第175話 いつまでも一緒に
美術館の順路は巧みに設計されており、全ての展示エリアを巡り終えると、最初の入り口に戻ってこられるような仕組みになっていた。
展示品の数々をじっくりと堪能し、美術館を回り切った二人は入り口へ戻ってくる。
「楽しかったか?」
「はい、とっても!」
ローガンが尋ねると、アメリアは勢いよく頷いて応えた。
「芸術の世界がこんなにも奥が深いものだと、初めて知りました! 綺麗だったり、恐ろしかったり、ドキドキしたり……一つ一つが表現していることが違って、とっても面白かったです」
目を星空のようにキラキラさせて言うアメリアに、ローガンはふっと小さく笑って言う。
「そこまで楽しんでくれたとなると、案内し甲斐があったというものだな」
「もう、ワクワクが止まりませんでした。それに……」
ローガンを見上げて、アメリアは言う。
「ローガン様が好きなものに触れることができて、とても嬉しかったです」
芸術作品自体にも感動をしつつ、今回のアメリアの本質はそこだった。
ローガンが大切に思っているもの、興味を持っているものに触れられるという事が、アメリアにとっても特別な体験だった。
自分の大切な人の世界を垣間見れたことが嬉しく、ローガンをより理解できたような気がしたのだ。
「連れてきてくれて、ありがとうございました」
「むしろ、もっと早く来られずすまなかったな」
「いえいえ、色々とご多忙かと思うので……」
「いや……」
微かに緊張した様子でローガンは言う。
「少しばかり、準備に時間がかかってしまってな」
「準備……?」
アメリアは不思議そうに首を傾げた。
もしかして、美術館を貸し切るための手続きなどの準備があったのだろうか、と考える。
するとローガンは、緊張を帯びた表情に意味ありげなニュアンスを浮かべて言った。
「最後に、アメリアを連れて行きたい場所がある」
◇◇◇
アメリアがローガンに導かれてやってきたのは、美術館の本館からすぐ隣にある建物だった。
そこは薄暗く静寂に包まれていて、目が慣れるまで周りの様子がよく見えなかった。
「ここは……?」
アメリアが少しばかり恐々と訪ねる。
「特別な日だけに一般開放される展示場だ」
ローガンがそう言って係員に合図を送ると、周囲がぱっと明るくなり、あたりに光が広がった。
「わあっ……!!」
瞬間、アメリアは思わず声を上げた。
視界いっぱいを覆い尽くすほど大きな壁一面に、一枚の大きな絵画展示されていた。
圧倒的なスケールで描かれたその絵画には、二人の男女の結婚の様子が描かれていた。
光に包まれる新郎新婦は心からの笑顔を浮かべている。
見たところ、新郎の方が新婦に指輪をはめる瞬間を描いているようだった。
周囲の人々もまた、二人の幸福を祝うように温かく見守っていた。
「凄い……です……」
ぽかんと口を開けて言うアメリアに、ローガンは言う。
「作品名は『幸福』。ゲイン氏の遺作だ」
ローガンの言葉に、アメリアは目を見開いた。
「ゲインさんの遺作……」
ゲインの作品は、今日だけでも二度目にしている。
一度目は絶望の闇に塗れた絵。
二度目は暖かさと希望に溢れた絵だ。
ゲインの絵は、人生に変化と深い物語を宿すものとしてアメリアの心に残っていた。
「幼い頃から世界を絶望的な場所だと見ていたゲイン氏が、死の寸前に完成させた作品だと言われている。彼が人生で最も幸福だと感じたことを、妻に贈ったんだ」
「そう、なのですね……」
アメリアはしばらく、その絵から目が離せなかった。
その絵から伝わってくる真っ直ぐな喜びの色が、アメリアの心に深く染み込んでいく。
「アメリア」
ふとローガンが自分の名前を呼ぶのに気づいた。
そこで、そういえばなぜ、ローガンは自分をここに連れてきたのかと疑問に思う。
その疑問はすぐに解消された。
ローガンがアメリアの方を向き、片膝をついて小さなケースを差し出した。
アメリアの胸がどくんと高鳴る。
「正式な婚約指輪は、まだ渡していなかったからな」
ローガンの声は少しだけ緊張を帯びていた。
ローガンがケースを開くと、金色のリングにセットされた、ワインレッドカラーのダイヤが輝く。
「アメリア、手を」
ローガンに言われて、アメリアは導かれるように手を差し出す。
力強いローガン手が、アメリアの手をそっと取って、ゆっくりと指輪をはめた。
ゲイン氏の遺作の光景が、今この瞬間の二人に重なる。
「……っ」
その途端、アメリアの視界がほんの少しぼやけた。
指先に伝わるローガンの温もり。薬指に通る冷たい感触。
それらの感覚は、ローガンに確かに愛されていることを実感させてくれる。
今この瞬間、アメリアは確かな『幸福』を感じていた。
「ありがとう、ございます……とても嬉しい、です……」
ローガンへの想いが溢れすぎて、うまく言葉にできなくて、ありきたりな事しか言えない。
「良かった……」
それでも、ローガンにはアメリアの感情が伝わったようだった。
安堵したようにローガンは息をついて言う。
「せっかく指輪を贈る機会だから、少しばかり準備をしようと思ったんだ。美術館の貸し切りや指輪の手配もあって、少々時間がかかってしまった……」
アメリアが美術館に行きたいと言った日から三日。
この瞬間のために、ローガンが準備を進めてくれたのかと思うと、胸がじんとする思いであった。
「綺麗……」
指輪を天井に掲げると、ステンドグラスに光に反射してきらりと光る。
「アメリアの髪の色と同じ色のダイヤにしたのだが、どうだろう?」
「あっ……」
(本当だ……)
「同じ、ですね」
──同じ、ですね……。
(えっ……?)
ぱしっと、アメリアは自身の頭に手を添える。
(なんだろう……)
以前にも、ローガンに同じ事を言ったような。
次の瞬間──アメリアの脳裏に光景が浮かび上がった。
十五歳のデビュタントの日。トルーア王国の首都カイドにある王城の大広間。
巨大なシャンデリアが輝き、絹のカーテンが揺れ、磨き抜かれた大理石の床が煌めく。
それらとは対照的に、ボロいドレスを着せられて、会場の隅っこで居心地の悪さを感じていた自分。
──一人なのか、君は?
そんな自分に話しかけてきた一人の男性。
何度か夢に見た気がするシルエットに、色が、灯っていく。
恐ろしいほどに整った顔立ち、長めに切り揃えられた銀色の髪、ナイフのように鋭い澄んだブルーの瞳──あの時、自分に話しかけてきた男は他の誰でもない、ローガンだった。
──君も一人か? ──はい……
──俺も同じだな。
──同じ、ですね……。
「あーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!」
「ど、どうした、アメリア?」
突如として空気がビリビリ震えるほどの大きな声を上げたアメリアに、ローガンが何事かと尋ねる。
「思い、出しました……」
アメリアは震える声で言ってからローガンを見上げ、自分を指差していった。
「私たち……デビュタントの時に、お会いしました、よね……?」
アメリアの言葉に、ローガンはわかりやすく驚きの感情を顔いっぱいに広げた。
「思い、出したのか?」
こくこくとアメリアは頷く。
するとローガンは片手で顔を覆い、大きなため息をついた。
「なぜこのタイミングで思い出すんだ……心の準備が……」
「ここ最近、ちょくちょく夢で見たような気がしてたんですが……同じ、という言葉にピンと来まして……」
「ああ、なるほど……」
納得したとばかりに言うローガンに、アメリアは尋ねる。
「ど、どうして言ってくれなかったのですか? 私たちが昔、会ったことがあるって」
「いや、なんというか……」
少し考える素振りを見せてから、ローガンは言う。
「言うタイミングがなかったというのもあるが……君が酒で記憶を飛ばしてしまったから、俺の方から無理に思い出させるのも違うと思ってな。それに……」
言葉を選ぶようにして、ローガンは言う。
「うまく言い表せないが、あの夜は……俺にとって大切な思い出で……だから、君が自分の意志で思い出してくれるなら、それが一番だと思っていたんだ」
そう言うローガンの頬に、ほんの少しだけ赤みが差しているのをアメリアは見た。
ローガンが自分との初めての出会いを大切にしてくれていたことが伝わってきて、心の奥底でこそばゆい感情が広がる。
アメリアがわかりやすく照れの仕草を見せると、ローガンは彼女の手を取った。
「俺にとっては、アメリアと会ったあの夜の事が忘れなくてな……それからずっと、アメリアの事を気にかけていたから……だから、いい加減に婚約をしろとオスカーにせっつかれた時、君を指名したんだ」
「そう、だったんですね……」
ずっと不思議に思っていたことがある。
へルンベルク家の公爵様が、なぜ縁もゆかりもない伯爵家の令嬢を娶ったのか。
人生最低最悪だったあの日に、ローガンが声をかけてくれたから。
だから今こうして、ローガンが隣にいるのだとわかって、その事実自体が何やら運命めいたものを感じられて、頭の奥がじんじんと熱くなった。
同時に、ずっと大切な日のことを忘れていたことに罪悪感が芽生える。
「ずっと、忘れていてごめんなさい……」
「気にするな。酔っていた君も可愛かったぞ」
「も、もうっ、それは忘れてくださいっ……」
アメリアは頬が熱くなるのを感じ、思わず視線を逸らしてしまった。
胸がドキドキと高鳴り、ローガンの顔をまともに見れない。
その一瞬の沈黙を破るように、ローガンの真剣な声が彼女の名前を呼ぶ。
「アメリア」
穏やかでありながら強い響きが、アメリアの胸の奥に静かに届いた。
ゆっくりと視線を戻す。
ローガンはアメリアの手をそっと取っていた。
それからアメリアの指に輝く指輪に視線を落とし、優しく手を添える。
そして、ローガンの青い瞳がアメリアをしっかりと見据える。
「改めてだが……俺とこれからも、ずっと一緒にいてくれるか?」
どこまでも真摯で、アメリアの心をまっすぐに揺さぶる心。
ローガン差し出すのはただの言葉ではなく、未来を共に過ごすという覚悟そのもの。
胸の奥から湧き上がる感情に、アメリアは自然と微笑みがこぼれた。
ローガンと一緒に歩んでいく決意は、もうとうに固まっている――答えは決まっていた。
「もちろんです」
その笑顔はどこまでも純粋で、心の中にある喜びが溢れ出たものだった。




