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第156話 世界がこんなにも綺麗だと

 水面がわずかに波立ち、さざなみが広がる。


 湖の風が優しく二人の頬を撫で、小舟は静かに湖面を滑っていった。

 オールが水を切る音は心地よく、空と森を映す湖はまるで鏡の世界に入ったかのよう。

 太陽の光が波紋に反射して、小さな光の粒が水の上で跳ね回っていた。


「きれーーー!!」


 落ち着いた湖の景色の反面、ボートの上ではアメリアの弾むような声が響いていた。

 思わず立ち上がりたくのを抑えて、興奮気味に手を伸ばして景色を見渡している。

 視界いっぱいに広がる青空と森、そして果てしなく続く湖面。

 どこを見ても美しい風景に心が奪われていた。


「楽しんでいるか?」


 ローガンが声をかけると、アメリアは勢いよく頷いた。


「はい! とっても!」


 爛々と瞳を輝かせてアメリアは言う。

 誰が見てもわかるほど、楽しさを全身で表現していた。


「景色も綺麗ですし、風も気持ち良いですし……なんだか冒険に出てるみたいでワクワクします!」

「何よりだな」


 微笑むローガンだったが、アメリアがハッと何かに気づいたように言った。


「すみません、ローガン様ばかりに漕がせてしまって……」

「気にするな。俺も久しぶりで楽しんでいる」

「以前もボートに?」


 アメリアが尋ねると、ローガンは懐かしげに湖の周囲を見渡し、遠い記憶に思いを馳せるように口を開いた。


「子供の頃、両親に連れてこられてな。父親が漕いでくれたボートに、俺も乗っていたんだ」

「なるほど……」


 その言葉にアメリアは頷きながらも、ふと疑問が湧き上がってきた。


(そういえば、ローガン様の両親って……)


 思い返すと、アメリアはローガンの両親のことをほとんど知らないことに気づいた。

 ローガンは若くしてヘルンベルク家の当主を務めている。

 それ自体は珍しくない。


 高齢や病気を理由に当主が引退し、長男に引き継ぐことは貴族社会ではよくある話だからだ。

 だが、両親の現状については、何も聞いたことがなかった。


 以前、ローガンが両親について話したとき、とても厳格だったと語っていた。

 それ以上の情報はない。


(ローガン様について、まだまだ知らないことがたくさんあるな……)


 彼の過去や家族について、もっと知りたいという気持ちはあったが、家族の話題に触れることがなんとなく気が引けた。

 言葉を選んでいる間に、心の中で思考が堂々巡りする。


「アメリア、どうした?」


 アメリアの表情に影が差したのを察してか、ローガンが尋ねる。


「あっ、えっと……えっと……」

(もし、両親の話題がローガン様にとって触れてはいけないものだったら……)


 今の楽しく穏やかな空気を壊してしまいかねない。

 そう考えて、アメリアは喉まで出かけていた言葉をぐっと飲み込んだ。


 一転、アメリアはぱっと表情を変えて声を上げる。


「そういえばローガン様! クッキーを焼いてきたのですが、いかがですか?!」


 そう言って、彼女は懐から小さな袋を取り出した。

 丁寧に包まれた布袋で、手作りらしい温もりが感じられる。


「いつの間に……?」

「ローガン様が仮眠を取っている間に、手が空いていたので……」


 目をパチクリと瞬かせるローガンに、アメリアはにっこりと微笑んでいった。


「さあ、どうぞ」

「ああ……」


 アメリアに手渡されたクッキーを手のひらに載せるローガン。

 丸く焼かれたクッキーは少し不格好ながらも可愛らしく、表面は薄い黄金色にこんがりと焼き上がっていた。


 ところどころに砕いたナッツが埋め込まれ、甘く香ばしい香りがふわりと漂う。

 ローガンはクッキーをゆっくり口に運び、一口かじった。


 サクッとした心地よい食感、そしてすぐにバターの豊かな風味とナッツの香ばしさが口いっぱいに広がる。


「……うまい」


 その一言に、アメリアの心がふっと温かくなる。

 ローガンの素直な言葉は、それだけでアメリアにとって大きな喜びだった。


「本当ですか?」

「ずっと食べていたくなる」


 力強く頷くローガンに、アメリアは「よかった……」と安堵した。


 ローガンはアメリアの持つ小袋から一つクッキーを取り出し、今度はアメリアに差し出した。

「アメリアも。せっかくの力作だろう」


 いわゆるあーんというやつである。


 アメリアは少し照れたような表情をした後、ローガンが手に持つクッキーをサクッと口にした。

 まるで小動物が餌を啄むような姿だ。


「ん……美味しい……」


 口の中には甘さと香ばしさが溢れ、思わず頬がほころぶ。

 普通は部屋で食べるクッキーも、こうして青空の下、静かな湖に浮かぶ小舟の上で食べると、何か特別なものに感じられた。


 そうこうしていると、ふと何かに気づいたローガンが声を上げた。


「アメリア、ほら」


 ローガンの指差す方に視線を向けると、そこには水鳥たちが群れをなして戯れていた。


 湖面を滑るように泳ぐ白や灰色の水鳥たち。

 その羽根は光を受けて淡い虹色に輝いている。


 鳥たちは互いに羽を広げて水を跳ね散らしながら、楽しそうに遊んでいた。

 鳥たちが湖面を舞い、風がその羽音を運んでくる。


 その光景に、アメリアは息を呑んだ。


「……綺麗……」


 うっとりしたように呟くアメリアの声は、自然とローガンに届いた。

 水鳥たちが作り出す一瞬の奇跡のような景色は、二人の時間を特別なものに変えていた。


「ありがとうございます、ローガン様」


 ぽつりと、呟くようにアメリアは言う。

 瞳の奥がじんわりと熱を帯びる。


 そっとローガンの方へ顔を向け、アメリアは口角を持ち上げる。


「アメリア……?」


 僅かに眉を寄せるローガン。

 彼女の声が妙に湿っぽいことに気づき、微かな困惑を浮かべている。


「ローガン様のお屋敷に来るまで、私の世界は灰色でした」


 その言葉に込められた重みが、静かに波のように広がる。


 アメリアの心には、過去の記憶がくっきりと浮かんでいた。

 ハグル家の冷え切った離れ。


 孤独と抑圧に包まれ、狭い部屋に閉じ込められていた日々。

 外へ出ることも叶わず、楽しみも夢もなく、ただ耐え忍ぶだけの生活。


「でも、ローガン様と出会って、たくさんの景色を知りました」


 アメリアは微笑むように言いながら、言葉を続けた。


「お屋敷の美しい植物たち、初めて歩いた王都の街並み……そして、二人でベランダから見上げた星空……どれも、とても綺麗でした」


 アメリアは感極まったようにボートの座席から立ち上がった。

 その瞳には涙の粒が光り、心の内を包み隠さずにさらけ出していく。


「お、おい……」 

 ローガンが慌てて手を伸ばす。

 舟の上で無理に立ち上がると危ないのは承知の上で、アメリアは胸の内に溜まった感情を言葉に変えた。


「こんなにも美しい世界があるのだと、私は初めて知りました……!!」


 瞳に涙を浮かべながら、アメリアは両手を大きく広げた。

 湖面は太陽の光を受けて煌めき、森の緑が風にそよぐ音が心地よく響く。


 水鳥たちは羽ばたきながら水しぶきを上げ、その一瞬一瞬がまるで夢の中の光景のように美しい。

 その姿を目の当たりにしたローガンは、息を呑むように彼女を見つめた。


 彼女の姿はあまりにも儚く、しかし同時に力強く……眩しいほどに美しかった。


 「とっ、と……」


 アメリアは足元のバランスを崩しそうになりながらも、なんとか体勢を整え座席に腰を下ろした。


 小舟がわずかに揺れて、アメリアは大きく安堵の息を吐き出す。


「ごめんなさい……気持ちが昂ってしまって、つい……」


 アメリアは顔を赤らめながら謝罪する。

 その直後、ローガンがゆっくりと身を寄せ、アメリアの細い肩をしっかりと抱き寄せた。


「……!」


 突然の抱擁に、アメリアは驚いて息を飲む。

 水上特有のひんやりとした風の中、ローガンの温もりが全身に伝わってくる。


「そこまで思ってくれていると……胸が震えてしまうな」


 言葉の通り、ローガンの心音が耳元で響く。


 身体を離し、アメリアの瞳を真っ直ぐに見つめてローガンは言った。


「これからも、二人でいろいろな場所に行こう。たくさんの景色を見て、たくさんの経験をしよう」


 決意表明にも似た力強い言葉に、アメリアの胸に熱が灯る。


 目の前の愛する人と、これからもずっと一緒にいることができる。

 その実感で、心の中で鮮やかに色づくようだった。


「これからも、二人でたくさんの思い出を……」


 こくりと頷いてアメリアは言う。

 静寂。


 二人の視線が絡まり合う。


 ローガンの瞳が妙に色っぽく見えて、アメリアの頭がぽーっと熱を帯びてきた。


「アメリア……」

「はい……」


 ローガンの唇がわずかに動きかけ、躊躇うように閉じる。


 その仕草に、アメリアの鼓動はますます速くなる。

 そしてついに、ローガンが言葉を続けた。


「このタイミングで言うのは違うと思うんだが……」


 言いづらそうに、ローガンは言った。


「鳥たちが、クッキーを狙っている」

「へっ!?」


 アメリアが驚いて振り向くと、いつの間にか彼女の背後には大群の水鳥たちが静かに集まっていた。



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― 新着の感想 ―
 と、鳥さんッ!!(笑)
素敵な一幕が見れて満足してたら、まさかのオチで笑わせてもらいましたw ようやく人らしい正常な精神が彼女に訪れて感動してたら、まさかの鳥たちで「え?そっち?w」の感動と可笑しみを持ってくるとか思いません…
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