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第七幕 第二場

 すべての手はずが整うと、おれは佐藤アカネのいる病室へと向かった。そしてそのドアの前に来ると、スーツのネクタイを正した。そしてそれからドアを叩く。


「どうぞ」佐藤の声が聞こえた。


 おれはドアを開いてその中へと足を踏み入れた。病室のベッドに佐藤はいた。佐藤は病衣姿で頭と右腕に包帯が巻かれている。その顔つきは少しやつれているように見えた。


「蝶野さん!」おれを見るなり佐藤は驚きの声をあげた。「気がついたんですね。よかった心配していたんですよ」


「……どうやらきみは助かったようだね」おれはつとめて平静さを装い、そう言った。「傷のほうはだいじょうぶかい?」


 佐藤は右腕を掲げると、側頭部をさわる。「痛みますけど、蝶野さんほどではありませんよ。刺されたと聞きましたが、そっちはだいじょうぶなのですか?」


「ああ、だいじょうぶだ」おれはお腹をさする。「そこまで深い傷ではなかった。あのときウルフが瀕死ではなかったら、いまごろ死んでいただろうね」


「危ないところでしたね。でも生きていてよかったです。お互いに命拾いしましたね」


「ああ、そうだな」おれはそこでベッドのそばにある椅子に視線を向けた。「すわってもいいかな?」


「もちろんどうぞ」


 おれはゆっくりと椅子に腰掛けた。


「そうだ蝶野さん」佐藤が言った。「あなたに返す物があるんです。忘れる前に渡しておきますね」


「返す物?」おれは怪訝な表情になる。


 佐藤はベッドのそばにあるテーブルの引き出しをあけると、ハンカチを取り出して、それをおれに差し出した。


「蝶野さんからお借りしたハンカチです。わたしの血がべったり付いていたので、ここの看護士さんに頼んで洗濯してもらいました」


 おれはハンカチを受け取ると、それを広げた。中央にぽつんと、赤いシミが残っている。

「……まるで血守りだ」おれはぼそっとつぶやいた。


「ごめんなさい」佐藤が申しわけなさそうに言った。「どうしても完全には落ちなかったみたいで。不十分ですよね?」


「いや、じゅうぶんだよ佐藤さん。これだけでじゅうぶんだ。あとはおれがこれをどう使うか決めるだけだ」


 おれのそのことばに、佐藤は意味がわからない、といった様子で小首をかしげる。


 おれはハンカチをたたんで胸ポケットにしまうと、佐藤に視線を据えた。はやる気持ちを押さえろ、と自分に言い聞かせて自制する。佐藤がほんとうに未だ記憶喪失なのか見極めなければならない。それは生き残ったおれの使命だ。


「よく生き残ってくれた佐藤さん」おれは頭をさげた。「もしきみまでも死んでいたら、おれはだれひとり守れなかった無能になるところだった。ほんとうにありがとう」


「やめてください蝶野さん」佐藤はとまどっている。「頭をあげてください。それにお礼を言うのはわたしのほうです。あのとき蝶野さんが、わたしのもとにやって来なかったら、わたしは殺されて死んでいたのかもしれないんですよ。だからお礼を言うのはわたしのほうです」そこで佐藤も頭をさげた。「ほんとうにありがとうございます」


 お互いに礼を言うと、頭をあげた。お互いの探るような視線が交差する。


「事件のときは、ほんとうにごめんなさい」佐藤が言った。「わたし佐藤さんが警察だと信用できなくて逃げ出したりなんかして」


「それはしかたがないよ」おれは明るい口調で言った。「きみは記憶喪失で混乱していたし、それにあのときのおれは刑事ではなかったしね」そこでスーツの内側から警察手帳を取り出すと、佐藤によく見えるように掲げる。「けどいまこうして警察にもどれた。きみのおかげだよ佐藤さん。きみの証言がおれを警察にもどしてくれたんだ。感謝するよ」


「いえ、そんな。わたしはただ刑事だと名乗った蝶野さんが助けてくれたと、事実を言っただけです。感謝されるほどのことでは、ありませんよ」


「そんな謙遜しなくてもいいよ。きみには感謝しかない」おれはそこで声の調子を落とした。「ところで佐藤さん、未だに記憶喪失だと聞いているが、それはほんとうかい?」


「ええ、残念ながらほんとうです」佐藤の表情が曇った。「なのでいまだによくわからないことだらけで、困っているんですよね」


「……そうか、それは非常に残念だよ」おれはわざとらしくため息をついた。「今回の事件、警察も手を焼いていてね、おれが知る情報だけでは、事件の真相はわからないんだ。だから佐藤さんに期待していたんだが……わからないよね?」


「そうなんですか」佐藤は困り顔で頭の傷口にふれる。「わたしも必死に逃げまわっていただけなので、くわしいことは何もわからないんですよ。協力したいのはやまやまなんですが……」


「でもまあ、きみの場合はしかたがないよ、佐藤さん」おれは笑顔を繕う。「いまは傷を治して、記憶を取りもどすことに専念するんだ。それに事件解決に至らなくても、きみの証言はじゅうぶんに役に立っていると、おれの上司は言っているよ。だからそう落ち込まないで」


「……そう言ってくれてありがたいです」佐藤は苦しげな顔つきになる。「少しでも早く記憶を取りもどして、警察のみなさんに協力できればいいんですけど……だけど自信があまりありません。お医者さまの話ではいつ記憶がもどるかわからないうえ、もしかしたら一生このままかもしれない、とのことでした」


「そうか……それはつらいな」おれは悲しげな表情を作る。


 佐藤は静かにうなずく。「けど、いつかは絶対に記憶を取りもどしてみせます。そうじゃないと、今回の事件で死んでいった人たちに申しわけがありません」


「そう言えば知っていたかい、佐藤さん?」おれはそこで口調を鋭くさせる。「今回の事件の被害者はグリム王国で亡くなった十一人だけではなく、十二人だってことをさ」


 一瞬、佐藤の表情が張りつめた。だがすぐにもとにもどる。


「はい、知ってますよ蝶野さん。ニュースで見ましたから。長谷川ヒロユキがウルフに殺害されていたんですよね」


「ああ、そうだ」おれはゆっくりとうなずく。「長谷川氏はグリム王国で事件が起きる数時間前に殺害された。その刺し傷がウルフの持っていた刃物と一致したよ」


「……おそろしい」佐藤は心底怖がっている様子だ。「どうしてそんなことができるの?」


 佐藤はそう言うと、涙を拭く仕草を見せる。ついで鼻をすすった。いまにも泣き出しそうな雰囲気だ。


「もう事件の話はやめよう」おれは提案する。「おれが悪かった。まだ事件から日も経っていないというのに、こんな話をするべきじゃなかたよ」そこでひと息つく。「そうだな。もっと別の明るい話題でもしようか」


「……そうですね」佐藤は小さくうなずいて同意する。


「佐藤さん、きみのことを教えてくれよ」そう言うと、おれは問いかける。「きみが好きなグリム童話は何だい?」


「グリム童話ですか?」佐藤は思案気な表情になる。「そうですね、いろいろありますけど……やっぱりシンデレラかな。けどいまではその名前を口にすると、少し憂鬱な気分になりますね」


「それはしかたがないよ」おれはさも同情するかのような口調で言った。「でもまあそっちのほうは置いといて、きみがシンデレラを好きな理由を教えてくれないか」


「苦しく惨めな生活をしていたところに、救いの手が伸びて王子さまと結婚する」佐藤は少しさみしげに笑う。「女の子だったら一度はあこがれる物語ですよ。だれだってすてきな王子さまと結婚したいものですからね」


「なるほど」おれは感心したかのようにうなずいた。


「今度は蝶野さんの番ですよ」佐藤が手でジェスチャーする。「教えてください、あなたの好きなグリム童話を」


「おれは金の鍵だ」


「金の鍵?」佐藤は眉をひそめた。「なんですかそれ? 聞いたことがありませんけど」


「だろうな」おれはくすっと笑う。「おれもつい先日まで知らなかったよ。二百話あるグリム童話のうち、いちばん最後のお話さ」


「いったいどんなお話なんですか?」


「ある冬の寒い日に子供が薪を拾いに行くんだ。すると子供は偶然にも金の鍵を見つける。それからその子供はどうすると思う?」


「さあ?」佐藤は肩をすくめた。「わたしにはわかりません」


「鍵が落ちているのなら、それに合う物がここにあると思って地面を掘るんだよ。そしたら小さな箱が出てきた。その箱には鍵穴があって、しかも子供が持っていた金の鍵とぴったり合うんだよ」


 おれはそこまで言うと無言になる。


「蝶野さん?」佐藤が首をかしげる。「それからお話はどうなったんですか?」


「それで終わりなんだよ。箱の鍵をあけたところで物語は終わりさ。だから子供が何を見つけ、そしてそれからどうなったのか、だれにもわからないんだ」


「えらく中途半端に終わるんですね」


 おれはうなずいた。「だからこそ切なくて印象深く感じられる、とおれにその話を教えてくれた女性はそう言ったよ」そこで口元をぬぐうと微笑んだ。「その先は読む人の想像にまかされる。だからこそグリム兄弟はこのお話をグリム童話の最後にしたんじゃないか、とも言っていたがね」


「そんなふうに言われると、とても興味深い話ですね」佐藤は関心した様子だ。「蝶野さんにその話を教えてくれた女性は、ロマンチストですてきな感性をお持ちなんですね。ぜひ一度お会いしてみたいものです」


「……そうか。おれもきみたちを会わせてあげたかったよ」おれはそこで深くため息をついた。「でも遠くに行ってしまったので、なかなか会えることはできない」


「そうでしたか。それは残念です」


「なあに、いつか会えるさ……」


 不意に会話が途切れ、沈黙が訪れた。お互いただ静かに相手を見つめる。時計の音がやけに大きく聞こえた。


「……そうだ忘れるところだった」おれはスーツの内側に手を入れるとスマートフォンを取り出した。「きょうここに来たのは、事件の話をするためでも、くだらないおしゃべりをするためでもない。上からお使いを頼まれてね、現場で見つかったこの電話、佐藤さんの物でしょう。確認してもらえるかな」


「わざわざありがとうございます」佐藤はスマートフォンを受け取ると電源を入れた。「すぐに確認しますね」


「……それでどうかな」おれはつとめて冷静に言う。「このスマホはきみ本人の物でまちがいない。まちがって他人のものだったりはしてないよね?」


「ちょっと待ってください」佐藤はスマートフォンの画面をいじっている。「はい、わたしのスマホです。まちがいありません」


「ほんとうにまちがいないの?」


「はい、ちゃんとわたしのデーターがはいっているし、アプリもちゃんとわたしが——」


 佐藤はそこではっとすると、指を止めてこちらに真顔を向ける。そんな佐藤に対しておれも真顔で見つめ返した。お互いの視線がぶつかり合う。


「……そうかやっぱり、きみのスマホなんだ」


「……ええ、わたしのスマホですよ」


「よかったよ。ちゃんときみの物だと確認できて」おれはそこで声を強めた。「それにしてもよく暗証番号がわかったね?」


「あっほんとうだ!」佐藤はいまはじめてそれを知ったかのように、驚きの声をあげた。「わたしパスワード解除している」


「どうして記憶喪失なのに解除することが、できたのかな?」おれは穏やかな口調になる。「もしかして記憶がもどっているんじゃないかな?」


「……いえ、記憶はもどっていません」佐藤は困惑したかのように頭の傷に手を添える。「けど気づいたら、いつのまにか自分でもわからないうちに、無意識に解除してたみたいです」


「無意識か……」おれは微笑んだ。「驚くに値しないね。記憶喪失のピアニストが記憶を失っててもピアノが弾けるように、きみは日常生活においてそのスマホの暗証番号を毎日何度も入力していたにちがいない。その動作を体が覚えていて、無意識に解除できたとしても、それはおかしくはないさ」


「たしかにそうかもしれないですね」佐藤は不思議そうにスマートフォンを見つめている。「こんな偶然ってあるもんなんですね」


「偶然か。おれにとってはもはや聞き飽きたことばだな。それは」


 ふたたび会話が途切れた。おれは何も言わずに穏やかな笑みを浮かべた。相手もそれに呼応するかのように、おだやかに微笑んでいた。だがその微笑みにはどこか影があるように思える。


 佐藤はため息をつくと、おれに視線を向ける。「……蝶野さん、事件の話をしてもいいでしょうか?」


「きみさえかまわなければ、いくらでもどうぞ?」


「今回の事件で十二人の人が亡くなったと言いましたね?」


「ああ、言ったよ」


「では蝶野さん、ここでなぞなぞです。ひとりも殺さず十二人を殺したのはだれでしょう?」


 おれはわざとらしく腕を組むと、さも気難しそうに考えるふりをする。最初から答えはわかっている。


「……むずかしいな」おれは肩をすくめた。「そのなぞなぞの答えをおれは知らない。降参するよ」おれは両手をあげた。「その答えを教えてくれよ佐藤さん」


「あなたが答えてくれれば、全部終わらせるつもりですよ。わたしは今回の事件で大切な希望を失いましたから。だからこの先どんな人生でもかまいません」


「佐藤さん、悪いがおれは答えを知らない」おれはそう言って立ちあがると、スーツの内側に手を入れ、隠し持っていたそれを手にして構えた。「だからこいつですべてを終わらせることにするよ」


 おれはスーツからそれを取り出すと、佐藤の顔面に向かって突きつけた。その瞬間、佐藤は観念したかのように静かに目を閉じると、さみしげに微笑んだ。しばしのあいだ、お互いに動かない。


「何しているの佐藤さん?」おれはやさしい声音で言う。「ちゃんと目をあけてよ」


 佐藤はゆっくと目をあけると、おれが突きつけたそれを目にして困惑している。「……ビデオカメラ?」まじまじとそれを見つめると、くすっと笑う。「てっきり拳銃だと思っていましたよ」


「これをきみに渡してくれと頼まれた」


「いったいだれからです?」


「観ればわかる。そしてそのあとどうするかは自分で決めろ。きみが自分で考えて行動しなくてはならない。おれはいっさい口をださないから」


 佐藤はビデオカメラを受け取ると、しばしのあいだそれを怪訝そうに見つめていた。


「……それじゃあ、おれはもう行くよ。さようなら佐藤アカネさん。元気でね」

 そう告げると、おれは病室から立ち去り、佐藤をひとりっきりにした。

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