9時、塔の最上階へ!
扉の先では、地下水路へ入るまでの空とは随分表情を変えた景色が広がっていた。
透き通る青色の空に、高く悠然と、若しくは低く快活に、どこまでも雲は続いていく。
鮮やかにグラデーションのかかった青、そして目を見張るほどの奥行きを感じさせる雄大な雲は、この音楽祭の為にわざわざ用意されたかのようにも思えるだろう。
その景色を特等席で見ることのできる兄妹がどれほど幸運なのかを、大空はただただ物語っていた。
──しかし、その特等席には既に先客がいたのだ。
「…誰?」
純粋な疑問から漏れたアンナの声でその先客は振り向いた。
「…な!い、いつからそこにいらっしゃったのですか?」
「いつからと言われると、今と答えるが…」
「ふぇ、あぁ、そうでございますか…」
先客の正体は少女だった。よく手入れのされた白い髪を結わき、如何にも肌触りの良さそうな白のワンピースを着ている。
身につけている物や丁寧な言葉遣いから、ライトは直感的に貴族階級の者だと察した。
「…貴女もこの場所を知っているのですね」
突然畏まったライトに「ブフッ」と、アンナは吹き出した。
「あぁ、いえ、ここには初めて来ましたの。だから帰り方がわからなくて…。この塔、出入口の扉が開かなかったでしょう?仕方がないので登ってきたのですが…」
アンナは「え、そうなの?」という顔をしたが、ライトは構わず「そうですね」と話を続けた。
「あ、申し遅れました。私の名前は──」
「あーーーーー!!!!ステージは!!?今何時!!!?」
少女の声を遮ってアンナは塔の外側へと走り出した。
「どこ!?どの方向!?」
キョロキョロと街を見渡すアンナ、次の瞬間、遠くにある別の塔から9時を知らせる鐘が鳴り響いた。
「アンナ!こっちだ!」
反対側でライトがアンナを呼んだ。すかさず兄の方へ駆け出し再び街を見下ろす。
「──きれい!」
それは丁度ステージを覆っていた布が取り払われた瞬間だった。
同時に、アンナは特設のステージに釘付けになった。新緑を彷彿とさせる樹をモチーフにした土台の上に、まるでシルクのようにうねる銀のステージ。アンナは、今は時が止まっているだけで、数秒後には風に舞い上がって何処かへ飛んでいってしまうのではないかと、そう思いながら立ち尽くしていた。
「これは凄いな…」
「ええ、本当に綺麗…」
ライトと少女もまた、その芸術品から目を離すことができなかった。
この特設ステージは、当日までその姿を見せることはない。鉄の支柱と白い布によって、国民を祭当日まで焦らし続けていたのだ。
「──あんな素敵な場所で演奏ができたらどれ程幸せなのでしょうか」
少女の蒼い瞳は輝いていた。
「そうだな…。あ、そうだ、俺はライト、でこいつが妹のアンナ。…えっと、貴方は──」
「リオです。リオ・ルイフィスと申します。どうぞリオとお呼びください」
「あぁ、リオ…、り、ん?」
風の音でよく聞こえなかったのだろうか、それとも偶然にも同姓同名だったのだろうか、聞くはずのない名前が耳に響いたライトは、聞き間違いだと確信しもう一度名前を聞いた。
「えっと、リ…なんでしたっけ?」
「“リオ”です。リオ・ルイフィスと申します」
風も止み、さらに先程よりはっきりと名前を告げてくれた少女の声は、全くもって聞き間違いなどではないとライトに悟らせた。
「────!」
「えええええええ!!お姫様なの!!!!」
驚きのあまり声の出ないライトの代わりを務めるかのように、アンナは目一杯の驚きを見せた。
「私のことを知っているのですか!?街に赴いたのは今日が初めてなのですが…!」
「い、いや、街に来ようが来まいが、貴方の存在は、国民なら誰でも…」
後ずさるライト、それとは対照的にアンナは目の前にいるお姫様をまじまじと見つめる。
「ねえねえホントにお姫様なの!?どうしてここに来たの!?1人で来たの!?これから街に出るの!?」
「そ、その、ええと、色々と、複雑な事情がありまして…」
アンナの質問責めに遭うリオは、困っているというよりはどこか後ろめたい気持ちがあるような雰囲気をライトに感じさせた。
「もしかしてあんた…」
街に下りることのなかった姫が、あろうことか1人で繰り出すなどあるはずがない。まず想像がつくのは──、
「城から、逃げ出してきたのか!?」
ギクッとした表情をリオはあからさまに見せた。
「な!逃げ出すなど!人聞きの悪いことを言わないでください!ちょっと祭の様子を見にきただけです!」
「なら護衛がついてるはずですが、どちらに?」
「き、今日は、特別にいないのです…」
「そんなことがありますか」
「あ、あり…」
「ます」とはどうしても口にできなかったリオは、結局城から抜け出してきたことを素直に白状した。
「…つまり、12歳になり自分も音楽祭に参加できると思っていたら今年も城で留守番しろと言われて腹が立って抜け出したと」
「『留守番しろ』なんてキツイ言い方お母様はしてません!」
「いやどこにつっかかってるんですか」
この少女はどうやら正真正銘のお姫様らしく、複雑な事情もとい言い訳をライトとアンナは長々と聞かされたのである。
「ねえねえ、リオさまがお留守番してって言われたのって身体が弱いからじゃないんですか?」
「おま、そういうことは言うんじゃ──」
「『身体が弱い』って…私がですか?そのようなことを告げられた覚えはないのですが…」
それを聞いたライトは何かを察した。
「…!まさか今まで悟らせないように…」
「なになに兄貴、どういうこと?リオさまびょーじゃくじゃないって!」
「お前はたった今、城の方たちが懸命に隠してきた事実を晒してしまったことを反省しなさい」
「いーみわかんないんだけど!だからどういうことだっての!!」
どうやらライトは、リオは病弱故に激しい運動ができず、それを悟られないように城全体で今まで上手く隠してきたのだと解釈したようだ。
「リオ殿下、お言葉ですが、直ぐに城に戻られた方がよろしいのではないでしょうか」
そう言うライトの瞳は最早憐れみを表していた。
「い、いやです!折角ここまで来たのに!どうせ怒られるなら、目一杯楽しんでからでなくては納得できません!!」
あ、怒られるのはわかってるんだ。と、リオの素直さに少し感銘を受けたライト。
「そーだよ!!祭をちょっと楽しんでからごめんなさいしにいってもそんな違いないって!」
そして何故かリオの肩を持つアンナ。ライトはちょいちょいとアンナを引っ張って耳打ちする。
「お前わかってるのか、王族の脱走に加担することになるんだぞ?立派な犯罪だからな」
「脱走じゃないって言ってたよ?」
「実質脱走だってことに気づけ。というか、場合によっては俺たちが連れ出したことになるかも」
「そうなるとどうなるの?」
「最悪…処刑だな」
「しょけいーーーー!!!?」とアンナは叫んだ。それを聞いて、会話に入らせてもらえないリオは何の話ですかと心配そうに寄ってきた。
「な ん で も な い で す。お前はもう少し静かに聞けないのか」
「ご、ごめんって。でも兄貴、それが本当ならすっごくまずくない!?」
「だからさっきからそう言ってるだろ。わかったらとっととこいつを城に帰らせて祭に戻るぞ」
「な!今私を城に返すとかなんとかおっしゃいましたね!そうはさせませんよ!」
「ちょっとあんたは黙っててください」
その後、ライトとリオの口論が続き、段々会話も収集がつかなくなってきた。街では既にアマチュア音楽家による演奏が聞こえ始め、その音色は塔の最上階にも届いていた。早く街に下りたいとの焦りも相まって口論は熱を帯びていく。
「わかりました!!そうですかわかりました!!いいでしょう!!このまま私は城へ帰りましょう!」
「そうですねそれが宜しいかと思います!!」
先に折れたのはどうやらリオのようだ。
自分がしてしまったことへの後悔や、周りの者に迷惑をかけてしまう申し訳なさは、箱入りのお姫様には耐え難いことなのだろう……
「そして城へ帰った後お母様に『ライト様とアンナ様が私を連れ去った』と言いつけてさしあげます!!」
「────!!」
やられた!!
否、こんなものはただの脅しだ。自分と家族の身を人質に取られては、何もできないではないか。
「さてと!では私は城へ戻りましょうかねっ!」
「あんた…卑怯だぞ!!」
「な、何のことでしょうか…。ああ、もしも御二方が今日街を案内してくれると言うのならばこのような告げ口はしないのですが…」
「な!街案内なんて最初は言ってなかっただろ!というか、そんなことしたらそれこそ捕まるんじゃ」
「祭りの最中に見つからなければいいんです」
そんな無茶な、とライトは肩を落とす。
ところで、すっかり忘れさられているがライトの横には全く会話に入らせてもらえないアンナがいた。ライトとリオが2人で口論しているお陰でアンナは全くもって暇だった。
『何か言った方がいいのかな?』と思ってみたところでろくな言葉が出てこないし、恐らく何か言ったとしても兄に「余計な事言うな」とどやされるだけだという結論に至ったため黙りこくっているようだ。
そんなアンナだが、初めはそれこそ“しょけい”という言葉にビビり、リオ殿下に城におかえりいただこうと願っていたが、時間が経つにつれ自分の欲望にも素直になり始める。目の前に憧れのお姫様がいるというのに、ここでお別れなんかヤダ!といった具合である。
『くーちゃん。アタシ、どうすれば良いと思う?』
このような場合、アンナはぬいぐるみのくーちゃんに相談するのである。いわゆる自問自答である。
『アンナちゃんの気持ちはなんだクマ?』
『アタシは、リオ様と一緒に音楽祭に行きたいけど、でもしょけいされるのはいやだ…』
『アンナちゃん…。良いこと教えてあげるクマ』
『なあに?』
『どっちを選べば後悔しないかなんて、誰もわからないクマ。どっちも後悔する結果に終わることだって沢山あるクマ』
『そんなぁ』
『だったら、せめて今だけは、後悔しないようにするんだクマ』
『…!』
『今と未来どっちも後悔するよりは、今後悔しないで、後で後悔する方が全体で見ればハッピーだクマ』
『…その時その時の1番ハッピーな選択が大事ってこと?』
『そういう事だクマ』
『くーちゃん…。アタシ、わかったよ。ちゃんとわかったよ!!』
アンナは決意を固めた。長い茶番の果てに答えを見つけたのである。
アンナは突然ライトの正面に飛び出したかと思うと、思いっきり息を吸って叫んだ。
「兄貴!やっぱりあたしはリオ様に街を案内するのに賛成!!だって今までずっと城の中で暮らしてきたんだよ!?音楽祭初めてなんだよ!?初めて記念日なんだよ!!?それをちょっと出て帰ってくるなんてあんまりだよ!!悲しくてだんまりだよ!!大丈夫!バレないようにコソコソ移動すればいいの!今日はあんなに人がいるんだからお姫様が1人や2人紛れてても絶っっっっ対にバレないんだから!!!!」
「いや…バレるだろ……」
リオの肩を持ちたいのか、それともとっとと音楽祭に参加したいだけなのか、ライトは何故妹がここまでがっついてくるのかを理解できずに、ただその勢いに押され後ずさりした。
「アンナ様…」
アンナの言葉にリオはちょっとうるっとしている。
「もし、兄貴がダメって言っても、そん時は、アタシが案内するんだから!」
「アンナ様…!!」
アンナの優しい?言葉に、リオは深く感銘を受けた。というか既に泣いている。このお姫様ピュアピュアである。
「う、うぅ…」
結局、アンナの熱弁が決め手となり、ついにライトの方が折れたのである。
「あーーー!わぁーった!わかったよ!!祭を一緒に回るでいいんだな!?」
「…!いいのですか!」
「あんたが言ったんだろ…。でも、やばいと思ったらあんたを置いて逃げるからな。それと、絶対に俺たちが連れ去っただとか変なことは言わないこと。それは守ってもらうからな」
呆れと怒りを半々に込めてそう伝えたライトに、リオは口角を上げてうんうんと頷いた。
「やったー!!お姫様と音楽祭!!」
事の重大さを結局理解できなかったアンナも便乗して喜びを示した。
胃が痛いのはライトだけだった。




