【短編小説】紫鏡
紫鏡と言う怪談話がある。
二十歳になるまでずっと紫鏡の事を覚えていると死ぬ、と言う様な話だったと思うが、要するにくだらない事をいつまでも覚えてると死ぬと言うことだ。
呪いとはそう言うもので、何か悪い事があったときに「あれのせいだ」と思うことで精神的な負荷をかけられる。
つまり呪いは、呪っていることを知られる必要がある。
鏡太郎は布団の中で天井を眺めながら言った。
「むかしのミスとかで寝る前に思い出して死ぬやつあるだろ。
死ぬってのは、肉体的に死ぬと言うよりは精神的に死ぬ感じ。酷く落ち込んで鬱々とした気分になるじゃん」
入ったばかりの冷たい布団が温まるのはまだ先だろう。
それまで眠れない。
中年になると、寝るにも長い準備が必要になる。
ゆかりは興味なさそうに適当な相槌を打つが、鏡太郎は構わずに続けた。
「だから、実際に紫鏡を覚えていたところで死にはしないけど、紫鏡を覚えていると死ぬって言うことをいつまでも覚えていると、鬱々とした気分になる事はあるだろうな」
鏡太郎に背中を向けてスマホを見ているゆかりの後頭部を眺めながら
「実際にいつまでも紫鏡のことなんか考えていられる訳じゃないけど」
生活があるからな、と言って再び天井にめをやった。
「なぁ、おれがコロナになってボーナス差し引かれたのって覚えてる?」
喋り続ける鏡太郎にウンザリしたのか、ゆかりはスマホを置くとため息を吐いてからゴロリと寝返りをして鏡太郎を見た。
「ごめん、覚えてない。そんなことあったっけ?」
「そっか。なら別にいいんだ、大した話じゃないし」
鏡太郎がそう言うと、ゆかりは再びため息を吐いて寝返りを打ち元の姿勢に戻った。
断絶だな。
鏡太郎はゆかりの後頭部を見ながらそう思った。
俺や俺と類似した孤独な奴らは、そうやって過去から現在に至るまでずっと断絶したままって訳だ。
もはやそれが本当にあった出来事なのか、その瞬間に俺は実在をしていたのかも曖昧になっていく。
確かなことなんて何もない。
いまこの瞬間に俺が消えたとしても、ゆかりは気づかない。死んだって気づかない。
だけど俺もゆかりの不安が分からない。
もっと言えば何を考えているのかも分からない。
誰だってそうだ。
俺と言う個人が抱える存在の不安定さなど誰も顧みない。
人間はとても不安定な元素みたいなもので、社会性はそれをなんとかするシステムだ。
それが逆に作用することもある。
「お店のみんながわたしを無視する」
と言ってゆかりが仕事を辞めた。
俺も、ジムでやたら厭な態度を取る奴がいて辟易している。
しかしそう言う自分だって誰かの存在を不安定にさせている事もあるだろう。
結局は、そうやってお互いに存在を不安定化させながら曖昧に生きていくってだけの話だ。
だからって全てが相対化されたり相殺されたりする訳じゃないけど。
「なぁ、しよっか」
鏡太郎はゆかりの後頭部を見ながら言った。
ゆかりは振り向きもせずに
「生理きてるから」
と言った。
子どもを持つと言うのは、自身の存在をその曖昧な砂上に固定化する社会的生物の営みだ。
自身は存在するかわからないが、子供や子孫と言うのは少なくとも自身の観測範囲内に実在する。
統合を失調していなければ、だが。
事実としての記録や行為がある訳だから、子どもの存在は忘れようにも忘れる事は無い。
殺して埋めたり、沈めたり、コインロッカーにしまっておいたりしない限り。
俺はおそらく末代だろう。
鏡太郎はそう思っていた。それは別に、ゆかりとご無沙汰だとか言うのが理由では無い。
鏡太郎は現実的に遺伝子に欠損のある存在だし、それはミロのヴィーナスみたいに美しいものでは無かった。
だからそう言う未来は諦めている。
鏡太郎はベッドを降りてトイレに向かった。
埃だかけの換気扇がキュルキュルと鳴きながら回っている。
便器の中で泡が回る。
鏡太郎は部屋だとか山手線だとか職場と自宅だとか割引シールの貼られた食品売り場だとかをぐるぐると回る。
回っていれば死にはしない。
鏡太郎は回遊魚だったし、社会に属するというのはそう言う事だ。
静止すると紫鏡(または任意のそいつ)が追いついてくる。
「お前の欠損はどうやっても誤魔化せないよ」
コンドームの中やティッシュの中から声が聞こえるので、鏡太郎は湯船に沈んだり布団に潜ったりする。
温まりかけていた布団はまた冷たくなっていて、やり直しを感じる。
「布の子宮とか言うなよ」
暗い布団の中で声が聞こえる。
「仕方ないのか」
鏡太郎は訊いた。
「決まってるんだ」
そいつは答える。
忘れられない方が悪い。




