、あくまで平坦で、感情の波は見えなかった。
けれど、それは「否定ではない」言葉だった。
アメリアは驚き、そして胸の奥にじんわりと温かなものが広がっていくのを感じた。
「ありがとうございます……そう言っていただけて、本当に、嬉しいです」
素直な気持ちをそのまま言葉にして、アメリアは小さく頭を下げた。
顔を上げたとき、セリーヌは窓の外を見ていた。
その目の端にあるものが、ほんの少し、柔らかくなっていた気がした。
(思っていたよりも、怖い人じゃない……のかも)
一見怖そうに見えるけど、ただ口下手なだけで、話してみると優しくて温かい。
そんな人物の存在を、アメリアは最も身近に感じている。
……ましてやセリーヌはその人物の母親なのだ。
同じ血を引いているのは至極当然といえる。
そう考えると、途端に彼女に対する恐怖心は薄れていった。
薄く閉ざされた扉に、ごくわずかな隙間が生まれた、そんな気がしたのだった。
◇◇◇
紅茶の香りがかすかに風に乗って、木立の合間をすり抜けてくる。
春とはいえ、南風にしてはひんやりとした空気が、陽だまりと陰の境界を揺らしていた。
ローガンは、庭の一隅にある白薔薇のアーチの陰に立っていた。
姿を隠す意図はなかったが、足は自然とこの場所に止まっていた。
石畳の向こう、陽の当たるテラス席に、アメリアとセリーヌが向かい合っている。
ふたりの会話はここからでは聞こえない。
ただ、テーブルに差し込む光、ティーカップを持ち上げる所作、頬に浮かぶごくわずかな陰影。
それらから察する限り、激しい衝突があった様子はない。
だが、それでも。
彼の胸の内には、得体の知れない緊張がひそやかに残っていた。
(大丈夫だろうか……)
最愛の人が、自分の母親と初めて真正面から言葉を交わしている。
その事実が、想像していた以上に、彼の神経を尖らせていた。
そんな折、背後から静かな気配が近づく。
「ご心配ですかな?」
重ねた年月を感じさせる、穏やかで節度のある声だった。
振り返らずとも、誰かはわかっていた。オスカー。幼少の頃からずっと傍にいて、父の命に従いつつも、いつもひとつだけ余分な手を差し伸べてくれた男。
「当然だろう」
ローガンは、目を細めたまま静かに返した。
「母親」と「アメリア」
このふたりが、無理に関わらずに済むのなら、それに越したことはない。
以前のローガンは、そう思っていた。
だからこそ、アメリアのことは両親に伏せていた。
セリーヌは、生まれながらに高潔で気位が高い人だったと聞いている。
常に毅然としていて、情より理を優先する。
その冷徹さは、時に家族さえも例外ではなく、ローガン自身、幼いころから幾度となくその峻厳さを目の当たりにしてきた。
アメリアは違う。
優しくて、素直で、傷つきやすい。
争いを避け、誰かに嫌われるくらいなら、自分を殺してでも周囲に合わせてしまうような子だ。
正直に言えば、交わってほしくなかった。
対照的なふたりが無理に交われば、おそらくアメリアの方が傷つく。
その姿を見ることになるのが、怖かった。
だからこそ、会わせるのを先延ばしにしてきた。
だから今回の母親の急訪は正直焦った。
案の定、母はアメリアに対し鋭い言葉を投げかけ、アメリアは萎縮するそぶりを見せた。
──だが、アメリアは逃げなかった。
セリーヌに対しても持ち前の明るさで接し、正面から言葉を紡ぎ、自分の気持ちを届けようとしている。
繕わず、怯まず、真正面から。
そのなんとも綱渡りな状態にローガンは肝を冷やしていた。
「とはいえ、ローガン様」
オスカーが、まるで若い主の言葉を受け止めてから続けるように、少しだけ間を置いて言った。
「アメリア様なら、大丈夫でしょう」
その断言に、ローガンはゆっくりと視線を落とす。
白薔薇の葉がわずかに揺れ、遠くで鳥がひと鳴きした。
「それに……セリーヌ様は、確かに気難しい方ですが」
オスカーは語調を柔らげたまま、言葉を重ねる。
「物分かりは、決して悪くない方でございます。それは、息子であるあなた様が、もっともよくご存知でしょう?」
その言葉に、ローガンはふと目を伏せた。
胸の奥に差し込んだのは、懐かしい痛みだった。
幼いころ、母の指導のもとで武術を学んでいたときのことを、ふと、思い出す。
厳しく、冷静で、感情を表に出さない人だった。何をしても無言。
どれだけ努力しても、決して言葉にして褒められたことはなかった。
それでも、間違えば即座に正され、無駄なことは決してさせなかった。
――だからこそ、正しさだけは、いつもそこにあった。
報われることのない期待。
けれど、否応なく引きずってしまう憧れ。
それが、彼にとっての「母」という存在だった。
「……そう、だな」
静かにそう呟いた声には、どこか諦めに似た温度が滲んでいた。
その背中を、かつて追いかけた少年の記憶が、今も彼の奥に微かに残っていた。
オスカーは目を伏せ、言葉を継ぐ。
「少なくとも、お父上よりは……」
その一言が、やけに静かに響いた。
空気の温度がわずかに変わったような錯覚を覚える。
ローガンの眉がぴくりと動き、次いで小さく、低く息を吐いた。
「……わかっている」
それきり、口をつぐむ。
苦虫を噛み潰したような、というよりも、喉元に釘でも引っかかったかのような、重苦しい沈黙だった。口元は硬く結ばれ、目はどこか遠くを見ている。
表情はまるで石像のように動かないのに、内側では何かが軋んでいた。
父、レオンハルト・へルンベルク。
激情と理性、その両極を併せ持った男だった。
豪胆で、言葉に力があり、人を動かす“何か”を生まれながらに備えていた。
そしてその情熱は、常に“家”に向いていた。
息子を慈しむよりも、後継としての価値を測り、王都での発言力を高めるための駒として、冷徹な期待を押し付けてくる。
何よりも厄介だったのは、彼がただの冷血漢ではないことだった。
ふとした瞬間、激情を伴って声を荒げる。
理屈より信念、結果より意地。
そうした父の怒りは読めないし、避けようもない。
そして一度火がつけば、誰であろうと退かない。
それは母・セリーヌでさえも例外ではなかった。
ローガンにとって、父は常に“正しいか否か”ではなく、“父であるから従うべき存在”だった。
対話は成り立たず、反論は火に油。
幼い頃の記憶にあるのは、言葉ではなく“空気”の重さ。
その場にいるだけで、身体が硬直していた。
何も言われなくとも、全身で否定されてしまう。
そういう相手だった。嫌な記憶から目を逸らすように、ローガンの視線は、再びテラスへ戻っていた。
アメリアが、笑う。
セリーヌが、紅茶を口に運ぶ。
遠目に見た限り、心を通わせるにはまだ程遠いだろう。
けれど、しっかりと会話があり、間があり、返事がある。
――アメリアなら、きっと。
そう思ってはいても、胸の中の心配は完全には拭えるままだった。
◇◇◇
食後の紅茶も、残すところわずかになった頃。
窓の外で冷たい風がそっと吹き抜け、カップの縁に微かに残った香りを、静かに揺らしている。
セリーヌは沈黙のまま、ティースプーンで軽くカップの底を回す。
白磁の器に当たる金属音が、ひときわ小さく鳴った。
アメリアは、迷った末に意を決したように口を開く。
「お義母様……その、よろしければ、お好きなお花をお伺いしてもよろしいですか?」
唐突な問いかけに、セリーヌの手がぴたりと止まる。
手元のカップに指を添えたまま、ゆっくりと視線をアメリアに向けた。
「……花?」
「はい。今、お庭で育てている植物の組み合わせを考えていて……お好きなお花があれば、参考にしたいなと思いまして」
静かな空気が、一瞬だけ張り詰める。
セリーヌは数拍の間、じっとアメリアを見据えていたが、やがてふっと目を伏せるように言葉を落とした。
「……ユキアゲハ。冬の始まりに咲く花よ。清らかで、強くて、誰にも媚びず、ただ静かに、凛として咲いている。――そういう花が、好き」
その声音は柔らかいというより、むしろ無機質に近く、あくまでも“事実だけを述べた”という調子だった。
そしてすぐに、そっけなく言い添える。
「……聞かれたから答えただけよ。別に、取り入れなさいと言ったわけじゃない」
しかし、その次の瞬間。
「ユキアゲハ!」
アメリアがぱっと目を輝かせ、身を乗り出すようにして声を上げた。
「わかります! 良いですよね、ユキアゲハ! あの白と紫の色合い、ふわっとした花弁の縁にほんの少し冷たい空気を含んだような質感、まさに“冬の妖精”って感じで……!」
話しながらアメリアの頬がどんどん紅潮していく。
その瞳はすでに温室の中を駆け巡っているかのように輝き、言葉が途切れることなくあふれ出す。
「冬のはじまりに咲くという点も、ほかの多年草とは違って面白いんです。通常は多年草って春から初夏にかけて咲くものが多いのに、ユキアゲハはあえて寒さの中で咲きますよね? それに、霜に当たっても花弁が傷みにくい構造なんですよ。実はあれ、細胞壁の構造がちょっと特殊で――」
言いながら、はっと口元を押さえる。
自分が喋りすぎていたことに、ようやく気づいた。
「も、申し訳ございません……また、ベラベラと……」
顔を赤くして俯くアメリアに、セリーヌはわずかに目を見開いた。
目の前の少女が、これほど夢中になるものがあるとは、思いもしなかったのだろう。
「……い、いいえ。博識なのは……良いことだと思うわ」
言い終えたあと、セリーヌは小さく咳払いをした。
押し切られたような、それでいてどこか悪くないという風でもある。
しかしその声音には、ごく微かな調子の揺らぎが混じっていた。
その反応に、アメリアはそっと微笑んだ。
(よかった。ちゃんと、届いた……よね?)
若干怪しい気がするが、会話は成立したとアメリアは判断する。
「今度は、私から聞いても?
会話だけでなく、キャッチボールも成立したことにアメリアは表情は明るくする。
「あ、はい! どうぞ!」
「あなたの実家。ハグル家で学んだことで、今も役に立っていると思うものは?」
突き刺すような質問だった。
だがセリーヌの声音は淡々としていて、ただ純粋に興味を抱いたかのようでもあった。
アメリアは、一瞬だけまぶたを伏せ、それから静かに言葉を紡ぐ。
「……我慢すること、でしょうか」
微笑みすら浮かべて、それでも目の奥は、どこか遠い。
「嫌なことを飲み込んで、何も言わずにやり過ごす。それを何年も続けてきました。でも最近は……我慢ばかりが正しいとは限らないって、少しずつ学び始めています」
セリーヌの指先が、ティースプーンから離れる。
「その歳で、よくそこまで冷静に言えるわね」
皮肉とも、賞賛ともつかぬ呟きだった。
アメリアは、再び口を開く。
「お義母様は……いつ頃から、その……貴族としての振る舞いを、自然にできるようになったんでしょうか?」
セリーヌは少し驚いたように、片眉を上げる。
「質問の意図は?」
「私、まだどこか、背伸びしているようで。どうしたら、ちゃんとなれるのかなって」
しばしの沈黙、セリーヌは答えた。
「“慣れる”より、“構築する”の。完璧な立ち居振る舞いは、自分を守る盾であり、他人を寄せつけない鎧にもなる。私はそうしてきただけ」
「……鎧、ですか」
「ええ。あなたのように、感情をあけすけに出すやり方は、私には到底できない」
アメリアは思わずうつむきそうになったが、ふっと力を込めて背筋を正した。
「私、きっと……まだまだ未熟です。でも、少しでも前に進めるように、頑張りたいと思っています」
「そう……あなたらしい答えね」
セリーヌの口元が、わずかに動いた。
けれど、その微かな変化は、表情と呼ぶにはあまりに小さく、すぐに元の無表情へと戻ってしまう。
ふたりの間に流れていた緊張と静けさは、再びテーブルに降り積もった。
それでも、どこか、さっきまでとは違う余白があった。
互いに歩み寄ったわけではない。
心が通じ合ったとも、信頼が築かれたわけでもない。
ただ、言葉を交わした。ほんの少しだけ、素の心を垣間見せあった。
それだけのことが、アメリアには妙に印象深く感じられた。
(……やっぱり、こうして話すだけでも、意味があるわね)
温かい紅茶の余韻を感じながらカップを置いたそのとき、アメリアはふと、足元にかすかな違和感を覚えた。
ふわ、ふわ、と。やわらかな毛並みが、スカートの裾を掠める。
「……ユキ?」
思わず名前を口にしたときには、すでにその小さな白い影がテーブルの下をすり抜け、まっすぐにセリーヌの足元へと向かっていた。
それはまるで、春先の陽だまりが姿を変えて現れたかのような、穏やかで愛らしい動きだった。
「がうっ」
ホワイトタイガーの子、ユキは、きちんと揃えた前足でセリーヌの足元に腰を下ろし、つん、と鼻先でスカートの裾を軽く突いた。
さーーーっと、アメリアの表情から血の気がひいた。
「ユキ、だめよ! その人は……」
アメリアが立ち上がろうとした、そのときだった。
「か……か、か……」
セリーヌの肩が、びくりと震えた。
目を見開いたまま、ユキの姿に釘付けになっている。
あの無表情を絹で覆ったような顔に、微かに朱が差した。
「可愛い……!!」
「へ?」
アメリアは言葉を失った。
「よしよし、なんて愛らしいの……あなた、どこの子? ふわふわねえ、どうしてこんなに綺麗なの? ねえ、触ってもいい? ああ、いい子、いい子……!」
声のトーンは柔らかく、目尻は自然に下がり、両手はユキの頭と首を撫でるのに夢中になっている。
その姿は、つい先ほどまで隙ひとつ見せなかった中年の夫人のものとは、とても思えなかった。
「セリーヌ様……?」
アメリアがようやく言葉を取り戻すと、セリーヌはぴたりと動きを止め、はっと我に返ったように咳払いをひとつした。
「……動物には、少々目がなくて」
その頬には、珍しく戸惑いの色があった。整えられた口元も、どこかぎこちない。
「可愛らしいところも、あるんですね」
アメリアがそっと笑いかけると、セリーヌは目を伏せ、ふいと顔を背けた。
「……し、仕方ないでしょう。夫が動物嫌いで……飼わせてもらえなかったのよ」
ぽつりと落ちたその言葉には、冗談めいた響きと同時に、小さな影が潜んでいた。
誰よりも完璧を求められ、常に冷静であろうとしていた。
その言葉からは、そんなニュアンスが聞いてとれた。
「ユキ、セリーヌ様に好かれて、よかったわね」
アメリアは微笑みながら、ユキの背を撫でる。
「わふっ」
毛並みは陽を吸ったように温かく、すり寄ってくる小さな身体の鼓動が、指先に伝わってくる。
(……やっぱり、悪い人じゃない)
そう思ったとき、アメリアの胸の中にあった緊張が、ほんの少し、ほどけた気がした。
完全に打ち解けたわけではない。
けれど、この人にも好きなものがあるのだと知れたことが、何より嬉しかった。
空を見上げれば、柔らかな光が庭の上に降りていた。
風に揺れる花の香りと、ユキの白い毛の匂いと。
そのすべてが、ふたりの間に流れる空気を和らげていた。
◇◇◇
王都の南端にそびえるカイド大学は、トルーア王国でも屈指の知の殿堂として知られている。
石造りの重厚な外壁、鋳鉄の門に囲まれた広大な敷地。
分野ごとに分かれた研究棟は、それぞれ独自の文化と匂いを持っていた。
こと薬学研究棟は、日夜多くの研究者と学生が出入りし、薬草と試薬の香りが常に漂っている場所だ。
だが、夕刻を過ぎるとさすがに人影はまばらになる。
校舎の灯りも一つ、また一つと落ちていき、大学は静寂に包まれつつあった。
そんな中、ひとつだけ、灯りの消えない部屋があった。
薬学研究棟の奥にある個人研究室。
その中で、ひとりの男──ウィリアムが机に向かっていた。
若干二十代で薬学博士号を取得し、“植物と人間の共生”をテーマに多数の論文を発表してきた天才研究者であった。
白衣を着たまま椅子に深く座り込み、彼は粉末を掬った銀製の薬匙をゆっくりと持ち上げる。
「あ……」
パキッ――。
乾いた音が研究室に響く。
薬匙が机の縁から滑り落ちてしまった。
「……駄目ですね、全然集中できない」
自嘲気味に呟き、薬匙を拾い上げる。
しかし運の悪いことに、薬匙は落ちた時の衝撃で真っ二つになっていた。
ウィリアムは額に白衣の袖をあてて大きくため息をついた。
書類や標本、書きかけの調合式が散乱する机の上。
そのどれもが、いまの彼の目には曇って見える。
数日前。
アメリアの誘拐の報せが届いた時の衝撃が、まだ胸に刺さったままだ。
「アメリア様が、誘拐されるなんて……」
呟きは空気に溶けるように淡く、重かった。
彼女は拉致され、監禁され、命の危険にさらされた。
そして最終的には屋敷の火災にまで巻き込まれたと聞く。
幸いにもローガン公爵の迅速な判断と行動により、命は助かった
――しかし。
(もし、彼女が……あのままだったら)
ゾッとする。
彼女がこの世から失われていたら――それは、王国にとって甚大な学術的損失であるだけでなく、個人としても取り返しのつかない喪失だった。
(国家レベルの損失だ……いや、そんな打算的な話ではない)
ウィリアムはそっと目を伏せた。
今や、アメリアは“生徒”という枠を超えた存在だった。
ともに薬草と向き合い、未知の薬理を検証し、紅死病という王国の脅威に立ち向かってきた。
研究者として、そしてひとりの医療人として――彼女は間違いなく、ウィリアムにとって“戦友”だった。
だからこそ。
彼女の命に、明確な悪意が向けられたことに、ウィリアムは未だ心のざわつきを抑えきれずにいた。
彼女のような人間が、なぜ――。
眉間に皺を寄せ、彼はそっと天井を仰ぐ。
(誰が、なぜ、彼女を狙った?)
アメリアの植物に対する知識、紅死病治療薬の功績は秘匿性の高いものとして、ウィリアムは限られた人物にしか周知していない。
そもそも、アメリアという知ってい者は限られているはず。
(でももし、漏洩していたとしたら……?)
ぞわりと、ウィリアムは寒気を感じた。
そのとき、研究室の扉が三度ノックされた。
間髪入れずに扉が開く。
「ようウィリアム。今日も草いじりに夢中か?」
とぼけた声と共に扉が開き、にやにやと笑いながら入ってきたのは、筋肉質な体格に白衣を羽織った男――ウィリアムの同僚、リードだった。
植物研究とは到底縁遠く思える逞しい体つき、短く刈られた髪と整えられた髭、どこか陽気さを帯びたその立ち姿は、薬学者というより兵士に近い。
「……リード。ノック三回の約束は守られてますけど、入室の許可はしていません」
「固いこと言うなって。顔見に来ただけだ」
勝手知ったる様子で椅子を引き寄せて腰を下ろすリードに、ウィリアムは深く息を吐いた。
リードの視線が、ふと机の上に向かう。
そこには、真っ二つに折れた薬匙が無残な姿で転がっていた。
「また薬匙を壊したのか」
「手が滑っただけです」
「それ、確か最後の一つだって言ってただろう?」
「気にしないでください。面倒な申請をまた出せば済む話ですから」
ウィリアムが肩をすくめると、リードは胸ポケットに手を入れた。
「しばらく、これ使え」
そう言って差し出されたのは、銀色に鈍く光る薬匙だった。
「……ありがとうございます」
受け取ったウィリアムは、一礼するように軽く頭を下げる。
ふと、持ち手の部分に視線が止まる。そこには、細かくすり減った跡が残っていた。
「親指で持ち手を擦る癖、治さないんですか?」
「それしないと、どうも落ち着かなくてね。……真っ二つにする誰かさんよりマシだと思ってるよ」
ふっと、わずかに空気が和らいだ。
「――そんなことより、アメリア様の件、聞いたか?」
「ええ。あなたより早く」
ウィリアムの声は淡々としていたが、その奥には珍しく怒りにも似た苛立ちが潜んでいた。
「無事だったとはいえ……下手をすると取り返しのつかないことになっていた」
「だな。俺も正直、背筋が冷えた」
リードは肩をすくめながら言う。
「でも、こういうときは焦っても仕方ねぇ。冷静に、だろ?」
「冷静に……ですか」
ウィリアムは俯いたまま、机の上に広がる未整理のメモに視線を落とす。
文字の羅列を見ていたら心が次第に落ち着いてくるあたり、生粋の研究者であることを嫌でも自覚してしまう。
「にしても、誰があんな真似を……」
神妙な面持ちを浮かべて言うリードに、ウィリアムは答える。
「アメリア様の薬草知識、調合能力、そして紅死病の新薬――その価値を正確に把握していた者なんて、そう多くないはずです。学内で知っていたのは、私と、信頼できるごく少数の研究員、あとは……学長くらい」
「登場人物は全員、物騒な連中とは関わりのなさそうだな。それ以外に漏らした心当たりは?」
リードが、わざとらしく軽く尋ねる。
ウィリアムは首を振りつつも、リードの顔をじっと見つめて田鶴出た。
「まさかとは思いますけど、アメリア様の能力について、誰かに口外したことは?」
「あるわけないだろ。俺が言ったところで何の利があるんだよ」
リードは鼻で笑いながら答える。
その様子に芝居がかっているところはなく、むしろ正直すぎるくらいの口ぶりだった。
「むしろ、いなくなられちゃ困る。あの子のおかげで、紅死病の研究は飛躍的に進んだんだからな。あんな天才、百年に一人いるかどうかだ。俺にとっちゃ貴重な共同研究者みたいなもんだぜ」
言いながら、懐から一枚の書類を取り出し、机に滑らせる。
「そのアメリア嬢についてだがな、これが本題で来たんだ」
書類を受け取ったウィリアムは、手早く目を通しながら眉を寄せた。
その表情がみるみるうちに曇りが差し込む。
「……やはり、こうなりますか」
そのつぶやきに、リードが片眉を上げる。
「低価格で大量生産できる紅死病の新薬ってんなら、国中が注目するのも当然だろ? むしろいいことじゃねえか」
「それは……そうです。正論ですけど……」
ウィリアムの表情は渋かった。
リードが持ってきた紙面に記載された内容は誉れ高いことではある。
しかし現状のアメリアのことを思い浮かべると、素直に喜べない自分がいる。
そんな彼の心情を知ってか知らずか、リードは立ち上がると軽く肩をすくめて言った。
「ま、俺から言えるのは一つだけだ」
ドアノブに手をかけながら、振り返る。
「お前も気をつけろ。アメリア嬢ほどじゃなくても、お前だって十分、目立つ存在だからな」
ひらりと手を振って、リードは研究室を後にした。
ウィリアムはその背中を見送りながら、再び机の紙面へ視線を落とした。
(さて、どうアメリア様にお伝えすべきか)
その胸の内には、研究者としての責任と、ひとりの友人としての葛藤が静かに渦巻いていた。
◇◇◇
あっという間に晩餐の時間となった。
ダイニングルームの中央、重厚なオーク材のテーブルには絹のクロスが敷かれ、その上に一品一品、丁寧に盛りつけられた料理が並んでいる。
銀器は磨き抜かれ、燭台の灯りを受けてさながら夜空の星のようにまたたいていた。
料理から立ちのぼる湯気が、その光に淡く溶け込み、まるで食卓全体が小さな夜空のように浮かび上がって見える。
アメリアはローガンと共に食卓に座っていて、対面にはセリーヌが座っている。
夕餉の席も、また別の緊張感を帯びていたが。
(昼食のときよりも、角が取れたような……気もする……?)
心の中でアメリアはそう思った。
真っすぐな姿勢で椅子に座るセリーヌの表情は、変わらず凛としている。
だが、どこか表情の端に、角を削いだような穏やかさがにじんでいた。
完璧に整えられた口元、まつ毛の長い伏し目、背筋を伸ばした気品ある姿勢。
そのどれもが厳格そのものだが、今の彼女は、午後の陽を吸った陶器のように、微かに温もりを宿していた。
午後のティータイムで会話ができたのもあって、ほんの少しだけ心の距離が縮まった実感をアメリアは抱いていた。
タイミングを見計らいながら、アメリアはそっと声をかける。
「お義母様本日のメインはお口に合いましたか?」
(あっ……いけない、緊張でつい早口に……)
息継ぎも何もなくただ文字を羅列してしまい、心の中で反省する。
しかしセリーヌはさほど気にした様子なく、スプーンを置いてから、ちらりとアメリアに視線を向けた。
「……ええ、悪くなかったわ」
それだけの返答だったが、語調に刺はない。
むしろその無愛想さの中にかすかな余白が感じられた。
アメリアは小さく息をついて、胸の中でそっと微笑む。
「ローガン様から、低温調理した子羊の肉がお好きとお伺いしたので、それで……」
「シェフに、今晩のメニューに入れてもらった」
ローガンが横から補足してくれて、アメリアはこくりと頷く。
セリーヌはフォークを持った手をふと止めたあと、小さくつぶやいた。
「へえ。気が利くのね」
それは、決して過剰な褒め言葉ではない。
だが、初対面のセリーヌの印象が強いアメリアにとって、その一言は胸にじんわりと染み込んだ。
(よかった……)
小さな達成感に似た安堵が、心の奥に灯る。
その感情がほんの少し表情に出てしまったのだろう。
隣席のローガンが、ふっと目を細めて穏やかに笑った。
アメリアは頬を緩め、スープ皿に視線を落とした。
スプーンに掬われたスープは、淡いハーブの香りと共に湯気を立て、食欲をそっと誘う。
と、そのとき。
「アメリア」
唐突な呼びかけに、アメリアは思わずきょとんと顔を上げた。
「あ、はい」
ローガンが手をすっと伸ばす。
そして、すらりとした指先でアメリアの手首を取り、袖口をそっと折り返した。
「袖がスープに触れそうだった」
それだけ言って、手を離す。
その動きに特別な感情が込められていたわけではない。
けれど、アメリアの頬がほんのりと朱に染まった。
「……あ、ありがとうございます……」
声をひとつ出すのに、喉が妙に熱を持っている。
声がうわずったのを自覚し、アメリアは慌てて喉の奥で息を整えた。
けれど顔の火照りは収まらず、視線を落としたままフォークを指でなぞるように弄んでいた。
そんな彼女の耳に届いたのは、向かいから聞こえた、ひとつの咳払いだった。
「こほん」
控えめながらも、その響きには棘があった。
たしなめるようで、どこか呆れも混じっていて、それでいてほんの少しだけ微笑ましさを滲ませたような、複雑な間合い。
アメリアは瞬間的に背筋を伸ばし、姿勢を正す。
(み、見られちゃった……うぅ……恥ずかしいよう……)
妙なむず痒さを覚えて、アメリアは膝の上で手をぎゅっと重ねた。
「それにしても……」
次に発されたセリーヌの声は、やはりいつものように淡々としていて、けれどその中に、ほんの少しだけ意外そうな色が混じっていた。
「あなた、よくそんなぶっきらぼうで面白みのない男が好きになれたわね」
フォークを皿に置きながら言ったその言葉に、アメリアは思わず動きを止めた。
一瞬だけ沈黙が落ちる。
だがそれは、戸惑いからではなかった。
アメリアの胸の奥には、まるで小さな灯がともるような、はっきりとした確信があった。
「そんなこと、ありませんっ」
きっぱりと答えた声は、先ほどまでの照れを打ち払うように真っ直ぐで、揺れのない響きを持っていた。
「確かに、ローガン様は不器用です。口数も少なくて、無愛想に見えることもあると思います。でも……すごく真面目な方で、どんなときでも嘘をつかない人です。誰に対しても、誠実だし、優しいし……」
そこまで話して、息を注ぐように手元のナプキンに視線を落とす。
けれど、すぐに顔を上げ、視線をまっすぐセリーヌに向けた。
「言葉に飾りがない分、いつも本音で向き合ってくださる。その真っ直ぐさに、私は何度も救われてきました。……私にとっては、それが何よりも嬉しいことなんです」
真摯な声音とともに重ねられた言葉は、食卓を照らす燭台の光のように、淡く、それでいて確かなぬくもりを帯びていた。
対するセリーヌは、思わず目を見開いたまま、アメリアの顔をじっと見つめた。
少しだけ、驚いたような表情。
「……本当に、ローガンのことが好きなのね」
その声は、どこか息を呑むように小さかった。
「はい、とても!」
迷いなど微塵もなく、アメリアは微笑んだまま頷いた。
その笑みには、少女のような無垢さと、大切な人を思う誇らしさが、等しく混じっていた。
セリーヌはふっと視線を逸らし、細く整えられた指先でグラスの脚をそっと撫でる。
唇がわずかに開き、そして閉じた。
「……そう」
それだけの言葉だった。
けれど、その声音はさっきまでとはどこか違っていた。
どこか遠くの景色を思い返すような響きを孕んでいて、その奥には、ほんのわずかな――羨望のようなものが滲んでいた。
(…………?)
セリーヌの表情から漂うニュアンスを汲み取れずアメリアは首を傾げる。
窓の外では、紫と紺のあいだを揺らぐような宵のグラデーションが空を染め、カーテンの裾が夜風にそっと揺れている。
食卓に灯る光は穏やかに揺れ、皿の上の残り香が静かに余韻を残す。
結局最後まで、セリーヌの心情を察することはできなかった。
しかし、ほんのわずかだけど、距離が縮まった。
その実感は、冷えた手を包む紅茶のぬくもりのように、静かにアメリアの胸の内へと染み込んでいった。
◇◇◇
寝室の静けさは、昼間の喧騒が嘘のようだった。
高窓から差し込む月明かりが、透けるカーテン越しに柔らかな銀色の光を部屋に落としている。
アメリアとローガンは、ベッドの縁に並んで腰を下ろしていた。
まだ眠るには早いが、衣服はもう就寝の支度に整えられている。
アメリアの髪はほどかれ、ベッドにカーテンのように降りていた。
「はふう……」
力の抜けたようにアメリアは息を漏らした。
ローガンの隣に座るだけで、昼間の緊張が少しずつ解けていくような気がする。
「疲れただろう」
「はい……少しだけ……」
予期せぬ来訪者に1日気を張っていたのもあり、身体から張ったような疲労を感じる。
しかし、悪いことばかりでもなかった。
「ふん……ふふふーん……」
アメリアは小さく鼻歌を口ずさむようにして、薄い毛布の端を撫でる。
どこかふわふわと浮足立った表情に、ローガンがそっと目を向けた。
「……と思ったら、ずいぶんと上機嫌になったな」
アメリアははっとして顔を上げ、頬に赤みを帯びる。
「は、はい……少しだけ、セリーヌ様と分かり合えたような気がして……」
照れたように笑うアメリアに、ローガンはわずかに唇の端を緩めた。
「ティータイムでは、何やら仲睦まじそうだった」
そのたったひと言に、アメリアの肩がびくりと跳ねる。
「も、もしかして、見ていたんですか!?」
「ああ、少しだけな」
言われた瞬間、アメリアは両手で顔を覆った。
「ううう……まさか見られてたなんて……」
肩を小さくすぼめて縮こまるアメリアに、ローガンは苦笑しながらそっと手を伸ばす。
そして彼女の背に手を添えて言った。
「恥ずかしがる必要はひとつもない。むしろ……」
アメリアの目をまっすぐ見て、ローガンは言う。
「君は、本当にすごいな」
「……え?」
アメリアが顔を上げる。
ローガンは月の光に照らされた静かな瞳で、まっすぐ彼女を見つめていた。
「誰の心にも、“線“がある。越えてほしくない領域というものだ。だが君は、決して無理に踏み込むことなく、気がつけばその線の向こうに、そっと立っている」
彼の声は穏やかだった。
「母も、無自覚にしろ、気づいたはずだ。君が、自分の内側にあるものを脅かす存在ではないと。だから心の扉を、開くことができた」
アメリアは、その言葉を胸にそっと受け止めながら、小さく息をのんだ。
「……ありがとうございます……でも……」
今度はアメリアがローガンをそっと見つめて言う。
「それは、きっとローガン様のおかげです」
「俺の?」
「はい」
言葉を選ぶように、アメリアは静かに語り始めた。
「私は、ずっと自信がありませんでした。あの家では、外に出ることも、人と関わることも許されずに……目を合わせるだけで、叱られていたような毎日でした」
アメリアはローガンをまっすぐ見つめる。
その瞳に宿るのは、決して揺らがない想いだった。
「でも、ローガン様は、私をあの屋敷から連れ出してくれました。世界は広いんだって、私にも居場所があるんだって……教えてくれたんです。あの手を取ったときから、少しずつ、心の錠が外れていった気がします」
言葉のひとつひとつに、静かな強さが宿っていた。
「だから、今の私があるのは、ローガン様のおかげです。あのとき、手を差し伸べてくれたのが、あなたで良かった」
アメリアの言葉に、ローガンは言葉で空気を振るわせる。
「……君は、強いな」
その声に、アメリアは胸がぎゅっと温かくなるのを感じた。
ローガンの指先が、ほんの少しだけ、アメリアの肩に触れた。
「君の隣にいれることに、誇りを思う」
その一言が、アメリアの胸の奥に柔らかく落ちた。 ふっと目を細め、小さく微笑む。
「……そんなふうに言っていただけるなんて、夢みたいです」
外では風が、木々の葉を優しく撫でていた。
月光が、ふたりの背を静かに包み、夜の寝室にそっと穏やかな帳を下ろしている。
寝室は夜の静寂をそのまま閉じ込めたような穏やかさで、厚手のカーテンの隙間から差し込む月明かりが、床の上に柔らかな影を落としている。
「それに……セリーヌ様は、話してみると、怖い方じゃないような気がします」
ぽつりと零した声に、ローガンが意外そうに目を丸める。
「そう思うか?」
「はい。もちろん、最初はとても緊張しましたけど。でも、お花の話とか、ユキとの触れ合い方とかを見ると……実は優しい方なんじゃないかなって」
アメリアの言葉に、ローガンはしばらく沈黙し、それからゆっくりと口を開いた。
「母は……父の命令でへルンベルク家に嫁いできた。政略結婚だ」
その声音は、どこか遠い記憶をなぞるような響きを帯びていた。
「父は王家の近縁で、武を尊び、己を律するというへルンベルク家の家訓を、何よりも重んじる男だった。母もまた、そうした価値観の中で、感情や自由を捨てて生きることを求められた」
ローガンの言葉は、静かで、そしてどこか切なげだった。
「家を守ることだけが、母にとっての正しさだったんだと思う。だから俺にも、厳しかった……でも……」
ふっと目を伏せて、ローガンは言う。
「俺も、あの人の背負ってきたものに向き合おうとしなかった。ただ、反発することで距離を置いていただけで、対話を拒んだのは、俺にも責任があると思う」
「ローガン様……」
胸の前でぎゅっと手を握って、アメリアはローガンの横顔をじっと見つめた。
穏やかで、静かで、でもどこか影を落とした表情。
触れれば壊れてしまいそうなほど繊細な想いが、胸の奥に見え隠れしている。
その時、ふと思った。
(ローガン様の父君って、どんな方だったんでしょう)
それは、単なる好奇心ではなく、どこか本能的な警戒心だった。
セリーヌのように、自分の意志をしっかりと持ってそうな人でも、人生を支配され、感情を抑え込むしかなかったというのなら──。
アメリアは、ひやりと背中を撫でた微かな冷気に似た感覚を覚えた。
ローガンの父親のことについては、あまり想像をしたくなかった。
「……でも、今日のアメリアへの態度を見て、少し驚いたんだ」
ふいにローガンが呟いた。
その声音はどこか柔らかく、心の奥に触れた感触を確かめるようだった。
「母はずっと、感情を表に出さない人だった。けれど……あんなふうに、誰かに心を寄せることができる人だったんだなって……初めて思った」
それは、過去の記憶の印象と、今目の前にいるセリーヌの姿が、ようやく繋がったという実感だった。
アメリアは、そっとローガンの手に自分の手を重ねた。
ぬくもりが、掌にじんわりと広がっていく。
「そうですね。私も、なんだか少し意外でした」
アメリアが言葉を続ける。
「だから……これからも、しっかりと向き合っていきたいです。無理にじゃなくて、ゆっくりでも。もっと、お義母様のことを知っていけたらって、そう思います」
ローガンは何も言わず、ただ小さく頷いた。
窓の外、夜風がカーテンをふわりと揺らす。
ふたりの間に流れるその静けさは、言葉以上に強い絆を物語っていた。
「ありがとう、アメリア」
ぽつりと、落ち着いた声が宵の空気を震わせた。
アメリアは手を止めて、驚いたように目を丸くする。
「え……?」
隣に目をやると、ローガンはまっすぐにアメリアを見つめていた。
その瞳は淡い銀に光を湛え、揺れない意思と温もりを宿していた。
「母との間には、ずっと壁があった。俺にとっては、苦手な存在で……目を合わせれば緊張し、言葉を交わせば何かしら否定される気がして、距離を縮めようとすら思えなかった。でも、今日……君のおかげで、その壁がほんの少しだけ、薄くなった気がした」
その言葉には、誇張も飾りもなかった。
アメリアは瞳を瞬き、静かに微笑んだ。
「どういたしまして」
控えめにそう言ったあと、アメリアは続ける。
「少しでもセリーヌ様とローガン様が、仲良くなれるのなら……私にとって、こんなに嬉しいことはありません」
それは報われたいとか、感謝されたいといった打算から出た言葉ではなかった。
あまりに自然で、あまりに真っ直ぐな気持ちだった。
まるで陽だまりのように。
ローガンは、その姿をしばし無言で見つめ、そして小さく笑った。
「つくづく、君の心は澄み渡っているな」
そう言って、やわらかにアメリアの頬へ口づける。
驚いたように目を見開きかけたアメリア。
しかしすぐに頬を染めて、今度は自分からローガンの頬にそっと唇を寄せた。
「……いつものお返しです」
えへへ、と照れ笑いを浮かべるアメリアの仕草に、ローガンの眼差しが一瞬、深く熱を帯びた。
「アメリア……」
低く、名を呼ぶと同時に、ローガンの手が彼女の腰をやんわりと抱き寄せる。
そして、重力の流れに沿うようにそっと寝台へと倒した。
「ひゃっ……!」
小さな悲鳴が上がったが、それは驚きと恥ずかしさの入り混じった声だった。
続けて、ローガンの唇がアメリアの唇をそっと奪う。
柔らかな接触は、まるで氷に落ちた陽光のよう。
たった一度の口づけに、アメリアの身体がふわりと浮かぶような錯覚に包まれる。
唇が離れたあと、二人はしばらく見つめ合っていた。何かを確認するように。
何も言わずとも、伝えたい思いが互いの目に宿っているのがわかった。
「君といると……自分でも抑えが効かなくなることがある」
ローガンの低い声が、アメリアの鼓膜を撫でる。
「だが、俺は……そういうことは、正式に結婚して、夫婦になってからしたい」
静かな言葉のなかに、彼の誠実な覚悟と、誰よりもアメリアを大切にしたいという気持ちが込められていた。
アメリアは赤く染まった頬をほんの少しだけ伏せ、唇を震わせながら答えた。
「……は、い……」
その返事には、たくさんの想いがこもっていた。
このひとと共に在ることを選びたい。
どんな過去があっても、どんな未来が待っていても、真っ直ぐに寄り添いたい――その決意と愛が、あふれんばかりに宿っていた。
灯りを落とした寝室の中、静けさとぬくもりが、そっとふたりを包み込んでいた。
◇◇◇
翌朝。
アメリアとローガンはセリーヌを連れてサトラの町にあるライラのお花屋さんにやってきた。
入口の鈴が、ちりんと小さな音を立てる。
「ごめんくださーい」
木の温もりを感じさせる床を踏みしめ、アメリアはふわりと花の香りに包まれながら店内へと足を踏み入れる。
続いてローガン、そしてその後ろから、セリーヌが静かに歩みを進めてくる。
明日、別邸に帰宅するというセリーヌを、アメリアがせっかくならと連れてきたのであった。
侍女のライラの母が営む花屋は、サトラの町の大通りから少し外れた場所にある。
こぢんまりとした店内には、木の棚や吊り下げられた籠に彩り豊かな花々があしらわれており、まるで小さな温室のような空間だった。
「わああっ……やっぱり、何度来ても素敵……!」
季節の移ろいを閉じ込めたようなその空間に、アメリアの高揚した声が響く。
白く整った指先で、アメリアは可憐に咲く花のひとつにそっと触れた。
セリーヌはその後ろ姿を、無言で見つめている。
ふだんも明るく活発な印象だが、いっそう拍車をかけてアメリアは生き生きとしていた。
「いらっしゃいませー!」
店の奥から現れたのは、アメリアの侍女であり、このお店の従業員でもある少女、ライラ。
彼女はいつものメイド服ではなく、地味だが清潔感のある私服姿。
今日は休暇をもらって、母の店の手伝いをしているようだった。
「あっ、アメリア様、ローガン様、それから……」
ライラの瞳が三人目の訪問者を捉えた瞬間、ぴたりと動きが止まった。
「えっと……」
「母だ」と、ローガンがそっけなく言う。
瞬間、ライラは息を呑むように目を見開き、そのまま固まった。
「ローガン様のお母上!?」
ライラの顔からさっと血の気が引き、思わず背筋を伸ばして深々と頭を下げる。
「し、失礼いたしました! ご、ご挨拶が遅れまして……っ!」
「緊張しなくてもいいわ」
済ました顔でセリーヌは言う。
そんなやりとりをしていると、花々の間からもうひとり、落ち着いた足取りで女性が現れる。
剪定鋏を腰のエプロンに差し込み、手のひらで前髪を整えながらアメリアたちを見やった。
「まあ……アメリアちゃん、いらっしゃい」
あたたかな声音の主は、ライラの母、セラスだった。
病を患っていた頃の面影はまだ残っている。
それでも目元の優しい笑みは、命を救ってくれた恩人に向けたものだった。
しかしその笑顔が、次の瞬間に驚きに染まる。
「セリーヌ様?」
その名を口にしたセラスに、セリーヌがゆるく頷く。
「久しぶりね、セラス。元気そうで何よりだわ」
「セリーヌ様こそ……まさかまた、こうしてお目にかかれるなんて」
セラスが驚きと喜びの入り混じった表情で言葉を返す。
その目元には微かに感極まったような色さえ浮かんでいた。
「えっ……! お二人は、お知り合いだったのですか?」
そのやりとりを聞いたアメリアが、思わず声を上げた。
驚きが素直に表情に出ていた。
セリーヌはちらとアメリアの方を見てから、ふっと目元を緩める。
「ええ。昔、あの屋敷にいた頃は……よく、このお店に通っていたの。庭に植える花を選びにね」
そう言いながら、セリーヌは視線を店内へと滑らせる。
棚に並ぶ季節の花々や、天井から吊るされたドライフラワーの飾りに目をやるその横顔には、ほんのわずかに遠い記憶を懐かしむような表情が浮かんでいた。
「あなたの花は、持ちがよくて香りも上品だったから。少しでも屋敷の空気を和らげたくて……ね」
その一言に、セラスの頬がわずかに染まり、嬉しそうに微笑む。
「勿体ないお言葉です。あの頃は、よく屋敷の侍女の方とご一緒にいらしてましたよね」
「ええ、ほとんどは定年を迎えて、今頃田舎でのんびり過ごしているはずよ」
ふたりのやり取りを見守っていたアメリアが、ふっと柔らかな笑みを浮かべて一歩前に出る。
「セリーヌ様、よろしければ……セラスさんにお花の相談など、されてみませんか?」
「相談?」
「はい。以前、お屋敷のお庭を手直しされると仰っていたので」
控えめながらも自信を含んだ口調で言うアメリア。
セリーヌは一瞬だけ考え込み、静かに頷いた。
「……そうね。今の住まいは、どうにも無機質で息が詰まるから……少し、色が欲しかったところだったの」
「でしたらぜひ。セラス様、どうぞよろしくお願いします」
アメリアが一歩引いて丁寧に頭を下げると、セラスはにこやかに頷いた。
「ええ、お任せください。たとえば――そうね、“リフィル”などいかがかしら。丈夫な多年草で、華やかすぎず、けれど楚々とした上品さがあるんです」
その名を口にしたとき、セリーヌの目元がふっと和らぐ。
「リフィル……聞いたことがあるわ。白と薄藤色の花びらだったっけ?」
「はい。植えてから根付くのも早いので、改装を考えておられるならちょうどいいかと」
ふたりは自然と並び立ち、店の奥の花棚へと歩いていく。
色とりどりの花々が咲き誇る中、セラスが何かを説明しながらセリーヌに花を手渡す姿が見えた。
視線の先では、セリーヌとセラスが話に夢中になっている。
まるで昔に戻ったかのような、ささやかな静けさがあった。
「まさか、ここが母の行きつけだったとはな」
ローガンが小さく息を吐くようにして呟いた。
意外そうでありながら、それでいて少しだけ困惑を含んだような複雑な表情を浮かべている。
「意外な縁ですねえ……」
アメリアがくすっと笑いながら言う。
ローガンは頷いたその時。
「……あっ、そうだ!」
アメリアがぽん、と手を打った。
なにかを思いついたような瞳の輝きで、くるりと振り返る。
そして、棚の陰で整理をしていたライラのもとへ駆け寄り、こそこそと何かを耳打ちする。
「それ、いいですね!」
ライラがぱっと表情を明るくし、小さく拳を握る。
その様子を見ていたローガンは、小さく首を傾げた。
「……?」
首をかしげる彼の前に、アメリアが戻ってくる。
そしてにっこりと笑みを浮かべて口を開いた。
「ローガン様。実は、ちょっとした提案があるのですが……」
◇◇◇
「ありがとうございました! またいらしてください!」
ライラが店先で手を振っている。
ライラの元気いっぱいの仕草に隣のセラスは苦笑しながらも、手を添えるように小さく振っている。
「またきますー!」
アメリアもぱっと明るい笑顔を浮かべて、両手を振り返す。
ローガンは軽く会釈し、セリーヌは背筋を伸ばしたまま、ちらと一度だけ店の方を振り返った。
花の香りと、かすかな湿気を含んだ風が、三人の髪と衣服を優しく撫でていく。
店を出てしばらく、三人はサトラの町の石畳をゆっくりと歩いていた。
空は冬にしては柔らかな日差しに包まれ、時折そよぐ風にはどこか甘い香りが混じっている。
店先には鉢植えの花々が咲き誇り、行き交う人々の顔にも、穏やかな午後を映すような微笑みが浮かんでいた。
アメリアは並んで歩くセリーヌの横顔をちらりと見つめた。
淡いブルーグレイのドレスに身を包んだその姿は、相変わらず人を寄せ付けないオーラを纏っていたが、花屋での旧知との再会もあってか、どこか気持ちがやわらいで見える。
「このあたりは、昔と変わらないのね」
ふと立ち止まり、セリーヌが目を細めて町並みを見渡している。
(そっか……昔、あの屋敷に住んでいたんだもんね……)
そう思ってアメリアは妙な感慨深さを覚える。
セリーヌが見上げた先には、町の中央に据えられた石造りの噴水があった。
白い大理石の天使像が水を高く吹き上げ、陽光を受けてきらめく水滴が空中で光の粒となって舞っている。
「ここで、ローガンが足を滑らせたのよ」
突然の一言に、アメリアがぱちりと瞬きをした。
「えっ、そうなんですか?」
「ええ。まだ小さい頃だったかしら。貴族としての礼儀作法を叩き込まれた直後で、どこか背伸びをしていたのよね。ちょっと得意げに歩いていたら、噴水の縁で足を滑らせて……真っ白なシャツのまま、ばっしゃりと」
くす、とセリーヌが喉の奥で笑った。
その横で、ローガンが眉間を寄せる。
「母上、それを今ここで話す必要が?」
「あれはなかなか面白かったわよ、本当に」
セリーヌが意地悪そうに微笑むと、アメリアが堪えきれずにぷっと吹き出した。
「ふふっ……想像できます。ローガン様がびしょ濡れになって、無言で立ち上がっている姿……」
「やめてくれ。思い出したくもない」
ローガンが耳のあたりを赤らめながら目をそらす。そんな彼の仕草が妙に新鮮で、アメリアは愛しさと微笑ましさが同時に込み上げてくるのを感じた。
「懐かしいわね」
セリーヌは、目を細めてゆっくりと水の流れを見つめている。
そこには、昨夜までの厳格で隙のない“鉄仮面”のような表情はない、子供との思い出を懐かしむ母の姿があった。
何かを振り返るようなその目元は穏やかで、口元にはうっすらと微笑の痕跡が浮かんでいる。
過ぎ去った日々のひと欠片、あるいはもう手の届かない大切な時間。
そうした想いに、今は静かに身を委ねているようだった。
そっと肘で彼の背中をつつく。
「ローガン様、今です」
その囁きに、ローガンはわずかに目を伏せ、黙ってうなずいた。
「母上」
緊張気味に言ってから、ローガン懐から一束の小さな花束を取り出す。
ふわりと香る甘い香り。
淡いクリーム色の花弁が重なり、見る者の心を和ませるような静かな気品を湛えている。
「これは……イヴェリナ?」
「はい……先ほど花屋で、ライラに選んでもらって……その……」
慣れない事をしているためか、ローガの言葉はおぼつかない。
しかしその声は静かで、どこか照れの混じった硬さがあった。
けれどその言葉のひとつひとつは、真摯で誠実だった。
セリーヌは花を受け取り、しばし黙って見つめた。
指先が、そっと花弁に触れる。
「花言葉は、歩み寄り……ね」
まるで、凍っていた時間が静かに解け出すような、やわらかな響きだった。
「息子から、花を贈られるなんて……初めてだわ」
ぽつりとこぼれた言葉の中には、驚きと、どこか揺らぐ感情が混じっていた。
次の瞬間、セリーヌの口元が、ふっとほころぶ。
それはほんの一瞬の笑みだった。
氷のように静かなその人の表情に、ようやくひと筋の春が訪れたかのように。
「ありがとう、ローガン」
「……いえ」
顔を伏せるようにして答えるローガンを、アメリアがそっと見守る。
(ふふっ……うまくいってよかった)
ホッとアメリアは安堵する。
ローガンとセリーヌの距離を少しでも縮めたいと、花屋でローガンに提案したのはアメリア張本人だった。
不器用で、優しすぎて、だからこそすれ違ってしまった二人。
ほんの少しでも、歩み寄るきっかけになれば。
その一心で、花屋でそっとローガンの背中を押した。
表面上はまだまだぎこちない。
十年、二十年という長い月日の中でできた溝はそう簡単には埋まるものでもない。
だけど、この一瞬、二人の間に流れる空気が変わったのを感じられて、アメリアはとても嬉しい気持ちになった。
噴水の水音が、陽だまりの中で静かに鳴り続けている。
まるで、親子をやさしく祝福するように。
──そんな静かなひとときに、唐突に割り込むような声が響いた。
「政務を放り出して親孝行か、殊勝だな」
低く、よく通る声。
その声音に、ローガンはハッと振り向く。
「……兄上」
振り向いてそこに立っていたのは、軍服姿の男。
腕を組み、クロード・ヘルンベルクは冷ややかな視線をこちらに向けていた。