眠り猫と二連ノミ
プロローグ
私、秋山かえでは、木工彫刻家を名乗っている。
といっても、それだけで食べていけるほど甘い世界ではなく、普段は店舗のロゴやパンフレットのデザインといった商業デザインの仕事も請け負いながら、なんとか生計を立てていた。
最近、自分の作る彫刻に、どうしても消えない歪みのような「迷い」が出始めている。
木に向き合っても、刃先が怯える。
形は綺麗なのに、中身が死んでいるような気がしてならないのだ。
だからこそ、今日の私はいつになく強引にスケジュールを組んでいた。
溜まっていたデザインの仕事を一気に片付け、そのまま日光東照宮へと向かう電車に飛び乗る。
目指すは、あの伝説の天才職人――左甚五郎の最高傑作、『眠り猫』だ。
神格化された巨匠のノミ跡を見れば、この胸の霧も晴れるかもしれないという、藁にもすがるような思いだった。
車窓の向こう、秋独特の高い青空の下で優しく揺れる山々のグラデーションが、私の焦燥感を映しているようだった。
第一章 職人の違和感
厳かな参道を通り、一の鳥居を抜けて表参道へと足を踏み入れる。
深く濃い緑の中に、鮮やかな黄色や燃えるような赤色が混ざり合い、息をのむようなコントラストを描き出していた。
だが、本殿の手前に建つ厳かな白い柱の前に立った時、私の足はぴたりと止まった。
そこには息をのむほど精緻な、黒褐色の龍の彫り物が施されていた。
周囲の塀には色とりどりの鮮やかな模様が埋め尽くし、現代の技術では真似できないほどの趣向を凝らした彫刻が施されている。
一言で言えば――豪華絢爛。
しかし、木工彫刻家としての私の目は、
一般の観光客とは違う「違和感」を捉えていた。
(おかしい。これ、一人の人間が彫ったものじゃない……)
この龍の鱗の、荒々しく迷いのないハツリ(削り)。一方で、その奥にある花の透かし彫りの、計算され尽くした緻密さ。
ノミの軌跡の思想が違いすぎるのだ。まるで、タイプの違う二人の化け物が、互いの意地をぶつけ合って一枚の壁を埋めているような――。
「――おい、そこの左! その猫の耳、ちっとばかし寝すぎじゃねえか? 縁起物の東照宮に、そんな眠そうなツラした猫を据える気かよ」
突如、観光客の喧騒が引き波のように消え去り、脳裏に直接響くような、江戸前のべらんめえ調の怒声が鼓膜を叩いた。
鼻腔を突いたのは、枯れた古木の匂いではない。檜、杉、欅。
今この瞬間に、誰かがすぐ近くで生木を削り落としたかのような――信じられないほど瑞々しい、「生きた木」の馨りだった。
第二章 二人の甚五郎
音が響いてくる本殿の薄暗い影へと、私は磁石に吸い寄せられるように歩みを進めていた。
そこにいたのは、二人の男だった。
「へっ、これだからお前さんみたいな『計算ずくの秀才』は困る。いいかい、飛騨」
着物をだらしなく着崩し、右の袖を虚ろに風に揺らせた隻腕の男――左甚五郎が、左手でノミを弄びながら不敵に鼻で笑った。
「ここに雀の彫物があるだろ? 猫が本気で目を覚ましてりゃ、雀が逃げちまう。猫がうたた寝するほど平和な徳川の世が来たんだってことを、俺はこの木肌に彫り込んでんだよ」
「……ちっ、相変わらず理屈の多い左利きだ。だが、おめえのその荒削りの毛並みに、俺の寸分狂わぬ骨格の設計が合わさりゃ、本当に今にも動き出しそうだな」
きりりと鉢巻きを締め、精緻な図面を広げているもう一人の男――『飛騨の甚五郎』が、悔しそうに、けれど嬉しそうに不敵な笑みを返す。
落語の掛け合いさながらの粋な空気に圧倒されていると、二人の鋭い視線が、場違いな格好をした私へと一斉に注がれた。
「あんた……どこから入り込んだ? 女人禁制の現場だぞ!」
飛騨の甚五郎が血相を変えて一歩踏み出す。
しかし、左甚五郎はその鋭い眼光を私の肩に向けた。
「まあ待て、飛騨。おい、お嬢さん。その肩から下げてる四角い袋の中身、ちょいと見せてみな」
第三章 現代の道具、職人の意地
威圧感に気圧されながらも、私はひざまずいてツールバッグを開け、布製の道具巻を地面に広げた。
さらに、ペンのような形をした充電式のルーターと、目の粗さが異なる紙やすりのセットを取り出す。
二人の天才の目が、らんらんと異様な輝きを帯びた。
「なんだい、そのザラザラした薄紙は……!」
子供のように目を輝かせて紙やすりを手に取る左甚五郎。
一方、飛騨の甚五郎は、私が手頃な端材にルーターの刃先を当てた瞬間、息を呑んだ。
『――ウィィィィィン!』
軽快なモーター音と共に、一瞬で木肌が均一に削り取られていく。
手作業なら何分もかかる「面取り」が、わずか数秒で寸分の狂いもなく済んでいく。仕上げに紙やすりで数回擦ると、端材の角はまるで絹のように滑らかに丸みを帯びた。
「……見事な正確さだ」
飛騨の甚五郎がその滑らかさを指の腹でなぞり、驚嘆する。
しかし、左甚五郎は私の目をじっと見据えた。
「お嬢さん。何でもいい、その道具で、これから何か作れるかい? お前さんの『作』を見せてみな」
その言葉に背中を押され、私はツールバッグからさらに薄型のタブレット端末を取り出し、過去作のポートフォリオを見せた。画面に映し出された鮮明な木工作品の写真に、二人はひっくり返りそうなくらい目を見開いた。
「おぉ……っ!? 絵の中に、本物の作が閉じ込められてんのか!?」
第四章 命を宿すノミ跡
それから数時間、私は時間が経つのも忘れて手元に集中した。現代の工具と極薄の紙やすりをフルに駆使して、私は一本の木材から、小さな命を削り出した。
「――出来ました」
額の汗を拭いながら差し出したのは、東照宮の眠り猫を意識しつつも、現代的なデフォルメと、完璧に均一な滑らかさを宿らせた自信作の「猫」だ。
飛騨の甚五郎がそれを手に取り、まじまじと見つめる。
「美しい……。寸分の狂いもない。俺の設計思想にも通じる完璧な均一さだ」
しかし、左甚五郎はぴたりと口を閉ざし、沈黙した。
その表情からは無邪気さが消え、底の知れない『巨匠』の眼光が戻っていた。長い沈黙の後、彼はぶっきらぼうに言った。
「綺麗なだけで、中身が死んでる」
ハッと息を呑む私に、左甚五郎は不敵に笑って自身のノミを握り直した。
「ちょいと、借りるぜ」
「えっ、ちょっと!」
止める間もなく、左甚五郎はシュシュ、と小気味よい音を立てて、私の作品へ向かって躊躇なく刃先を突き立てた。
残された左手一本とは思えない、凄まじい嵐のような速さ。
何より、一削りごとに一切の「迷い」がない。
数十分後、左甚五郎はふぅと短く息を吐き、私の猫を差し出した。
そこにあったのは、ツルツルとした均一な猫ではなかった。表面には、あえて無数に『ノミ跡』が残されている。
しかし、その一つ一つの刃の痕跡が、猫のしなやかな筋肉の躍動、毛並みに沿った美しい流れとなって木肌に命を宿していた。
「本物がどんな物かってのは、俺にだって分かりゃしねえ。だが、俺は生きている物を彫る。お嬢さんの道具は手は汚さねぇが、木の声を無視してやがる。刃先が怯えてんじゃねえ、お前さんが木を恐れて、機械の裏に隠れてるだけだろ」
エピローグ
「……あっ……」 差し出された木彫りの猫に触れた瞬間、私は口に手を当てた。 指先から伝わってきたのは、機械で削られた冷たい質感ではない。
無数のノミ跡が、確かな「体温」を持って私の手のひらを押し返してきたのだ。それと同時に、檜と杉の圧倒的に深い命の香りが溢れ出していた。
涙で視界がにじむ。深く頭を下げようとした、その瞬間――スゥッ、と。
世界から、二人の甚五郎の掛け合いが、お香のような深い木の香りが消え失せた。
「……え?」
顔を上げると、そこは夕暮れ時の、静かな現代の日光東照宮だった。
目の前には、ガラスケースに守られた国宝『眠り猫』が、いつもと変わらぬ姿で静かに眠っている。
私は改めて、その『眠り猫』を凝視した。 (あぁ……やっぱり、そうだ……)
一般の観光客は一人の天才の作だと信じている。
けれど、プロの私には今ならはっきりと見える。
その愛らしくも張り詰めた完璧な骨格の輪郭は『飛騨の甚五郎』が計算し尽くして彫り上げ、その毛並みの圧倒的な生命力は『左甚五郎』が左手一本で刻み込んだ――二人の天才の、意地と信頼が結晶した共同作品だったのだ。
自分の右手に視線を落とす。
そこには、あえて無数にノミ跡が刻まれた、一匹の木彫りの猫が、確かに温もりを残して座っていた。
「……ふふ、負けてられないな」
東京に戻ったら、もう一度、丸太に向き合おう。
今度は機械の裏に隠れるんじゃない。飛騨の甚五郎のような圧倒的な基礎設計の上で、左甚五郎のような迷いのないノミ跡を、私自身の白熱する魂で刻み込むために。
秋の澄んだ風が、三人目の甚五郎を目指す私の背中を、優しく押し出すように吹き抜けていった。
(終わり)




