第181話 再び訪れた平穏
王都の中心にある老舗のレストランは、昼どきともなれば華やかなざわめきに包まれる。
光を受けてきらめくシャンデリアの下、一階の広間には貴族や上流商人たちが集い、談笑の声と食器が触れ合う軽やかな音が絶えず流れていた。
その賑わいから遠く隔てられた二階の奥・
重厚な扉の向こうに広がる個室には――まるで別世界のような静謐が満ちていた。
深紅の絨毯は足音を吸い込み、艶のある木製のテーブルの上には、磨き込まれた銀器と繊細な絵付けの陶器が整然と並んでいる。
レースのカーテン越しに差し込む陽光が、室内の空気さえも柔らかく染め上げていた。
そんな静謐のただなかに、向かい合って座るふたりの姿があった。
アメリアは、思わず声を上げてしまっていた。
「わああ……こんなにたくさん……!」
テーブルいっぱいに並ぶ料理の数々に目を輝かせながら、身を乗り出すようにして一皿一皿を眺めていく。香草の香りを纏った白身魚のグリル、根菜と鶏の出汁がじんわり染み込んだ季節のスープ、ローズマリーがほのかに香る仔牛のロースト。
前菜の皿は色とりどりの野菜で彩られ、まるで春の花畑のように、食卓を鮮やかに飾っていた。
「どれもこれも、私の好物ばかり……美味しそうです……」
「気に入ったようで、何よりだ」
ローガンが静かに目を細める。
銀糸のように整った髪、きりりとした眼差し。
その佇まいには公爵としての威厳が滲んでいたが、アメリアを前にしたときだけ、どこか張りつめたものがほどけたような柔らかさが宿っていた。
「冷めないうちに、食べよう」
「はいっ。いただきます!」
アメリアは嬉しそうにスプーンを手に取り、まずはスープをひと口。
口の中に広がるのは、根菜のやわらかな甘みと、じんわり沁みる鶏の旨味。
瞳を見開いたまま、思わずふうっと息が漏れ、自然と口角が上がる。
「美味しい……!」
胸の奥が、じんわりと熱くなった。 それは味だけのせいではない。
この席に並べられた料理のすべてが、自分のために用意されたもの。
そう思えることが、何よりも嬉しかった。
ほんの少し前までなら、きっと緊張でぎこちなくなっていたはずなのに、今は違う。
ここに座って、ローガンと同じ料理を味わっていることが、心から嬉しいと思えた。
白身魚の皿にナイフを入れると、ふわりと香草の香りが立ちのぼる。
皮はこんがりと香ばしく、身はほろりとほぐれるほどに柔らかい。
一口運ぶたびに、春の野にいるような風味が広がり、思わず目を細めた。
仔牛のローストは、見事な火入れだった。赤身の中心にわずかに残るロゼ色が美しく、咀嚼のたびに上品な脂と香草の香りが鼻に抜けていく。
「それにしても、珍しいですね。こうして外で昼食をいただくなんて」
スプーンを置いて、アメリアはふと顔を上げた。
「いつもは屋敷の食堂ですし、こういうの、すごく新鮮で……」
「ずっと屋敷ばかりでは、息も詰まるだろう。たまには、こういう時間も必要だ」
淡々としたローガンの口調は変わらなかったが、その声にはどこか優しい余韻が宿っていた。
「……はい、そうですね。ふふっ」
アメリアは、柔らかく微笑む。
最近では、エドモンド公爵家の別邸を訪ねたり、美術館に出かけたりと、ふたりで出かける機会が少しずつ増えていた。護衛の目は常にあるけれど、こうして並んで街を歩き共に時を過ごすことが、アメリアにとっては、何よりも嬉しかった。
ふとアメリアの唇の端に、ソースがひとすじ、ついていた。
「あっ……」
気づいて自分で拭おうとするも、ローガンが黙ってハンカチを差し出してきた。
彼はそっとアメリアの頬に手を添え、慣れた動作で布を当てる。
乱れることのない仕草だった。流れるような動作に、アメリアはほんのりと頬を赤らめた。
「……あ、ありがとうございます……」
視線を逸らしながら小さく礼を告げると、ローガンは特に何を言うでもなく、当たり前のように頷いた。彼の手元では、アメリアのグラスに新しい紅茶注がれていた。
「ありがとうございます。でも、まだ少し残って……」
そう言いかけたところで、ローガンは淡々と応じた。
「冷めかけていた。温かい方がいいだろう」
さらりと返され、アメリアは言葉を飲み込んだ。
(な、なんだか……すごく過保護な気がする……)
口元を引き結んだまま、心の中でそっと首を傾げた。
先ほどから妙に細やかだ。食事の進みに合わせてナプキンの向きを整え、グラスの位置をさりげなく直し、皿が空けばすぐにサーバーを呼ぶ。
ここまで至れり尽くせりなのは、最近では珍しい。
思わずナイフを止め、真正面からローガンをじっと見つめてしまう。
「……どうした?」
その視線に気づいたのか、ローガンが柔らかな声音で問いかけてきた。
「いえ……あの、色々してくださるのはすごく嬉しいんですが……ちょっと、過剰といいますか……」
遠慮がちに言葉を紡ぐと、ローガンはほんのわずかに眉を動かした。
「……そうか?」
「はい。だって、普段はここまで……」
言いかけたところで、ローガンは視線をそっと逸らした。 普段の彼なら、もっと早く反論してくるはずなのに。けれど今回は、何も言わない。
沈黙が流れたあと、彼はぽつりと別の話題を口にした。
「……それはそうと、デザートは何にする?」
「あ、じゃあ……いちごのタルトとか……って、そういうところですよ!」
思わずアメリアが突っ込みを入れると、ローガンは困ったように頭を掻いて言った。
「悪いとは思っている」
「え?」
小首をかしげたアメリアに、ローガン奥に熱を帯びた声で告げた。
「数日前、アメリアが誘拐されたとき……本当に心配した」
その言葉に、アメリアは一瞬、息を飲んだ。
「間に合ったから良かった、なんて思っていない。
もし、あと少し遅れていたらと考えると……今でも、背筋が冷える。
それで、少し……過保護になっているのかもしれない」
まっすぐに見つめるローガンの瞳は、どこまでも真剣だった。
アメリアの胸が、きゅっと締めつけられる。
あの夜。父セドリックに攫われ、闇の中で震えていた自分。
ローガンが駆けつけてくれたときの姿、強く抱き締められたあの感触。
すべてが、昨日のことのように蘇る。
「……ローガン様」
そっと目を伏せてから、アメリアは心に言葉を浮かべる。
(私のことを、それだけ大事に思ってくれている……)
ローガンが過剰なほどに世話を焼くのも、拭いきれない不安の表れなのだと思えば、胸に広がるのは、愛しさと申し訳なさが溶けあった、柔らかく切ない感情だった。
だから、アメリアは小さく呟いた。
「……じゃあ。もう少しだけ。過保護にしてくれても、いいです」
その一言に、ローガンの口元がわずかに緩んだ。
「そうか。では、いちごのタルトを十個頼もう」
「十個!?」
思わず、声が裏返った。
いちごのタルトは確かに好物だ。だが、さすがに十個はやりすぎだ。
「そんなに食べきれません! ……いえ、頑張ればいけると思いますが、それはそれでお腹がとんでもないことになりますから!」
慌てて胸の前で手を振るアメリアに、ローガンは平然とした顔で返す。
「そうか?」
その顔が妙に本気だったから、困り果てたはずのアメリアも、気づけば笑っていた。
テーブルの端に飾られた小さな花瓶の花が、陽を受けてほのかに揺れる。 その静かな揺らめきが、ふたりのやりとりを、そっと見守っていた。
◇◇◇
「ぐ、ぐるじい……」
昼食を終えた後。
ひんやりとした風が頬を撫でる中、アメリアはお腹に手を当ててふらふらしながらレストランを出た。
ローガンは苦笑を浮かべながら、アメリアの様子を見やった。
「デザートの食べ過ぎだ」
「だって……あんなに美味しいとは思わなくて……」
恨めしげに呟くアメリア。
ドレスの上からでもわかるほど、彼女のお腹はぷっくりと膨れ上がっていた。
イチゴのタルト一切れだけのはずが、ショートケーキ、チョコレートムース、ミルフィーユまで平らげたのだから無理もない。
自分でも抑えが効かなかったことは分かっているらしく、口元をすぼめるようにして小さくため息を漏らす。
ローガンはため息をひとつ、深くもなく浅くもない絶妙な呼吸で吐き、彼女の背にそっと手を添えた。
無言で、優しく背を撫でる。
「うぅ……ありがとうございます」
アメリアはお礼を口にしつつ、頬をほんのりと染めた。
ローガンは黙って片手を差し出す。
「腹ごなしに、歩こう」
「そうしましょう……馬車に揺られたら大惨事になるかもしれません……」
何がとは口に出さなかったが、それはアメリアなりの精一杯の危機回避だった。
麗しくない展開にはなりたくない、そういう乙女心は、苦しい腹の中でも健在である。
王都の舗道は昼下がりの陽射しに照らされて、穏やかな光を湛えていた。
磨かれた石畳は歩くたびに心地よい音を響かせ、それが周囲の喧騒を和らげるように思えた。
二人のすぐ背後には、護衛たちの気配がある。
誘拐事件の後、へルンベルク家の警備は格段に強化され、今日の外出にもリオを含む複数の護衛が同行していた。
アメリアがふと後ろを振り返ると、青年が小さく頭を下げた。
「リオ、久しぶりね。……怪我は、もう大丈夫なの?」
その声には、心配が混じっていた。
あの夜、リオはアメリアを庇って重傷を負った。
その姿がアメリアの脳裏には焼きついて離れない。
「ご心配をおかけしました。今はもう、すっかり」
そう言ってリオはぐるぐると腕を回して見せた。
「良かった……本当に」
アメリアは胸に手を当て、そっと息をつく。
彼の命が無事だったことが、何よりの救いだった。
しばらく街を歩いてから、アメリアはそっとローガンに尋ねる。
「そういえば、お仕事は大丈夫なんですか?」
ローガンは視線を前に向けたまま、首を緩やかに振った。
「どうにでもなる。俺が動かなければ回らないような仕事は、案外少ない」
その言葉は、傲慢でも虚勢でもなかった。
重責を担う人間としての冷静な自己評価であり、同時に、それを成り立たせるだけの信頼と人脈を築いてきた証でもある。
「でも……」
アメリアが口ごもると、ローガンは一瞬だけ彼女に視線を向けた。
「今の俺にとって、最も優先すべきは、君の安寧だ」
その一言に、アメリアは言葉を失った。
胸の奥がぽかぽかと温かくなる。
ローガンの口にする、愛情深き言葉にはいつもドキマギしてしまう。
「ありがとう、ございます……」
少しだけ頬を朱に染めてから、アメリアはそっと呟くのだった。
石畳の上に響く足音。肩に当たる陽光。
ふたりの歩みに寄り添うように揺れる街路樹の影。
それらすべてが、まるで夢の中のように感じられた。
アメリアは歩調をゆるめ、ローガンの隣でふと立ち止まる。
彼の横顔を見上げようとしたその時、先に彼の方から口を開いた。
「……ラスハルの件、昨日、正式に辞退を届けた」
瞬間、アメリアの胸にかすかな緊張が走った。
ラスハル――それは、国外の紛争地帯。
兄であるクロードからの強い誘いで、ローガンは参謀としての派遣を打診されていた。
アメリアは、行かないでほしいと願った。先日、涙を堪えながら、懇願したのだ。
「……本当に、大丈夫なのですか?」
アメリアが尋ねると、ふいにローガンの手が伸びてくる。
ぬくもりを帯びた大きな手が、アメリアの指を優しく包み込んだ。
「今の俺には、守りたい人がいる。それは、戦場におけるどんな勲章よりも大切だ」
「ローガン様……」
震えるような小さな声で、アメリアは最愛の人の名を呼ぶ。
けれどその直後、心の奥に、小さな棘のような違和感が生まれた。
(……本当に、これでよかったのかな)
彼の決断には感謝している。
心から嬉しいと思っている。
それでも、どこかで引っかかってしまう。
(私のせいで、ローガン様の立場を悪くしてしまったんじゃ……)
自惚れでも、傲りでもなく。
そう思ってしまうほどに、ローガンの才能は確かなものだったから。
ふと俯いたアメリアに、ローガンが静かに言った。
「君が気にすることは、一つもない」
「……え?」
「俺は自分の意志で残った。それだけのことだ」
その声音は凛としていて、同時にどこまでも優しかった。
アメリアは彼の手をぎゅっと握り返す。
「……ありがとう、ございます……」
そう囁いて、そっと彼の腕に身を寄せた。
昼下がりの陽射しは穏やかで、ふたりの影は、ゆっくりと寄り添うように延びていく。
【祝! コミック2巻発売!】
『誰にも愛されなかった醜穢令嬢が幸せになるまで』
コミックの第2巻が明日7/25に発売されます❗️
既に並んでいる書店さんもあるようです!
空木先生が描く幸せそうなアメリアが目印です!
コミックでしか見れないイラストや、青季ふゆ完全書き下ろし小説なども収録しております!
(そして表紙をペラリとめくると……?)
各種書店様の描き下ろし特典もたくさん描いていただきましたので、こちらもチェックをお願いいたしますー!
・Amazonページはこちら
https://amzn.asia/d/iMaVLtr
*連載継続には単行本の初週の売り上げが重要になってきますので、なにとぞ書店やネット通販などでお買い求めいただけますと幸いです……!!




