第182話 不穏な手紙
屋敷の門をくぐるなり、ふさふさとした影が一直線に駆け寄ってくるのが見えた。
「ユキ……!」
アメリアは思わず笑顔をこぼす。
「わふっ!」
白銀の毛並みをなびかせながら、ホワイトタイガーのユキが勢いよく跳びついてきた。
その巨体が足元に滑り込んでくるようにすり寄り、アメリアのスカートの裾に鼻先を押し当ててくる。
「ふふっ、ただいま。ちゃんとお留守番できてた?」
アメリアはしゃがみ込み、柔らかな頬のあたりを両手で包むように撫でた。
ユキは満足そうに喉を鳴らし、まぶたを細める。
そのままアメリアの胸元に顔をうずめ、尻尾を左右にぶんぶんと振っている。
もふもふとした柔らかな毛並みと、ぬくもりを帯びた体温。
アメリアは思わず頬を緩めながら、首筋のあたりを優しく掻いてやった。
「まったく……どんどん甘えん坊になってるわね、あなた」
と、そこへ足音が近づいてくる。
「ユキ、ごはんの時間ですよ」
リビングの奥から現れたのは、シルフィだった。
使用人として仕えてはいるが、いまではアメリアの近侍として、最も近い距離で彼女を支える存在だ。
ユキはその声に耳をぴくりと動かし、次の瞬間、アメリアから離れてくるりと向きを変える。
そして、尻尾を大きく振りながら、シルフィのもとへ駆け寄っていく。
「がうっ!」
嬉しそうに一声鳴いて、鼻先を彼女の手に押し付けるユキ。
その仕草に、シルフィも思わず笑みを浮かべる。
「もう……撫でてほしいんですね、ほんとに懐いちゃって」
そう言いながら、シルフィはユキの頭を撫でてやる。
ユキは目を細め、まるで猫のように気持ちよさそうな顔をしていた。
「ご飯、たっぷり用意してありますよ。台所まで一緒に来ましょうか」
シルフィの声に、ユキは尻尾を一層勢いよく振って応じ、そのまま彼女の後をついていった。
まるで忠犬のようなその後ろ姿に、アメリアは微笑ましげに目を細めた。
その様子を見届けてから、ローガンがぽつりと呟く。
「……話したいことがある。応接室へ行こう」
その低く抑えられた声に、アメリアは静かに頷く。
応接室へ移ると、ローガンはアメリアに目で合図を送ってから、先にソファに腰を下ろした。
アメリアもその隣に静かに座る。
暖炉では薪がぱち、ぱちと音を立てて燃えていたが、部屋はどこか冷たく感じられた。
少し間を置いてから、ローガンが重たげに口を開く。
「……君の父は、投獄された」
その言葉に、アメリアの心臓がきゅっと縮こまる。
温もりに包まれていた手のひらから、ふと冷たさが滲み出すようだった。
「罪状は、誘拐教唆、傷害、そして殺人未遂。すでに捜査は完了していて、証拠も揃っている。裁判にかけられれば、確実に有罪だ」
淡々とした口調だった。怒りも憐れみも滲ませず、ただ事実だけを伝える声音。
けれどアメリアには、それがかえって胸に響いた。
人を雇って自分を誘拐に、屋敷に閉じ込め、暴行を加えてきた父セドリック。
最終的には自業自得な形で屋敷が焼失するという、大事件だった。
薄暗い部屋の中で睨みつけられ、声を荒げられ、手を上げられたあの時の感触が脳裏に蘇る。
その人物が、今や囚人として冷たい鉄格子の向こうにいる。
それは現実のはずなのに、どこか夢の中の出来事のようでもあった。
「……母は、どうしているのですか?」
静かに問いかけると、ローガンはほんのわずかに眉を寄せた。
「王都のホテルに滞在中だ。取り乱していて、話しかけても、まともに言葉を返せる状態じゃないらしい」
アメリアは胸の奥に微かな痛みを感じた。
母リーチェに対して複雑な感情はあった。
他の家族と同じように自分を虐げていたが、それでも彼女は義母であり、何かを失った人間の孤独には覚えがある。ローガンは少し視線を落とし、言葉を継ぐ。
「あのふたりが単独であの計画を練ったとは考えにくい。アメリアの誘拐から監禁までの流れは、細部まで準備されていた。誰か、外部から手を貸した者がいるはずだ」
アメリアは手元で指を組み直しながら、小さく呟いた。
「どうして、なんでしょう……」
ぽつりとこぼれた声は、怯えではなかった。
ただ、純粋な疑問と、かすかな戸惑いが混じった響きだった。
「私を狙ったところで、利になることなど……何も……それなのに、どうして……」
ローガンはその言葉に、すぐさま首を振った。
「いいや、ある。君が持っているものは、あまりにも利が大きすぎる」
その言葉に、アメリアは思わず顔を上げた。
「植物の知識や調合能力はもちろん、紅死病の新薬まで作り出した。それを知った誰かが、動いたのだろう」
ローガンの言葉を、アメリアは受け入れるしかなかった。
この期に及んで、自分にそのような価値がないとは、もう口にできなかった。
「誰かにとって、君の存在は邪魔だったんだろう」
言い切られたその言葉に、アメリアは返す言葉を失う。
胸の奥に、じんわりと広がっていく冷たい感覚。それは疑念でも不信でもない――恐怖だった。
役に立つと信じてきた力。人を癒し、救うための知識。
それを疎まれ、排除されようとしている。その理不尽さに、ぞっとした。
(……怖い)
手が震える。呼吸が浅くなる。心の底から誰かを助けたいと願ってきたはずなのに。
その想いが、誰かの憎悪を生み、命を狙われる理由にすらなる。
あまりにも冷たい現実に、アメリアは無意識に背筋をこわばらせていた。
「君は悪くない」
ローガンは、アメリアの手をしっかりと包んだまま、静かに言葉を継いだ。
「悪いのは、正当なものを疎んじる連中だ」
その一言が、染み渡るように鼓膜を揺らす。アメリアが顔を上げる。
恐怖の熱がまだ頬に残っていたけれど、ローガンの言葉に、胸の奥で絡まっていた何かがほどけていくのを感じた。その時、スーランのことが脳裏をよぎった。
誰にも注目されなかったあの薬草に効能を見出した自分。
紅死病の特効薬として、それがどれほどの意味を持ったのか。
そして、それによって、誰が得をし、誰が利を奪われたのか。
(わからない……)
確信には至らない。ただ、気配だけははっきりと感じた。
暗がりに潜む“何か”が、自分の知らないところで蠢いていたのだと。
また背筋に冷たいものが走って小さく息を吐きかけたそのとき。
ローガンの腕がそっと背中に回される。
広く温かな手が、緊張にこわばったアメリアの背を、静かに撫でていた。
「大丈夫だ、俺がついている」
低く、力強い声。
「敵の顔がまだ見えないのなら、それを暴くのが俺の役目だ。そしてもしまた敵がアメリアを襲おうとしても……俺が指一本触れさせない」
「ローガン様……」
彼の瞳には、ただ一つの意志しかなかった。
最愛の人を守るという、単純で真っ直ぐな意志。
身体に熱が戻る。たとえ、まだ見ぬ敵がどこかに潜んでいようと。
(ローガン様と、一緒なら……)
アメリアは、小さく頷いた。
「……はい」
アメリアの表情にほんの少し笑みがこぼれた。
頬に火が灯るように、ほんのりと色づいていく。
暖炉の火が、ぱちり、と木を弾く音を立てた。
揺れる炎の灯りの中で、アメリアの不安は少しずつ溶けていった。
◇◇◇
朝、澄んだ陽光が緑の葉を照らす。
ヘルンベルク邸の庭園は露を弾く草花の香りに包まれていた。
庭の奥、白いバラに囲まれた小さなガゼボの中で、アメリアは木製の丸テーブルに並べられたティーセットの前に座っていた。
テーブルには湯気の立つポットと二つのカップ。
花をあしらった陶器の皿には、バターの香るビスケットが数枚置かれている。
アメリアは深緑のティーカップを両手で包み込み、ふっと息を吐いた。
「ふう……美味しい……」
口の中に広がるのは、蜂蜜を思わせる柔らかな甘みと、優しく香るカモミール。
胸の奥に残っていた昨夜の不安が、少しずつほどけていくようだった。
その隣では、ローガンも静かに紅茶を口にしていた。 カップを置いた彼が、ふと横目でアメリアを見る。
「たまには、早起きも悪くないな」
「ふふっ、そうですね。こうして外で朝の光を浴びながら飲む紅茶は格別です」
アメリアはカップを傾け、ほっとしたように目を細める。
「こんな朝なら、毎日でも早起きしたくなります」
「それは無理だな。聞くところによると、君は昨日、寝ぼけて髪にブラシを刺したまま廊下を歩いていたそうじゃないか」
「ちょっ……な、なんでそれを!」
「シルフィが証言していた」
「シルフィ……!」
慌てて頬を赤らめるアメリアを見て、ローガンは微かに笑う。
そんな穏やかな朝の空間に、たたたっと足音が近づく。
「アメリア様、ローガン様! 失礼いたします!」
白いアーチをくぐって現れたのは、元気な笑顔を浮かべたライラだった。
朝の陽を背に、白いエプロン姿が眩しく映る。
「おはよう、ライラ」
「おはようございます、アメリア様! お加減はいかがですか?」
「ええ、もうすっかり良くなったわ」
「お元気で何よりです……」
ライラは心底ホッとしたように胸を撫で下ろした。
アメリアが誘拐された後、ライラの心配っぷりがどれほどであったかは言うまでもない。
「ところで、お母様は元気?」
ふと気になって尋ねると、ライラは勢いよく頷く。
「はい、もう元気に店先に立っています!」
「そう……よかった……!」
アメリアの胸に、柔らかい安堵が広がる。
紅死病に倒れかけていたライラの母。
その体調が、アメリアが調合した新薬によって回復したのだ。
「母もアメリア様のこと、命の恩人だって。ずっと感謝しています。またお花、お送りさせてくださいね」
「ふふっ、楽しみにしておくわ」
そんな温かいやり取りの傍らで、ローガンが湯気の立つカップをテーブルに置く。
「何か用があってきたんじゃないのか?」
「あっ! そうでした!」
はっとして声を上げたライラは、胸元から一通の封筒を取り出す。
「こちらにお届け物がございます。先ほど、使いの方が届けに来られて……」
差し出された封筒は上質な羊皮紙に包まれ、重厚な封蝋が押されている。
封に刻まれていたのは、繊細な百合の紋章。
それを目にした途端、ローガンの表情がぴたりと固まった。
「ローガン様?」
アメリアが思わず問いかける。
あまりにも珍しい、彼の動揺した顔だったから
「もらおう」
「は、はい」
ライラから封を受け取り、ローガンは手早く封を切る。
視線が走り、眉間の皺が深まっていく。
やがて、最後まで目を通すと、手紙をそっとテーブルに伏せた。
わずかに震える指先を、アメリアは見逃さなかった。
「……何か、あったんですか?」
恐る恐る問いかけたアメリアに、ローガンは少し間を置いて答えた。
「いや……」
その言葉に、アメリアは控えめに懇願する。
「話せることなら……教えていただけると、嬉しいです」
小さく添えられた言葉に、ローガンは息をつくように目を伏せた。
ローガンはしばらく押し黙っていたが、やがて諦めたように小さく息を吐いた。
「……母からの手紙だ」
「お義母様の……?」
アメリアは思わず目を見開いた。
「“婚約者に会いに近いうちに帰る”と、要約するとそう書かれていた」
短く、感情のこもらないその言葉に、アメリアの胸に微かな緊張が走った。
そういえば、ローガンの母親――セリーヌのことを、これまで聞いた記憶がほとんどない。
話題に上ることもなければ、思い出話として語られることもなかった。
なんとなく、両親との関係はあまり良くないのだろうと、察してはいたが。
「……どんな方なんですか?」
控えめに問いかけると、ローガンは視線を窓の外へと逸らした。
「いつも冷静で、理論を重んじる人だ。感情で動くことを嫌い、淡々と合理的にすべてを処理する」
「へえ……」
「なんだ、その反応は」
「いいえ、何も」
アメリアは首を振る。
まるで、ローガン様みたい、と内心で思ったことは口にしないことにした。
「母親にとっては、息子も、家も、すべて管理すべき対象でしかないのかもしれない」
低く落ち着いた口調だったが、その奥には、どこか凍りついたような諦めがあった。
アメリアはそっと手元のカップを見つめた。
ローガンの孤独は、語られぬ過去に根を張っているのだと、少しだけ触れられたような気がした。
けれど、そのまま沈黙を落とすのは、違うと思った。
「じゃあ、きちんとご挨拶しないとですね!」
思わず弾けるようにそう言ってしまっていた。
「は……?」
呆気に取られたような反応をするローガンに、アメリアは微笑んで続ける。
「だって、大切な方のご両親ですし、ちゃんとお話しないといけません」
我ながら、ずいぶん前向きな口調だった。
けれど、それが不思議と自然で――何より、“逃げたくない”と思ったのだ。
自分の力で得た居場所なら、自分の言葉と行動で守りたい。
アメリアは、まっすぐローガンの瞳を見つめた。
「……そうだな」
ローガンはふっと息を吐いて笑う。
その横顔はどこか呆れているようで、安堵と温かさが滲んでいた。
「君は……そういう人だったな」
そう呟く彼の目に、かすかな驚きと、言葉にできない感情の揺らぎが浮かんでいる。
悩んでいた自分が馬鹿みたいだとばかりの表情だった。
「とにかく、母に会うならそれなりの用意をしないとな。気難しくきっちりした人だからこの際、屋敷全体を大掃除しても良いかもしれない」
腕を組んでローガンがそう言っていると、庭の小道の先から、控えめな足音が聞こえてきた。
「シルフィ、どうしたの?」
気まずそうな顔をしたシルフィにアメリアが尋ねる。
シルフィはアメリアではなく、ローガンに目を向けた。
「ローガン様……その……」
風に揺れるスカートを押さえながら、彼女はそっと言葉を口にした。
「……お母様が、すでにいらしています」
「ええ!?」
バラの葉が、ざわりと音を立て、アメリアの驚声が弾けた。
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