第9話 管理者の手入れ手順・第二層
祠の階段を降りるほど、空気は紙の匂いに近づき、音は綿で包まれたように柔らかくなった。
B2の閲覧室は昨夜よりも明るい――けれど、その明かりの縁に灰黒の薄皮が張りつき、見出し灯の光を吸う。
棚の最奥、昨日“仮題”を剥がした**『管理者の手入れ手順』の板の周囲に、細い黒脚注が胞子**みたいに増殖していた。
『ユウ。広がってる。言い方が、抹消よりの癖に寄ってる』
フリュネの葉脈が、ひとつぶん強く光った。
隣でエリシアが薄筆を握り、短く言う。
「本文は昨夜、“手入れ”まで戻りました。今、時制と条件が脚注で逆流しています。
――“直ちに抹消”“暫定停止ののち抹消検討”“見守りの不要化”……骨を折る言い回しです」
ライカは工具袋から小型の枠を取り出し、鏡膜の小片を張ると俺に渡した。
「言いまわし鏡。短文、骨だけ抜き出して映す」
「助かる」
俺は索引糸を二重に張り、若葉ブラシを両手で構える。
板の見出しを囲む黒い胞子は、触れるたびに言い回しの変形で反撃してくる。
“抹消”→“消去”→“無効化”→“撤回”→“影響力停止”…(輪唱)
言葉の輪唱。音で回転し、意味で絡む。
俺はフリュネに目で合図する。
「主語を温めてくれ。“管理者は/見守りは/当番票は”」
『うん』
葉の光が主語に乗り、輪唱の手すりに印が付く。
そこへ言いまわし鏡を差し込み、骨(誰が/何を/いつ/どうやって)以外を反射で捨てる。
鏡に残った芯を、エリシアが薄筆で太字に置き直す。
「管理者は――自ら****手入れし、公開し、見守りを受けて修正する。
“直ちに抹消”の直ちには時制、抹消は動詞。骨から外す」
黒脚注が居場所を失い、胞子がひゅっと縮む。
だが、棚の影から長い脚注が一本、のたうって伸び、見出しの上に帯を掛けた。
「権威の保全のため、例外的に“手入れ”を省略できる」
「省略は詰まりの芽」
俺は索引糸を帯の根本に通し、若葉ブラシで根を払う。
帯の裏には、薄い審問票の束――権威の名前が丸で囲われ、当番票の欄は空白のまま貼られていた。
そこへ薄ワックスを極薄に塗り、「空白は不可」の細印を押す。
ライカが爪金で帯を軽く裂き、フリュネが風で紙塵を飛ばす。
『……とれた。でも、根深い』
エリシアが板の左下、見出しの余白を指した。
そこに、他のどの脚注よりも濃い、古い朱で押された文字がある。
――『旧様式:管理者抹消連絡票』。
朱の枠内、名前の欄が一度、強く塗りつぶされている。
胸の紐が、きり、と鳴った。
俺は浄滴を一滴、若葉繊維に落として細刃を作る。
塗りつぶしの表面だけを軽く剥ぐ――下に、消し跡の線。
エリシアが薄筆で**「筆致の逆行」をなぞる。
線は、ある名の骨**を描いていた。
A S T E R……
小さな葉記号、そして輪。
ライカが小さく息を呑む。「工房章……輪まで。アステル?」
フリュネが葉を震わせ、とても古い風をひとつ吐いた。
『……前の管理者。アステル。抹消連絡票で、“手入れ”が省略された……』
言葉が、少しだけ震えた。
棚の上段で黒脚注が、からからと乾いた笑いを立てる。
「前例あり」
「例外処理」
「迅速化のため“見守り”をカット」
俺は言いまわし鏡を脚注群の前に立て、記録鏡(広場)から伸ばした証言糸を併架する。
上(広場)で学んだ五手順の骨を、下(閲覧室)へ通すためだ。
「公開手順を本文に埋め込む。理由→段取り→可視化→責任→見守り――抹消の言い回しは五手順どれに乗る?」
エリシアが即答する。「乗らない。別表だ。“停止手順”として独立し、“手入れ手順”から参照されるべき」
「なら、別表を作ろう」
ライカが頷き、小枠と爪金を持って走る。
俺は浄滴と粉類で薄板を作り、エリシアが見出し灯を置く。
別表:一時停止の手順(停止→検証→手入れ→復帰)。
“抹消”の言い回しは、ここからさらに離す――最終手段として封印へ。
『封印膜、わたし、ひろく張る』
清澄ゼリーが嬉しそうに震え、棚の最下段に薄膜を敷いた。
“抹消”に相当する毒素語は、ここに落ちる。
俺は索引糸で本文と別表を輪で結び、参照矢印の方向を一方通行にする。
本文→別表へは通るが、別表→本文へは戻らない。
「主語を、もう一度」
フリュネが叶える。
管理者は/見守りは/当番票は。
エリシアが薄筆で時制を揃える――「まず」「次に」「そののち」。
ライカが磨耗逆転ワックスを極薄で板に引き、“前列”の擦り傷を戻す。
――回転台が一段、深く回った。
閲覧室の風が整い、見出し灯の光が揺れずに流れる。
だが、旧様式の朱はまだ一箇所、濃く残っている。
アステルの名の右――理由欄の空白。
空白は、詰まりだ。
俺は証言糸の端を指に絡め、鏡の奥に向けて軽く弾いた。
「理由を、呼ぶ」
閲覧室の高みで鈴糸が微かに鳴り、板の隅に薄影が現れた。
声ではない。手順で組まれた息の名残り。
アステルが残した**“工房章の描きかけ”が、ほんの一瞬だけ暖かく**光った。
その熱で、理由の欄に、色の薄い文字が浮かぶ。
『循環の崩壊の予見。停止手順の未整備**。見守りと公開の器がない』**
エリシアが息をのみ、フリュネの葉がかすかに震えた。
ライカが拳を握る。「……器がなかったから、省略された」
「なら、器を置こう。今ここに」
俺は閲覧室用の小さな公開手順板を作った。
『閲覧室・手入れの器』――
・閲覧簿(理由の記入)
・段取り札(索引糸の配置/見出し灯の位置)
・可視窓(鏡面の開口)
・責任欄(司書・管理者・見守りの署名)
・見守り席(工房章・葉印・輪印の三席)
板を棚に据え付けると、旧様式の朱が自動的に剥がれ、別表(停止手順)に流れ落ちた。
アステルの名の塗りつぶしに細いすき間ができ、葉×輪の記号がはっきりと見える。
『アステル、返ってきた。全部じゃないけど、息がある』
フリュネの声は、少しだけ泣きそうだった。
俺はうなずき、管理者の手入れ手順の本文を確定させる。
『管理者は、循環を乱したとき、まず自らを手入れする。
次に、当番票に従い、公開で理由と段取りと責任を示し、見守りを受けて修正する。
抹消は本文ではなく別表**(一時停止→検証→手入れ→復帰)に基づく。』**
黒脚注は、行き場を失って薄緑に溶け、清澄ゼリーが封じ、吐く。
回転台はもう一段、軽やかに回った。
その時――閲覧室の天井、吹き抜けの格子の向こうで、紙の羽音。
脚注霊ではない。紙翼の便――街役所からの書状が索引糸を辿って届いた。
「開く」
エリシアが封を切り、薄筆で走り読みする。
顔が静かに引き締まった。
「……“停止手順”の即時運用要請。勇者本隊の一部が、外の“始源汚れ”に接触した。見守り席なしで処置を、との**“例外申請”**」
胸の紐が強く、今度は外へ引かれる。
上でまた“省略”が芽吹こうとしている。
俺は別表の下端を指で叩き、見守り席の印を太くした。
「例外は器の不足から生まれる。器はもうある。広場の公開手順と閲覧室の器を合わせて、“審査窓”を作る。上と下を同時に通す窓だ」
「作る」
ライカが走り、鏡膜・薄板・爪金・葉印を並べる。
フリュネが上と下に風の道を通し、エリシアが見出し灯を二つ、背中合わせに焚く。
俺は索引糸を八の字に組み、公開手順板と閲覧の器を結ぶ。
中央に小さな窓――審査窓が開いた。
『通る。上の言い方と、下の言い方が同じ骨で見える』
審査窓に、街役所の例外申請が流れ込む。
理由/段取り/可視化/責任/見守り――
見守りの欄は空白。
窓の縁が赤に点滅する。空白は不可。
「返す」
俺は窓の返送札に短く記す。
――『見守り席を指定してください(三席:工房章・葉印・輪印)。停止は別表の順に。公開は広場と閲覧室の双方で。』
返送鈴が軽く鳴り、札は上へ登っていった。
閲覧室の空気はゆっくり落ち着き、黒脚注の胞子は乾いて崩れ、灰となって砂受けに落ちる。
エリシアが筆を置き、静かに言った。
「本文、通りました。別表も。“抹消”は封印へ」
「よし。上に戻る。審査窓は工房に一つ置こう。例外が来たらその場で通す」
「ん。爪金、予備ある」
ライカが工具袋を持ち直し、フリュネが葉を軽くはためかせる。
階段を上がる直前、俺は旧様式の朱にもう一度、目を向けた。
アステル――葉×輪。
今はただ、名前の骨を取り戻しただけだ。
でも、器ができた。今なら、当番票と見守りと公開で、誰かを省略せずに守れる。
「行こう。上で器を使う」
背後で、回転台が定速を保って回り続ける。
遠くで、井戸が光る音がひとつ、澄んで響いた。
本日の清掃ログ
場所:B2閲覧室
詰まり除去:
・『管理者の手入れ手順』第二層の黒脚注増殖(主語温め+言いまわし鏡+索引糸)
・“例外的抹消”帯の根(空白不可印+薄ワックス+爪金)
・旧様式『抹消連絡票』の朱書き→別表(停止手順)に落とし、本文と一方通行参照に整流
発見:前管理者アステルの痕跡(葉×輪/理由欄=器の未整備)
改善値:本文可読率+92%/抹消語の封印率+88%/審査往復時間-57%
新規クラフト
言いまわし鏡:短文から主語・動詞・時制の骨だけを抽出し、脚注の輪唱を解除。
別表:一時停止の手順:停止→検証→手入れ→復帰の四工程。本文とは一方通行参照。
閲覧室の器:閲覧簿/段取り札/可視窓/責任欄/見守り席(工房章・葉印・輪印)。空白不可。
審査窓:広場の公開手順と閲覧室の器を八の字索引糸で結び、上と下を同骨で同時審査。
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次回「例外申請の夜」――“見守り席なし”で進もうとする本隊を、審査窓で止める。器は戦える。