第151話 後悔のないように
テラスに戻って来る頃にはローガンの動揺は潮干のように収まっていた。
椅子に腰を下ろすなり、クリフは含みのある笑みを浮かべながら言う。
「早かったな」
軽くグラスを揺らし、どこか意味深な表情のクリフ。
「お騒がせして申し訳ない」
そう言って頭を下げる仕草は落ち着きを装っていたが、どこか微妙に硬さが滲んでいた。
気を紛らわせるために、ローガンはグラスを手に取って口に含んだ。
対面に座るミレーユが穏やかな声で微笑む。
「私としては、このまま朝まで二人水入らずでも良かったのですけど」
思わずローガンはグラスの飲み物を吹き出しそうになった。
水入らず……という言葉が何を指しているのか、ローガンは直感的に察してしまった。
思い出す。先ほど、寝室であった一幕。
──いいれすよぉ……私、ローガン様になら……。
酔っ払っていたが故の行動だったと思うが、アメリアのあの姿はローガンの平静を揺さぶるには充分な威力すぎた。
「夫人、冗談はよしてください……」
額に手を添えてから、ローガンは言う。
「あら、婚約者同士ですよね? 何かおかしなことを言いまして?」
ミレーユの言葉にローガンは押し黙る。
その目には、ローガンの反応を楽しんでいる様子が伺えた。
(婚約者同士、か……)
確かにミレーユの言う通り、ローガンとアメリアは互いに愛し合う婚約者同士という関係だ。
一般的な貴族の慣習に則ると初夜は挙式後というケースが多いが、式前に行われることも珍しくはない。
しかし、未だにローガンは一歩踏み出せていない。
(人生で初めて愛した女性はアメリアだ……それは間違いない……)
にも関わらず一線を越えられずにいるのはローガン自身が奥手というのもあるが……言葉に出来ないモヤッとした感情が胸の底にあるからだ。
慎重に慎重を重ねるあまり、自分自身が足を止めてしまっている。
なぜ慎重になっているのかはわからない。直視するには気が引けて、目を逸らしてしまっている。
そんな自覚がローガンにはあった。
「こらこら、その辺にしておけ。ローガンも困っておるだろう」
悶々とするローガンに、クリフが助け舟を出してくれる。
「はあい」
ナンポーインコのように言って、ミレーユが口を閉じた。するとふと、思い出したようにクリフが話題を切り替えた。
「そういえば、風の噂で聞いたのだが……戦地へ赴くという話は本当か?」
悶々とした気持ちを吹き飛ばすかのように、ローガンの胸がざわりと音を立てる。
先ほどまでの穏やかな雰囲気が一変し、テラスには緊張が走った。
クリフの視線は鋭く、確認するような気配が窺える。
ローガンはグラスをテーブルに置き、視線を逸らさず答えた。
「ラスハル自治区に、参謀として着任する話ですね」
絞り出すようにローガンは応えた。
ラスハル自治区――そこは、それぞれ異なる宗教を信仰する二つの国が、領土を巡って争いを続けている地域のことだ。
二つのうち一方の友好国であるトルーア王国が支援のため、何千もの兵をラスハル自治区に送っている。
その地に派遣され現地で指揮を取っているのがローガンの兄、クロードだった。
クロードは先日、ローガンの屋敷を訪れた。
そして戦況を好転させるための参謀として、ローガンに戦地へ赴くように要請した。
ローガンの持つ「一度見たものを忘れない能力」に、クロードは目をつけたのだ。
その場ではローガンは、クロードの要請を断った。
アメリアを置いて危険な地に行く決断は出来なかった。
しかし、アメリアの持つ桁外れの才能が注目を集める中で、ローガンは葛藤していた。戦地で成果を上げ家の名声を高めれば、彼女の後ろ盾としての力を確立できる――という魅力もあったから。
「行くのか?」
じっと、クリフが見極めるように尋ねてくる。
ローガンの脳裏に、今回の外遊の中で時間があったら読もうと思っていた、軍略に関する本が浮かんだ。
「……正直なところ、まだわかりません」
目を伏せてローガンは言葉を落とした。
成果を上げれば確かに家の力は増すだろう。
しかし、戦場は決して安全な場所ではない、必ず危険はついて回る。
(俺の身に何かあったら……)
脳裏にアメリアの笑顔が浮かぶ。
鉄を激しく打ちつけ合うような葛藤が、胸の内で激しくぶつかり合っていた。
クリフはじっとローガンの様子を伺い、静かな眼差しで頷いた。
「後悔のない選択をな」
クリフは否定も肯定もしなかった。
自分の人生は自分で決めろ、という事なのだろう。
クリフの言い聞かせるような言葉に、ローガンはこくりと頷いた。