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第158話 心配をかけてしまった

万が一に備えてタオルは持参していたものの、着替えまでは持ってきていなかった。

 ある程度衣服は絞ったが、まだまだじっとりと湿っている。


 いくら温暖な気候とはいえこの状態での長居は身体に悪いので屋敷へ戻ることになった。


「いやあ、二人とも無事で何よりです」


 森の中、心なしかゆっくりと足を進める3人。

 先導するリオが心底安心したように呟いた。


 無理もない。

 主君とその婚約者が乗ったボートがひっくり返り、二人とも溺れかけるという事態に、内心どれだけ焦ったかは想像に難くない。


 リオはそんな素振りを表に出さないが、その気苦労は小さくないだろう。

 リオが軽快に歩く一方で、アメリアとローガンはどこかよそよそしかった。

 

 ふたりの間には、まだ微妙な空気が漂っている。


「…………」

「…………」


 互いに視線も、言葉も交わすこともなく、黙々と足を運ぶ。

 アメリアの頭の中は、先ほどの出来事で一杯だった。


 ──昨晩は、我慢できたが……もう、限界かもしれない。


(あのままリオが来なかったら……)


 仮定の未来を想像し、顔が真っ赤に染まる。

 心臓の鼓動が速いのは足を動かしているからではないのは自分でもわかっている。


 歩を進めるたび、どくどくと胸の奥から音が伝わってくる。

 熱が上るような感覚に、アメリアは思わず顔を両手で覆った。


(落ち着きなさい……深呼吸、深呼吸よ……)


 自分に言い聞かせて、ぺちぺちと頬を軽く叩く。

 それから深く息を吸い込み、吐き出した。


 そんなアメリアの挙動を息切れと勘違いしたのか、ローガンが気遣う声をかけてくれる。


「アメリア、大丈夫か? 疲れたなら少し休憩しても大丈夫だぞ」


 その言葉にはいつも以上に過保護な響きがあって、アメリアはさらに胸が熱くなった。


「へ、平気です……お気遣いありがとうございます」


 先ほど多大なる心配をかけた上に、これ以上気遣われるのは申し訳ない。

 アメリアはキッと前を向いて一歩一歩しっかりと歩みを進めた。

 

 そうやって進んでいると、アメリアの脇を何か小さな影がちょろちょろと通り抜けた。


「あら、かわいい……」


 その影を目で追うと、小さなリスが可愛らしい仕草で前脚を胸元に当て、アメリアの方を一瞬だけ振り返った。


 くすんだ茶色のふわふわした毛並みが木漏れ日に照らされて柔らかく輝いている。


 黒く丸い瞳が好奇心で煌めいたかと思えば、すぐに木の陰へと姿を消した。


「先ほどの水鳥と言い、たくさんの生き物がいますね」


 アメリアが弾んだ声で呟くと、ローガンも目を細めて答えた。


「この辺りは自然が豊かだからな。豊富な食糧を求めて、動物たちが集まってくるんだろう」

「改めて、遠いところに来たという感じがしますね」


 ローガンが統治するへルンベルクの領地にも動物はいないことはないが、王都からさほど離れていないこともあり数は少ない。


 普段の日常から離れた実感をアメリアは深く噛み締めるのであった。


 そうこうしていると、ふと先を歩いていたリオがぴたりと立ち止まった。


「しっ……静かに……」


 鋭い目つきに変わり、りおは身を低くして周囲に目を凝らした。


「アメリア、こっちへ」


 ローガンもすぐにアメリアの前に立ち、庇う位置に移動する。

 ざわりと、空気にピンと糸を張ったような緊張感が漂った。


(な、なに……?)


 アメリアも身を固め、周囲を見回す。

 すると、森の奥の茂みがガサガサと大きく揺れた。


 次の瞬間、茂みの中から大きなシルエットがゆっくりと姿を現した。


「「「……!?」」」


 3人とも驚きで目を見開く。


「グルル……」


 低く唸るその存在――それは、一頭の真っ白な虎だった。


 馬よりも大きな体躯、金色がかった大きな瞳がこちらを鋭く見据えている。


 筋肉質な四肢と、しなやかな動きにはまるで油断がない。

 厚い毛皮の合間から伸びる鋭い爪と牙が、獰猛な狩人としての本能を物語っていた。


 虎はこちらをじっと見据え、低く唸り声を上げている。

 まるで、いつでも攻撃に転じられる準備ができていると言わんばかりだ。


「ひっ……」


 思わずアメリアは声を漏らす。


 その威圧感と、食物連鎖の頂点に立つ生き物の持つ本能的な迫力に、アメリアの生存本能が警鐘を鳴らし身動きが取れなくなった。


 虎を目の前にするなんて、アメリアにはもちろん初めての出来事だった。

 凍りついたようにただ虎を見つめ、心臓が速く脈打つのを感じるしかなかった。


「なんだ、虎ですか」


 一方のリオは虎に対して一切の動揺も見せない。

 彼は眉一つ動かさずに虎を見定め、懐からナイフを取り出すと鋭く光らせた。


「対処できそうか?」


 ローガンが低い声で尋ねる。

 リオはナイフを握り、表情を変えずに応じた。


「安心してください。この程度、すぐに追い払ってみせますよ」

「リオって、何者……?」


 目の前にいるのが猛獣だというのに、微塵も臆さず動じないリオに、アメリアは思わず驚きと戦慄を覚える。


 しかしその瞬間、虎の視線がどこか怯えたものにアメリアは見えた。


(あれ、この子……)


 ふと気づいて、アメリアは目を凝らす。

 よく見ると、その太い脚の一つに違和感がある。


「二人とも、動かないでくださ……」

「待ってください!」


 アメリアは声を張り上げるとリオの前に躍り出た。


「えっ、ちょっ……」


 突然のアメリアの行動にリオが声を漏らす。


「アメリア!!」


 ローガンが叫んだが、アメリアはまっすぐに虎の前へと歩を進めた。


 周囲にはより一層に緊張が漂う。


 ローガンとリオはアメリアに視線を注ぎ、いつでも動けるように体勢を整えた。


 虎の鋭い目がアメリアを追い、その巨体が一瞬身構えたように動く。

 しかしアメリアは怯むことなく、そっと手を差し出した。


「大丈夫、怖くないから……ね?」


 アメリアの声は穏やかで、優しさに満ちていた。


 虎に対して一切の警戒心や敵意を持たず、ただ目の前の存在を静かに受け入れているような仕草。


 虎の瞳に映るのは、優しく手を伸ばす小柄な人間――その姿は、自分を傷つけるものではないと悟らせるほどに無垢だった。


 アメリアはゆっくりと、ドレスのポケットから小さな薬瓶を取り出し、慎重にその蓋を開けた。


 それから手のひらに薬を取り出し、傷ついた虎の前脚にそっと近づける。

 すると、虎は一瞬だけぐるるっと警戒して前足を引っ込める素振りを見せた。


 しかしアメリアの視線が優しく絡むと、虎は少しだけ鼻をひくつかせてから目を和らげ、彼女の動きを受け入れた。


「ここが痛いのよね。無理しなくて大丈夫よ」


 アメリアは虎の前脚にある傷に薬を優しく塗り込めていった。

 痛みが和らぐようにと、包むようにして、傷の周りにまで丁寧に薬を伸ばす。


 そんなアメリアの双眸には底なしの優しさが浮かんでいた。


 虎の瞳が次第に和らぎ、鋭かった顔つきがどこか安心したものに変わっていくのがわかった。


「もう痛くないでしょう?」


 アメリアはあやすように囁くと、虎は「くるる……」と、先ほどの唸り声とは打って変わった耳心地の良い声を漏らした。


 それから安心したように鼻を近づけて、アメリアの手に触れるように頭を動かす。


 そして親愛の証かのように、虎はアメリアの頬に向けてぺろりと舌を伸ばした。


「うふふっ、くすぐったいわ」


 虎の舌が顔に触れる度に身を縮ませて、アメリアは思わず笑みを漏らした。


 一連の様子に、リオは驚きを隠せないまま「マジですか……」と呟く。


 ローガンもまた、今目の前で起きた光景を受け入れきれないとばかりにぽかんと惚けていた。


「君は、猛獣使いか何かか?」

「ち、違いますよっ? なんとなく、この子は私たちを襲いたいんじゃない、怯えてるんだと感じたんです」


 アメリアの返答に、ローガンは思い出したように呟く。


「そういえば、ミレーユ夫人の動物たちともすぐに仲良くなっていたな……」

「自然な心で優しく接してたら、動物たちも警戒を解いてくれますよ」


 アメリアが笑顔を返すと、ローガンは彼女をじっと見つめる。


「結果的に大事には至らなかったが……」


 言いながら、ローガンはアメリアを後ろから抱きしめた。


「無茶はしないでくれ……」


 低く響く声には、不安や安堵がいっぱいに詰まっていた。


「あ……」


 アメリアはふと我に返った。

 ローガンの気持ちに立ってみると、背筋が冷たくなるのを感じる。


 虎の目の前に無防備に近づくという自分の行動が、どれほどローガンに不安を与えたかを理解した。


 巨大で鋭い爪を持つ虎に、何の躊躇もなく近づいていくなど、ローガンにとっては心臓が凍るような思いだったに違いない。


 ローガンの気持ちを汲み取って、アメリアの胸底から申し訳なさがこみ上げてきた。


「ご心配をおかけして申し訳ございません……放っておけなくて、つい……」


 アメリアは深々と頭を下げ、心の底からのローガンに謝罪をした。

 ローガンがに大きく息を吐く気配がする。


(流石に呆れさせてしまった……よね……)


 わざわざ自分から命を危険に晒す婚約者がどこにいるのだろうか。

 今回ばかりはローガンを怒らせてしまっただろうと、アメリアは身構える。


 しかし待っていたのは叱責ではなく、頭をぽんと撫でる優しい感触だった。

 恐る恐るアメリアが目を上げると、ローガンは柔らかい微笑みを浮かべていた。


「いや、気にするな。君が無事で何よりだ。それに……」


 穏やかな声色でローガンは言った。


「その優しさが、アメリアという人間だったな」


 その言葉は、ただ許すという以上の意味を含んでいた。

 アメリアの行動を理解し、彼女の持つ優しさや無垢さ。


 そしてそのまっすぐな心を受け入れ、認めているという思いが込められていた。


(ああ……もう、本当に……)


 どこまで彼は、優しいのだろう。

 きゅっと、胸の奥で音が響いた。


「……ありがとうございます、ローガン様」


 ローガンの広い心に対して、ただアメリアはただ例を口にするのであった。


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 その者蒼き衣を纏い、金色の大地に(以下略)
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