はじめまして担当者。
紫乃さんの担当になってから3日目。
朝一で会社に寄って、栄養ドリンクの差し入れをしてから
紫乃さんの家に来た。今は洗濯掃除をして、
お昼ご飯を食べ終えたところ。
今更だが俺は紫乃さんがどうやって、
生計を立てているのかを知らない事を思い出した。
…本当に今更。
担当として把握しておかなければいけない重要な事なのに。
結構バタバタしてしまって、気付くのが遅くなった。
…なんて俺が力不足なだけ。ただの言い訳だ。
「あの紫乃さん。すごく今更なんですけど、
描いた絵とかってどうしてます…?」
「…ネットで出品してます。」
言われて検索したら確かに出てきた。
しかもちゃんと会社が管理してる出品サイトだった。
…本当に俺が把握してなかっただけじゃん、情けない。
紫乃さんにじっと見られたので、笑って誤魔化した。
何だか気まずくなって何か話題はないかと周りを見ると、
床に置いてある風景が描かれたキャンバスが目に入った。
「あ、これとか出品しま…」
「っ!!違う!!触らないでっ!!」
「え、あ…っ!」
そんな声が出るのかと言うくらい大きな声で、
俺がキャンバスを持ち上げる前に横から持ち上げられた。
俺が右手を伸ばしていたせいで鋭いところが
手のひらに当たってしまい、勢いよく切れてしまった。
俺は痛みよりも紫乃さんの声量に驚いていた。
紫乃さんはキャンバスを抱えていたが、
俺の右手を見て顔色が一気に変わった。
ぼけっとしてる間に見た事のないスピードで、
何処からかタオルを持って来た。
瞬く間に右手をぐるぐる巻きにされ、キッチンに連れて行かれた。
その間にタオルは赤く染まっていた。
一気に水をかけられてようやく、痛みを感じて顔を歪めた。
じんじんと手のひらが痛い。
そんなに深くはないが血の量が多く、結構痛い。
紙で指を切ると見た目以上に痛いあの感じ。
紫乃さんは無言で傷口を洗ってくれ、
どこにあったのか救急箱を持って来た。
この家に救急箱あったんだ、なんて。
怪我をした当人なのに、呑気な事を考えていた。
怪我をした俺より、 紫乃さんの方が苦しげだ。
あっという間に綺麗に手当てしてくれた。
まだ少しじんじんしているが、
さっき水にさらされてる時よりはマシになってる。…気がする。
手当てが終わるといつもご飯を食べている机に、
向かい合って座ったまま重い沈黙になった。
「あ、あの…。手当て、ありがとうございました。
すごい、手際良くて助かりました、あはは…。」
「…。」
俯いたまま、黙り込んでしまっている。
俺は重い空気に耐えられず笑ってみせるが、
すぐに違うと思って黙った。重い空気を切り替えたいが、
紫乃さんずっと無言だし…。
紫乃さんは自分のせいだと思ってるみたいだが、
俺が変にキャンバスに触ろうとしたのが悪いのだ。
掃除の時には普通に触って何も言われなかったから、
持っても大丈夫だと思った俺が浅はかだった。
どうしたものかと唸っていると、 紫乃さんが顔を上げた。
「えっと、そんなに酷い怪我じゃないし!
俺が勝手に触ろうとしたのが悪いので気にしないでください!
むしろ勝手に触ろうとしてすみませんでした。」
「…すみません。後出品するものは出品する用で描くので。」
それだけ言って、目線は下がったまま。
じゃあ俺が触ろうとしたのは出品するものじゃなかったのか。
無神経な事しちゃったかな。
怪我、本当に大丈夫なんだけどなぁ。
試しに怪我をした右手をグーパーと動かしてみる。
少し痛みは感じるが、大げさに痛いと言う程じゃない。
それにしてもこの家に救急箱があった事に驚いた。
消毒液や包帯、ガーゼや専用のテープもあったし。
すごい救急箱内が充実してた。
「救急箱あったんですね!
俺の家なんか絆創膏すらないですよ、あはは…。」
「…昔一緒に住んでた人、に。同じ怪我を、させて。」
俯いたまま、ゆっくり話し始めた。
前にも、同じ事があったのか。
昔住んでた人って言う事は、元同居人さんだよな?
あの部屋の持ち主と喧嘩したのかな。
いやでも同じ怪我って言ってたし、
今回みたいにどっちが悪いとかないかもしれないけど。
「それで、その時は今よりもっと血が出てて。
なのにあいつ、笑って…。」
「あ、あの紫乃さん?大丈夫ですか?」
当時の事を思い出してしまったのか、
みるみる内に顔が青くなっていく。
きっと相手に怪我をさせる事が紫乃さんの中で、
トラウマになっているんだ。怪我の度合いがどうであろうと。
怪我をさせてしまった、それがトラウマの引き金。
紫乃さんに手を伸ばすと、ぴくりと肩が反応した。
何があったか知らないし、多分聞いても答えてくれない。
余計に紫乃さんを怯えさせてしまうだけだ。
俺は伸ばした手をぐっと握り締める。
紫乃さんがゆっくり顔を上げて俺を見た。
俺は安心させたくて明るく振る舞う。
「俺結構、丈夫なんで平気ですよ!
それに手当てしてもらったし!気にしないでくださいね!!」
「…。」
グーパーして見せると安心したのかどうなのか、
よく分からない様な顔をしていた。
するとポケットに入れていたスマホが震えた。
紫乃さんは作業に戻ってもらって、
俺は邪魔にならない様に廊下に移動した。
どうやら電話で、相手は誠治さんだった。
「はい、 真琴です。」
「おー、いきなりで悪いな。今大丈夫か?」
「はい、どうかしましたか?」
誠治さんの声は思ったより普通だった。
朝会社に寄った時は会わなかったし、昨日はあんな感じだったのに。
電話をかけて来たって事は、企画が片付いたんだろうか。
こうして電話をかけてくる事は珍しい。
「こっちはひと段落ついたからな。
そっち、任せっきりだったろ。調子どうだ?」
「あ〜…。」
そういう事か。確かに今まで、沢山担当が変わってたからな。
俺は自分の手を見る。グーパーと動かすと痛みを感じる。
特に困った事と言えば紫乃さんとの距離を、
なかなか詰められずにいる事くらいだけど。
こればっかりは時間と俺の能力の問題でもあるからな。
「…なんだ?何か困ってんのか。」
「え?あ、いえ!今は特に問題ないです。」
ぼけっとして無言になっていた。
変に黙ったせいで、誤解を招いてしまった。
誠治さんは疑って来たが、笑って誤魔化した。
距離を縮めるのは俺の仕事で、担当になったからこその仕事。
人に頼ってばかりじゃ、俺も成長出来ない。
弱音を吐いてばかりじゃいられない。
「あ、そうだ。全然関係ないんですけど、
誠治さんって結構小説とか読んでませんでしたっけ?」
「あぁ好きでよく読むけど。」
確かずっと前に、そんな話をした気がする。
俺は活字ばかりの本は苦手なので、勧められて逃げた記憶がある。
…興味ないって言ってるのに、話長いんだよ。
でも本の話をする誠治さんはとても生き生きしている。
仕事の合間とか、社長待ちの時に結構読んでるらしい。
ジャンルも縛りなくて、色々読んでたはず。
「それがどうかしたか?」
「あ、いや。… 赫って作家さん、知ってたりします?」
もし知ってるとしたら、
何かしら情報を得る事が出来るかもしれない。
あまりこうしてこそこそするのは良くないが、
元同居人さんの事を知れば。紫乃さんに近付ける気がした。
というか紫乃さん無口だし、私物無さ過ぎだし、
手がかりが元同居人さんの部屋しかなかっただけなんだけど。
「あ〜、どっかで聞いた事ある気がするけど…」
「え、本当ですかっ!?何処で!?」
「うーん、何だったかな…。」
唸っている誠治さん。
やっぱり俺が無知なだけで、有名な作家さんだったのか。
調べれば何かしら情報が出てくるかも。
誠治さんが知っていたという情報は有力だ。
なかなか思い出せない様子の誠治さんの後ろから、
誰かが呼ぶ声が聞こえて来た。
「あ、悪いちょっと待ってくれ。…すまん真琴、
呼ばれたから切るわ。また思い出したら連絡するから。」
「分かりました、じゃあ思い出したら教えてください。」
失礼します、と電話を切った。
これで誠治さんが思い出してくれたら…。
作業部屋をちらっと覗くと、キャンバスに向かっている紫乃さん。
俺は邪魔しない様に音を立てず、本の部屋まで移動して来た。
せっかくだ、読み残しを読んでしまおう。
表紙のしっかりした大きな本は、3冊しかない。
後は小さなノベル小説サイズの本。
本棚の中のものの共通点は書いた作家さんが、
赫さんだと言う事。
俺は大きな本の2冊目を取り出して読み始めた。
2冊目だからか、1冊目よりスムーズに読むことが出来た。
2冊目の内容はこうだ。
前回より少し距離の縮まった少年2人。
しかし絵を操る少年の魔法を使う姿を見る度に、
主人公は自分自身の魔法を嫌いになっていった。
そんなある日、少年に何の魔法を使うのかと尋ねられる。
返答に困った主人公は、渋々文字操るのだと答えた。
少年の反応が怖かった主人公は俯いたが、
主人公の魔法を知った少年は大きな声で驚いた。
馬鹿にされる、そう覚悟した主人公。
だが少年の口から聞こえたのは予想外な言葉だった。
『なんて素敵な魔法。どうしてもっと早く教えてくれなかったの。』
主人公は自分の耳を疑った。
人生で初めて、魔法を褒められた瞬間だった。
それから少しずつ主人公は文字を操る魔法に、
真剣に向き合う様になっていった。
文字を操る主人公と、絵を操る少年。
きっと彼等の相性はピカイチで、最高の相棒だった。
その時起きた困難にも2人で立ち向かい、
主人公はさらに自分の魔法に対して前向きに捉える様になった。
お互いの存在がお互いにとって、大きく大切な存在だった。
そして2人が出会ったあの公園に居た時の事。
2人はいつもこの公園で魔法を使っては、特訓をしていた。
これは出会った時からの習慣になっていた。
いつもの様に絵を操る少年は狼を描いた。
人懐っこい狼は主人公にじゃれてくる。
そんな風に遊んでいると、見覚えのない大人から声をかけられる。
その大人はとある王国で大臣をやっていて、
少年の絵を描く姿を1度見かけて以来目をつけていたとの事。
素晴らしい魔法を使う少年を是非、
王国に居る王様のために使って欲しいという話だった。
王国で働けるなんて、この世界ではとても光栄な事。
今後の人生一生の安泰が約束される。
身寄りのない少年にとって、悪い話ではない。
主人公も純粋にすごいと思った。やはり少年はすごいのだと、
相棒を誇らしく思った。しかし少年は良い顔をしなかった。
主人公には少年の気持ちが分からなかった。せっかくの機会なのに。
その日から少しずつ、2人はすれ違っていく。
毎日の様に王国へ誘いに来るが、
少年は頑なに首を縦に降る事はなかった。
と2冊目はそんな物語の展開だった。
とても気になる状態で3冊目へ続く様だ。
活字に慣れたのか。読むペースが上がった様で、
まだ時間に余裕がある。このまま3冊目が読める!
2冊目を本棚に戻し、1度紫乃さんの様子を確認する。
する事がないだけで、仕事中だからな。
常にする事がないか気にかけないと。
俺は今までにないくらい、小説に引き込まれていた。
こんな事ならもっと小説を読んでも良いかなと思う程。
3冊目の内容はこうだ。
頑なに断り続ける少年に対して主人公は、
わがままだと怒った。こんなに良い話なのにと。
それでも少年は断り続け、理由も話してくれなかった。
初めは口出しをするべきではないと黙っていた主人公。
実力がありながら嫌がる少年を見て、
次第に怒りを覚える主人公。同時にどうして自分ではなく、
少年なのだろうと思う様になってしまった。
主人公はもし自分だったら、
こんな貴重な機会を無駄にしないのにと思っていた。
そんな中、遂に主人公は我慢出来なくなった。
『どうして断る。せっかくの機会を棒に振って。
俺を見下しているのか、お前にはそんな力がないだろうと。
俺とお前は違うのだと、そう言いたいのか。』
それは主人公が吐いた、心無い言葉だった。
だが主人公も苦しかった。少年がその誘いを断る度に。
“お前はその権利すら無い”のだと言われている様で。
少年にそのつもりがなくとも、
主人公は着実に追い詰めてしまっていた。
2人の間には確かな溝が出来てしまった。
だからと言ってお互いが嫌いになった訳ではない。
どうしようもなかった。解決策が見つからなかった。
仲直りしたいという気持ちに反して、
2人の距離は広がるばかり。それからしばらくして、
少年は王国からの誘いに応じたのだった。
主人公は1人になった。
「…え、終わり?」
物語自体は終わっていない。しかし本棚の中にあったのは3冊。
他の本は短編小説だったり、全然違う内容のもの。
この3冊目が出版されてから、すでに2年が経過している。
慌てて1冊目と2冊目を見ると、1年ごとに出版されている。
本来なら4冊目・5冊目があっておかしくないはずなのに。
俺は思わず頭を抱えた。
「え、続きがまだ出てないだけだよな…?
ちょっと遅くなってるだけだよな?」
はっと思い立って、スマホを取り出す。
そうだ調べれば良いんだ、何を焦っている。
自分を落ち着かせながら検索する。
しかし出てきた検索結果は俺をさらにどん底に叩きつける。
「……作家、音信、不通、?」
3冊目を出版後、ぱったりと活動が途切れているらしい。
俺はぐったりと床に手をつく。
嘘だ、こんなに引き込んでおいてそんな事って。
酷い、酷すぎる。あぁ、涙出てきた。
すると床に広げたまま置いていた3冊目がぺらぺらとめくれ、
背表紙の裏に手紙が貼られている事に気付いた。
……え?手紙?
テープで軽く止めてあるだけの手紙。
封筒は開きっぱなしで、特に宛名もない。
「え、さすがに読むのはまずい、か…?」
俺は続きが読めないショックで思考回路がショートしていた。
冷静に考えるなら、
読む前に紫乃さんに確認するべきなのに。
やけくそになっていた俺はその封筒を勝手に開いてしまった。
中から出てきたのは数枚の便箋。
もう読んでやると半ギレになった俺は便箋を広げてようやく。
冷静になって、動きを止めた。
俺が冷静になったのは、便箋に書かれていた冒頭部分。
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はじめまして。
紫乃の担当者様。
__________
驚きとこちらを言い当ててきた事に対する恐怖心に襲われる。
背中に冷たい汗が流れたのが分かった。