十五分の恋路
私は平凡な高校生である。
この世界における様々な政など対岸の火事に過ぎないと高を括っており、その志は例えロンギヌスの槍をもってしても破られることはないだろう。人生15年間、実益のある事など微塵もせず不毛な毎日を送り続けた私には、どのような処置を施しても後の祭りなのだ。
そう高を括っていたのは高校に入学して直ぐの四月の事。
甘酸っぱい“青春”を味わう事を夢見て…中には異性との戯れ合いを思い描いていた健全な男子諸君もいるのだろうが、どうであれ高校生活を掴んだ諸君はまず初めに、頭の裏に沸く淡い色の夢をぶち壊される事だろう。
そこには男子諸君が思い描く青春など全く存在せず、寧ろ理不尽な世界の使い魔達…我々を陥れる罠や苦行…が跳梁跋扈して我々を邪魔し続ける世界があるのみである。
私はそこまで馬鹿ではない。こうなる事を予期し、他人との交流は比較的避けるように尽力し続けていた。勿論その他の臨機応変な対応も欠かさず行った。私は今の私が持てる万全の策を施したのだ。
その結果、私を取り巻く環境にはドス黒い静寂と光り輝く一冊の本しか残らなかった。
大方は今私の目の前にあるこの本が原因である。
私は古くから絵画を趣味としてきた。幼き頃は才能を存分に発揮し、絵画コンクールに出場すれば毎度の如く金賞を勝ち取った。それもこれも全ては父のおかげ…父は有名な水彩絵師であり、風景画において日本で父の右に出る者はいないと言われている。私はそんな父の持つ天賦の才能を引き継ぎ、絵画における絶対的な権力を手にしようとしていた。
しかし、いつからか私の絵は邪悪な道へ進み始めた。運動や異性との交流、同性との猥談、何もかもを捨てて、私は“サブカルチャー”なるコンテンツに没頭したのだ。
“ヲタク”という言葉を浴びせられ罵詈雑言、非難を一身に受けたのもその頃であった。
「何故認めてくれないのだ」
“天才絵師”という過去の私の群雄を振り返りながら枕で涙を拭う事を繰り返し、そうしているうちに自分自身すら信じられなくなり、疑心暗鬼、暗中模索のまま生き続けてきた。
そんな今の私には、何もかもが灰色の世界なのだ。
これが大雑把な私の過去である。
ちなみに私について説明しておくと、体は蝋燭のように白く痩せ細っており、顎は禿げ、目は魂を失っているといっても過言ではない。黒髪は耳と眉に被らない長さでキッチリと揃えられている。黒く染まった学ランはそんな私にとって正にベストマッチであり、私の清潔で純粋な人柄が黒によって更に引き立てられている。身長174.6cm体重52.8kg、裸眼は右目0.9左目0.3の近眼。栄養不足かつ過多の運動不足。
私のステータスは概ねこんな感じだ。
さて、話を戻す。
昼休み、意義のない学生生活を送らざるを得なくなった私はいつもイラストの勉強の為に本を読んで過ごしている。
その日もいつも通り、机に座り本を読みながら、長い長い昼休みの20分が過ぎるのをひたすら待ち続けていた。
その時、ふと机の上に紙が置かれているのに気がつき、私は何の疑いもなくその紙を開いた。内容はこうだ
「放課後、屋上に来てください」
宛名のない簡潔な一文だけが紙には表記されていた。しかしそれだけで、私は暴れ馬に心を乗っ取られたかのように震え出した。
「何故震えるのだ…」
止めようとしても止められない震えだった。
葛藤しても仕方がない。
私は自分の本心と下心に従い、屋上に向かう事を決心した。
学校生活が始まって一ヶ月が経とうとしているのに友達が皆無だという事実が私を後押ししたのは否めないが、それ以上に私は期待していた。そう、異性との交流に花を咲かせられるかもしれない!…と、一人いきり立っていたのだ。
恥ずかしい話だ。
ガチャ…
屋上のドアを開けると、私の視線の先に一人の女性の姿があった。おそらく、彼女が手紙の主だろう。
私はわざと激しくドアを閉めた。その音で、女性はこちらに振り向いた。
美しい女性であった。
黒髪を屋上の風に靡かせる姿は正にかぐや姫を体現したかのようであり、知的な目と右目下の黒子、エロスな唇に制服越しに分かるスタイルの良さ…頭の先から足の先まで、私にとっては完璧な理想の女性だった。
素晴らしい…まさに芸術である。
「こんな所に呼び出してしまってすみません…実は頼みがあるのです」
私が長い、永い時間をかけて女性を見定めている内に、女性は的確かつ迅速に私を呼び出した理由を伝えた。張りのある声と恥じらいを伴った容姿端麗なその姿はまさに国宝である。
「何の用なの?」
と聞き返す私、その鼻の下は完全に伸びきっていたと自覚できた。
「驚かないで聞いてください…」
女性は一歩前に歩み出た。その距離約一寸ばかりであろうか…私の胸の鼓動はスネアを打つかのように激しく律儀に燃え盛った。目の前の小さな女性は胸元あたりから私を見上げており、私もそれを見下ろした。頭から足まで、膨らみや窪みは控えめなのに総合的に見るととてつもなく魅力的なライン…理性のタガが緩んで手を差し伸べそうになった。
雪のように白く、可憐な二つの手が私の両手を包んだのはその時だった。
「は⁉︎」
困惑する私など蚊帳の外、女性は私の両手を握り締めながら言った。
「私は、宇宙人なのです!」
驚がない方が無理があるだろう。何故なら、私は目の前の女性の、天性の阿呆っぷりに度肝を抜かしただけだからなのだ。所憚らずに言うと、この女性、知的に見えて頭のネジが一本どころか十本ほど欠けているようだ。
「…帰るわ。今からでも遅くない、ちゃんと精神科医を受診するんだな」
「ま、待ってください!」
呆れを通り越して怒りさえも感じ早急に帰ろうと目論んだが、今度は体を強く引っ張られた挙句涙ぐんだ目を向けられ、断る事もできず、仕方なく話を聞いてやる事にした。屋上には何故か“一つだけ”ベンチが設置されており、そこに二人並んで座った。
ベンチは予想以上に小さく、左半身がべったりと女性と触れ合っていた。それだけで幸せな気分になれたのは…図星だろうか。
まず初めに、私と女性はお互いに名前を呼んだ。女性と呼び続けるのは、何というかこう…何か違う気がしたのだ。私の右隣にいる美しい女性を一目見た時、正にベートーヴェンの“運命”の如く勇ましい衝撃が私の頭を這いずり回ったのだ。例え今日このひと時だけの至福であろうと、私の胸には一生残り続けるだろう。私はそう確信していたし、このひと時を価値あるものにしたかった。
即ち、“運命”を感じたのだ。
女性は「城戸 羽衣」と名乗ったが、
「これは地球での名前で、私自身の本名は…」
と訳の分からない事を付け加えたが、勿論聞き流した。そして
「私は明石 文人だ」
と、簡潔に自己紹介を済ませた。
「文人さんですか…地球では、あまり聞かない名前ですね」
開口一番訊ねられたのは私の“文人”というヘンテコな名前についてであった。説明すると、この名前は文学好きの親が名付けた名前だというだけであり、それ以外に意味を持たない。
それをそっくりそのまま伝えると、何故か
「面白いですね」
とクスクス笑い出すものだから、何とも不思議だと思った。
「そういえば、これ食べてみませんか?」
羽衣は言うと、突然私の方に体を押し付けてきた。肉厚かつ柔らかな肌はチーズフォンデュのように私を包み込み、“男子の欲”なる感情が再び胸の奥で再燃を始めた。
「すみません、中々取れませんので…」
なるほど。どうやら左ポケットに入っている“何か”が中々取れないらしい。確かに、このベンチの狭さ故にポケットから何かを取り出すには体を片方に押し付けるしかない。しかし何なのだこの気持ち良さは…駄目だ、何も考えるな……
「はい、これです」
私の葛藤など微塵も知らない羽衣が取り出したのは正真正銘の飴であった。
「何これ?」
「我々の絆の証です」
絆の証…その言葉は私の心にジンと響くものだった。
「いただきましょう」
「うん…ありがとう!」
心からのありがとうを述べた後、私は羽衣と一緒に飴を頬に含んだ。その飴は甘酸っぱく刺激的な味だった。
「そろそろ昼休みも終わるから、教室に戻った方が良い。私はずっとここにいるから」
手元の時計で既に一時十五分を回っており、昼休みはじきに終わりを迎える。
「ありがとう。寒くないの?」
「平気よ。私は暖かい陽と冷たい風が入り混じる初春が大好きだから」
「そう…」
私は立ち上がって体を伸ばした。暖かい陽が照り添うこの屋上。しかしそこには、冷たい風は皆無だった。
風受けて いずこへ行かむ 初春よ
汝の愛は 忘れじの夢…
「じゃあ、そろそろ行くよ」
「うん」
私は一瞥した後、羽衣に背を向けた。たったの三十分弱、いやもっと短いひと時だったかもしれない。しかし、十年来の親友と別れるような心残りが私の中にはあった。二度と会えない気がする…そう考えると辛かった。
私の体は、見えない何かに憑依されたのだ。
「また、会いたいな」
別れ際に私は言った。素っ気ない癖に感情剥き出しの口調、中途半端は台詞…私もつくづく馬鹿だ。男として失格だ。
「会えるよ」
羽衣は言った。
「私たち、絶対会えるよ」
羽衣の言葉には理論的な信用性など欠片も無かった。だがその顔は自信に満ち溢れ、幾多の可能性を感じた。
そうだ。弱気になっていてはいけない…
「…ありがとう」
「いいや、こちらこそね」
羽衣は天真爛漫な笑顔を盾に私の言葉を打ち砕いた。私は人生で初めて恋をし、人生で初めてフラれた。これからの人生、あの甘酸っぱい飴の味を思い出す度に、私は彼女の顔を思い出すだろう。そしていつか、羽衣に身を包んだ彼女が私の元にやって来る日を待ちながら、私はこれからを生きていく。