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短編集(恋愛)

黒焦げイモリの呪文

作者: 卯花ゆき

 ある国で森の魔女と谷の賢者が暮らしていて、二人は犬猿の仲だともっぱらの噂でした。



 そんなことは全く知らない当人たち。その片方がどうやら目を覚ましたようです。

 もう、朝鳴き鳥が騒ぎ立てる時刻ですから。



*****



 魔女は朝から鍋を掻き回します。


 ぐーるぐる、ぐーるぐる。


 もうそろそろかなと、魔女は呟き、身の丈程ある大鍋の中を覗き込みました。

 ちょっと口には出せないような、少なくとも食事中の人々の気分を悪くしてしまうであろう材料を投入した液体は底無し沼の色をしており、ぐるぐると渦を巻きながら、不思議なことにだんだんと透明になっていきます。

 そして、ついには鏡のようにピカピカと輝きを放ち始めましたが、そこに映っているのは魔女ではありません。

 鍋の向こうの背中に、魔女は笑いかけます。


「おはよう、賢者さん」

「ああ・・・。おはよう、魔女殿」


 うーんと伸びをした谷の賢者は、口に手を当て大きな欠伸を隠しました。






「また寝坊?だらしがないよ」

「寝坊って…、魔女殿が俺を起こさなければいい話だろう?」


 賢者の表情がげんなりとしたものに変わりました。その髪の毛はあちこちが妙な方向にはね、整えれば綺麗な紺色も艶を失っています。魔女はむっと頬を膨らませました。魔女が声をかけなければ賢者なぞ一日中、下手したら三日三晩眠っているに違いありません。この行為は純粋な魔女の善意によるものなのです。


「ふーん、そんなに言うなら明日から起こしてあげないんだから」

「それは困る」


 賢者が顔色を変えるのを確かめ、魔女は満足しました。一見、口喧嘩のように思えるやり取りも、二人にとってはいつものことだったのです。魔女は昨日も一昨日もこないだの新月の日もこうやって意地悪を言いましたし、賢者は昨日も一昨日もこないだの満月の日も同じ返答をしています。

 魔女は、賢者が同じ返答しかできないことを知っていました。魔女が起こさなければ、賢者は眠り続けて仕事ができませんから。それはもはや賢者ではなく、ただの無職の男です。培った知識を人々の役に立ててこそ、彼は賢者となり得るのです。

 今日も昨日と同じようにこの会話を終了させて、心地の良い一日が始まるのだと魔女は信じていました。だから、賢者の次の一言に思わず目を剝いたのです。


「明日の客は美女だからな」

「び、美女?いきなり何を言うの?」

「言葉のとおりだ。明日の依頼人は他国にその名をとどろかせる令嬢らしい。いつも太った親父やら貧乏くさい餓鬼どもが相手でうんざりしていた所だ。美女が相手となれば俺の気合も入るってもんだ」


 なんて最低な男なのだ。

 魔女は絶句しました。まさか、賢者がこんな低俗な考えを持っているなんて。賢者の風上、いえ男の風上にも置けません。こないだ浮気を隠し通す方法を尋ねに来た男との違いが、魔女には見つけられませんでした。


「君には失望した」

「なんだいきなり」


 賢者は目を点にしました。その間にも魔女は大鍋を先程とは反対に掻き混ぜ始めました。見る見るうちに、液体は元の濁りきった色に戻っていきます。最後に一瞬賢者の声が聞こえてきた気がしましたが、魔女はそっぽを向いて無視しました。


 しばらく起こしてやるもんか。


 すっかり不貞腐れた魔女は、今日の仕事の準備に取り掛かったのでした。





(来ない)


 賢者との連絡を絶ってから今日で一週間が経ちます。魔女は自分から連絡を取ることを一切止め、ひたすら薬の調合や呪文づくりに打ち込みました。そして時々、本当に暇な時だけ、こっそりと大鍋を覗き見てみましたが、とうとう賢者からの連絡の合図を確かめること叶いませんでした。


(薄情なやつだ)


 元々不貞腐れていた魔女は、この事実にすっかりぶすくれてしまいました。今や仕事を放り出し、執拗に大鍋を見つめています。


(来ない!)


 今までの恩を忘れ去り、自分だけ美女と楽しくやっているなんて、魔女に対する侮辱です。言うなれば、王宮騎士団の団員が果たし状をたたきつけてきたに等しいのです。


 決闘です。

 魔女は賢者を血祭りにあげて、その腐った性根を叩き直してやらねばなりません。


 魔女はケープを手に取ると憤然とした足取りで玄関にたどり着き、立てかけてあった細い柄の箒を手に取りました。次いで家の前の小さな空き地に出て、箒を握りしめて意気込み、助走をつけます。肌寒いそよ風が魔女の髪をさらった時には、既に魔女は空の住人となっていました。

 目指すは勿論、賢者の住む谷です。





(全く、何でこんな陰気なところに住んでるんだ)


 自分のことは棚に上げて、魔女はぶつくさ文句を垂れました。実際は、団栗の背比べのようなものですが、怒りに支配された魔女は気付いていません。


「賢者さん、いるんだよね?」


 ガンガンと金属で作られた扉を叩きますが、返事はありません。魔女はいつか賢者が「魔女殿の古臭い家の扉とは違う」と言って自慢したこれが大嫌いでしたので、迷わず呪文で破壊しました。そして目に飛び込んできた光景に、魔女はまたもや目を剝くことになります。


「な、何やってるの…?」


 目の前には床でもつれる男女の姿がありました。一人はこの家の主で、もう一人は真珠のような美女です。

 絡み合う二人。押し倒される賢者。

 状況を理解した瞬間、魔女はゴミ虫を見るような目つきで賢者を睨みました。その頃には賢者も魔女がやってきたことに気付いており、何故か片手を伸ばし助けを求めるような恰好をしています。


「ごめんね気が利かなくて。まさか君が本当にお楽しみ中とは思わなくて」

「誤解だ、魔女殿!こいつとは何の関係もない!」


 すっかり混乱していると思われる賢者は、まるで浮気現場を抑えられた亭主のような言い訳をします。しかし、それが魔女の纏う空気を更に冷たくしたことに気付き、血の気を引かせました。今魔女に呪文をかけられたら一溜りもないことを、賢者はようく理解していましたから。


「ち、違うんだ魔女殿!実は『魅惑の術』をかけ間違えてしまったんだ!」

「ざまあないね。いい気味だ」


 こんな男は懲らしめる価値もありません。自分の拳が汚れてしまうと魔女は賢者に背を向け、とっとと住処に帰ろうとします。しかし、それを見咎めた賢者は必死で縋りました。それはもう、死にもの狂いでした。なんせ彼は一週間もの間、術にかかった美女から己の貞操を守ることで手一杯だったのです。ここで魔女が助けてくれなければ、あとは悲惨な末路が大口を開けて賢者を飲み込むことでしょう。


「頼む魔女殿!術を解いてくれ!」


 魔女は賢者を肩越しにとっくりと眺めました。一週間前と比べて彼の頬はゲッソリ削げ、目の下にはひどいクマが出来ています。さんざん悩んだ末、魔女は賢者を助けてやることに決めました。最も魔女に結論を急がせたのは、美女に口づけを迫られ半泣きになっている賢者の姿でしたが。


「仕方ないなあ。今回だけだよ」

「恩に着る!」

「いつも着てよね」


 魔女は口内で呪文を紡ぎ、今まさに賢者の服をひん剥こうとしている美女に吹きかけました。目をギラギラと滾らせていた美女ですが、次第にその暑苦しいほどの光を失っていきます。そして数十秒後には、すっかり毒気の抜かれた顔をして立ち尽くしていました。きょろきょろと辺りを見回し、半裸で呻いている賢者にギョッとして、一目散に逃げていきます。来る途中で捜索隊を見かけたので、無事に家に帰れるでしょう。


 美女が去った後、ノロノロと賢者が起き上がりました。服は裂かれ、頬にはたくさんのキスマーク。惨憺たる有様です。魔女は少し胸のつかえがとれた気がしました。


「ああ助かった」


 賢者が安堵の息を漏らします。


「君にはいい薬だよ。それに、戻したのはあの娘のためだからね。知らないうちに君みたいな男を襲ったなんて、女性の沽券に係わるよ」

「それはあんまりじゃないか」


 賢者は情けなく眉を八の字にしました。いつもは寝癖で逆立っている髪の毛ですが、今日ばかりは彼の気持ちを代弁するようにしおしおと下がっています。


「君が美女とウハウハしたいとか言うからだろう?」

「ウハウハしたいなんて言ってない。ただちょっと楽しもうとだな……」


 賢者はふと美女が開けっ放しにした扉の先を見つめました。常と変わらぬ陰気な谷の底にため息を吐き、名残惜しそうに呟きます。


「それにしても実に美しい人だった。よく考えたら、あそこまで拒否する必要はなかったのか?」


 まるで賢者まで「魅惑の術」にかかった様に呆けた様子だったため、魔女の額に一本の青筋が浮かび上がりました。ひくひくと口許を引きつらせながらそこから盛大な皮肉を発します。


「へーえ、随分と簡単に惚れるものだね。じゃあ、私が特製黒焦げイモリでも食べさせたら、君は私を好きになるんだろうね?」


 無理やりに笑顔を作った魔女の左手には、ポケットに突っこんできた特製黒焦げイモリが三匹握られていました。これから賢者の口の中に直行する予定のものたちです。


 魔女がイモリを砕かんばかりに握りしめ、振りかぶり、賢者の口に狙いを定めた時でした。賢者がポロリと言ったのです。


「何言っているんだ?魔女殿はとっくに俺に『魅惑の呪文』をかけているだろう?」


 ひどく不思議そうに眼を瞬かせる賢者に、魔女はしばし沈黙しました。


「………何を言ってるの?」

「だって、そうじゃないと俺がこんな風になる理由に説明がつかない」


 魔女には意味が分かりません。ポカンと口を開けたままです。


「え?」

「え?」

「え?」


 二人は揃って首を傾げました。



「…………え?」




*****




 ある国で森の魔女と谷の賢者が暮らしていて、二人の仲はそれほど悪くなかったと、ただそれだけのお話です。






 2時間ぐらいで仕上げました。でも気に入っています。


 暇を見つけて続編を書こうと思っています。

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