それぞれの覚悟。
苦しそうに話す宮丘さんに、何も言えなかった。
橘さんの表情もこころなしか、険しそうに見える。
「僕がずっと紫乃に頼ってしまったせいで、
紫乃を1人にしていた事に気付かなかった。
僕が、僕さえ居なければ。あの子はきっと、
沢山の人に囲まれる様な人だった。」
「…そ、それはっ、」
「分かってます。多くの人に囲まれる事が必ずしも幸せだとは
言いません。ただ、あの子は1人すぎた。それに…」
言葉に詰まる宮丘さんは、
苦しそうに胸を抑えている。
胸を抑えるその手は、震えていた。
何故かそこで俺は、気付いた。気付いてしまった。
どうして宮丘さんは、こんな行動に出たのか。
「…倒れて、しまったんです。ちょうど3冊目の本についての
打ち合わせ中で、もちろん前兆はなかった。
だから僕自身も驚いたし、
そこに居た文仁にも迷惑をかけてしまった。」
「確かに驚いたけど、迷惑とは思ってねぇよ。」
やんわり否定する橘さん。そっか、担当者さんだから。
打ち合わせ中に倒れるなんて…。もし俺がその場に居たとしたら、
何が出来ただろう。打ち合わせの相手が、突然倒れるなんて。
今仕事をしているからこそ分かる、起きた事のの大きさ。
第一、人が倒れるなんて。仕事以外でも一大事だ。
「 文仁は僕の身体が弱い事を知っていたから、
すぐに救急車を呼んで対応してくれました。
対応が早かったおかけで大事には至らなかった。
でも僕はそこで、危機感を持ちました。」
「…。」
「その時までは調子が良かった事もあったけど、忘れていたんです。
自分の身体の弱さを。そこで焦りました。もしもの事があったら、
紫乃はどうなるのかって。僕にばかり時間を
使ってしまった紫乃は、これからどうするのかって。」
他の誰でもない大切な人の時間を奪っていた事に気付いた時。
俺だったら、どうだろう。それが宮丘さんの場合、
紫乃さんから離れるという選択だった。
「怖くて仕方なかった。 紫乃を1人にする事が。
泣いて、泣いて、考えました。どうするって、どうしようって。
そこで当時仲の良かった、
照汰郎さんに助けを求めました。」
「社長に、ですか。」
「仲良くなった当時はまだ照汰郎さんも大学生でした。
話を持ちかけた時はもう卒業していて、美術関係の会社を起業してから
4年程経った頃だと思います。…正直に言うと、丁度いいと思ったんです。
言い方が悪いですけど、利用しない手はないと思いました。」
宮丘さんの目に、不安の中に確かな強い意志が見えた。
…迷っている暇も、なかったのだ。
それだけ宮丘さんは、焦っていた。
はじめの印象から、随分見方が変わった。
この人は、ずっと強い。
少なくとも今の俺に“自分以外の人のために”、
好きな事を辞められる覚悟はない。
それをこの人は、2年前にやってのけた。
それが、"正しい選択"だったのか。俺には分からないけど。
純粋に、すごいと思った。
「 照汰郎さんには、簡単に事情を話しました。
それと伊上さん、
あなたを担当にして欲しいとお願いしました。」
「…は?」
突然の展開に、思わず声が零れた。
俺を、指名したって、どうして?
大体なぜ宮丘さんは俺を知っているんだ。
俺は社長に入社の声を掛けられるまで、
今の人たちの誰1人として知り合いだった人はいない。
どの人も会社に入ってからの関係だ。
「…どこで、俺の事を、」
「"展覧会"です、大学の。」
そこまで言われて、思い当たった。
あの…?でももう3年近く前の事。
そんな前から、俺を知っていたのか?
「展覧会であなたの作品を見た時はまだ、
こんな事になるなんて思ってもいませんでした。
ただ綺麗な、繊細な絵を描く方だなって思ったのを覚えています。」
「…。」
「紫乃は篭もりがちだったので、
よく展覧会などに誘って連れ出してたんです。
でも本当にまさか、当時見た絵を描いた人が
照汰郎さんの会社に入るなんて思いもしなかった。」
分かっていてか、知らずにか。
どちらにせよ、俺は何も言えなかった。
しかしこんなところで俺の絵を知っている人と会うとは。
あまりに予想外な出来事に、正直戸惑っていた。
「 紫乃が気付いているかは、分かりません。
何も知らない顔してても、妙に鋭いところがありますから。」
「それで?俺の絵を知っていたところで、
俺を指名する理由にはならないと思いますけど。」
絵の事を持ち出され、変に棘のある言い方になってしまった。
まぁ訂正するつもりは、ないけど。
静かな怒りと、焦りが底の方で溜まっていくのが分かる。
反対に宮丘さんの表情は穏やかなまま。
「確かにそうですね。ですが、あなたが"描く方"での
入社でないと聞いたので、少し調べさせて頂いたんです。
まぁ個人で個人を調べると言っても、限度がありましたけど。」
「…。」
「すみません、あまり気分の良い話ではないですね。
正直僕も当時は焦っていて、余裕がありませんでした。
今では無神経な事をしたと、反省しています。
でも、調べて確信しました。
あなたはきっと紫乃を支えてくれるって。」
宮丘さんは、微笑む。
この人はどこまで、知ってるんだ?
大体俺の何を調べたら、そんな考えになる。
少なからず今より荒れていた時期に、
まさかそんな事思われるなんて。
「失礼を承知でお聞きしますが…。
伊上さんは"当時の方々"と、距離を置いてますよね?」
「…。」
「これ以上は話が逸れるので言いませんが、
きっと紫乃の気持ちを、分かってくれるんじゃないかって、
勝手な話ですけど。そう、思ったんです。」
本当に、勝手な話だ。
全部、仕組まれていたって事か。それも知らないところで。
俺は何も知らず、思惑通りに動いていたと。
これじゃ、あやつり人形もいい所だ。
凄く、吐き気がする。
「ですがここまで辿り着くのは、"予想外"でした。
まぁ思った以上の結果だっただけで、
僕は間違っていなかったと思う事が出来ましたけど。」
「あまり、舐めない方がいいですよ。」
「…え?」
確かに事情を知らなかったし、
この人らの思惑通りに動くいい人形だったかもしれない。
ただ、俺は"自分の意思"で今まで動いていたんだ。
それを"仕組まれたもの"だなんて、思いたくない。
「俺は俺の意思で、ここに居ます。
それを"仕組まれていた"のひと言で片付けて欲しくはない。
今も、これからも。俺は俺の意思で動きます。
例えあなた達の思惑通りであろうと、それはただの偶然に過ぎない。」
「い、 伊上さ…」
「勝手にやらせて頂く。」
俺はそれだけ言うと、立ち上がる。
これ以上ここに居ても、むかつくだけだ。
一礼して、玄関に向かった。
宮丘さんは慌てて追ってくる。
後ろの方で橘さんだろう、
大きめのため息が聞こえた。
「待ってください、気分を害してしまった事は謝ります。
ですが…」
「 創静、もういいだろ。その辺にしとけ。」
俺の腕を掴んだ宮丘さんの腕を、
橘さんが掴んで払った。
まさか橘さんがそんな事するとは思ってなくて、
俺は振り向いたまま立ち止まった。
宮丘さんの表情には、どこか焦りを感じた。
この人は何をそんなに、怯えているのだろう。
「話さなければならない事は話しただろ。」
「そう、だけど!」
「落ち着け。ここで焦っても仕方ない。」
さっきまでとは立場逆転。
橘さんが宮丘さんをなだめている。
きっと2人はこうして支え合って来たのだろうと、
ぼんやりそんな事を思った。
…そう思ったと、同時に。どうして。
「どうしてその関係を、
紫乃さんと築こうと思わなかったんですか。」
不意に、零れた言葉だった。
橘さんは驚いた顔で俺を見た。
宮丘さんはより一層顔色が悪くなり、
傷付いたような顔をしていた。
だって、そうだろう。色々言ってはいたが、結果。
宮丘さんは逃げたんだ。
紫乃さんの前から、逃げただけ。
「あ、あなたに、何が分かる?!!」
「っ!」
「本当に大切な人の人生をっ、自分が狂わせてしまったと!
そう気付いた時の恐怖が、!あなたに分かりますかっ?!」
綺麗事じゃない。
宮丘さんから溢れた、素のままの言葉。
さっきまでは紫乃さんのためだってばかりだった。
少し見えた気のする宮丘さんの本音。
「その恐怖から逃れたくて、離れる事を選んだんでしょう?
言い方が違うだけで所詮は自分が可愛かった。
それ以上罪悪感に押し潰されるのが怖かった。違う?」
「っ!…そ、それは、」
宮丘さんは言葉に詰まる。
この人はまだ、分かっていない。
…声に出さなきゃ、伝わらないんだよ。
声にならない言葉を、心で強く唱える。
宮丘さんにはまだ、"言葉に出来ていない事"がある。
俺は深く息を吸い込む。ゆっくり、声を出す。
「 宮丘さん、言ってください。
あなたの、あなた自身の事を。」
「…っ。」
宮丘さんは言葉を詰まらせたまま、
力なくその場に座り込んだ。強く、唇を噛み締めながら。
橘さんは、何も言わない。
それは俺が"闇雲に言っている"訳ではないと分かったから。
「…怖かった。 紫乃の絵が見れなくなるんじゃないかって。
昔から、1番近くで見てたから。
僕にとっての"絵"は紫乃の絵だけ。
なのにもし自分が原因でって…。そんなの死んでも、死にきれない。
だったら自分が生きて、見守ってあげられるうちに、
どうにかしないとって、必死だった。」
「 宮丘さん…。」
「誰より、あの子の幸せを願っていたはずなのに。
気付いたら自分のせいで、誰よりも幸せから遠ざけてしまったって。
自分が何より憎くて、悔しくて…」
きっと1人で苦しんで、悩んで。
そうして見つけた、最善策。
橘さんが何も言わず協力していた理由が少し、
分かった様な気がした。
ただ俺は、理解は出来ても"共感"は出来ないけど。
「…今日はこれで失礼します。
色々好き勝手に言ってすみませんでした。
俺は俺で、やらせてもらいます。いいですよね?」
「…。」
「…送る。」
宮丘さんは何も言わず座り込んだまま。
見かねた橘さんは宮丘さんを無理やり立たせ、
ソファに移動させてから駅まで送ってくれた。
移動中は特に話す事もなく、車内は静かだった。
駅に着いて車から降りようとした時、
橘さんは口を開いた。
「お前が何をしようがどうでもいいけど。」
「…。」
「 創静の"頑張り"を無駄にする様な。
気持ちを踏みにじる様な事したら…分かるよな?
関わるんなら、腹くくれよ。中途半端は許さねぇ。」
今までで1番、冷たく鋭い眼力。
俺は黙ったまま車から降りて、一礼した。
橘さんはそのまま、去って行った。
俺はただ、車を見送った。