第一幕 第二場
「——ちゃん。お兄ちゃん起きて。まだ寝ているの?」
まどろむ意識のなか、妹の声が聞こえてきた。その問いかけに返事をしようにも声が出ない。
「ねえ、起きてよお兄ちゃん。早く」
なんとか目覚めるために、意識をはっきりさせようとつとめる。だがしかし、奇妙な疑問のせいで集中できない。どうして妹がおれを起こそうとする。たしかおれは車を運転してて、それで猫を避けて崖下へと転落したはず。
……だとしたらおれは死んだのか? 目的も果たせず、こうもあっけなく。
そう思うと怒りが込みあげてきた。くやしさからこぶしを握ると、鋭い痛みが走った。それが意識を強制的に覚醒させ、まだ自分は死んでいないと告げる。
ゆっくりと目をあけた。だが暗くてよくわからない。体の感覚をたよりに現状を察するに、おそらくエアバックが作動し、自分はそこへ、体をくの字を書くようにして突っ伏しているようだ。顔に感じる、しぼんだ風船のような感触からしてまちがいなだろう。
上体を起こすと、体のあちらこちらから痛みの悲鳴があがる。その声からなんとか意識をそらしつつ、どうにか体を起こした。ただそれだけのことなのに息が荒くなる。
周囲の状況をたしかめる。あたりは真っ暗でよく見えない。事故の衝撃で車のヘッドライトは壊れてしまっているようだ。月明かりを頼りに目を凝らすと、割れたフロントガラスのおぼろげな姿が見てとれた。そこからひんやりとした空気が流れ込んでくる。
それらの情報をもとに、頭のなかでルームランプのだいたいの位置を思い描き、そこへ手を伸ばした。そして壊れていないことを祈りつつ、スイッチを押す。
すぐにルームランプの明かりが車内を照らした。まるで巨大な洗濯機でかき回したかのように散乱する荷物に、細かく飛び散った窓ガラスの破片が事故の衝撃を物語っている。
にもかかわらずバックミラーは奇跡的に無事だった。ヒビのひとつもはいっていない。
おれはそれをつかむと角度を変えて、自分の顔をたしかめる。そこに映っていたのは、無精髭を生やした堅苦しい顔つきをした男だ。いつもなら整髪料で後ろへと流れるようにしてまとめられていた前髪は乱れ、その一部は額にかかっている。左ほほに切り傷があり、そこから血が流れていた。
「……ひどいつらだ」
ほかに怪我していないか入念に顔や頭をたしかめる。ほほの傷以外に外傷は見当たらない。少しばかりめまいがするが、おそらく事故によるものではないだろう。
ここ最近はろくに眠れなかった。そのせいで疲労し、ひどくやつれている。そのおかげでまだ二十代だというのに老け込んで三十代のように見えてしまう。ふだんなら毎朝ちゃんとするひげ剃りを、おろそかにしてしまったせいもあるだろう。
バックミラー越しにこちらを見つめる自分はまるで刑事ドラマに登場しそうな悪人面で、思わず苦笑してしまう。
「なんて顔しているんだよ、おまえは」
とにかく助けを呼ぼうとシートベルトをはずして、スマートフォンを探した。体を動かすたびに痛みが走るが、耐えられないほどではない。肉体の痛みなど、精神的な痛みに比べれば、どうってことはない。
やがて足下に落ちていたスマートフォンを手にしたとき、その画面を見て愕然としてしまう。画面には大きなひびがはいり、真っ暗だった。画面に触れてもなんの反応もない。電源をいれてもやはりなんの反応も起きない。
「……嘘だろ。壊れているなんて。どうやって助けを呼ぶんだ」
うなだれながらドアをあけて車外へと出ると、スーツにこぼれ落ちていたガラスの破片を払い落とす。それが済むと車の損傷を調べてみる。フロントの三分の一が木にめり込み、左のタイヤがはずれている。あきらかにこの車を動かすことはできないだろう。
あきらめのため息をつくと、おれは自分が落ちてきた崖を見あげる。そこに光はなく、車が通りかかる様子はない。こんな人気のない場所を、こんな夜に走る車があるだろうか。あったとしてもこちらに気づいてくれるだろうか?
……おそらく道路まで五十メートル、いやそれ以上あるかもしれない。車を走らせながら、こんなまがり角の崖下にいる自分に気づかないはずだ。
だとしたらどうする?
傾斜のきついこの崖をいまの自分がのぼるのは不可能だろう。いや、たとえ事故で怪我してなくても、できるかどうかは疑問だ。
おれはしかたなしに後ろを振り返る。そこにあるのは見通しの悪い森だ。できることならここを進むのは避けたい。けど……。
「ここを行くしかないようだな」
覚悟を決めると、車内に散乱して荷物から必要な物を手早く集める。そのなかのひとつである懐中電灯に明かりをつけると、森の中へと足を踏み入れた。