墜落(2)
「ホント、何なんだろうな、このモンキーレンチ」
「ふ、ふざけんなよ、てめえ!」
西茂森は激昂し、身を起こした。そして、さらに何事か口にしようとしたが、俺はモンキーレンチを振り下ろした。割れた遮蔽ガラスの隙間から、やつの血が噴き出す。
鮮やかで滑らかな赤と、黒ずんで粘性の高い赤。当たり前だが、こいつの血も赤いのだと今更ながら気が付いた。
「なあ、どう思う? 必要なのか、これ?」
返答がくる前に、また西茂森を殴りつける。
店長は、デカいナットを回すためと言っていたが、そんなものは見たことがない。少なくとも、あのガレージで必要になるとは思えない。
存在理由の分からない、馬鹿みたいにデカいモンキーレンチ。その存在を証明せよと言わんばかりに、振り下ろす。
「ぐあぁあ! お、あ……ぁ。た、ただで済むと思ってのか、てめえ……!」
「思ってるよ」
にべもなく、西茂森の言葉を叩いて捨てた。
ほとんど機能不全に陥っている警察機構は、俺を捕まえることはないだろう。そもそも、警察と言うよりも自警団だ。だから地上になんか、わざわざ出てこない。
西茂森はこのまま誰にも見つけてもらえず、野性動物に食まれることもなく、ただ静かに死んでいく。死に絶えた、かつてのビル街で朽ちていく。いまにも崩れそうな廃墟群に見下ろされ、一人で死ぬ。
なんだか、少し羨ましかった。
「やめ……っ。やめてくれ」
怒りから恐怖――懇願に変わりつつある西茂森。さんざん俺を見下してきたその面を、今度は俺が見下ろしている。
手に、頭に、足に、全身に、得も言われぬ感覚が巡る。その感覚の名前を俺は知らない。分からない。興奮、だろうか。
とにかく勢いのあるそれは、俺にモンキーレンチを振らせた。頭へ、腹へ、脚へ、西茂森の全身へ、滅茶苦茶に叩きつける。
「死ね」
そう口にすると、頭が焼き切れそうなほど熱を持った。
体を丸めて防御態勢に入っている西茂森を、俺はただ殴り続ける。治ったはずの、折られた鼻がむずがゆい。防護ヘルメット内に、自分の荒い呼吸が反響していた。
「死ね、死ね」
やめろ。やめてくれ。
と、消え入りそうな声で西茂森が呟いている。
「やめろ? お前は、やめろと言われて、やめるのか? やめたのか?」
「それは……。謝るから!」
「もう手遅れだよ」
汚染された大気を吸い込んだから。肌を曝露したから。地球が終わるから。
だから、手遅れだ。お前はもう助からない。
「頼む……っごぼ! げほ! あやま……るから」
砂混じりの風が、西茂森の喉と肺をズタズタにした。こいつの言葉は、いまや喀血と同時だ。
「べつに、謝ることはねえよ」
どうして、そう思ったのだろうか。さんざん嫌がらせを受けた。死んじまえばいいのに、と思ったこともある。そんな奴の謝罪を、どうして必要ないと思ったのだろうか。
「ごめん。頼む。殺さないでくれ……」
あぁ、意味がないんだ。
こいつの謝罪は、俺にとって意味がない。俺がモンキーレンチを振り下ろす理由が、謝罪で消えることはない。俺を苦しめている原因が、消えることはない。俺を痛めつける西茂森に、『やめてくれ』という言葉が意味をなさなかったことと同じだ。
それに、殺される瞬間の謝罪なんて、命乞いに他ならない。そんなものは、余計にレンチを握る手に力を籠めさせるだけだ。
「要らねえよ、謝罪なんて」
「ごめ……んなさ……い」
「俺とお前も、必要があって作られたのか? たぶん、違うよな。
だから、要らないんだよ。謝罪のことじゃねえ。俺もお前も、このモンキーレンチ以下の存在ってわけだよ」
渾身の力をこめて、俺はモンキーレンチを振り下ろす。やつの頭の割れる音は、貨物ロケットの轟音でかき消された。
わずかに痙攣して、西茂森は動かなくなった。キャニスタから漏れ出していたエアーは、やつの呼吸に合わせるかのように、だんだんと小さくなって消えた。
辺りに響くのは、黄色い風の音と俺の呼吸音。あとは、遠く空に昇っていくロケットの残響。
「……必要だから作られた」
血まみれのモンキーレンチは、存在証明を果たせたのだろうか。作られた理由に沿った使われ方をしたのだろうか。
握りしめた手から力を抜き、モンキーレンチを地面に転がす。今更だが、デカすぎて死ぬほど重かった。
大きく息を吐いて、砂の積もった地面に座る。そうして、砂に吸われていく西茂森の血をしばらく眺め続けた。
日が傾き、廃墟群が複雑な影を落とすまで動かなかった。込み上げてきた吐き気が治まるまで、俺はずっと座ったままだった。
西茂森の残骸から、まだ使えそうな物を目視で選別できるくらいになってから、ようやく俺の体は動いてくれたのだった。