第162話 わだかまり
大きなベッドのそばで、アメリアが椅子に腰を下ろしている。
「それでは、私どもはこれで。何かありましたらすぐにお知らせください」
「ありがとう、シルフィ」
こうして使用人たちは退室して、部屋にはアメリアとローガンの二人きりとなった。
「……かわいい」
すっかり深い眠りに落ちたローガンの寝顔を見て、アメリアはぽつりと溢した。
普段はどこか人を寄せ付けない、鋭いナイフのような雰囲気を漂わせているローガン。
そんな彼の冷静さや強さを知っているからこそ、今のように無防備で安らかな寝顔には、どこか愛おしさすら感じた。
じーーーっとその寝顔を見つめていると、アメリアの胸が不思議と温かくなる。
胸板が一定のリズムで上下する。形の良い長いまつげがわずかに揺れている。
そんな些細な動きからも目が離せなかった。
その中で、ローガンの乾いた唇がかすかに動くのを目で追っているうちに、ふと身体の奥底から熱い欲求が湧き出てきた。
いつもはローガンの方からしてくれる接吻。
今は無防備なその唇に、触れたい──そう思って、アメリアはそーっと椅子から腰を浮かせる。
それからゆっくりと、ローガンに顔を近づけた。
ドキドキと高鳴る心臓、時計の秒針が刻む音だけがその場に響いている。
ローガンの吐息が鼻に掛かるほどの距離になったところで、ハッとアメリアは我に返った。
(びょ、病人に何をしようとしているの私!?)
今にも沸騰しそうなほど頬が熱くなった。心臓の高鳴りを落ち着けるように大きく息を吐く。
何度か深呼吸を繰り返し、気持ちを静めた。
「やっぱり変だわ、私……」
ここ数日、ずっとローガンのことを意識してしまっている。
彼のそばにいると、自分じゃ自分ではいられなくなる。
これが人を好きになるという気持ちなのだろうけど、行き過ぎると日常生活に支障が出るんじゃ無いかと不安になる勢いだ。
(いや、もう出てるかも……)
最近の自分の挙動を思い返し、今度は羞恥で顔が赤くなるアメリアであった。
「……何か、他にすることは」
別のことに意識を向けようと周りを見回す。
するとローガンは、朝読書をしていたソファとテーブルが目に入った。
ちょこちょこと移動し机の上を見てみると、乱雑に積まれた書類や本が散らばっていた。
どうやら片付ける時間もなかったらしい。
触れてはいけない書類もあるかもしれないので、使用人も手をつけなかったのだろう。
(お片付けくらいは……しても良いよね?)
もっと役に立ちたいという気持ちが優って、アメリアは机に近寄る。
まず書類の束をまとめ、丁寧に一つ一つ整え始めた。
本もきれいに積み重ね、見やすいように並べ直す。
「あっ……」
その拍子に、手元から何冊かの本が床に滑り落ちバサバサと音を立てた。
反射的にベッドの方を向くも、ローガンが目覚めた様子はない。
静かな寝息だけが部屋に響いている。ほっと一息ついて、アメリアは落ちた本を手に取った。
その時、ふと本のタイトルが目に入った。
「ぐんじ……せんりゃく?」
『軍事戦略論』
『国境防衛の要諦』
『内外防衛の新視点』
といった、重々しいタイトルが並んでいる。
(領地運営のために学んでいるのかしら)
アメリアは眉をひそめながら本を拾い上げ、再び表紙を見つめた。
普段からローガンが書籍を読んでいるのは知っていた。
しかしこのような軍事戦略や防衛に関する書物は、彼の日常業務には少し不釣り合いに思えた。
危険な響きを持つタイトルに、アメリアは軽い不安を覚える。
(でも領地を守るには……こういう知識も必要なのでしょうね……)
そう納得しようと試みたものの、心の奥にはなんとも言えない疑念がわだかまっていた。
ローガンの今まで見えなかった部分がほんの少しだけ覗けてしまったようで、片付けが終わっても胸に湧いた雲は拭えないままだった。