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太平洋戦争少年の戦後70年

作者: 笠原正雄

太平洋戦争の時代を生きた少年が見た戦後70年


PART1 ―自治の精神―


 戦時中に垣間見た“自治の精神”というテーマは、私には過ぎたテーマです。しかも残された僅かな資料、幼少時の記憶をもとにして、大人になった私が小学生の目で“垣間見る”わけですから、勇み足があるかも知れません。

 お読み下さった方がコメントを頂ければ誠に幸甚です。


 戦時中、小学項(当時国民学校)の成績表は私の知る限りでは全国不統一でした。


 因みに私は戦火を逃れて板宿国民学校→一身田町国民学校→下鴨国民学校と転校致しました。(以下簡単のため板宿、一身田、下鴨と略称します。)


 学期末毎に子供達に手渡される成績表の呼び方は

 ・板宿では通知簿

 ・一身田では通信簿

 ・下鴨では通知表

とバラバラでした。

 都道府県系或いは市町村自治体任せで統一されていなかったことが明らかです。

 この成績表を通して太平洋戦争中の“自治の精神”を垣間見てみましょう。

 神戸市の板宿の通知簿と津市の一身田校の通信簿を比べてみると以下の差に気づくでしょう。


●板宿の通知簿の表紙は活字だけの至って無味乾燥です。

 国民学校は活字印刷ですが、校名の板宿国民学校については校名の“板宿”がゴム印で無造作に入った跡があります。粗雑に作られているという印象が否めません。

 これに対し、一身田の通信簿の表紙は美しいデザインが施され、“一身田町国民学校”の全ての文字がしっかり活字印刷されています。

 心がこもっている、そんな感じがします。


●板宿の教育綱領、校園必行事項が戦争の影響を色濃く反映しているのに対し、一身田の校訓は戦争の影響がある筈だと色眼鏡を掛けて読めば別ですが、冷静に文面を読んでみると現代の教育思想として取り入れても良いのでは、と思われる内容です。


●3回目の転校先となった京都市下鴨国民学校の「通知表」を見ますと、京都市教育指標として以下のことが示されています。


我等の信条


一、心一つに御奉公

一、神を敬ひ忠霊に感謝

一、正しい言葉正しい敬禮

一、よく視深く考え進んで行へ

一、歩けよく噛め陽に當れ


兒童の誓


一、力一ぱい働きます

一、禮儀を重んじます

一、物を大事にします


 『小学生の太平洋戦争』で紹介させていただいた板宿国民学校そして一身田町国民学校と比べると、京都市のそれは独自色が強いな、という気がいたします。そして全ての項目とは言いませんが、幾つかの信条、誓は現代っ子にも守って欲しいなと思います。

 私だけではなく沢山の方々がそう願うのではないでしょうか。


●神戸市、津市そして京都市それぞれで上記のように明らかな差があり、全国統一というような思想は全くなかったことが伺えます。

 太平洋戦争中軍部による統一思想の方針によって、全国小中学校の校訓などは足並みを揃えて一言一句違わなく定められているのではないか、と想像されるでしょう。

 事実は全く違います。むしろ21世紀の現代の方が中央集権思想は強く支配的となっています。

 太平洋戦争中必ずしも中央集権ではなく、地方自治という考えが支配的であったのでは?と思います。

 因みに一身田の校訓には“自治の精神を養ひ”と謳われていることは注目に値するでしょう。この時期、全国的に地方自治の精神が強かったと重ねて思います。


●戦後、急速に中央集権化が進み、今や国立大学、私学の有名大学そして大企業の本社等々の殆ど全てが首都東京に集中しています。

 平和な日本ですが、戦時中に比べて現在の方がよほど中央からの締め付けが強いことが分かるでしょう。そのきわめつけ、一例として全国統一テストがあります。センター試験と称する全国統一テストは下記に示しますように、首都東京からの電波の指令により全国足並みを揃えて遂行されています。ちょっとこの様子、異様な風景を見てみましょう。



 北は北海道から南は沖縄に至る南北2500km以上に及ぶ国土に広がる大学の全教官、何千何万という教官が、あぁ、あぁ、あぁ、時間を電波時計で寸分の狂いもなく調整した上、大合唱をするかのように声を合わせ


“受験番号を記入しましたか”


“名前を記入しましたか”


“10分経過しました”


“あと10分です”


等沢山の注意を受験生に与えています。



 太平洋戦争中でも全く想像することすらできなかった“中央集権的統一思想”のもとでのテスト風景ですよね。これは!!


 因みに、日本の大学の先生方のこの“大合唱”の有様を、米国の大学の先生方にお話しすると、彼らは決まって


“ノー、キッディング!!”


つまり、真っ昼間から冗談話は止めてくれ、そんなことはこの世では有り得ない話だと全く相手にしてくれません。彼らにとっては想像することもできない異様な風景なのでしょう。


 この中央集権化の動きは昭和40年ごろから益々加速されたでしょう。中央集権化という憂うべき流れの中で京阪神に本社のあった大企業の多くが我も我もと本社を東京に移し、京阪神のそれは関西本社という名の本社あるいは支社的存在になりました。


 社員にとっては住宅環境の良い京阪神を居住地として希望したでしょうが、企業にとっては人口が集中し、中央省庁に近い場所に大きなメリットがあったのでしょう。

 単身赴任という状況が当たり前となり、太平洋戦争時代と同じように家族バラバラの生活環境が珍しくない状況に成り果てました。

 全国至るところで太平洋戦争中のように離散家族の誕生です!


 京阪神の大学もまた東京での足がかりをつけることに躍起になっていましたし、現在も躍起になっていると思います。


 畏友、親友として長年交際させていただいている東京在住の著名な学者、そして今も現役研究者である方は、ある日呆れ顔物が言えないといった表情で


「笠原さん!京都の某私立大学、今や江戸屋敷を持っていますね。どうしてなんですか!?」


とのご質問です。私は即座に答えます。


「私立大学だけではありませんよ。国立大学も小さいながら江戸屋敷を持っています。 

文部科学省という江戸城のなるべく近くでお仕えしたい、東京分校があるといわゆる地方の大学の受験生に受けが良いというのが本音ではないでしょうか。物事を有利に進めるためにもね。」


 私はふぅー、と一息ついてから話を続けます。


「大学は江戸屋敷止まりですが、関西で誕生の大企業は今や江戸に城を築き、天守閣も引越しさせたのではないでしょうか。彼らもまた江戸にある関係省庁のおそばに城を構えたいのかも知れませんね。」


 こんな取り留めもない会話だったでしょう。


 蛇足ですがその方は高校時代、有名進学校で「歴史」の成績が断トツだったと笑いながら話していらっしゃったことがありました。

 歴史好きの先生のお口から、自然に“江戸屋敷”という言葉が出てきたのでしょう。


 本原稿執筆中の平成28年9月2日に、昔交わしたこのお話を致しました。先生はにこやかに笑いながら


「そんな会話したことあったっけ……」


とおっしゃっていました。


 昭和40年ぐらいから加速した中央集権化、これに伴う首都圏への人口集中のツケは、いわゆる地方都市の衰退を急速に招きました。国家にとって非常に大きな取り返しのつかない損失を招いています。

 農林水産業の衰退、食料の自給自足体制が崩壊しました。地球規模の気候変動等による将来の食料不足を考えると、非常に危険な状況になっています!!

 戦後のすさまじい飢餓時代を経験した私の心の底からの叫びに耳を傾けていただきたいと強く願います。


 この中央集権化の加速によって、いわゆる地方都市の衰退ぶりは目を覆うばかりです。

 例えば明治の初めには全国8番目の堂々たる大都市であった和歌山市は今や全国63位、10番目であった徳島市は何と101位に陥落するという憂き目にあっています。


 関西の他の大都市も例外ではありません。首都圏に近い横浜市、川崎市、千葉市は人口増加のペースが止まらないのに対し、関西の代表的大都市たる大阪市や神戸市では人口減少が始まっています。


 脱線の脱線となって誠に申しわけないですが、こんな流れの中で、


「一票の格差問題」


が出てきたわけですよね。一口で分かり易く言えば


“人口集中が進む首都圏から選出される衆議院議員、参議院議員の数が少ない。少な過ぎる!

 過疎化が進む地方の議員数は逆に多すぎる。是正せよ!さもなければ憲法違反である!!”


というわけで、先般の参議院選挙では鳥取・島根合区という事態が起こりました。東西500キロメートルに広がる選挙区の誕生となってしまったのです!異様な事態ではないでしょうか。

 過疎化が一段と進むのではないでしょうか。国土は荒れ果てるのではないでしょうか。


“大先生方!何とかして下さい!”


との悲痛な叫びを上げてしまいたくなります。


“人口構成年齢層を理想的にするということを絶対的な条件、これはもう絶対的な最重要条件にして、過疎化が進む地方自治体を何卒救って下さいませ”


“国を挙げて地方の活性化を早急に図って下さいませ”


との上申を心の底よりさせていただきたく存じます。


 戦中戦後そして未曾有の経済的大発展の光と影、あまりにも大きく悲しい影の部分を心を痛めて眺める私の告白です。



PART2 ―言葉の大切さ―


小学校低学年だった私が大人に戻って、読者の皆様と一緒に言葉についてお話させていただくサロンです。

 言葉そして言葉遣いを通して時代の流れを考えてみましょう。



 戦火に追われ津市の一身田町国民学校に転入した最初の日、担任の長谷川先生に


「ご不浄はどこにあるでしょうか?教えて下さいませ。」


と尋ねました。先生は一瞬驚きの表情を見せた後


「ご不浄?あぁ、お便所のことね。」


とにこやかに笑ってから場所を教えて下さったこと、『小学生の太平洋戦争』でも申し上げました。


 参宮線の汽車の中で楽しくお話をしてくれた3人の兵隊さんとの別れ際、思わず口から飛び出したであろう言葉、


「見事お手柄を立てて、お帰りなさいませ。」


という小学2年生の話しぶりに


“これが小学2年生の喋り方なのか!?”


と首をかしげる読者の数は少なくないでしょう。


事実は、“イエス!”です。

 板宿国民学校時代、目上の人に対しては子供達は普通こんな話し方をしていました。


 ここで戦後22年という時代に時計の針を回していただきましょう。


 昭和42年11月、私は米国の株式会社ベル電話研究所(BTL)に2年間という契約で就職しました。


 BTLは電話の発明者ベルが19世紀の昔に設立した電話会社ベル・システム(1970年当時総従業員数100万人)の研究開発部門を専一的に担当する会社です。


 BTLは当時世界最大規模の研究所であって、実に5,000人に及ぶ工学博士、理学博士等の博士号を有する所員を含む50,000人の社員が働いていました。所員の中には10数名のノーベル賞受賞者が働いているという、まさにマンモス研究所です。


 電子・情報・通信・材料などなどの工学分野、さらには数学、物理学等の基礎分野などに関する研究の最高の舞台で、メッカとして位置づけられていました。


 21世紀に花開いたディジタル情報通信時代の基礎の全てをこの研究所が作ったと言っても、決して過言ではないでしょう。


“日本男児たるもの我が実力を十分に見せてやるぞ!”


と飛び込んだ私でした。

 戦時中敵国と考えていた米国の会社に飛び込んだのです!


 しかし、勿論そこは敵地ではありませんでした。沢山の友人との出会いが待っていました。


 スウェーデン系三世の米国人バーグホルム博士、幼少時にポーランドから第2次世界大戦の戦火を逃れて米国に入国したローゼンシュターク博士、それに中国から米国に渡来したタウ博士とは生涯忘れ得ぬ親友となりました。

 いずれも私と同じ30才前後の年齢です。


 22年も経過すれば、太平洋戦争のことは昔、昔、大昔の話となり、彼らとはまるで日本人同士のような付き合いとなりました。


 ある日、彼らから近くの町に日本食料品店がオープンしたことを聞きました。

 私にとっては飛び上がるほど嬉しいニュースです。

 何故ならそれまでの半年間、我が家の食事はパンとパスタの繰り返しだったからです。


 研究所からの帰り道くるまでお店に立ち寄って、日本米ラーメンそれにお餅やキナ粉、漬物などを買って上機嫌で帰ります。ルンルン気分です!


 そのお店でのある日の出来事です。


 歩き方そして身のこなし、とても上品な印象を与える数名の女性が近づいてきます。そして笑みを浮かべながら


「あなた様はベル研究所(BTL)でお仕事をなさっていらっしゃる方でございますか?」


と少し古風な感じの日本語で尋ねます。私はにっこり笑って


「えぇ、そうですよ!初めてお目にかかりましたね。」


との返事に、彼女達は顔をほころばせ声をそろえて


「私達はBTLで働いていらっしゃるあなた様のことを噂でお聞きして、同じ日本人として以前からとても誇りに思っていたのですよ。今日、お目にかかりお話ができて本当に嬉しゅうございます。」


と仰るではありませんか。


 日本からは地球を半周まわるぐらい離れた土地で、明治大正昔風の何か気品あふれる日本人女性と巡り会ったことに大きな喜びを覚えました。

 彼女達は私より10歳近く上、40歳前後の人に見えます。


「あなた方はどこにお住まいなのですか。私は、近くの町レッドバンクに住んでいるのですよ。」


との問いかけに、彼女達は口もとに優しい笑みを浮かべながら


「近くのマンモス基地(米軍基地。マンモスはこの基地が所在する郡の名で、巨大という意味ではありません)の宿舎に住んでいます。」


とのお答えです!


 この瞬間、胸の中に、激しく電撃が走ります。


 終戦直後2、3ヶ月も経たないうちに、沢山の若い日本人女性達が戦勝国兵士である米兵達と手をつなぎ、嬉々として歩く姿を何回となく目撃していました。

 私の胸中に電撃が走ったのは彼女達の返事に


“今、目の前にする気品あふれるご婦人方は、終戦直後に私が町で目にした女性達に違いない!”


と思ったからです。


 終戦後間もなく、米兵と日本人女性が仲良く手をつないで歩いている傍らを、戦地から返ってきた白衣の傷病兵達が松葉づえをついて歩いている光景に、小学校3年生の私は、日本人にとって耐え難くとても残酷な光景と考えていました。


 殆どの京都市民は彼女達を一般にパンパンと呼んで、軽蔑の眼差しで眺めていました。小学3年生であった私も例外ではなかったと思います。


 彼女達の言葉に雷撃を受けたようなショックを受けたのは、日本食料品店で巡り合い今目の前にする彼女達は、小学校時代の私が苦々しい思いで眺めていたパンパンに、100パーセント間違いないと悟ったからです。


 明治、大正時代の女性が日常使っていた話し言葉、特に男性に対する話し言葉を、パンパンと呼ばれていた彼女達は、終戦の日から数えて22年間も経ったという時間の経過とは全く無関係に、そのまま生き生きと保存しつづけていました。まるで時計の針が止まってしまったように。


 身のこなしも、明治大正の頃の女性を彷彿させます。


“太平洋戦争時代、女性達は目上の人特に男性にはこんな風に上品、優雅に語りかけていたのだ”


 私は深い感動を覚えました。


「また会いましょう!!」


との言葉を交わして彼女達と別れましたが、色々な思いが我が胸に交錯します。


“彼女達は、手をつないでいた米兵達とお互いに人間と人間として真に愛し合い、そして結ばれたのだ!

 その彼女達は今、米国で幸せ一杯に過ごしている”


“彼女達も戦時中は様々な苦労をしたに違いない。

 焼夷弾を雨あられと降り注ぐB29を憎んだこともあったでしょう。肉親を戦争で失ったり、傷つけられたりした人もいるでしょう。”


“しかし終戦とともに訪れた平和の日々。自然美豊かな山紫水明の国日本で過ごす平和な日々。

 生活に困った彼女達が巡り合うことができた若い米兵達。

 敵・味方の関係は若い男女の間ではまるで朝露がまぶしい陽光に消え去るように消滅し、やがて人と人として心が結び合うこととなったのだ。”


 私はこんなことを止めどもなく考えながらくるまを走らせ、家路を急ぎました。


 米国で私はこんな印象的な経験をしました。


 一般論としてですが、戦時中そして戦争直後の時代を経験した古い世代の人々は、戦後間もなく町角に現れたパンパンと呼ばれる女性達の話し方は下品そのものだっただろう、と現時点では想像するでしょう。


 米国での体験を踏まえた上での感想を率直に述べることを寛大に許していただけるならば、私は以下のように反論するでしょう。


“いやそれは全く違います!”


“事実はまるっきり反対です、我々今の日本人は、戦争直後を経験した貴方が心の中で想像していらっしゃる“パンパンのしゃべり方”をしているのではないでしょうか。


 当時のパンパン達は明治・大正・昭和初期の日本人女性の話し方、少なくとも目上の人特に男性に対しては上品な話し方で会話をしていたに違いありません。

 戦後のパンパン達がしゃべっていたと一般に想像してしまう仮定の上での話し方下品なしゃべり方は、まさに現代の私達の話し方が近いのだろうと思います。


 しかしこれは、私達の性格も下品になった、と主張するものでは全くありません。この点は誤解がありませぬように。


 言葉は生き物です。簡単な具体例で言葉の変化の模様を振り返ってみましょう”

 言葉は生き物、時間の経過とともに姿を変えるものでしょう。

 若者達の間で流行し始めた新語は古い世代の大人からは若者の下品な言葉として蔑まれていたでしょう。やがてその若者達が高齢者になると、同じ言葉が上品な言葉として位置づけられるようになるということは洋の東西を問わず起こっているのではないでしょうか。


 このことに関連して京言葉:

   どんつき(突き当り)、

   ややこしい(複雑な)、

   ねき(近く)


 東京の山の手言葉:

   ざあます、

   あそばせ


といった言葉の生い立ちをしっかり知りたいと思い努力した私ですが、十分に納得できる答えを見つけることは出来ませんでした。



 さて本題に戻り、笑いを言葉の一つと考えてお話させていただきましょう。


 日本人の笑いについて考えてみましょう。

 日本人には特有の笑いの文化があるのではないでしょうか。

 この文化が時代とともにどのように変わっていくのか、私の体験談を通して考えてみたいと思います。


 この体験談、先程と同じBTLでのお話です。太平洋戦争後22年を経過した米国でのお話です。


 BTLでのオフィスは4人相部屋でしたが、私の前でスティーブ君が仕事をしています。


 彼とは、何か気が合うところがあって、仕事をしながらよく談笑をしていました。集中力と時折の談笑力、この組み合わせこそが良い仕事をする条件であると私は信じています。


 同室のジェリー君そしてタッド君も我々の談笑に加わってきます。


“4人の研究者が机を並べてデスク・ワークしている”


を申しますとその光景、全く息詰るような雰囲気ではないかなぁ、と想像される方が多いのではないでしょうか。

 しかし、実際はとてもくだけた雰囲気でした。


 スティーブ君がある日笑みを浮かべながら


“Masao! あなたは笑うときいつも右手で口を押えるような仕草をするけれど何故?どうしてなの?!”


との厳しい質問です(註1)。


「うーん……、理由?」


 私は思いがけないスティーブ君の質問に、困惑した表情を見せたかもしれません。

 どんな回答をするか? ジェリー君、タッド君も興味を覚えたのでしょう、2人とも椅子を回転させて私を見詰めています。


 私はしばし考えた後、口を開きます。


「日本人にとって歯を見せて笑うことは、恥ずかしい行為なんです。」


「それに歯を見せることはマナーに反すると思いますよ。」


 私は一息ついでから続けます。


「日本には“男は3年に片頬”という戒めのような言葉があります。つまり、


“男にとってゲラゲラ笑うのは恥ずかしいこと、笑うという行為は3年に1度でよい。それも両頬で笑うのではなく片頬で笑うのがよい”


と戒めているのです。」


 彼らはなぁーるほどなぁ、東洋の国日本には日本の文化があるのだなぁ、というように小さくうなずきます。


「私も日本人、歯を見せて笑うのではなく右手で口を覆い、これで片頬の代役をさせていたかもしれませんね。」


以上のようなお話です。


 スティーブ君の指摘で無意識にしていたこの行動に初めて気づいたのでしたが、戦後22年の間、日本人男性の笑いの文化のようなものを失うことなく守っていたのかも知れないな、と思いました。


 その後、10年、20年経つと私も次第にこの右手で口を覆うという習慣が薄れていったかなと思います。


 時間の経過とともに“笑い”の文化もまた着実に変わっているのです。

 新しい言葉の世界に香り高い文化が生まれることを期待し、祈りたいと思います。



註1. BTLでは地位に全く関係なく、名前で呼び合います。私も勿論、同室の3人をスティーブ、ジェリー、ダッドと呼んでいました。ここでは彼らを君付けで呼ばせていただいております。



PART3 ―二度の米飯不足から見えてくる日本の姿―


 平成5年(1993年)に、お米の収穫量が平年に比べ20パーセントつまり2割程度少なくなりました。

 農林水産省統計部の資料によると、この年の収穫量は783万トンということですから米食が圧倒的に中心となっていた戦時中昭和19年秋の収穫量878万トンと大差はないと言えるでしょう。

 平成5年度の頃といえば、うどん蕎麦などの麺類、それにパンやパスタなどが食卓をにぎわしていた筈です。むしろお米離れが進みつつある時代でした。

 しかし、大きな混乱が起こります。国は急遽諸外国に救援を求めたのです。これが混乱の始まりでした。一体どうしてこんな混乱が起こったのでしょう。

 皆様と一緒に考えさせていただきたいと思います。


 ここで、戦後の食料事情、長期に渡って続いた米飯不足時代を簡単に振り返ってみましょう。

 平成5年度に起こったことのそもそもの理由を根底から理解するために、このことは必須のことと言えるでしょう。


 昭和20年8月15日、終戦の日から始まった平和の日々。

 しかし、この終戦の日は飢餓地獄の始まりの日でもありました。


 この悲惨な飢餓地獄の状況は私の記憶では昭和23年春頃迄長く続いていたと思います。


 最大の原因は昭和20年秋のお米の収穫量が平年の70パーセント程度に落ち込んだことでした。

 農水省の作物統計によると、飢餓地獄の引き金となった昭和20年秋のお米の収穫量(水稲)は582万トンでした。しかし昭和21年以降の秋は以下に示していますように912万トンと劇的に改善されています。すなわち、


 昭和 21年秋 912万トン

    22年秋 874万トン

    23年秋 979万トン


と豊作の年が続きました。

それにも拘らず、飢餓地獄は継続します。そして育ち盛りの子供達そしてこの時期に誕生した子供達を苦しめ続けます。

 何故だったのでしょう?何故子供達や乳幼児を苦しめ続けたのしょうか?お米は豊作であったというのに……


 私には分かりません。推測に推測を重ねて考えたこの飢餓地獄の継続の理由を本PART後半でお話致しましょう。


 終戦の年、お米の収穫量が3割程少なくなったのですが、そろばん勘定では国民一人ひとりが朝、昼、晩3回の白米(玄米だったかもしれません)のご飯を一日2回にして、後はさつまいも、大豆、かぼちゃなどの代用食で済まし、国が適切に指導すれば、無事に乗り切れたのではなかったでしょうか。


 しかし、戦後の食糧事情は計算通りには参りませんでした。

 庶民の食卓からあっという間に白米のご飯が消えました。


 しかし山紫水明の国、日本の野山にはミカン、タケノコ、モモ、ナシ、カキ、クリなどなどが豊かに実りました。サツマイモ、ジャガイモなどは畠だけでなく、ありとあらゆる空地で作ることができました。私の家の近くの大きな道路は開墾されて、サツマイモ畠となっていました。

 庭そして家々の屋根には栄養たっぷりの栗カボチャが実りました。


 とても残念なことでしたが新鮮な卵、食肉、牛乳、魚介類などが京都では極端に不足していました。

 このためかわりにコンブ、イリコ、ニボシなどなどの乾物に加えて、チクワ、カマボコなど日持ちのよい練り物が食卓を賑わしていました。


 朝昼晩3度のご飯はまるで赤飯のように真っ赤になったコウリャンご飯、炊き上がると大豆90パーセント白米10パーセントとなる大豆ご飯などでした。

 このため庭、屋根の上で栽培される栗カボチャ、利用できる空き地は全て利用して作ったジャガイモ、サツマイモなどが代用食として大歓迎されていたのです。


 しかし、あぁしかし、生鮮な乳製品、魚肉などの良質の蛋白質、カルシウム、ビタミン等々の長期不足状態は終戦直後の3年間、育ち盛りの児童達に暗い影、とても暗い影を落としました。

 勿論、児童達だけでなく、この時代に誕生した乳幼児の栄養状態も現代と比べれば目を覆うばかりの悲惨な状態にあったでしょう。


 児童達の殆ど全て、勿論私も含めて常時鼻の穴から二本の青っぽい緑色の鼻汁を垂れ流していました。

 青い鼻汁は吸い込むか、片方の鼻孔を手で押さえて地面に向って噴出させる、あるいはシャツのそでで拭き取るというのが、絶え間なく垂れてくる青い鼻汁に対する一般的な対処法でした。


 ほぼ全ての学童達がガリガリにやせていました。

 両手指両足指は無残な霜焼け状態で赤く膨らんでいました。


 このような症状こそが飢餓地獄にある児童達の有様を訴えるものなのです。

 私もガリガリにやせ青緑色の鼻汁を2本、常に垂れ流していました。


 寒い冬の朝の教室、少なくとも私が学んだ教室にはストーブ一つなく冷え切っていました。

 手がかじかんで小指と薬指とを合わせることは全く無理なことでした。鉛筆を上手く走らせることができないため、先生の合図で両手をこすり合わせ手を懸命に温めました。授業前の手指運動というところでしょうか。


 戦後の子供達が例外なくこんな姿であったため、特に著しい栄養失調の状態にあるとは、周囲の大人達も子供達自身も認識していなかったでしょう。


 こんな風にひどい栄養不良の状態になっていましたけれどご安心下さい!子供達は、遊ぶ元気もなくなって家の中に引きこもり、横になっていたわけではありませんでした!屋外で元気一杯遊んでいました!


 子供達の様子にお日様がにこにこにっこり、“外で遊ぼうね”と微笑みかけます。

 からっ風も“もっと元気に走ろうよ!”と子供達にかけっこを促します。


 子供達は青い鼻汁を垂れながらも、元気一杯走ります。


 子供達は決して負けていませんでした。負けることが嫌いでした。


 前述しましたように昭和20年秋のお米の収穫量は確かに落ち込んでいましたが、昭和21年秋からは平年以上の収穫があり豊作と言える状況が続きました。

 こんな状況にあったのに飢餓状態は昭和21~23年まで続きました。

 昭和24年春頃からようやく戦時中の状態に戻ったと記憶します。


“お米は豊作であったのに、飢餓地獄だったとは!不思議なことですね。何故だったのでしょう。”


 この理由は、私には分かりません。国もこれを苦い経験として戦後史の中にしっかり記述し、後世のために残しているとは思えません。

 後世のため歴史を正しく記し、後世に残すことこそが、国家の継続的発展のための盤石の基盤を作ることになるのではないでしょうか。


 非常に残念なことに、国は、飢餓状態が数年間も続いたその理由を深く分析し、後世に残しているようには思えません。

 終戦直後から3年間近く続いた飢餓の原因の分析作業をまるで軽視するかのように、前だけを向いて進もうとしていたように私には思えます。


 後ろを振り返らずひたすら前進する威勢のよい姿勢が前向きの積極的な姿勢として歓迎されるためでしょう。


 しかしこのような姿勢が拠り所としている思想は全くの危険思想です!国を滅ぼす思想です!


 後ろを振り返って深く反省し、このような歴史を2度と繰り返さないようにしようという国を挙げての努力の姿勢が少なくとも私には見えません。一口で表現すれば倫理観の欠落でしょう。


 話は少し飛びますが、終戦当時小学校3年生だった私はヤミ米列車に度々乗り合わせていました。


“ヤミ屋さんのお米一体どこへ行くのだろう?”


“列車に乗り込んでくるお巡りさんが取り上げたお米はどこへ行くのかな?僕達が食べることになるのかなぁ”


 小学校3年生の私はヤミ米列車の中で考え続けていたと思います。


 結論は以下のようなモデルです。これをモデルAと呼ぶことにしましょう。




ヤミ米を売る農家の人(クラスAの人)

↓↑

ヤミ米を購入するブローカー(クラスBの人)

↓↑

これを取り締まる人(クラスCの人)

↓↑

取り締まりを免れたヤミ米を高価な値で買い取る人(クラスDの人)

↓↑

更に高価な値で白米を買い取るお金持ちの人(クラスEの人)


図1 モデルA




 昭和20年のお米の不作が引き金になって終戦後数年間、白米が超貴重品になった時代、白米を平常時より美味しく感じ、摂取する量も倍になる人達、つまり図1に示したクラスEの人達の数が2倍にも3倍にも増えたことが飢餓地獄の大きな原因でしょう。


 ある対象の食品が品薄となり超貴重品となったとき、その食品の味が倍増するということは心理的な現象でしょう。あらゆる食べ物の味には値段から感じられる味(ここではこれを“心理味”と名付けましょう)があるのだろうと思います。


 昭和20年秋~昭和21年秋白米が品薄になった途端、巷ではお米が奪い合いとなり、このことで白米の価格が跳ね上がり、白米100パーセントのご飯の“心理味”が10倍にも100倍にもなったでしょう。日頃パンやパスタなどの洋食を好んで食べ、必ずしも米食に執着していなかった人達が、急に白米のご飯に大きな魅力を感じ始め、大金を支払って普段の2倍も3倍も食べるようになったのでしょう。


「うーん、銀シャリに梅干しを乗っけて食べる。これが何と言っても最高だよ!」


などと言いながら食事をするシーンが目に浮かびますよね。


 昭和20年のお米の収穫量が平年の3分の2になったことが引き金となって、白米(銀シャリ)の“心理味”が飛んでもなくハネ上がり、クラスEの人達によって消費される量が信じられない程の量に増えたことでしょう。

 勿論クラスEの中には料亭、酒造業なども含まれていたでしょう。


 モデルAにおいて、クラスA、クラスB、クラスDの人達が利権を得るという社会システムが一度固定化すると、その後のお米の豊作という状況にも拘わらずこのシステムを継続させたい、万難を排してでも続けていきたいと考えて日々努力をする、といったこともある意味当然かもしれませんね。


 それぞれのクラスの人達が、昨日の生活を今日も明日も安定に続けたい、そしてさらに発展させたいと願うのは当然のことといえば当然でしょう。


 そしてこのような事態は白米(銀シャリ)の心理味が10倍、100倍に跳ね上がっている限り安定に続くでしょう。


 この状況は、クラスEの人達が庶民の食生活の苦しい状況を我が事として捉えなかったこと、或いは国がしかるべき手を残念なことに打たなかったこと等の理由で、ズルズルと長く継続されたのでしょう。


 幸いなことに天すなわち自然は、昭和21~25年人々に豊作の恵みを垂れつづけてくれました。

 この天の恵みによってモデルAは次第に氷解し崩れていったのではないでしょうか。


 天の恵みによって解決した戦後の飢餓時代が二度と起こらないように、国は努力したでしょうか?


 天任せではなかったでしょうか?


 戦後の事態を冷静に分析し歴史として残し、将来の教訓として残したでしょうか?


“全く、まったぁーくお寂しい状況であった。”


と言えるのではないでしょうか。


 このような国の姿勢を、庶民にしっかり証明してくれるようなミニミニ飢餓時代が、平成5年に到来しました。あたかもリトマス試験紙で国の姿勢をテストするかのように……。


 平成3年(1991年)フィリピンのピナツボ火山の爆発の影響で平成5年に冷夏となり、稲の収穫量が20パーセントだけ減少しました。終戦直後と同じような米不足の状況が小さいながら起こったのです。


 当時は飽食の時代の始まり、人々はパン、パスタ、麺類が十分に与えられ、むしろお米離れが始まって数年を経た時代でした。国民の米離れの加速が危惧されつつあった時代です。


 国は時宜をはかって国民に冷静な行動を呼びかけ、国民の協力を求めるべきでした。


 しかし、あぁしかし、国は諸外国に緊急に救援を求めることを決めたのです!何ということでしょう!



 このミニミニ飢餓時代を振り返ってみましょう。


 終戦後2年を経た昭和23年頃、諸外国から送られてきた支援食料は戦後を生きる人々の口に合いませんでした。


 戦後2年近くを経て外国から支援物資として送られてきた食料は、人々の口に合いませんでした。この事実、戦後を伝える歴史の中で、すっかり消されてしまっているのではないでしょうか。

 以下ではこのことを少し詳しくお話させていただきたいと思います。


 小学4年夏~6年夏頃の記憶を目を閉じしっかり手繰り寄せてみると、とても印象的であったシーンの一つとして給食時間の様子が目の前に浮かんで参ります。


 戦後2年近くを経て届いた外国支援の脱脂粉乳のミルクが机上のコップに注がれた途端、においに耐えかねたのでしょうか、泣き出す女の子がいました。私は一口だけ飲んだ後、先生が机毎に持ってまわってくれるバケツの中に、そっと捨てていました。戦時中に飲んでいたフレッシュなミルクとは全く味が異なっていてとても喉を通る味ではなかったからです。


 全国の小学校で廃棄処分になった脱脂粉乳のミルクの量、正確な数字は残念なことですが、残っていないでしょう。

 教室で無事子供達の喉を通ったミルクの量は、例えA先生がせいぜい数パーセントと上司のB先生に正直に報告したとしても、


“たったそれだけ!努力が足りないなあ……、努力目標として20パーセントとしておこう。”


といった具合にB先生、教頭先生→教頭先生→校長先生→自治体教育責任者と少しずつ水増しされて伝えられたのではと想像します。

 自治体責任者の耳には例えばということですが70パーセントとなるでしょう。この数字は厚生労働省の担当者に渡ったときには90パーセント以上となり、支援して下さった外国関係者には


“ほぼ100パーセント消費させていただきました。”


ということになるでしょう。

 多くの説者諸君にはこの話に首をかしげられるかも知れませんね。私がテレビ報道などで知り得た知識で歴史を振り返ってみましょう。


 太平洋戦争中、戦況が不利になるにしたがって水増しの戦果が報道されていたことは、最近のテレビ番組などでも取り上げられています。


 私が小学2年秋~3年夏頃まで胸を踊らせて接していた新聞、ラジオのニュース

 “航空母艦2隻大破”

 “重巡洋艦3隻撃破”

 “戦闘機30機撃墜”

は、小型戦艦1隻を大破させた程度であったということなのです。

 私が視聴していたテレビ報道では、私に聞き間違えがなければ真実としての小さな戦果は関係者から関係者へと伝わるうちに少しずつ水増しされ大本営には大戦果という形にまで成長したということでした。


 太平洋戦争中戦況が一段と不利になってからの虚偽報道は現時点でも多くの視聴者の関心を集める番組となるでしょう。


 これに対し、私にとっては残念なことですが、


“小学4年夏~6年夏ごろまで切実に体験した脱脂粉乳のミルク、そしてナンバ粉(トウモロコシの粉末)、乾燥鶏卵の不人気ぶり、そしてこのことによって、殆どの援助食糧が人々の喉を通らなかったであろうこと、そして消費率はせいぜい数パーセント程度であったであろうこと”


は前述の水増し報告の連鎖によって“ほぼ100パーセント消費”という形で歴史に残るでしょう。


 事実が歴史の中で姿を変えていく一つの例であるかも知れません。

 この改変、つまり


“戦後約2年を経て届いた外国からの支援食料の消費率は水増しで報告され、戦後史の中で残っている”


という可能性はもはや全く社会的関心事ではないでしょう。


 残念なことです。


 有馬皇子ではありませんが、


“天と我が担任の先生のみぞ知る”


というのが私の心境でしょうか。


 人々はサツマイモ、ジャガイモ、栗カボチャ、豆モヤシ、ズイキなどそれに野山がもたらしてくれる数々の実りを口にして凌ぎました。


 こんな戦後に経験した苦い歴史があったにも拘らず、平成5年再び諸外国に


“お米が欲しい”


と懇願したのです!

 日本人の口に合うかどうかも考慮しないで闇雲に懇願したのでしょう。


 終戦の日から50年近くを経過した平成5年には、世の中はお米離れが進み、あらゆる種類の食べ物が溢れるほどにあったと記憶しています。こんな状況にあったのに諸外国に頭を下げました。とても残念なことです。


 平成5年当時の我が家の食卓のメニューを紹介しましょう。


朝食 : トーストのパン一切れ+ジャム

    ミルク200cc

    温野菜、バナナ、リンゴ

昼食(日祝日) : 麺類、サンドイッチ、目玉焼き、チーズ

夕食 : お魚料理、週に1回程度お肉料理

    味噌汁(豆腐、ワカメ入り)

    温野菜(カボチャ、豆、ブロッコリー、オクラ)

    青野菜(ホウレン草、キクナ)

    納豆、黒豆

    ご飯(軽く一杯)


 長男、長女もほぼ同じメニューで育ちました。

 我が家の食卓のメニューはほぼ標準的な内容ではなかったでしょうか。3食とも白米のご飯というご家庭は、戦後に比べれば少なくなっていたでしょう。


 こんな状況にも拘らず平成5年に騒ぎが起こりました。


“米不足”


という言葉が日増しに肥大化し、白米(銀シャリ)たっぷりのご飯の味が2倍にも3倍にも美味しく感じられるという “心理(的)味”がハネ上がったと考えられます。


 その食べ物の本来の味とは無関係に値段によって決まる“味”があると思います。

 なおこの“味”を本稿では“心理味”と呼ばせていただいています。


 食べ物については本来の“味”とかけ離れた“心理味”があることに注意すべきでしょう。このことについては本PARTのエピローグで具体的にお話しましょう。


 平成5年お米の収穫量が僅か20パーセント落ち込んだだけであったのに


“お米不足!”


という言葉が一人歩きし、普段は白米を必ずしも好んで食べていなかった人達が


“安価なパンやうどん、ソバ、パスタ等の食物よりも品不足になって値上がりが続いている白米を不自由なく食べたい”


という心理状態に追いやられたのではないでしょうか。


 日本からの救援要請に対し諸外国が“量的に無理である”と回答するなかで、唯一タイ王国が余剰米を緊急輸出してくれました。


 外国のお米はその国での調理法、食生活あるいは気候によって最高に美味しく食べられるものでしょう。

 食生活も異なり、調理法も知らない我が国でタイ米を日本風に炊き上げてみても、日本人の口に合うはずはありませんでした。


 国は困り果てた挙句タイ米と日本米のブレンド米を売り出すという苦肉の策を取りました。しかし場当り的に国民の前に差し出されたブレンド米は、当然のことながら日本人の口には合いませんでした。


 戦後1~2年経って外国からの支援物資として送られてきたナンバ粉、乾燥鶏卵、脱脂粉乳が、日本人の口に全く合わなかったという苦い経験の歴史と同じ歴史を平成5年に繰り返しました。


 私が当時勤務していた京都工芸繊維大学の学生食堂では、何故か、この悪評高いブレンド米オンリーでした。

 私も学生諸君もルーの上に味噌汁をたっぷりかけて混ぜ合わせたカレーライスを頂き、耐え忍んでいました。


 全国の学生食堂でもカレー、ピラフなどにして消費していたのではないでしょうか。

 ひょっとすると文科省の“ご指導”によって学生食堂が積極的に消費に努めていたのではないかと推測します。



 タイ米は国民からそっぽを向かれて、勿体ないことに、大半のタイ米が焼却または廃棄処分となりました。

 逆に非常に申し訳なかったことに余剰米を大量に輸出したタイ王国では米不足が起こり悲惨な状況になったと報じられていました。


 日本のこの余りにも勿体ない処し方は海外から非難され、大きな国際問題となったということです。


 農林水産省穀物課のお話では、我が国の諸外国への懇願にいち早く応えてくれたのはタイ王国でした77万トンものお米を輸出してくれましたが、日本での使い分けは

  主食用:35万トン

  家畜用:17万トン

  他国への援助用:25万トン

となりました。

 タイ王国に遅れること約4ヶ月で以下の国がお米を日本に救援米として送ってくれました。内訳は以下のとおりです。

  米国:55万トン

  中国:108万トン

  オーストラリア:19万トン

であったということです。

 これらの使い道は、

  ・食用

  ・飼料

  ・他国への援助米

であったということです。


 以上についてご教示下しました農林水産省穀物課の方に深く感謝存じます(2017年2月)。



 “ある物が不足!”という評判が立っただけで悲惨な状況になる我が国の体質、痛切に反省すべきではないでしょうか。


 国は戦後の飢餓地獄の状態、そして平成5年のミニミニ飢餓状態をしっかり分析し、将来このような状況に適切に対処できるよう努力しているでしょうか。


 私はまったぁーくお寒い状況であろう、再び繰り返されるだろうと推測します。


 平成5年のお米不足時のように、諸外国に恥を晒さないよう、国は真剣に“心理味”に対する対応策を考えるべきではないでしょうか。


 将来訪れてくるかもしれない……、いや多分必ず訪れてくる深刻な食糧危機に対処するため、


“苦い経験をしっかり分析し、歴史に残してくださぁ―い。”


“可及的速やかに何とかして下さぁ~い。”と、


 国に強くつよく懇願致します。




エピローグ

皆様とお茶をいただくサロンで、話題は心理味です。

お急ぎの方は“パス”して下さいませ。


(その1)お豆腐の不思議


 何十年も前の昔、ニューヨークでユダヤ系米国人である友人フィッシュマン君が結婚式、そしてその後の晩餐会にも招待してくれました。


 立食パーティだったので何でも好きなものが食べられます。

テーブルを見ると嬉しいことにお豆腐の煮付けがあります。久しぶりのお豆腐と思って2片、3片と好んで食べていましたところ、出席者の一人が


“あなたはその食べ物、何だか分かった上で食べていらっしゃるのですか”


との質問です。私が小さく


“豆腐でしょ……”


と答えると


“それはcow brain(牛の脳味噌)ですよ”


と驚きの返事です。


 私は えっ!! と叫び、口の中のお豆腐を吐き出したくなるような衝動に駆られました。それまで美味しく頂いていたお豆腐のような食べ物の“心理味”が急降下してしまったことは申すまでもありません。


(その2)バナナの不思議


 我が家では朝食時にバナナを必ず食べています。理由は単純で、美味しいからです。しかもスーパーなどで安く買えます。皮がさっと向けて手間がかかりませんよね。


 日頃食生活の中で私は値段で感じる心理味を退けています。“美味しい”と思うものを食べています。


 ところでこのバナナは戦後数年、非常な高値でした。このため庶民の手に入らず、到底口にできない果物でした。

 庶民のために乾燥バナナが輸入されて売り出されたりしていました。私も乾燥バナナを食べたことがありますが、私の口には合いませんでした。


(その3)パイナップルの不思議


 昭和45~55年頃だったでしょう、米国出張の際には殆どの場合、帰途ハワイに立ち寄りました。ハワイ大学の世界的に著名な情報理論グループの人達とディスカッションすることが目的でした。

 空港では必ずパイナップルを2個買い求めて、お土産として持ち帰るというのが習慣でした。


 この頃、フレッシュなパイナップルはとても高価な果物で庶民は缶詰のパイナップルしか食べることはできませんでした。お金持ちが好んで食べていたわけです。


 ところが今、フレッシュなパイナップルはスーパーで安く手に入れることができます。

 お金持ちの方々が現在もスーパーに足繁く通われて2個、3個と自宅に持ち帰り特に好んで賞味していらっしゃるというお話は聞かないですよね。


 パイナップルと同じような歴史を経た他の果物の筆頭は、グレープフルーツでしょう。


(その4)グレープフルーツの不思議


 昭和45~55年、グレープフルーツは非常に高価な果物でした。

 

 2個ぐらいをお見舞い品にする旨お店の方にお話すると、2個のグレープフルーツを豪華な紙または木の箱に厳かに包んでくれます。

 当時少なくとも1000円~2000円払って購入し、お見舞い品として病気で入院している友人を訪ねたりしていました。(当時の1000円~2000円は現在では4000円~8000円ということになるかな、と思います)。


 本記事を執筆中、私は高級果物を扱う有名フルーツ店に立寄り、お見舞い用のマスクメロンを買い求めました。

 序でに、お店には誠に申しわけなかったのですが、いたずらっぽい私は


「お宅では、パイナップル或いはグレープフルーツを置いていらっしゃいますか?」


と尋ねてみました。

 予想していたことでしたが、お店の人は少しむっとした感じで


「当店では扱っておりません。」


というそっけないご返事でした。


Appendix A

代わりに外国からの緊急の支援食料としてのナンバ粉(トウモロコシの粉末)が配給され、また卵不足を補うために乾燥鶏卵が緊急に輸入されました。


 これらの支援食料は残念なことでしたが、太平洋戦争中の食事になれ親しんできた子供達の口に、合うものではありませんでした。


“ナンバ粉ってトウモロコシの粉末でしょう、それ贅沢じゃない?!”


“乾燥鶏卵って卵を乾燥させて粉末にしたものでしょう。本当に飢えていたら美味しく食べられた筈ですよ!”


といった反論は昨今の飽食の時代の味覚で判断すれば、当然あるでしょう。


 しかし私の記憶をしっかりたぐり寄せて反論させていただくと、ナンバ粉のパンあるいはクッキーは一口目は何とか目を白黒させながら食べることができても、二口目からは完全にお手上げです。食物というより砂をかんでいる。そんな感じです。

 乾燥鶏卵の卵焼き、戦時中に食べていた新鮮な卵の厚焼きになれ親しんできた口には、やはり二口目、三口目と食べることが全く無理でした。


 新鮮な牛乳が市場から消えてしまったため、市民や学童の栄養状態を危惧して、緊急に外国から届いた支援物資、粉ミルクもまた戦時中に飲んでいた生のミルクとは似て非なるものでした。

 この私の訴えにも


“粉ミルクでしょ!これを嫌がって飲まないなんて贅沢じゃない!本当に飢えていたの?!”


というお声がどこからか聞こえてくるかもしれませんね。


 しかし、この脱脂粉乳もまた到底飲めた代物ではありませんでした。


 給食の時間、目の前のコップに注がれた脱脂粉乳のミルクを見ただけで泣き出す女の子がいました。男の子も顔をそむけていました。5年生のときに男女共学になりましたが、そのクラスで日常茶飯に起きていたことです。


 私は目をつむり、鼻をつまんで一口目を喉の奥に流し込みますが、二口目は完全にギブアップでした。


 この私の話に沢山の人が


“戦後、外国からの救援物資として届いた善意のナンバ粉(とうもろこしの粉末)、乾燥鶏卵、脱脂粉乳を嫌がって口にしなかったなんて、本当に飢えていたの?!”


という疑問を抱くでしょう。


 ご指摘ごもっともです。しかし戦後を生きた子供達は監獄の中に入っていたわけではありません。

 もし鉄格子で囲まれた檻の中に閉じ込められていたとしたら、看守から朝夕に差し入れされるナンバ粉のケーキ、乾燥鶏卵の厚焼きそしてミルクを100パーセント口にしたでしょう。


 しかしぜひ理解していただきたいのですが、戦後を生きた人々は檻の中ではなく豊かな自然に恵まれた山紫水明の国に住んでいたのです。


Appendix B

 人々は冷たい監獄に閉じ込められていたわけではなかったのです。栄養はさておいて口当たりの良い食物を追い求めました。


 外国から支援のナンバ粉、乾燥鶏卵、脱脂粉乳をほとんどの児童は口にすることができず、そのかわりにイモのズイキ、豆つきのモヤシ、サツマイモ、ジャガイモ、カボチャなどを好んで食べていました。これらの食物のほうが余程美味しかったからです。道幅の広い大通りが開墾されてサツマイモなどの畠になりました。


Appendix C

 戦後50年近くを経て食物が十分にある時代に、戦後我国を襲った飢餓地獄到来の時と同様、国は闇雲に諸外国に助けを求めたのではないでしょうか。終戦直後、外国に


“ナンバ粉が欲しい”


“乾燥鶏卵が欲しい”


“脱脂粉乳が欲しい”


“お米が欲しい”


と諸外国に懇願したのではないでしょうか。


 終戦直後国は、ナンバ粉、乾燥鶏卵、脂肪粉乳が国民の口に合うか否か、そんなことは全く考慮することなく、国民の飢餓状態を救うために努力をしているという姿勢を示したかったのでしょう、諸外国(主として米国)に支援を求めました。国民は十分に自力解決できましたのに。



PART4 ―食べ物についての大きな悩み、今も続く―


 戦後に訪れた食糧難の時代、私達家族の三度の食事を求めて津市一身田町の伯母の家を訪ねる度に車内で見た悲しい光景を、決して忘れることは出来ません。

 帰途、草津駅に近くなると、駅ごとにお米を一杯肩に担いだ小父さん小母さん達が乗り込んできます。

 男女半々ぐらいのいわゆるヤミ屋と呼ばれる人達が乗り込んでくるわけです。彼らにはいつも悲しい光景が待ち受けています。


 列車が草津駅を通過し大津駅に着くまでの時間帯だったでしょう。

 各車両に数名のお巡りさんが乗ってきます。そして片っ端から米袋を取り上げて窓からプラットフォームにほうり投げます。


 お巡りさんも人の子、全てのお米を取り上げることはしていなかったと記憶しています。

 ヤミ米を都会に運ぶいわゆるヤミ屋と呼ばれる人達が、生活に困窮することはない程度に残してあげていたのでは?と思います。


 しかし、よく考えてみますとこの見逃しによって、先述したモデルAのような奇妙なバランスの関係が生まれて、比較的長期間この状態が続いたのではないでしょうか。


ヤミ米を高価に売る農家の人(クラスAの人)

↓↑

ヤミ米を購入するブローカー(クラスBの人)

↓↑

これを取り締まる人(クラスCの人)

↓↑

取り締まりを免れたヤミ米を、高値で大量に買い取る人(クラスDの人)

↓↑

お金に糸目をつけず白米を購入するお金持ち(クラスEの人)


図1:モデルA


 つまり


“このバランス関係を一定期間持続させるためには、ヤミ米運び屋の小父さん小母さん達が生活に困窮しない程度にヤミ米の一部が見逃されることが必要な条件。”


ということになるでしょう。


 この見逃しがお巡りさんの意図によるものなのか、それともヤミ屋の方々が一部を巧妙に隠すことによるものなのか、その何れであるかを判断する根拠を、私は勿論持っていませんし、また追求する気持ちも毛頭ありません。


 ヤミ屋の人達も大混乱の戦後の時代を精一杯生きようとしていたのでしょう。


 むしろ追及されるべきは、この奇妙なバランス関係が保たれる中で、汗水たらさず大儲けをエンジョイしている人がもし存在していたとしたら、その人達こそ民衆の敵として責められるべきではないでしょうか。


 そしてまたそれ以上に責められるべきは、お金に糸目をつけることなくお米を購入し、豊作時と変わらぬペースで白米の食事をする、或いは白米のご飯が貴重品となったことによって大きな魅力を感じ、平常時よりも積極的に白米を沢山に食べるようになったクラスEの人達の存在でしょう。


 クラスEの人達が存在しなければモデルAは世の中には成立し得ないことを、私達は強く認識し反省すべきではないでしょうか。



 お話を少し元に戻しましょう。


 お米が30パーセント不足しただけで、戦後の人達、特に大都会に住む人達は


(1)白米のご飯を殆ど口にしなくなった人

(2)知人にお米を分けてもらえる人、ある程度資産があってお米と品物とを交換できる人。こういった人達は白米のご飯を殆ど不自由なく口にする。

(3)資産のある人あるいは高級料亭など白米を懇望する人達にヤミ米を高価に売る人

(4)奪い合いになっている白米食に改めて大きな魅力を感じ、通常時よりも白米食を増やすお金持ちの人

に分かれたでしょう。


(1)の人達が圧倒的に多かった。

 私の家族は勿論(1)に属していたと思います。1ヶ月に1度、伯母の家に三度の食事を求めて訪ねましたけれど……。


 前述したように、昭和20年に訪れた農家の人手不足を補うために13~17才の中学生さん達が動員されました。

 加藤家の中学(旧制)4年生だった四郎さんがそうであったように、中学生さん達はその肉体がガリガリに痩せ衰えるほどの犠牲を払って不作の年の米作を支えていました。

 この貴重なお米、国民一人ひとりが感謝の気持で分けあって大切に食べるべきではなかったでしょうか。


 このようにして国民一人ひとりが仲良く平等に分け合って食べれば1日に2回は白いご飯を食べられたはずであったのに、京都という六大都市の一つに住んでいた私が経験した未曾有のお米不足……。


 全国の中学生さん達が不作の年の米作を懸命に支えた事実を無視するかのように、お米不足の雰囲気をあおり、お米を右から左に流してお金儲けをしている人達、或いはお金に糸目をつけず普段以上に沢山に白米のご飯を食べる人がいたとすれば、そしてまた関係省庁がこれを黙認していたとすれば戦後史の中で十分に反省されねばならないでしょう。




戦時中と終戦後の食糧事情

―私の体験から語りましょう―



 警戒警報のサイレンで再三授業を打ち切られたり、夜中に鳴り響くサイレンに叩き起こされて、ゲートルを両足に素早く、くるくる回転させながら巻き、防空頭巾をかぶって防空壕に逃げ込んだり、津市一身田町で米戦闘機グラマンに襲撃されたりという危ない経験はしましたけれど、空爆による直接的な被害は免れていた私、そんな小学生に戻った私の目線で戦中戦後をとらえるわけですから、おやつ事情が最初の大切な切口になることをお許しいただきたいと思います。



(Ⅰ)戦中戦後:おやつ事情

 戦時中、キャラメルやビスケットそれにチョコレートも何不自由なく授かっていました。

 父は35歳ぐらいの中堅サラリーマンでしたから、お給料は一般サラリーマンの平均というところだったでしょう。そんな家庭でも子供では抱えきれないような大きな金属製のカンにおやつが一杯に詰まっていました。

 おやつは十分に授かるという状況でした。


 ……しかし終戦の日以降、おやつは我が家から一瞬にして消えてしまいました。

 キャラメルやビスケット、チョコレートそれに可愛い小さな缶一杯に入っていたドロップなどは、夢の中でしか見ることができなくなりました。


 近くに住んでいらっしゃる京都大学の有名な先生が、真っ白なナフタリンを角砂糖と思って食べた(或いは、かじった)という噂のような話が持ち上がっていました。


 おやつとして終戦当時何があったでしょう……。記憶の糸を手繰るとコンブ、ニッキなどはあったかなと思います。ニッキとは、ぷうーんと良い香りのする小さな棒で、これを飽きることなくしゃぶっていたと思います。



(Ⅱ)戦中戦後:レストランでの食事事情

 戦時中と戦後の食料事情を


 “デパートの大食堂での食事”


を切口にして考えてみましょう。


 昭和18年春~19年夏、神戸元町にある有名デパートのレストランに、父は私達を度々連れて行ってくれました。


 8階建てのデパートの最上階にある大食堂でお昼ご飯を楽しみます。


 当時は、デパートには大食堂が一つあるだけで、今日のように有名レストラン街がフロアー全体に設けられているという状況ではありません。


 ヨーロッパの瀟洒なレストランを思わせる大食堂には、真っ白なテーブルクロスで覆われた丸いまぁるいテーブルが置かれており、沢山の家族連れが食事を楽しんでいました。


 入っただけでワクワクする気分になります。

 白いエプロン姿のお姉さん(ウエイトレス)達が甲斐甲斐しく働いており、南の島々では壮烈な戦いが繰り広げられていた戦争中というのに、平和な雰囲気が大食堂を包んでいました。


 メニューは大正時代から定番となっているビーフステーキ、カツレツ、オムレツ、ハムサラダ、コロッケなどなど……、そして飲物としてはサイダー、紅茶、コーヒー、お酒、ビールなどが提供されていたでしょう。

 デザートはホットケーキに紅茶というのが定番でした


 楽しい食事の後には屋上の金魚売り場に向います。小さな和金を2、3匹買ってもらってワクワク気分で自宅に急ぎます。


 玄関の靴脱場の右側に大きな金魚鉢では出目金をボスとする沢山の金魚たちが出迎えてくれます。


「お腹がすいたでしょう。」


私はそんな言葉を投げかけながらソウメンを1センチぐらいの長さに細かく折って金魚鉢に入れてあげます。新入りの和金も早速ソウメンを競うように食べています。


 昭和20年春、私達は京都の下鴨に住まいを移しました。終戦後、京都の有名デパートにある食堂は開業していたでしょうか?


 戦後、父は私達をデパートでの食事に連れ出してくれなくなりました。ぴったり止めてしまったのです。

 何故??何故だったのでしょう?


 私は調べてみることにしました。


 京都、大阪、神戸にある老舗のデパートの社史などに大食堂の歴史が残されていないか、これらの都市に所在する幾つかのデパートに電話取材を試みたのでしたが、何れのデパートも戦時中そして戦後の食堂の歴史つまりメニューのリストなどは、一切残されていないというご回答でした。


 私が電話で問い合わせた範囲では、唯一、大阪梅田にある老舗のデパート、阪急デパートのお客様相談室の佐藤様が非常に懇切に調べて下さり、感激致しました。

 佐藤様と交わした会話の内容を以下に要約しましょう。


 戦後4年という長い歳月を経た昭和24年夏から大阪市民はデパートの食堂で食事をすることがようやく許され、可能となりました。

 戦後4年間という長い時間が経ってからやっとデパートで食事を楽しむことができるようになったというのは少し驚きですよね。勿論、京阪神の都市だけでなく全国の都市でもほぼ同時にデパートでの食事が可能となったことでしょう。


 電話による問い合わせに懇切に対応して下さった佐藤様のお話では、大正9年(1921年)当時のメニューだけは今も残されており、その一部は次のような内容だったと教えて下さいました。紹介しましょう。


 大正9年当時、大阪梅田の阪急デパートの大食堂が提供していた食事は西洋料理だけでした。

 因みにメニューは以下のようになっています。


ビーフステーキ     50銭

カツレツ        50銭

オムレツ        50銭

ハムサラダ        50銭

コロッケ         50銭

ライスカレー+コーヒー 50銭

5品の定食        1円

お酒         1円20銭

ビール(大)        40銭


 このほかコーヒー、紅茶、サイダー等の飲み物、ケーキ、果物も提供されていました。


 佐藤様のお話にありましたように一般市民は昭和24年からデパートのレストランなどでの食事が許され、可能となりました。

 ただし例外的に“外食券”を有する日本人旅行者は、一足早く昭和22年夏から、デパートでの食事が可能になったということも、やはり佐藤様から教えていただきました。外食券を持参する一部の日本人はデパートの大食堂に足を運べるようになったのです。


“外食券?! 一体、何? それ!”


と思われる読者は少なくないでしょう。


 実は、この“外食券”という言葉を耳にするのは私にとって数十年ぶりでした。


“外食券? 懐かしいなぁ……”


と、とても強く思いました。


 ……と申しますのも隣の加藤家に戦後間もなく下宿されていた大学生のNさんが、加藤家で夕食が始まると徒歩5分ぐらいの食堂、私の記憶に誤りがなければ“二本松の学生食堂”に出掛けて、お店の人に外食券を手渡して、食事をしていらっしゃったことを思い出したからです。


 Nさんがこれが外食券だよと言って実物を見せてくれたことなど、戦後のさまざまな出来事を連鎖反応のように次々と思い出しました。

 おぼろげな記憶であった戦後の風景を“外食券”という言葉が、まるで明るい日差しのように、終戦直後のことを強く思い出させてくれます。


 このように、昭和22年夏から外食券を所持する旅行者あるいは下宿生活をしている学生であることを示す証明証を持っている日本人は、デパートで食事をすることが許され可能になりました。

 今から思えば少し不思議なことですね。


 戦後4年近く経っても食糧事情は昭和19年のレベルに戻らなかったことが、“デパートの大食堂での食事”を切り口にして考えてみても明らかなことでしょう。

 

 勿論、この私の記事をお読みになって


“そんなことはない!”


と具体的なお話を交えて反論される方がいらっしゃるかも知れません。そんなとき私は、謙虚に耳を傾けたいと思います。


(Ⅲ)戦中戦後:手土産事情

昭和24年春、私は京都の私立中学校の入試に合格し、希望に満ちて通学ということになりましたが、知り合いの方から


“この中学校の有力な先生であるZ先生には、ご挨拶に行っておいたほうがよいですよ。”


というアドバイスをいただいて、母とともにZ先生のお宅に丁重に挨拶に行きました。


 我が家の最上等の重箱とやはり最上等の風呂敷に厳かに包んで持参した贈答品は、近くのお寿司屋さんに握ってもらった並のお寿司の詰め合わせ(5人前)でした。昭和24年春の時点で、お寿司の詰め合わせは中クラスの贈答品だったのではないでしょうか。

 

 念のためですが、重箱ごと風呂敷ごと贈答品になったのではありません。

 Z先生は笑顔で受け取られた後、台所にお戻りになって中身のお寿司を取り出され、重箱と風呂敷を丁重に返して下さいます。

 重箱の中或いは上に、半紙のような紙が折り畳んで置いてありました。


 話は少し戦時中に戻りましょう。昭和18年春~19年夏、神戸の板宿で暮らしていた私達家族を京都の丸太町に住む伯母(母の姉)が度々訪ねてきました。


 国民学校1年生そして2年生だった私は、いつも山陽電車「西代」の駅まで迎えに行って、到着を今か今かと待っていました。


 伯母さんのお土産は数人分のお寿司が詰められたセット、これが定番でした。毎回このセットをお土産に持ってきてくれるわけです。


 戦後10年ほど経った頃だったでしょう、伯母さんは笑いながら、「西代」まで迎えに来た私が、風呂敷に包んであるお土産のお寿司を見ると、いつも判をついたように


「これ、皆で一緒に食べるの?!」


と尋ねたということでした。


 昭和24年の春、私と母が入学の挨拶のために、Z先生宅に贈答品として丁重に持参した5人前のお寿司の詰め合わせは、昭和19年夏頃は、伯母さんがいつも持ってくる手土産程度のものでした。

 

 以上のことからも、戦後から昭和24年春ごろ迄の食料事情と戦時中昭和19年春ごろのそれとを比べると、食料事情は戦時中の方がかなり良かった、と結論されるでしょう。


 神戸市、津市、京都市で戦時中及び戦後を過ごした幼少年時代の私が捉えた戦時中から戦後への大きな変化は、以下の通りです。なお、この変化はあくまで小学生が見た変化であることをお断りしましょう。


戦時中、3回の転居を余儀なくされ、空襲警報、警戒警報に悩まされ、また米戦闘機(グラマン)に襲撃されるという経験はありましたけれど、食糧事情に不満はなく、教科書、絵本等も立派なものが出版されていました。



終戦後2~3年、警戒警報、空襲警報が鳴り響くことがなくなったという意味で平和な日々を迎えましたけれど、教科書は新聞を折り畳んだような貧弱なものになり、物資の不足を痛感しました。食糧事情は飢餓地獄に近いものとなりました。


こんな悲劇が展開されていました!



 注意しなければならないことは以下に述べる人達は、戦時中、食糧事情という点でまるで戦後の飢餓地獄のそれを先取りしたような形で、存在していたということです。

 私達はこのことにもっと注目しなければならないでしょう。



集団疎開の学童そして学徒動員の中学生さん達の悲劇



 集団疎開に参加することが認められずに都会に留まったけれど、幸いなことに空爆の被害を免れた学童達の食生活、あるいは自発的に縁故疎開の道を選んだ学童達の食生活に比べると、国あるいは自治体の方針に従って集団疎開に応募し選抜された学童達を待っていたのは極めて悲惨な食生活の世界でした。


 下鴨国民学校の集団疎開参加学童達が、疎開地から帰校して残留組の学童達に語ったことは


“お父さんお母さんがたまらなく恋しく、泣いて寝付いていた……”


“空腹に耐えかねて、夜、畑に忍び込みトマトやナスビを食べ、またサツマイモを掘り出してかじっていた……”


等々の訴えでした。


また別の学童疎開児は空腹に耐えかね、僅かに甘い味がする白い絵の具をなめていたり、タニシを乾燥させて食べていたりしたようです。


 集団疎開の学童達を受け入れた施設ではお風呂も、ままならなかったようです(子供達は数人単位で、たらいにぬるま湯を入れた行水で済ませていたことでしょう)。


 一方、戦局の悪化とともに農工業従事者数の減少が深刻となり、国あるいは自治体は、中学生(当時旧制)の動員を決定しました。


 彼らは農家を助けたりあるいは工場労働者として働いたりしました。

 働いた場所によって、つまり農家であったか工場であったかで、食糧事情は異なったでしょうけれど、一般に悲惨な状況でした。


 ここでは触れてはいませんでしたが、大学生さん達も戦況の悪化とともに急遽動員されました。

 彼等の行先は度々テレビで放映されていますように戦場でした。

 赴く先は、食糧事情を云々するような場所ではありませんでした。誠に悲しむべきことです。


 国の方針に従って


集団疎開の学童達

学徒動員の中学生達


は、戦後の飢餓地獄を先取りしたような経験をしました。その原因は一体何だったのでしょう?


 憶測するしかないことですが、私はその理由を以下のように考えています。


 昭和19年7月サイパン島の戦いで日本軍が敗れるとB29による連日の空爆が現実の話となり、この空爆によって、我が国の大都市が焦土と化していきます。この惨状に鑑みて国は慌ただしく上記2つの道を考えたと思います。


“皇国の歴史に敗戦なし”と固く信じられていましたから、こういった事態はいわば“全く想定外”の出来事であり、このため送り元である国、自治体等々の機関と受け入れ先のそれらとの間での息の合った連携プレーが無理だったことが飢餓地獄の原因であったかも知れません。


 十分な食事をどの組織が責任をもって対処するのか、といった基本的なことが欠落したまま学童疎開、中学生動員が慌ただしく進められたのではないでしょうか。準備らしい準備もされないままに……。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 さて、昭和21~25年、お米豊作の年が続きました。まさに天佑でした。

 戦後人為的に作られたとも思われる飢餓地獄を氷解させるために、“天”は庶民に恵みを垂れ続けました。


 昭和26年以降我が国の食糧事情は徐々に改善されていったのです。


 ……そして、今、平成28年の世の中はまさに飽食の時代となっています。


 平和な時代が来た!と思いたいです。心の底から喜びたいです。

 しかし、心の中に大きなおーきな引っ掛かり、があります。この引っ掛かり以下のような悩みがあるからです。


食べ物についての悩み、今も地獄の状況です


 戦争直後、路上の馬糞に思わず手を出した人、ナフタリンを角砂糖と勘違いして齧った大学教授等々の噂を度々耳にしました。悲しいことに栄養失調で亡くなる人も少なくなかったのです。

 庶民の食卓は極めて、貧弱でコウリャンと白米のブレンド米が主食となり、サツマイモのツルなどを食べていました。まさに飢餓地獄の様相を呈していました。


 現在はこの状態を完全に裏返したような状態です。食べ物の年間廃棄量は実に630万トンです。

(http://www.maff.go.jp/j/shokusan/recycle/syoku_loss/attach/pdf/index-23.pdf 参照[1])

 赤ん坊も含めて国民一人当たり年間約50キロの食物を廃棄していることになります。つまり、1週間当たり1キロもの食べ物を私達は廃棄しています。


 スーパーでの時間切れのお弁当、サンドイッチ、おかず等々あるいは回転寿司がある一定時間ベルトの上に残っているとゴミ箱に……、といったことが起こっています。


レストランでは沢山の食物をお皿や食器に残したままお客さんが席を立っています。畑では形の悪い作物がその場で大量に棄却されています。


 雑談のようなお話で誠に申しわけないですが、20年程度前の8月25日頃、鳥取県をマイカーで家族旅行しました。

 農協の方々が20世紀梨を箱詰めにしていましたので、私は形の良いものばかりが入っているという梨を1箱購入しました。

 農協の方は代金を受け取ると


“これは廃棄処分する20世紀梨だけれど、全く同じ味だから食べてみないですか。勿論タダですよ!”


ということでほんの少し形の悪い20世紀梨を1箱持ち帰りました。近所にも形の良い物、悪い物平等に2個ずつぐらいお土産品として配りました。形の悪い20世紀梨も本当に美味しかったです!


 立派な食品であるにも拘らず、賞味期限をたった1日越えただけの理由で廃棄される加工食品は家庭で出る食物廃棄量の実に3倍の量です。つまり国民1人当たり1週間に4キロずつ十分味わうことのできる食べ物をゴミ箱に捨てています。5人家族の家庭であれば年間訳1トンの食べ物をゴミ箱に捨てていることになります。日本全体では年間2400万トンの(人のために用意された)食料をドブに捨てていることになります。


 考えようによっては、このような状況もまた“地獄の状況”と私は思います。

 戦後数年間も続いた飢餓地獄を解決するために、国は、戦後2年半を経た時期にやみくもに諸外国(主として米国)に


 “ナンバ粉が欲しい”


 “乾燥鶏卵が欲しい”


 “脱脂粉乳が欲しい”


と懇願したのです。日本人の口に合うか否かも考えないで、ひたすら外国に頼る施策に出ました。


 誠に残念です。外国の力に頼らなくとも日本人の力で解決できたと、戦後を生きてきた私は強く確信するからです。


 国はこの戦後の苦い歴史をしっかり分析し、公開し、我国が地に足付いた発展をするために戦後の歴史を国民の目に分かるように残しているでしょうか。

 私の目には全く、まったあーく残していないように思えてなりません。


 国が、こんなふうに歴史上の大きな教訓をしっかり学ばずに、ただただ前進するのみの危なっかしい姿勢にあることをしっかり証明するような出来事の一つが起こっています。


 後ほど詳しくお話しましょう。



PART5 ―“何か”が何であるかを考えるために―


 昭和45年(1970年)頃より、我が国は米国に継ぐ経済大国として目を見張る発展を遂げました。

しかし、その未曾有の経済的繁栄の中で


“何か大切なもの”


を少しずつ失っていったのでは?と感じます。強く感じます。


 昭和45年ごろから半世紀近くを経た今日、我が国はこの“何か”を失うペースを決して緩めていないと思います。


 私自身“何か”が何であるかをはっきり語ることは私にも出来ません。とても難しいことと思います。


 皆様と一緒にこのことを考えることができれば、とても有難く嬉しいことです。



 私が幼少年時代を過ごした昭和17年~昭和21年(1942年~1946年)を時代毎に振り返ってみると以下に示しますように非常にバラエティに富んでいたと思います。



大病で寝たきり坊やであった時代

小学1年~2年秋までの要養護児であった時代

戦争の激化で神戸市→高槻市→津市→京都市と流転した小学2年秋~小学3年春までの時代

戦後の飢餓地獄の中で栄養不良となり青い鼻汁を垂れ流していた小学3年秋~小学6年春までの緑故疎開の時代



 小学校入学以前は寝たきり坊やの時代でしたから、遊びについての記憶は全くありません。小学校入学後の生活についてしっかり思い出せることは、休みの日午前中は学校の勉強をしましたけれど、午後の半日は友達と遊ぶ毎日だったということでしょう。


 お天気の良い日は、真夏のカンカン照りの中太陽のもとであっても、帽子をかぶれば大丈夫だと信じて家の前の道路で元気に遊んでいました。


 鬼ごっこ、缶けり、隠れんぼ、ドッジボール、相撲、三角ベース、さまざまな遊びをしました。


 余り広くは知られていないかもしれませんが、私達が“Sにく”(S型陣地を取り合う肉弾戦が由来でしょうか?)と呼んでいたゲーム(というよりはスポーツ)は、私が最も好きな遊びでした。道路あるいは運動場に大きくSの字を描いて紅白に分かれたメンバーが相手陣地内の一番奥にある部分を踏めば勝利ということになります。

 自陣では両足で立てますが、それ以外は片足で歩いて移動します。自陣以外で敵と戦い両足をついてしまうと戦死ということになって場外に去らねばなりません。

血湧き肉躍るスポーツで、今の子供達にも楽しんでほしいなぁと思うことがあります。



 子供達は栄養不良のため、青い鼻汁を垂らしながらも、お日様に励まされ、からっ風に鍛えられ応援されて、元気一杯外で遊んでいました。


 昭和21年~25年、“天”は飢餓状況を救うためにお米豊作の年を与え続けてくれました。このことによって子供達は栄養不良の状態から救われていったと思います。

 まさに天佑であったでしょう。


 さて、現在の子供達の姿はどうでしょうか。

 幼少年児の日常生活はどうでしょうか。


 家の周りの生活道路は私の小学校時代の道路と比べると、その安全性において子供達に対し極めて不幸な状況を与えていると思います。

 車の往来が激しく私達が小学校時代に道路上で楽しんだような遊びは非常に危険で全くのご法度となっています。

 子供達が可哀想です。


 私が住んでいる箕面市は自然が豊かで子育て環境に良いということもあって大阪府内では人気の都市の一つとなっています。

 隣接する吹田市も自然が豊かな上、若い人に人気の大型複合施設、民族博物館、日本庭園、大学等々があって、現在でも小学校の校舎の建て増しなどが盛んに行われています。


 近くの池田市、豊中市……、同じような状況でしょう。


 しかし、子供達が家の外や公園で遊んでいる姿、あるいは小学校の校庭で夕方遅くまで遊ぶ姿は、ここ十年殆ど目にしたことがありません。

 子供達は一体どこに消えてしまったのでしょう。


 私の日頃の仕事をボランティアベースで手伝って下さっている大学院生さん達も


“自分達の小学校時代に比べると、外で遊んでいる子供が非常に少なくなっています”


との感想です。


 子供達はどこに消えたのでしょう?私の胸の中では


“家の中でゲーム?”


“学習塾でのお勉強?”


“一流大学入学を目指してお家で猛勉強?”


といった思いが交錯し不安です。


 私は自問自答します。


問:このような子供達の置かれている状況、子供達が好き好んで作った世界でしょうか?


答:まったぁーく違います。大人が大人のエゴで作った世界です。


問:戦中戦後の私達が幼少年時代に味わった空爆の恐怖、一家離散の悲劇、戦争後の飢餓地獄、これらは当時の子供達が好んで作った世界でしょうか?


答:いいえ、大人達が勝手な理由によって作った世界です!しかし、その中で子供達は精一杯努力し、お日様に励まされ、から風にきたえられて精一杯生きたのです。


 戦後の子供達はお日様そしてからっ風と一緒に遊びました。栄養不良の状態にあったことにも決して負けませんでした。


“負けてたまるか!”


こんな気合が全ての子供達に備わっていたのではないでしょうか。独立心も備わっていたのではないでしょうか。


 因みに下鴨小学校時代の子供達は小学6年生以下3年生ぐらいの10名のグループで川や池に泳ぎに行きました。大人たちが見張っていたり、注意したりすることは全くありませんでした。(戦後の子供達だからこんなことをしても大丈夫でした。今の子供達は絶対に真似しないで下さいね!!)


 因みに私は、小学校4年生のとき一人で鴨川に出かけ、泳ぎを独学しました。努力、努力を重ねる練習です。ある日遂に数メートル泳げるようになりました。

 大喜びで父と母を呼びに行き、鴨川に来てもらいます。泳ぎながら


“ほら、泳げるようになったでしょ!”


と声をかけると、父と母はにっこり笑って拍手をしてくれました。


 しかし、この後で起こった屈辱的な出来事、生涯忘れることはできません。


 私のデモンストレーションを近くで眺めていた鴨川の対岸に住んでいる出雲路小学校の子供達が一斉に


“餓鬼の下手な泳ぎ方見てみい!!”


といって囃し立てたのでした。


 私は悔しい思いでいっぱいでした。しかし心の中で


“今に見ていろ!そのうちに僕のほうが君らよりも速く上手に泳げるようになるからな!”


と叫んでいたのではないでしょうか。


 そのとき以来、私には水泳を上達させるという大きなモーティベーションが生まれました。


 さて、皆様から


“幼少年時代を過ごすのに、貴方の経験した戦時中戦後の時代と今の時代との何れを選びますか。つまり太平洋戦争による人的被害は国内国外において全くなかったと少し無理な仮定をして、家族離散の疎開生活と数年間の飢餓地獄の中で過ごした貴方が実体験した幼少年時代の生活と今の小学生さん達の生活の何れを選びますか。”


と問われれば、


“うーん、難しい質問ですね……”


と私は答に窮するでしょう。


 しかし、問い詰められれば、


“私の幼少年時代を選ぶ。かなりの差をつけて選ぶ”


と答えるでしょう。


 それは文章でどうしてもうまく表現できない“何か”が、私が体験した幼少年時代の生活の中に、しっかりあったからです。


本文を擱筆するに当り、私の思う“何か”が甦り、我が国がしっかり地に足の着いた発展をすることを心の底より願い、祈りたく存じます。




談話サロン ―科学と戦争―


 第1次世界大戦以降の「科学技術と戦争」という立場に立って、簡単に振り返ってみましょう。なお下段に戦後の平和利用について□印を付した上で触れておきましょう。



[化学技術]


■毒ガス


[機械技術]


■飛行機+パラシュート:空中から兵士を送り込むために使われました。


□自然災害などで孤立した人々に食糧、水などを飛行機で運び、パラシュートで投下するようになりました。


■爆撃機=飛行機+爆弾:軍人だけでなく、一般市民に多数の犠牲者を出しました。


□森林火災のときなどに、飛行機を使って大量の消火剤を投下するという鎮火作業が始まりました。


■飛行機+ビラ:敵兵に投降を促し、厭戦気分をあおりました。


□災害時に孤立した人達への情報伝達のためのビラ配布などに使われています。


■橋、塹壕を構築する技術:戦闘能力を高めました。


□土木工学土木技術の基礎を作ることとなり、広く応用されています。


■キャタピラ:第1次世界大戦中、急傾斜の坂でこぼこ道での走行を可能にするため、戦車に装備されました。


□森林の開拓などの土木作業あるいは農作業用車両に装備され広く使用され始めました。


■機関銃:弾丸を雨あられのように発射する銃として用いられました。


□弾送り装置をヒントにステープラー(ホッチキス)が開発され、現在も文房具として広く使われています。


■腕時計:第2次世界大戦中、塹壕から歩兵が一斉に飛び出せるように発明され、一定の効果を上げました。


□一般社会においても腕時計として広く使用されるようになりました。


 第2次世界大戦では、さらに強力な攻撃用武器として、以下のようにロケットと原子爆弾とが使用されました。


[航空技術]


■ロケット:第2次世界大戦中、ドイツが開発したロケットV2号は成層圏を飛行し、いかなる手段をもってしてもこれを撃ち落とすことは不可能でした。


□戦後、ロケットの平和利用としての宇宙開発の道が開かれました。


[エネルギー技術]


■原子爆弾:1939年コロンビア大学のエンリコ・フェルミらは、原子核の人工破壊を人類史上初めて成功させました。この成功が数年後の1945年、広島長崎に投下された原子爆弾の使用という最悪の形に結びついてしまったのです。

□戦後幾多の問題をかかえながらも、原子力船、原子力発電所という形でのエネルギー利用に結びついています。

 


しかし、原子力技術の平和利用としての原子力発電所も、その最も大切な部分すなわち技術倫理を真執に守る姿勢を欠けば大きな牙をむくこととなるでしょう。


 東京電力福島原子力発電所の“想定外”事故はその一例であったと言えましょう[1]。

 この事故は事故後5年以上を経過しても数万に上る人々に苦難に満ちた長期避難生活を強いるとともに、国に対し国家予算的規模の数十兆円ともいわれる天文学的数字の大損害を与えました。

 福島原子力発電所は日本国民に対し大きなおーきな牙をむいたのです。

 技術倫理の欠如が原因の全てと私は判断致します(文献[2]参照)。


 ロケットの登場と原子爆弾の脅威は新たな問題を以下のように引き起こしました。


■機械技術+エネルギー技術:ロケット+原子爆弾という形となって出現しています。何百km、何千km飛翔する核弾頭ミサイルとなって人類を絶滅しかねない新たな脅威の的となっています。



 情報技術の母体は電気工学関連の技術です。この技術が第1次世界大戦ごろから戦争の勝敗を決定するほどに大きく成長したことを知ることができるでしょう。



[情報通信技術]


 情報通信技術の代表例としては、19世紀~20世紀にさかのぼると、電信、電話、ラジオ、テレビ等をあげることができるでしょう。これらの発明は市民生活を豊かなものとし、日々の暮らしの中で必要不可欠な存在となりました。

 平和利用という形で活躍していた電信、ラジオも“戦場での応用”という道からは逃れることができませんでした。第1次、第2次世界大戦中に以下のように軍事利用されています。


■電信:ディジタル通信であることによって、低速度ではありますが、戦場内あるいは洋上を越えての信頼度の高い通信が可能となり、戦争を有利に展開するために威力を発揮しました。

■ラジオ:敵兵への投稿呼びかけ、あるいは厭戦気分を高めるために使用されました。

■レーダ:電波を敵機あるいは敵戦艦に向け発射しその反射波を受信して距離方向を正確に知るために使用されました。


□船舶、航空機などに装備され視界不良の時においても安全な運行を可能とするレーダは交通機関にとって不可欠なものとなっています。さらに、気象観測のために利用されています。


■暗号:近年に発明された電信、電話、ラジオとは大きく異なって、暗号は紀元前の昔から広く利用されていました。

 古代ローマの英雄シーザーも手紙類は暗号化していたと言われています。(この暗号は彼に因んでシーザー暗号と呼ばれています)。

 太平洋戦争中暗号は盛んに用いられました。

■第2次世界大戦における暗号解読専用計算機:第2次世界大戦における暗号解読用計算機

 太平洋戦争のいわば“天王山の戦い”であった「ミッドウェーの海戦」では日本軍の暗号が解読されたことが敗因の一つとされていますが、その詳細については知り得ておりません。

 中途半端な知識のためここで紹介する勇気を持ち得ませんが、ミッドウェーの海戦における暗号解読は、


“ひたすら一本調子で暗号を使うのではなく状況に応じて、臨機応変に使うことができるという才能”


によってなされたと思います。

 学問としてのみひたすら学び、知識として身につけることも大切ですが、学習していた知識だけに頼るのではなく、咄嗟に機転を利かすことのできる“普段着の学問”として、これらを身につけることも大切ではないかと思います。難しいことですが。


 1980年以降急速に進むネットワーク社会の安心安全を守るために暗号技術が活躍しています。

 ネットワークではコピーが可能となるため実印による決済が不可能です。このため実印に替わるディジタル署名といわれる数学的手法が使われています。

 ネットワーク社会に新しい可能性、利便性を与えるために暗号技術がこれからも益々活躍することでしょう。



 情報通信技術は科学技術の中でもその成長速度の速さに於いて、驚くべきものがある、と言えるでしょう。

 爆発的に成長するこの技術の危うさは1980年代という30年も前の昔に筆者によって強く指摘されています[3][4]。


 情報通信技術はもはや人類がコントロールすることのできない怪物、モンスターとなって成長しています。その成長は従来の科学技術の発展が数学的表現をさせていただければ、線形関数的(右肩上がりの直線的な)発展であるのに対し、情報通信技術は諸技術の中で唯一指数関数的(爆発的つまりねずみ算的な)発展をしています。

 このことこそが、人類の英知によっては制御することが不可能な“怪物”に育ちつつあることを示しているのです。繰り返しになりますが以下の文章をご覧ください。


 このねずみ算的な爆発的進歩をつづける情報通信技術を人類はうまくコントロールすることができるでしょうか?


 答は、No!です。


 No one can fight with exponential.

(指数関数的な発展を遂げるものは“無敵”である。いかなる人もこれを止めることはできない。制御不可能である。技術の暴走を止めることはできない。)


ということです。

 しかもこのような事態に人類が直面していることを認識している人は殆どいないのです。このことこそが大きな問題です。


 この危険性に気づき私は、1980年代から電子情報通信学会という我が国工学分野でのトップクラスの学会で警鐘を鳴らし続けていますが、専門家も含めて殆ど全ての人が


“きょとん”


としているだけです!全く不思議なことですね。


 情報通信技術には大きな影、誰も気づかない真に恐ろしい影、影が影として現れないいわば覆蔵された影がつきまとっています。つまり情報技術には誰も気づくことがない大きな影が、決して影が影として現れることのない最も恐ろしい影が伴われています。このことこそが技術倫理を伴わない情報通信技術の恐ろしさです。


 1980年代私が訴え続けたこの危機への警鐘は、全く無視されるかあるいは理解されないまま2017年の今に続いています。ネットワーク社会の暴走は止めることはできない……。

 30年間発し続けている私のこの警告に世の中の全ての人が耳を傾けてほしいです。



 科学のもつ光と影、その身近な具体例を次の例で考えてみましょう。


八木・宇田アンテナの光と影


 数年前、私は長崎原爆資料館を訪ねました。掲示板のような細長いボードに長崎への原子爆弾投下の経緯が記されていました。悲しいとても悲しい記事です。私は食い入るようにして文字列を追います。


 予定の目標、小倉市の上空が曇っていたために、原子爆弾を投下せず長崎に向ったとあります。

 九州全土が曇っていたら良かったのに……という思いが、一瞬胸をよぎります。


 読み進むうちに驚くべき記事が目に飛び込みました。


“長崎に投下された原子爆弾の威力を最高に発揮できる高度、500メートルで爆発させるために、YAGI(八木)アンテナが効果的に使われた……”


とあります。


 八木アンテナとは、東北大学(当時東北帝国大学)の八木秀次博士、宇田新太郎博士の共同研究によって発明されたアンテナです。従って本来は八木・宇田アンテナと呼ばれるべきものでした。

 八木・宇田アンテナが米軍の様々な重要な作戦で威力を発揮したにも拘わらず、日本軍作戦においては何故利用されなかったのか……。


 様々な理由が挙げられていますが、率直に私見を述べることを許していただければ、この理由は一言で言えば、


“日本人による日本人への蔑視思想”


“東洋人による東洋人への蔑視思想”


にあると私は強く思います。これはもう病気みたいなものだ、と強く思ったことが私が生涯で度々でした。裏を返せば


“白人への全く理由のない一途の尊敬心です”


“そんなものはない!!”


と反論される方は例えばデパートの洋服売り場にお出掛けになるのがよいでしょう。殆どのマネキンが金髪の白人女性です。


 結婚式場のパンフレットを見ると、ハンサムな白人男性とウエディングドレスをすらりと着こなした白人女性が仲良く手をつないだ写真が載っています。こんなパンフレットが広告として使われているのですね……。


 説明はこれで十分でしょう。学問の世界も決して例外ではないのです。


 日本人である八木、宇田両博士の発明による八木・宇田アンテナが、とても不幸なことに広島、長崎に投下された原子爆弾が最も効果的に爆発力を発揮できるように、利用されました!!

 日本人の誰もが知らないうちに……。


 日本生まれの八木・宇田アンテナの里帰り。それがこんな未曽有の被害を祖国に与えるという形になってしまったのです。


 私は長崎原爆資料館の掲示板の前で呆然として立ち尽くしたままでした。


“何ということ! 余りにも残酷な現実……”


 八木博士、宇田先生がどのように大きな衝撃でこの事実を受け止められたのか……、私は知り得ておりません。


 しかし幸いなことに、戦後、八木・宇田アンテナは広く平和利用されることとなりました。


 太平洋戦争中、軍用通信を円滑に行うために地上マイクロ波(VHF帯)回線が全国に張り巡らされました。

 この軍事用マイクロ波回線を平和利用したテレビ中継が昭和28年2月に可能となります。

 各家庭の屋上にお魚の骨のような形の八木・宇田アンテナが取り付けられ、白黒テレビ受信機を囲んでの一家団欒の風景が全国至る所で見られるようになりました。


 日本で誕生した八木・宇田アンテナが原子爆弾を最も効果的に爆発させるために威力を発揮したという残酷な事実。この事実に深く心を痛める人達も、全国に広がる一家団欒の機会をしっかり支えている八木・宇田アンテナの活躍に安堵し、救われたことでしょう。



科学の光と影


 科学に裏づけられた科学技術には“倫理”が伴わなければ科学技術は、恐ろしい牙をむくこととなるでしょう。


……しかし非常に大きな問題は、我国においては、“倫理”と言っただけで、科学技術の妨げになるものとして受け取る人が圧倒的に多いのです。ネガティブな印象で受け取られてしまう傾向があるとの印象をぬぐうことはできません。


 “倫理、倫理はスズ虫に任せておけ!”


と大見得を切った政治家がいたという話を、20年位前にある工学倫理の大家から聞いたことがありました。


 何故日本人が“倫理”というような大切な思想を軽視するのでしょうか? 

 私にはこの理由が全く分かりません。ただ以下の事実に注目する必要があるでしょう。


 中間子の発見によって我国のノーベル賞受賞者の第一号つまり最初の人となった湯川秀樹博士は、戦後の閉塞感敗北感の状況の中で、昭和20年10月発行の『科学朝日』に掲載した「新生の科学日本に寄せる」において、読者からの反感を買うことを恐れて言葉を慎重に選び、表現に非常に苦心しながら、日本において何故科学が健全に発達しなかったのか(何故太平洋戦争に敗北したのか)、問いかけています。


 日本人は他民族に比べ、勤勉さにおいて特に優れまた器用さにも恵まれ、科学が発達する要素は十二分にあった。しかし何が欠けていたのか、と湯川博士は当時を生きる日本人に問いかけ、自らが考えるその答を率直に記事として述べることに非常に煩悶し、ためらっています。


 湯川博士は、この問いかけに対する答が日本人全体に見られる「思想」の欠如にあることを、率直に指摘したいのですが逡巡しています。何故ならこのような指摘が



我が国においては、「思想」という言葉自体が、空理・空論に走り科学の発展をむしろ妨げるもの、として理解されてしまう傾向があること注1

“日本にもいろいろな思想がある”、“立派な哲学も生まれている”、といった反論が起こり得ること


を恐れたからです。しかし結局、湯川博士は


“日本人全体の思想が貧弱、というのがいけないというのであれば、科学者に限定してもよいが……”


と断った上で、以下のような文章を著しています。


“我が国科学者の多くは専門分野に閉じ込もるのみで、自然、人事全般を論じる能力、哲学的要素が著しく欠如している。”


と述べています。これはもう絶対に傾聴すべき指摘だったと思います。日本人科学者や国を動かす人達が全身全霊で傾聴すべき言葉でした。


 この昭和20年10月発行の古い雑誌は、私が中学生になった頃、父が与えてくれたものでしたが、現在も座右の銘として大切に保存しています。

 昨今の政治、行政、経済、産業、教育等々の世界で経験されている閉塞感の中で、これをもう一度読んでみますと、湯川博士は非常に大切なポイントをしっかり指摘していたように思います。


 21世紀の今、経験されている我が国全体を覆う挫折感もまた、やはり日本人全体に見られる「思想」の欠如によってもたらされたものと思えます。


 太平洋戦争後の荒廃の中での、湯川博士の心からの叫びであったに違いない「思想の欠如」への指摘は残念なことに、戦後から現在に至るまでほとんど無視されたような形となり、技術的発展と経済的発展とが優先されて繰り広げられました。


 湯川博士は上記記事の中で


 “「思想」という言葉の代わりに、「物の見方とか考え方」という言葉を使う方が穏当かもしれない。”


とも述べています。

 湯川博士の指摘する“哲学”とは、日常の仕事(専門)の中で発揮されるべき“普段着の哲学、思想”のことでしょう。仕事の上で発揮されるべき“普段着の哲学”の欠如、これが21世紀初頭の現在、我が国に閉塞感をもたらしている大きな理由の一つであることに間違いないでしょう。


 原子力技術の平和利用としての原子力発電所も、その最も大切な部分すなわち


“技術倫理あるいは普段着の哲学を最優先に尊ぶ”


という姿勢を欠けば、再び大きな牙をむくこととなるでしょう。


 東京電力福島原子力発電所の“想定外”事故はその忌まわしい例の一つであったと言えましょう[2]


 21世紀には戦争と道具の関係はどう変わるでしょうか。今日のコンピュータウイルスの被害状況等を考えますと、将来、インターネット社会を完全に麻痺させるような攻撃が現実に引き起こされる可能性を現状では否定することができないでしょう。そして、それは第1次世界大戦、あるいは第2次世界大戦がそうであったような、国と国との戦いといった戦争のイメージを一変させるものであることは疑う余地のないことです。


 技術が本質的に有する影の部分に対し適切に対処する姿勢を欠けば、そしてまた湯川博士が指摘されていた「思想」をないがしろにし続ければ、将来においてある国のサイバーネットワークが完全に麻痺し、交通機関はもちろんのこと、エネルギー、食糧の供給もストップするという人類史上例を見なかった悲惨な状況が引き起こされることを否定できません。


 工学そして情報にかかわる倫理の問題は、以上の考察によって明らかなように、今、適切な対応を考えなければ、将来において人類に大きな被害をもたらす、あるいは私達人類は破滅の危機に瀕することを否定し得ない状況に至っていることを、私達は真剣に考えなければならないでしょう。


[1] 食品ロスとは:農林水産省Webサイト,http://www.maff.go.jp/j/shokusan/recycle/syoku_loss/attach/pdf/index-23.pdf.


[2] 笠原正雄:“パネル討論会資料”, 電子情報通信学会春の全国大会パネル討論会『福島原発事故に背景について考える』(2014-03)

[3] 笠原正雄:“情報とくらし” 平成4年度 第6回NTTソフトウェアセミナー, (1992).

[4] 笠原正雄:“知的符号化とその将来―画像の知的通信について”, 電子情報通信学会会誌, 71, 7, pp683-688 (1988).


注1:この湯川博士の指摘、私達は真剣に耳を傾けねばならないと思います。「思想」という言葉を毛嫌いする傾向は現在においても強く、この言葉を軽視する或いは口先だけ“重要ですね”と言う人の割合は99%を軽く越えるだろうと思います。

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