第164話 変えてくれて
「……ん」
薄暗い部屋の中、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
まるで体内時計に合わせるようにローガンはぱちりと目を覚ました。元々ローガンは寝起きに強い。
すぐさま自分がどこにいるかを把握し、ゆっくりと状況を思い出していく。
(そうか……確か、倒れて……)
密猟者たちを捕縛して屋敷に戻ってきたあと、急に体調が悪くなり倒れてしまった記憶がぼんやりと蘇る。
日頃の疲労や寝不足、さらに湖で身体を冷やしたまま、密猟者たちと緊張感のある戦いを繰り広げた事が引き金となり限界を迎えたのだろう。
そう思うと、途端に不甲斐なさが胸に広がった。
(これくらいは耐えられるつもりだったが……)
どうやら自分の理想と現実は違うらしいと、ローガンはため息をついた。
身体にはまだ少し倦怠感が残っていたが、熱は引き、快調に近いほど楽になっている。
ゆっくりと上半身を起こす。
その時、左半身に妙な感覚があり、ローガンは腕を見下ろした。
「……っ」
声が漏れそうになるのをすんでのところで押し込める。
視界のすぐそばに、ベッド脇の椅子に座ったまま眠り込んでいるアメリアの姿があった。
アメリアはローガンの腕を抱きしめるようにして、ベッドに突っ伏している。
小さな寝息を立て、穏やかな寝顔を晒していた。
「心配をかけてしまった、か……」
ローガンは小さく呟く。
おそらく、アメリアが付きっきりで自分を看病してくれたのだろう。
思わず申し訳なさが込み上げてきた。
しかし、続いて浮かんでくるのは、愛おしさだった。
よくよく見ると、表情には看病による疲労がほのかに見て取れる。
こんなにも一生懸命に自分に付き添ってくれたのかと思うと、言葉にならない感情が胸を温かく満たしていく。
幼い頃から身体は丈夫な方だったが、それでも何度か体調を崩したことはある。
その度に彼は使用人を部屋から遠ざけ、ひとりで静かに休むのが常だった。
頼る者がいなかったわけではない。
しかし、ローガンは自らの弱さを見られることを良しとしなかった。
両親や兄弟とも早くに疎遠になっていたこともあり、誰かに看病されることはなかったのだ。
ふと胸の辺りに冷たい風が吹き抜けるような感覚を覚え、ローガンは静かに息を吐く。
遠い昔、ひとりで耐えていた日々のことを、思い出したくもない記憶の破片が頭をよぎる。
そんな記憶を振り払うように、ローガンベッドの端で眠り込むアメリアの顔に目を向けた。
アメリアの寝顔は、まるで子供のようなあどけなさを湛えている。
すうすうと、柔らかな呼吸に合わせて髪が微かに揺れていた。
穏やかで無防備なその表情は可憐で、思わず口元が緩む。
アメリアの寝顔を見ていると、先ほどの胸に吹いていた冷たい風は、いつの間にかぽかぽかとした温かな陽射しに変わっていた。
「不思議だな……」
そう呟きながら、ローガンはアメリアの頭に手を伸ばし、優しく撫でた。
滑らかで、温かい感触が伝わってくる。
「アメリアといるだけで、胸が温かくなる」
心の奥で静かに揺らめく感覚にローガンは気づいていた。
かつて、感情というものはローガンにとって刃物と同じだった。
元々感情表現が得意な方ではなかったのもあるが、感情を顕す行為は自分の弱点が他人に見透かされる事でもあり、そこに付け入られると教え込まれてきたローガンは、冷たい仮面の奥に本心を隠してきた。
それこそがローガンの生きる術であり、彼が築き上げた“公爵貴族”としての姿だった。
冷酷無慈悲、暴虐公爵。
そう呼ばれることは、ローガンにとって不都合ではなかった。
打算的な令嬢を遠ざけるために意図的に流した噂ではあるが、根本的には間違ってはいない。
自分は冷酷で、淡々としている性質だと思う。
一方で、胸の奥底にはどこか冷たい空虚が巣食っていて、感情を押し殺す生活は心に鈍い痛みを残していた。
しかし、アメリアと出会ってから、いつの間にかローガンの中で何かが変わり始めた。
アメリアの屈託のない笑顔や、誰にでも分け隔てなく接するその優しさに触れるたびに、ローガンの心には少しずつ色が戻ってきていた。
冷たい仮面の奥で息をひそめていた感情が、アメリアの笑顔に照らされてゆっくりと温かさを取り戻していくように。
アメリアが笑えば、自分も自然と微笑む。
アメリアが傷つけば、怒りや悲しみが湧き上がる。
それが自分にとってどれだけ新鮮で、喜びを伴うものかを、改めて実感していた。
「んぅ……」
ローガンの手の動きに気づいたのか、アメリアが小さく身じろぎし、まぶたをゆっくりと開ける。
「起こしてしまったか」
ローガンの言葉に、アメリアは薄ぼんやりと目を開け、ふわふわした意識の中で思考を巡らせている。
目の前にはローガンの顔。
ベッドに突っ伏していた自分をローガンが見つめているのに気づいた瞬間、驚きで全身が跳ねるように覚醒した。
「あああっ、ごめんなさい、私ったら、すっかり寝入ってしまい……」
言葉を詰まらせながらパッとローガンの腕から手を離し、慌てて背筋を伸ばすアメリア。
顔を赤らめておろおろと手を動かしながすアメリアの姿を見ていると、思わずこちらも笑いそうになってしまう。
そんなアメリアを見つめながら、ローガンが静かに口を開いた。
「アメリア」
「は、はいっ……」
名前を呼ばれ、アメリアは戸惑いと驚きの混じった顔でローガンを見つめ返した。
澄んだ瞳には眠気と不安、そして少しばかりの緊張が浮かんでいる。
(俺と出会ってくれて、俺を変えてくれて……)
言葉にして伝えるのはなんだか気恥ずかしくて、奥に秘めていた思いをそっと心の中で呟き、まっすぐにアメリアを見つめたまま。
「ありがとう」
心の奥底から感謝の意を込めて、ローガンは言葉を紡いだ。
その言葉にアメリアは瞳をぱちくりと何度も瞬かせたあと、はっとしたように微笑んだ。
「どういたしまして」
柔らかくアメリアは応えた。
おそらく、看病をしてくれたことに対してのお礼を言ったのだと解釈したであろうアメリアに、ローガンも自然体の笑顔を返すのだった。