第148話 乾杯
夕食は夜空が一望できる屋敷のテラスで行われていた。
広く開かれたスペースの辺りにはランタンが灯され、暖かでムーディな光が包み込んでいる。
どこからか虫の鳴き声が聞こえ、海の方からは潮の香りが漂ってきていた。
テラスの奥では、エルバドル地方の伝統衣装をまとった踊り子たちが色鮮やかな布をひらひらと舞わせ、軽やかなリズムで踊りを披露していた。
弦楽器が奏でる陽気な音楽に合わせて踊り子たちは笑顔で舞い、今宵の夕食の席を盛り上げている。
「わあああ~~!!」
アメリアは目を輝かせ、思わず歓声を上げた。
いつものへルンベルクの屋敷で取る夕食とは全く違った環境なのはもちろん、視線の先の大きなテーブルには所狭しと並べられた豪勢な料理にアメリアは釘付けになった。
中央にはパリッとした皮が香ばしいサンセットローストが鎮座している。
これは色鮮やかな果実とハーブを詰めた鶏肉料理で、香ばしい匂いが食欲をそそる。
隣のトロピカルフィッシュのマリネは鮮やかな魚をライムやスパイスでさっぱりと味付けした料理で、肉厚な切り身の上にはパパイヤとマンゴーが彩りよく飾られていた。
他にもココナッツミルクで煮込んだスープや、ふわっと焼き上げられたバナナ包みの蒸しライスなど、どれもヘルンベルクの屋敷では見たことのな、南方地方特有の料理ばかりだった。
「み、南の天国はここにありましたか……」
「随分と食に優しい天国だな」
アメリアとローガンがそんなやりとりをしていると、不意に、ぱんぱんと手を叩く音がテラスに響く。
瞬間、踊り子たちは一斉に舞いを止め、主役を引き渡すかのように一歩後ろに下がった。
「改めて、歓迎する。今宵はようこそおいでくださった」
手を叩いた張本人であるクリフは、シャンパングラスを手に取り悠然とした姿勢で言葉を紡いだ。
昼間のアロハシャツ姿からは一転、格式ある正装に身を包んでいる。
襟元まできちんと整えられた上品な装いは、その堂々とした佇まいを一層際立たせていた。
隣に立つミレーユも、華麗なドレスを身に纏い、優雅な微笑を浮かべている。
もっとも彼女の愛鳥であるナンポーインコのエルダリーフは、お休みの時間なのか姿が見えない。
クリフはアメリアとローガンに視線を送り、再び口を開いた。
「ローガン、そしてアメリア殿。くどくはあるが、今一度、礼を述べさせてほしい。先日のお茶会にて、我が妻ミレーユを助けてくれたこと、心より感謝する」
クリフは深く頭を下げた。ミレーユも同じように続く。
公爵貴族が他人に頭を下げるなど滅多にない。
しかし今回ばかりは礼を尽くさずにはいられなかった。
アメリアの的確な知識と勇気ある行動が、ミレーユの命を救ったからだ。
「本当に、ありがとうございました」
ミレーユも丁寧な声で言い、深くお辞儀をする。
自分よりも遥かに位の高い者に頭を下げられ、アメリアは途端に恐縮してしまった。
「いえいえ……そんな……もったいないお言葉ですよ」
胸の辺りがむず痒くなり、つい続いて頭を下げてしまう。
未だにアメリアは、他者から向けられる真摯な感謝に慣れていなかった。
それが好意からであっても、まるで自分には身に余るもののように感じてしまうのだ。
そんな中、ローガンは冷静な表情で口を開いた。
「両方とも、どうか頭を上げてください」
その低く落ち着いた声が場を和ませる。
「困ったときはお互い様です。私たちはただ、当たり前のことをしたまで。むしろ素敵なお茶会を開催していただき、感謝したいのはこちらの方です。婚約者も、心から楽しむことができましたから」
昼間の砕けたものではない、真面目な口調でローガンは言う。
その言葉に、クリフとミレーユは顔を上げる。
彼らの表情には、まるで成長した我が子を見るような色が浮かんでいた。
クリフはふとローガンを見つめ、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「見ない間に、随分と立派になったものだ」
その言葉には、ローガンを一人の貴族として率直に評価する誠実さが込められていた。
ミレーユも微笑みながら頷き、静かに同意を示した。
エドモンド家とへルンベルク家は旧知の関係だとアメリアは把握している。
数多くの貴族がローガンに対して悪い印象を抱く中、クリフやミレーユは違った。
おそらく、夫妻はローガンの小さい頃から知っているのだろうとアメリアは思った。
「堅苦しい挨拶はこの辺にしよう。ささやかではあるが、存分に楽しんでいってくれ」
そう言うと、クリフはグラスを高く掲げ、満面の笑みを浮かべた。
その仕草に促され、ローガンやアメリア、そしてミレーユも一斉にグラスを掲げる。
「乾杯!」
グラスが互いに軽やかにぶつかり、心地よい響きを立てた。
当時に陽気な音楽が流れ、踊り子たちの舞が華やかに繰り広げられる。
「シャンパンって、こんな味だったんですね」
グラスを傾けたアメリアが、ぽつりと素朴な感想を漏らした。
口に含むと、泡が細やかにしゅわしゅわと弾ける。
フルーティーな香りが広がり、後からほんのりとした酸味が追いかけてくる。
その絶妙な甘みと爽やかさのバランスに、アメリアは思わず「美味しい……」と呟いた。
「流れでアルコールを注いでしまったが、大丈夫か?」
ローガンがそっと小声で尋ねてくる。
その瞳にはほんのわずかな心配が浮かんでいた。
ローガン自身がお酒を好まないこともあり、普段のヘルンベルク家ではアルコールが出されることはほとんどなかった。
実家でお酒が出されることもなく、必然的にアメリアは飲酒の機会がないままここまできていた。
「あ、はい。特になんともないので、大丈夫かなと」
お酒を飲むと酔っ払ってしまうという漠然とした知識はあったものの、自分の許容量がどれほどなのかアメリアには全く見当がつかない。
少しだけ喉とお腹の辺りに熱い感覚があるが、それだけだった。
「念のため、飲みすぎないようにな」
「お気遣いありがとうございます」
アメリアは控えめに頭を下げる。それから再びグラスを見つめて眉を寄せた。
「お酒を飲むの、本当に久しぶりですね……」
ぽつりとアメリアが言う。
記憶を辿れば一度だけ、お酒を口にした機会があった。
もう何年も前、デビュタントの日。
ボロボロのドレスを着せられて出席させられたパーティで、アメリアは酒を口にしたことを思い出す。
一方のローガンは、ふっと小さく笑みを浮かべて。
「酔ったアメリアも、可愛いぞ」
さりげなく言われると、アメリアのグラスを傾ける手が止まる。
「またそういうことを……」
アメリアが酔った姿なんて見たことないのに、確信めいたことを言うローガンに、アメリアは「むう……」と唇を噤む。
「どうした、何か妙なことでも言ったか?」
「なんでもありませんっ」
ふいっと顔を逸らして、アメリアはくいっとシャンパンをあおった。
(このくらいにしておこう……)
なんだか胸の辺りがむず痒いのはアルコールのせいなのか、それとも……。
そっと、アメリアはグラスをテーブルに戻した。
なんにせよ、せっかくの宴の席で酔いつぶれるなどという失態は許されない。
貴婦人としての振る舞いを求められるこの場で、粗相をするわけにはいかないと、アメリアは気を引き締めるのだった。