眠っていたもの。
数日間、引きこもっていた。もちろん、有給申請はした。
入社してから特に休む理由もなかったので、
ばたばた働いていたおかげか。すんなり取る事が出来た。むしろ歓迎された。
今は、時間が欲しかった。1人、考える時間が。
これまであった事を整理しながら、これからをどうするか。
考えれば考える程、分からなくなった。それでも、考え続けた。
久々の外出は、日差しに目眩がする。
やっぱり暑い。しかし今日は、スーツを着たかった。
向かったのは紫乃さんの家。
いつもの様に家に入るが朝早いからか、姿が見当たらない。
ここに来る様になって、
紫乃さんが起きていないなんて初めてだ。
紫乃さんは、あの本の部屋に居た。
椅子に顔を伏せて、床に座り込んだまま。疲れて寝てしまったのか。
この人が絵を描く事以外で、人間らしい所を初めて見れた気がする。
いや、ご飯食べる姿とかは見た事あったけど。
寝顔を見る日が来るとは、思いもしなかった。
起こすつもりで来たのだけど、好奇心だった。
そっと物音を立てない様に近付く。
しかし顔を覗いて、俺は固まってしまった。
…"泣いていた"、のか。
うっすら目元に涙跡があり、目尻は少し赤い。
この人は宮丘さんが居なくなってから。
どれ程の間、こうして1人で泣いていたのだろう。
宮丘さんの苦しげな顔が頭をよぎる。
…ごめんなさい、やっぱり俺には分からないです。
どれだけ自分が悪くて、大切な人の幸せを願っていても。
泣かせて、しまうのは。
「っ…?あ、れ、」
「おはようございます紫乃さん。こんな朝早くにすみません。」
目を覚ました紫乃さんは、大きくゆっくり伸びをする。
まだ頭が起き切ってないのだろう、あくびをしている。
しばらく俺の顔をじっと見て、頭が冴えてきたのか驚いた顔に変わった。
そりゃそうだ。寝顔見られてたんだから。
驚き過ぎて言葉の出ない紫乃さんに、そっと笑いかける。
「驚かせてしまってすみません。突然で申し訳ないのですが、
今から行くところに付いて来て貰えませんか?」
「…は、?」
「さ、準備しましょ。」
紫乃さんの腕を掴み、作業部屋まで移動する。
そう言えば紫乃さんって、外出用の服とかあるかな。
家事をしてて、それらしきものを見かけた記憶はない。
まぁひとまず、朝食を取らなきゃ。時間的には全然慌てる必要はないし。
それに目的地着く前に紫乃さんの体力が、もたなかったら意味ない。
少しでも元気な状態で居てもらわないと。
冷蔵庫を開けて材料を確認していた時、
後ろの方からばたばたと足音が聞こえた。
振り向くと明らかに動揺している紫乃さんが居た。
だがこっちを見るばかりで、何も言わない。
俺は冷蔵庫に向き直り、卵とベーコンを取り出してコンロに向かい合う。
平然と朝食を作る俺を、黙って見ている紫乃さん。
もっと色々言われる事を予想していたけど、
まだ完全に頭が起動してないのかな。焦った表情ではあるものの、
何も言ってこない。それを良い事にどんどん料理を進めていく。
あっという間に出来た手抜き朝食をテーブルに並べると、
少し悩んだみたいだが席についてくれた。
2人とも小さな声で頂きますと呟く。静かな朝食の時間が続く。
沈黙を破ったのは、先に食べ終えた紫乃さん。
「…何処に、行くんですか。」
「大切な人に会いに行きます。でも俺1人じゃ意味がないので、
紫乃さんには、何としてでも来て貰います。」
それ以上、何も聞いてこなかった。これも予想外。
驚き過ぎてか、呆れて何も言えないのか。
まぁ俺は付いて来てさえくれれば、何でもいいんだけど。
紫乃さんに許可を貰ってクローゼットを開けると、
どれも外出用ではなく作業用の様で塗料が染みていた。
しかし1つだけ、袋を被ったものがある事に気付いた。
引っ張り出してみると、ずっしりと重みがある。
チャックを開いてみると、そこに居たのはスーツ。
しっかりした生地とデザイン。…多分だけど結構高いやつだよなこれ。
明らかに紫乃さんの趣味ではない。
普段同じ様な服しか着ない紫乃さん。
そんな人がこんなスーツ買わないと思った。
俺が着てるのなんかより、ずっと良いスーツ。
紫乃さんがスーツ着るって、全然想像が出来なかった。
「あの紫乃さん、これっていつ頃まで着てました?」
「え、?あぁ。大学卒業と、成人式の時しか着てないです。」
「へぇ〜。成人式出られたんですね。
勝手に行かなそうって思ってました。」
「それは創ちゃんが成人式は絶対出ろって…。」
そこまで言って、はっとして口を抑えた。
宮丘さんの事は話題にしたくなかったらしい。
失敗したと、そんな表情をしていた。
俺はもう宮丘さんの事を知っているし、気にしないけど。
紫乃さんにとっては、そうもいかないんだろう。
やっと話してくれたのに、また黙ってしまった。
「…このスーツって、その人からの贈り物ですか?」
「…。」
否定も、肯定もしない。そっと目線をそらした。
クローゼットの奥で、大切に袋に入れて仕舞ってあった。
でも大学の卒業式も、成人式も。何年も前の話。
だったら多少は埃があってもおかしくなさそうだけど、
埃1つ見つからない。保管状態は完璧だと言っていい。
とても綺麗な状態で保管されていた様に思える。
他の服はどれも、完全に落ち切っていない塗料がついたままだった。
きっと服装に関してこだわりはない様に見える。
それでいて、このスーツ。一目瞭然、大切なのだと痛いくらいに伝わってくる。
貰った側の気持ちも、“あげた側”の気持ちも。
袋から取り出して全体を改めて確認したが、
汚れもほつれもなく見た目は新品そのもの。
「これ、これ着ましょう。」
「は、?何言ってるんですか。」
戸惑う紫乃さんを他所に、
クローゼットの中にあったチェストからスーツ用のシャツを取り出す。
きっとスーツを買う時に一式買ったんだろう。
どれも他の服とは比べ物にならない程綺麗で、
一目でどれがスーツ用なのか分かるから有難い。
俺の今着てるのは、頑張ってバイトして貯めていたお金で買ったもの。
仕事上スーツを着る機会が少なくないので、
思い切って貯金を切り崩して購入した。
これだって安いものじゃない、ちゃんとしたものなのに。
なんだか隣に並ぶ自分を想像して、落ち込みそうになった。
……いや、結構真剣に落ち込むぞこれ。
「それは、着ません。」
「どうしてですか?折角だし着ましょうよ。
着ないなんて、勿体ないです。こんな良いスーツ、着てこそでしょう。」
「嫌です。着ません。」
紫乃さんは頑なに拒否する。スーツが、というよりも
“このスーツだから”着たくないって感じ。
でもちゃんとした服って、これくらいしかない。
他はどれも塗料が付いてしまっているし、
さすがにそんな姿で“会わせる”のはどうかと思う。
いくらスーツを前に突き出しても、受け取ってくれない。
「言いましたよね?大切な人に会うって。
ちゃんとした服装じゃないと後悔するのは紫乃さ…」
「うるさいっ!!嫌だって言って…」
「塗料だらけの姿で会いに行って、
後悔するのは紫乃さんですからねっ?
絶対綺麗な服装で行けば良かったって思いますよ?!」
俺の言葉を聞いて、 紫乃さんの動きが止まった。
あれ、俺余計な事…。いや、大丈夫言ってないはず。
でも紫乃さんの表情が徐々に曇っていってる。
あ、この言い方だと紫乃さんの知ってる人に
会いに行くって言ってる様なもんじゃ…?自分が失言していた事に気付く。
「…誰に、会いに行くんですか。」
「それは…。こ、この!スーツ着て付いて来てくれれば分かります!!」
苦しいながらスーツを無理やり押し付ける。
怪訝そうな顔をされたが、俺のしつこさに諦めたのか。
スーツを受け取り、洗面所に入って行った。
成功…か?なんとかスーツを着て貰えた。
そっと胸を撫で下ろす。第1関門突破だ。
俺はスマホを取り出し、とある人にメールを送信。
これで大丈夫かな…。上手くいくと良いけど。
待っている間、落ち着かなくて作業部屋をうろうろしていた。
にしてもちょっと時間かかってる?普段着ないから、仕方ないか。
そんな事を考えていると洗面所の方から扉の開く音が聞こえた。
扉の閉まる音と、廊下を歩く音がやけにはっきり聞こえてくる。
音が止んだと思ったその時、 紫乃さんの姿が目に入る。
もう、なんて言えばいいか。何も言えない、言い様がない。
ただ分かるのは宮丘さん程、
紫乃さんを分かっている人は居ないという事。
「凄く、お似合いですね。」
「…。」
紫乃さんは何も言わない。ただ、下を向くだけ。
塗料まみれな服装の紫乃さんしか見た事なかったから、
ここまで着こなすとは思っていなかった。
まぁ紫乃さんってスタイルは細過ぎではあるけど、
元々凄くイケメンな顔立ちだからなぁ。スーツが目立ち過ぎる事なく、
着ている紫乃さんを際立たせている。
そうなると髪もセットした方が良さそうだな。
スーツが決まり過ぎて、少し長めの髪に違和感がある。
紫乃さんはもう諦め切っていて、
あっさり髪をセットさせてくれた。一応普段ワックスを
持ち歩いているものの、使わないので加減が分からない。
素材が良いんだし、オールバックで良いかな。
何だかんだ髪のセットも上手くいき、
今誰か初対面の人からの第一印象は、"仕事の出来る大人"って感じだろう。
普段髪で隠れている顔が全部出ているのが嫌なのか、
ずっと眉間にしわを寄せて険しい表情をしている。
俺は良いと思うんだけどなぁ、清潔感もあるし。
紫乃さんが我慢出来ず髪を崩してしまう前に急いで家を出た。
今日は事務所の車を借りて、ここまで来た。
紫乃さんは後部座席に乗ってもらう。
もちろん免許は持っているが、よくは乗らないので少し緊張する。
人を乗せているってのもあるけど。
エンジンをかけ、家をあとにした。移動中は2人ともずっと無言。
俺は運転に集中出来て良いけど…。
ちらりとミラーで後部座席を見てみると、
何処か遠くを見ている紫乃さんの横顔が見えた。
心なしか、悲しげな様に見える。
気になるが、今は運転に集中しないと。
正直ちゃんと道順を覚えているか怪しい。凄い道通ってたからなぁ。
俺の運転技術ではさすがに同じ道は行けないので、
なんとなく方向を気にしながら安全な道で進む。
家の周りは木に囲まれていた。
その家には辿り着くための“入り口”がなかった。
最終的には木々の中に突っ込む事になるのか…?ちょっと、不安になってきた。
確かに方角的には合ってるはずなんだけど…。
これ以上進むと、通り過ぎてしまう気がする。
…。
「…?あの、どうしたんで…」
「危ないのでしっかり掴まっててください。
運転技術は保証出来ないのでっ…!」
「は、ちょ、ちょっとっ!?」
道路の真ん中から道のない木々に向かって、ハンドルを思い切り右に切った。
その先は木々が生い茂った森。しかも結構な斜面だ。
戸惑う紫乃さんに構う暇なく、強くハンドルを握る。
木に当たらないぎりぎりの隙間をすり抜けて行く。
ミラーに映った紫乃さんの顔は真っ青で、声も失っている様だった。
道なき道をひたすらに進んで行く。
少しでも気を抜けば木にぶつかって大事故。
ハンドルを握る手は汗ばんでいた。
「もう少し…。っ!ここっ!!」
「…。」
紫乃さんは青い顔のまま声が出ない。
俺は強くアクセルを踏んだ。車は一気に正面に突っ込んだ。