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許すことは、癒やすこと

作者: 他紀ゆずる

 高校生の頃、2つ上の先輩に憧れて、勇気を振り絞って告白して、あっけなくふられた。


『僕につきあっている人がいることも知らないんでしょう?それって、顔が好きとかそういう外見だけの好きだよね。失礼だと思わない、そういうの。自分がされたらイヤじゃない?』


 返事をすることができなかった。全部本当のことだったから。

 文化祭実行委員長だった先輩をステージ上で見て、好きになったのが始まりだ。格好いいなって、見た目で好きになった。同じ実行委員だった友達が親切にして貰ったとか、優しいって言うのを聞いてますます好きになった。


 でも、面識はない。話したこともない。でも、2月片思いして、どうしても気持ちを知ってほしくなって、好きって告白した返事が辛辣だけれど、的を射すぎていて。


 あれ以来、恋をするのが怖くなった。




 高校の頃にも合コンの誘いとかはあったし、実際何度か行ったりもしたけれど、どうしても気分が乗らなくて断り続けている内に声もかからなくなったんだけど、大学生ともなると友人が変わる。

 人数合わせとか、付き合いとか、結局断り切れずに渋々顔を出した他校との席に、最も会いたくない人がいた。


「鈴木義人よしと、経済学部の3年です」


 あの頃より線が太くなった印象の先輩は、変わらない柔らかな笑顔で自己紹介する。染めていない少し長めの髪をワックスで無造作にサイドに流し、切れ長の目元は薄い茶色。目鼻立ちのしっかりした長身の彼に、友人たちは色めき立っている。


 自分もああして騒いでいる一員だったな。


 先輩からは一番遠い対角の席に縮まりながら、ぼんやりそんなことを思った。

 彼はきっと私を覚えていない。名乗っても、顔を見られても平気。わかっているけれど、自分が相手を覚えていることが、身を竦ませた。


 あの時言われたことも、すうっと冷たい色を帯びた瞳のことも、記憶に焼き付いて離れない。恐怖と悲しみと自己嫌悪がない交ぜになって、今でも私を怯えさせる。


 いっそ帰ってしまいたかったけど、それはあまりに不審だと必死で思いとどまった。そうしてあの頃ショートカットだった髪が背の半ばまで伸びていること、うっすら化粧をしていることが印象を変えますようにと願いながら、順番に従って名を述べる。


「菊池真紀、英文科の1年です」


 誰とも目が合わないよう、視線を宙に据えて会釈した。それを確認した後、男性側を仕切っていた人の合図で合コンはスタートする。


 今日は4対4の、よくある人数構成だと香奈ちゃんが言っていた。そして彼女の隣にいる仁科さんが、相手校の男の子の目当てだから、飲んで食べて帰ればいいよと、暗に私が人数合わせであることを仄めかしてもいて。

 成る程、開始と同時に男の子達は仁科さんと、香奈ちゃんに一生懸命アピールを始めている。綺麗な仁科さんに可愛い香奈ちゃん。2人がいればもう1人の女の子は知らないけれど、黙っている私に声がかかることはないだろう。


 未だ乱れる鼓動をそう納得することで落ちつかせて、目の前のグラスを取る。飲み物は居酒屋で学生が飲むには珍しいウーロン茶だ。未成年の飲酒はダメだからとか良い子ぶった理由でなく、アルコールは美味しくないら飲まない、それだけだ。ついでに言うなら料理にも合わない。目の前のサラダを取り分けながら、ビールを飲む彼等を見てそう思う。


 苦いものは苦手。喉を焼くものも嫌い。ついでに言うなら、男の人と出会う場所も嫌いだ。

 もう、傷つけられたくない。傷つきたくない。

 ふるのならもっと穏便にふってくれれば、ここまで臆病にはならなかったのにと、少々の恨みを込めて視線をやった先で、先輩は笑っていた。仁科さんと楽しげに話している。


 あの時の彼女とはどうなったんだろう。そんなことを考えながら唐揚げをつまむと、不意に正面の男の人に話しかけられた。


「真紀ちゃん、だったよね?ビール苦手なの?カクテルなら、甘いのあるよ」


 セルフレームのレンズの奥で、瞳が柔らかな三日月を描いている。確か、水口さんていっただろうか。緩くウエーブのある髪と、少々派手目の格好に一瞬引きそうになったが、裏の見えない笑顔がただ気を使っているだけだとわかったので、何とか微笑んで首を振る。


「お酒飲むと、さめる頃に寒くなってきちゃって、味も苦みが増すからあまり好きじゃないんです。すみません」

「あ~わかるわかる。酔い覚めってなんか、寒いんだよね」


 共感してもらえたことにほっとして、それから少し話しただろうか。いつの間にか回ってきた替えの飲み物に口をつけて、止まる。

 これ、カクテルだ。オレンジの味がするけれど、お酒が入っている。

 どうしようかと困惑していると、香奈ちゃんがこれなら飲めるでしょと笑った。


「ほとんどオレンジの味しかしないんだから、平気よ。こういうところでウーロン茶とか、ノリが悪いから辞めなさい」

「う、うん…」


 そう窘めるように言われてしまうと、何となく断れない。確かにみんな少なからずアルコールを取って、陽気に盛り上がっているのに、1人しらふではしらけさせてしまうかも。

 意を決して一口飲むと、水口さんが苦笑しながら大丈夫かと聞いてくれた。


「はい。一杯くらいなら、多分」

「そ?なんならオレがウーロン頼んでそれと替えるから。遠慮なく言ってね」

「…ありがとうございます」


 恋愛恐怖症になってから、異性とこんな風に気安く話したのは初めてかもしれない。厚意からの申し出に小さく頷きながら、少しずつ少しずつ、オレンジ味のカクテルを飲んだ。




「よーし、じゃあ次はカラオケで!」


 居酒屋を出た面々がその声に倣う中、男の子達と一瞬離れた香奈ちゃんの腕を軽く引いて囁いた。


「ごめん、私、帰るね」

「え?」


 ほろ酔い加減の彼女は訝しげにそんな私を振り返り、瞬時に眉をひそめて大丈夫?と聞いてくれる。

 1時間ほど前に飲み干したアルコールが冷め始め、冷や汗と共に歯の根が合わないほどの寒気を感じていた自分は、結構ひどい顔色をしていたのかもしれない。

 普段は勢いで私を振り回すことの多い彼女が、本気で心配そうだったから。


「平気。多分もうちょっとすればましになって、今度は眠くなるの。だから、今のうちに帰るね」


 まだ1人で大丈夫だからと言外にアピールすると、しばらく躊躇ってからわかったと頷いた。


「ごめん。そんなにお酒ダメだと思わなかった。無理させちゃったね」

「ううん。一杯だけだもの。全然」


 申し訳なさそうな香奈ちゃんに首を振って、そっと集団から離れる。

 そんな私に気づく人は、誰もいなかった。さっきまで話していた水口君でさえ、今は仁科さんの隣で楽しそうに笑っている。


 やっと解放された。


 そんな安堵で溜息を漏らした私は、幾分軽くなった足取りで駅へと踵を返す。極力見ないようにしていた先輩には、予想通り思い出してさえもらえなかったし、下心一杯の男の子に絡まれることもなかった。

 考えようによってはいつもより平和だった合コンにそこそこ満足して、冗談抜きにひどくなってきた寒気が悪化しないうちに駅へと急ぐ。


「待って」


 もう会うこともないだろうと思っていた人に肩を掴まれたのは、だからあまりに予想外だった。

 振り返った先に、少し息を弾ませた先輩が、立っている。

 さっきまで同じテーブルに着いていて、会話どころか視線が絡むことさえなかったのに、今は呼気が届くほど近くに。


 心臓が、イヤな悲鳴を上げた。


 逃げ出したいと、心が叫ぶ。逃げてしまえと、心が命じる。

 けれどそれを裏切るように、アルコールが抜け始めた体がカタカタと震えていた。


「あ…ごめん」


 肩からその振動が伝わったのだろう。先輩は弾かれたように手を離し、直後、私のバッグを掴んだ。


「菊池さんが、僕の顔なんか見たくもないだろうことはわかってる。だけど少しでいい、時間をもらえないかな?」


 頼んでいるのに、バッグを掴んだ指は外れることがない。私に是非を問うのなら、逃げ道を残してからにして欲しいのに、その指先には自分の意思を通そうとする決意が見えて、選択肢がない身としては頷くしかなかった。






 道ばたじゃなんだからと言う先輩に促され、入ったのは有名なコーヒーショップだった。

 おごると言い張る相手に抵抗するのも面倒で、ブレンドを、と頼む。

 もっと甘いものもあるとか、ラテにしたらどうかとか、いらない気を使われて私は首を振った。


「何か入っているコーヒーは好きじゃないんです。ブラックしか飲まないので」

「…なんだか、意外だね」


 視線を合わせたくなくて俯いたまま主張すると、一拍置いたあと先輩は短く言って自分はモカジャバを頼んでいた。

 それには私も少なからず驚く。なんだか甘いものを口にしないイメージだったのに、と。そして、こういうことなのかと、納得もした。


 うわべだけを見て好きになるとは、勝手に作り上げたイメージに焦がれるのと同義だ。これでは手ひどくふられても仕方ない。

 窓際の席で渡された大きめのマグを手に、あの日の自分を嘲る。その小さなぬくもりで暖を取っていると、凍ったままだった感情が少し、溶けていくようだった。


「寒い?今日は少し暑いかと思っていたんだけど」


 ゆらゆらと揺れる黒い水面を一心に見つめていた私に、先輩の声が少し陰った。顔を上げるとしきりに天井の空調を気にして、僅かに冷気をもたらしている方角を探している。

 どうでもいいことに一種懸命になるその様子が少し滑稽で、苦笑いを漏らしてしまった。

 話したくないだろうが、と声をかけてきたからには、きっとこの人もあの日を覚えていて、少なからず罪悪感を抱いていてくれたのかもしれない。だから、どうでもいいことで時間を稼ぎつつ、核心に触れることを避けているのだろう。

 ならばと、思い切って口火を切った。


「お酒が冷めかけて震えているだけなので、気にしないで下さい。そしてあの日のことも…先輩の言ったことは間違っていない、私が考えなしに自分の感情を押しつけてしまった結果ですから。気にしないで」

「あ…」


 しまったと歪んだ表情が、言いたいことを先に言われてしまったばつの悪さからきているのだと、容易に知れる。それに気づかなかったふりをするよう、コーヒーを一口含んだ。

 寒かった体を内側から暖める熱に、苦みに、頭が冴えてくる。


「君のせいじゃ…菊池さんのせいじゃ、ないよ。あれは僕の八つ当たりだ。情けない自分を誤魔化すために、立場の弱い女の子に怒りの矛先をむけた、最悪の記憶だ」


 絞り出す声に顔を上げると、先輩の整った顔が暗く沈んでいた。

 逸らした視線、テーブルの上で堅く握られた拳、血の気を無くした顔、どれ1つとってもあの日冷たい目で私を糾弾した人物とは重ならない。後悔に苛まれた人に見える。

 その時初めて、あの言葉には先輩なりの含みがあったのだと、思えた。

 自分の傷を癒やすことに懸命で、傷つけた相手の心まで考える余裕はなかったけれど、確かにあの日の先輩は友人に聞いていた姿からかけ離れていた気がする。優しさも思いやりも、何一つ感じられなかった。

 先を促すようじっと彼を見つめていると、小さく息を吐いた人はぽつりぽつりと事情を明かし始める。


「僕に彼女がいるのを知らないのかと君を責めたけれど、そんなことを知っている人間は学校中探してもいなかったんだ。僕の…好きだった人は兄のカノジョで、2人の仲は誰にも秘密、だったから。3つ上のあの人はとても綺麗で、本当は兄ではなく僕が好きなんだと言われて、熱に浮かされたまま始まった恋だった。すぐに兄とは別れる、そうしたらちゃんと付き合おうって約束を信じて疑わなかったのに、あの日、電話があった」


 最も思い出したくない地点にさしかかったのだろう。唇を湿らせるためにマグの中身を飲んで、微妙に視線を外したまま先輩は再び口を開く。


「兄との子供ができたから、僕とは終わりにするって。当然、拒んださ。約束したじゃないかって子供みたいにだだをこねた。その直後、面倒くさそうに彼女は言ったんだ。僕が兄に勝っているのは容姿だけだって。遊ぶには丁度いいけれど、先のことなんて考えたこともないって、ね」


 ここまで聞けば、どれほど私の察しが悪くても何故ああまでひどくふられたのか理解できる。

 一度も話したことのない相手に告白されて、私も自分の外見だけが好きなのかと激高したのだろう。

 なんともタイミングの悪いことだ。なんだか、本気でおかしくなってきた。

 ふっと体の力が抜けて、背もたれに身を預けると、アルコールが抜けただけだけが理由とは思えない倦怠感に襲われる。きっと3年分の脱力も含まれているのだろう。


「忘れたことはなかったよ。空き教室に置き去りにしてしまった女の子のことを。謝りたいって、ずっと思ってた。でも、あの後すぐ受験があって、菊池さんを探そうにもクラスがわからなかったし、時間もなくて…卒業した後も後悔だけはずっと、ここにあった」


 胸に手を当てた先輩は、今度はきちんとこちらに視線を据えていた。真摯な光を宿した薄い茶色の中に、小さな私が写っている。


「ごめん。謝って許されようなんて自己満足もいいところだけれど、これだけは言いたかったんだ。もちろん菊池さんが望むならどんな償いだってするよ」

「…何も…何も望んでなんかいませんから」


 確かに謝罪は自己満足だと思いながらも、理由を聞けたことでもう許してもいいような気になっていた。

 今なら、お互い子供だったんだと、納得できる。

 先輩は傷つけられたことを飲み込んで他人に優しくできるほど大人ではなく、私は誰しもに事情があるのだと言うことを推し量れるほど余裕がなかった。

 そして、何より最悪だったのはタイミングだ。

 謝ることも、会うことさえも困難だった冬の真ん中で、宙ぶらりんになってしまった気持ち。


 だけど、今日会うことができた。


「先輩の事情、聞けてよかったです。なんだかいろいろすっきりしました。それに今日会えたのもよかったんだと思います。3年前のあの時じゃ、人の気持ちなんて理解できなかったと思いますから」


 微笑むことができることこそ、証拠だろう。2度と会いたくなかった人の顔をきちんと見て、私は笑えているんだもの。

 それでもすぐには納得できなかったのか、しばらく先輩は難しい顔で考え込んでいたけれど、私がマグを空にする頃には高校生の頃大好きだった、穏やかな笑みを湛えて顔を上げてくれた。


「そうだね。僕たちには時間が必要だったのかも知れない。そしてまた会えたのは、今日から始めなさいってことなのかもしれないね」

「や、そこまでは思いませんけど」


 友人としてであれ、恋愛対象としてであれ、1度心の外に追いやった人に再び心を開くのはかなりの労力を要する。知っているからこそ、すぐさま否定したのだけれど。


「イヤじゃなければ、友達にくらいなってくれないかな。お互いいろいろ知っていくのは楽しいかも知れないよ」


 少し曇った表情の先輩は、懇願を含んだ声で言う。

 きっと、罪悪感というのはすぐに消えたりしないものなんだろう。傷ついた私の心が、許せると思う一方で血を滲ませているように。

 ならば、少しずつ相手を知って、思いやって、わだかまりが消えるまで近くにあるのもいいのかも知れない。


「わかりました」


 穏やかに頷くと、緊張していたのか、先輩の肩から余計な力が抜けるのが見て取れた。

 許されるのは心地よいのだろう。だが、許すのも心地いい。寛大になれた自分が、少しだけ誇らしいから。


「じゃあ、手始めに遅らせてくれないかな。結構遅くなっちゃったし」


 促されて時計を見ると、10時を少し回ったところだった。確かに、1人で変えるには少し、心細い時間になっている。


「はい。お言葉に甘えて」


 マグをかたづけて外に出る。10月にしては熱い空気が纏わり付いてきて、晴れやかだった心に少しだけ憂鬱を落とした。

 でも、足取りはやっぱり軽い。


「行こう」

「はい」


 途切れ途切れの会話を交わしながら家まで帰った夜。久しぶりに夢も見ず、深く深く眠った。

恋のような、それ以前のような、そこはかとない感じが書きたかったのですが…失敗。

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