すれ違いの先に。
俺と紫乃さん。向かい合って橘さんと宮丘さん。
橘さんは頭を下げたまま、何も話さなくなった。
表情は見えないから、何を思っているのか分からない。
宮丘さんは気まずそうに目線を下げている。
話を切り出そうとした時、声が遮られる。
「そ、 創静さ、んは。今までどうしていた…ですか。」
距離感が分からないのか、呼び方も話し方も頼りない。
それでもどうにか、話をしようとする紫乃さん。
こんなに積極的に話そうとする紫乃さんを初めて見た。
ずっと会いたかった人が今、目の前に居る。
"それ"がきっと、"今の彼"の原動力。
俺では役不足かもしれない。それでも現状を変えようと
する紫乃さんをサポートするのが今ここに居る俺の役目。
拙くていい、ゆっくりでいい。
紫乃さんの声で、 紫乃さんの言葉で。
「しばらくは、ホテル暮らしして。少しして家を探し始めて、
ここに住む様になった。手入れもされてない荒れた土地を
格安で売って貰えた。それからはずっと、ここで暮らしてる。」
「…ど、どうして。な、何も、言ってくれなかったの。
ずっと、ずっと探して。悲しかった、苦しかったんだよ俺。」
「…。」
「…俺の事そんなになるくらいき、嫌いに、なった?」
精一杯冷静を装う震えた声に、こちらが泣きそうになる。
紫乃さんの言葉に傷付いた顔をした宮丘さんは、
すぐに顔を隠してしまった。…傷付く資格なんて、って思ってるんだろうなぁ。
黙り込んでしまった宮丘さん。必死に言葉を探してる。
少し重い空気の中、震えた声が聞こえる。
「…幸せに、なって欲しかった。これは本心、ただ。
本当は、逃げただけ、かもしれない。って最近になって考える様になった。
もしかしたら、間違ってたんじゃないかって。」
「…。」
「でも、それでもっ。僕にとっては、こうする事が、
思いつく限りの最善だった。」
苦しそうに、絞り出す様に。
言い訳にも似た言葉だけど、嫌な気持ちはしない。
多分それは、 紫乃さんも同じ。
むしろ宮丘さんの言葉を聞いて、泣きそうになってくる。
「… 創ちゃんが罪悪感を抱く事じゃないって、分かってる。
俺と一緒に居る事は、約束でも義務でもない。…悪いのは、俺だって。
ずっと創ちゃんを苦しめて。それに気付いたのも、
居なくなってからで。…本当に、謝って済む話じゃない。」
「な、何を言って…」
思いもよらない言葉に、驚く宮丘さん。
これには俺も、驚いた。…そんな風に考えていたなんて。
ずっと宮丘さんに対して抱く感情は怒りだったり、
悲しみばかりだと勝手に思っていたが…。そうじゃなかった。
空いた時間の分だけ、 紫乃さんも紫乃さんなりに考えていた。
…胸が、痛くなる。今朝の紫乃さんの姿が頭をよぎる。
泣きながら、理由を考えて。自分の事を責めたのか。
「考えたけど、何が創ちゃんをここまで…。消えたくなる程、
嫌な思いをさせたのかが、分からなかった。…ごめんね。
こんなだから自分の悪いところに気付けないって、分かってるけど…」
「ま、待って、待って紫乃、」
「…っ、まだ、名前で呼んでくれるの?」
宮丘さんは何て言えばいいのか、分からなくなっている。
きっと紫乃さんは、勘違いをしている。…仕方ない事かもしれない。
何も言わず居なくなってしまえば、原因は自分だと考えるのは順当に思える。
大切な人が居なくなってしまった悲しみと、罪悪感の狭間で。
どれ程、苦しんだだろう。 紫乃さん本人にしか、分からない痛み。
取り繕った紫乃さんの笑顔は、今すぐにでも崩れそうな程脆い。
身体は震えていて、今にも消えてしまいそうだった。
「こんなところまで来てごめん。…でももう、 創ちゃんの
好きなもの、奪ったりしないから。…時間も、小説も。ただ、最後に、
直接謝りたかった。ごめん、こんな時までわがままで。」
「し、 紫乃、僕は」
「…今まであなたの人生の大半の時間と、小説を書く事さえも。
俺はあなたから、奪ってしまった。沢山、嫌な思いをさせて、
それにずっと、気付けなくて。本当に、すみませんでした。」
「 紫乃さんっ!?」
俺は思わず声を上げる。 紫乃さんは立ち上がったかと思うと、
床に正座して額を床につけて土下座をする。
止めさせようと立ち上がったが、そこで思い止まる。
これが紫乃さんの“覚悟”であるなら、俺が止めていいのか。
そんな思いが、俺の身体にブレーキをかけた。
しばらく土下座のまま動かなかった紫乃さんは、
不意に頭を上げて立ち上がった。一礼したかと思うと俺の腕を掴んだ。
…帰るつもりだ。でも、本当にこれでいいのか、こんな終わりなんて。
ずっと、ずっと探して会いたかったんじゃないのか。
それが、"別れ"だなんて。
紫乃さんの気持ちを尊重したい気持ちの間で揺れる。
迷っている間にどんどん引っ張られて、玄関前まで来てしまう。
宮丘さんはそれを引き止めようと、俺の腕を掴んだ。
きっと紫乃さんに触れていいのか、迷ったのだろうけど。
今それは、逆効果なのではないか。現にそんな宮丘さんを見て、
紫乃さんが傷付いた様な顔をした気がする。
ほんの一瞬だったから、分からないけど。
とにかく、このままじゃだめだ。俺も歩みを止める。
紫乃さんはどうにか家から出ようと俺を引っ張り続ける。
「 紫乃さん、1度落ち着いて話をしませんか?
このまま…。こんな、すれ違ったまま帰るなんて。後悔しませんか?」
「っ…。」
優しく、言い聞かせる様に。とりあえず引っ張るのはやめてくれた。
大丈夫ですからと宮丘さんに笑いかけ、
紫乃さんの肩に手を添えて一緒にソファまで戻る。
小さく俯いて座る紫乃さん。…話す状況には戻れたけど、
そもそも何処から話すべきか。
「まず宮丘さんから、話を聞いてもよろしいですか?」
「…はい。危機感を抱いたのは、小学生の頃。
紫乃が僕に依存、という言い方が正しいのか分からないけど。
とにかく、僕しか見えていないと気付いて、いけないと思った。
それが嫌だとかではなくて、 紫乃にはもっと。
僕なんかばかりじゃなく、色んな物を見て多くの人と話をして欲しかった。」
「…。」
「一緒に居るのは心地良かったし、楽しかった。
そばで成長していく紫乃は、僕の生きがいでもあったから。
でも…。自分のせいで、 紫乃の持っている未来を、
迎えたはずの未来を壊してしまう日が来るんじゃないかって、怖くなった。
怖くなった僕は、… 紫乃から逃げた。」
宮丘さんは悲しげな顔をしていた。あれから彼も、考えていたんだ。
紫乃さんは俯いたまま、黙って話を聞いている。
橘さんは、頭を抱えたままぴくりとも動かない。
話を聞いているのか、何か考えているのかも分からない。
その姿は、何かを“待っている”様にも見えた。
「俺は、初めこそ。事件とか、何かあったんじゃないかって
思って探してたけど。少しして、その、 橘さんに言われて、気付いた。
いい機会だって。ずっと縛り続けて来た創ちゃんを離してあげられるって。」
「っ違う、違うよ紫乃。僕は1度だって縛られたとか
時間を奪われたなんて思った事はない。さっきも言っただろう?
紫乃との時間は楽しくて、幸せだった。本当だよ。
… 文仁は、ちょっと心配性なだけなんだ。」
どうして2人は、離れなければいけなかったのだろう。
宮丘さんの話も、 紫乃さんの思いも。
優しさで溢れていて、お互いを思い合っている。
橘さんだってそうだ。ちょっと口が悪いし、乱暴だけど。
ただ宮丘さんを思っての事。…ちょっと不器用なだけ。
3人とも、ちょっと自分の気持ちを伝えるのが下手なんだ。
気付くと、頰は濡れていた。驚いた顔をしている2人の姿が歪む。
「あれ、俺なんで…。ご、ごめんなさ、」
「… 真琴さん。」
宮丘さんが持って来てくれたタオルで慌てて顔を拭う。
紫乃さんが優しい声で、俺の名前を呼んだ。
目が合うと、今までにないくらい優しい表情をしていた。
宮丘さんも視界が歪んでよく見えないが、微笑んでいる様に見える。
「初めて会った時から、俺を諦めないでくれて、ありがとう。」
「…。」
「あなたが、俺に関わる事を諦めなかったから。
こうしてまた創ちゃんに会う事が出来た。
本当に、感謝しています。… 真琴さんが俺の担当さんで良かった。」
紫乃さんの言葉で、止まったはずだった涙は決壊して。
多分 紫乃さんも宮丘さんも、泣いていたと思う。
…まぁ本人たちより泣いた俺が言えた事じゃないけど。
3人で笑いながら、泣いた。すると宮丘さんは輪から離れたかと思うと、
橘さんの前にしゃがんだ。そっと、手をとる。
俺と紫乃さんは黙って、その様子を見ていた。
「… 文仁。」
「…。」
「…有難う、ごめんね。」
「っ、俺は、俺、は」
俯いたままの橘さんは、泣いていた。
きっと誰よりもそばで、 宮丘さんを支えていた人。
何より宮丘さんの気持ちを、最優先させた人。
そうじゃなきゃきっと、こんなに泣けないだろうから。
大切な人を思う涙は、こんなにも温かいのか。
橘さんを覆う様に抱き締める宮丘さん。
これが、友情なのか。そんな事をぼんやりと考えていた。
ひとしきり泣いて、落ち着いてから。
久しぶりだからと紫乃さんと宮丘さん2人で話をする事になった。
こうなると俺と橘さんは邪魔者なので、一足先に帰る事にした。
紫乃さんは後日、 橘さんが家まで送ってくれる事になった。
2人とも家の外まで見送りに来ようとしていたが、断った。
笑顔で、別れを告げる。2人の笑顔は何処か似ていて、幸せな空気を纏っている。
「…礼は、言わない。」
「分かってますよ。」
家を出てすぐ。言葉とは裏腹に、柔らかな声色。
他に言葉を交わす事もなく、お互いの車に乗り込む。
車に乗るとすぐにエンジンをつけ、さっさと出て行ってしまった橘さん。
仲良く…はなれないだろうけど。きっと少しくらいは距離が縮まった気がする。
俺もエンジンをかけて、出発する。
橘さんの出て行った方向から出ると、木の少ない道で森から出る事が出来た。
…何だかんだ、あの人も優しい人だよな。
家までの帰り道、ぼんやりと考える。
人のために流す涙が、俺にもある事を知った。
今までを考えると、こんな日が来るなんて思いもしなかった。
涙は体力を使うし、自分が惨めになるものだとばかり思っていた。
俺にとっての“涙”は、“弱さの証明”。
だから泣く事は嫌いだったし、決して人前では泣かなかった。
それが、どうだろう。
体力は使ったが人前で泣いたのに、満ち足りた気分だった。
「…辛いだけじゃ、なかったのか。」
車の中で1人、誰に言った訳でもない言葉は静かに消えた。