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第5話 図書館の黒い脚注

 午前の脈は安定していた。

 甕の水面には、フライホイールに合わせた細い螺旋が絶えず立ち、工房の空気は粉類と樹皮のかすかな甘さを含んでいる。

 当番票は朝一で埋まり、受け取り所は流れ図の矢印に沿って静かに回っていた。


『ユウ。きょう、**下(B2)**にいこう。黒い脚注、濃いところ』


 フリュネが葉をふるりと震わせた。声はまだ幼い。けれど、葉脈の光は昨日より深い緑で、芯に年輪のような模様がうっすら差している。


「本気モード、だな」


『うん。言葉の汚れ、わたしも手伝える』


 ライカに工房を任せ、俺は若葉ブラシ、浄滴、ワックス小瓶、そして清澄ゼリーを連れて祠の階段を降りた。

 B2の空気は、B1よりも冷たく、乾いた紙の匂いがした。

 踊り場に足を置くと、足元の石に浅い刻みが並ぶ。文字というより、索引記号だ。


「図書の層か」


 角を曲がるごとに、壁に埋め込まれた棚が現れた。石と木が編まれるように組まれ、細い溝の奥に薄い板がずらりとはめ込まれている。板には見出しが刻まれていた。『水脈の通り道』『風の季節』『穀の乾かし方』……この世界の暮らしと運行を支える、説明の書。

 だが、その見出しの縁々には黒い脚注がびっしりと貼りついている。細い棘のような符号、曖昧な但し書き、思わせぶりな付記。重なって、重なって、元の見出しが読めない。


『ここ、むかし、図書館。世界樹の“言い方”をしまってた場所』


「言い方が詰まると、やることが詰まる」


 俺は若葉ブラシを出し、見出し板の角からそっとなぞった。

 黒い脚注の棘がざらりと逆立ち、さやさやと薄い音を立てる。

 刺を一本はがすと、板の文字が一文字だけ鮮明になる。だが、周囲の脚注が補うようにじわりと広がる。まるで蔓植物のようだ。


『……根から、はがす』


 フリュネが葉の先を板に触れさせ、薄い光を流した。文字の主語が温まる。『誰が』『いつ』『どこで』が正しく浮かぶ。

 その瞬間、黒い脚注の何本かが居心地を失って白く蒸発した。

 なるほど。文の骨を通すと、脚注は付けにくい。


「もうひと押し、道具を作る」


 俺は浄滴を一滴、若葉繊維に落として、指で撚った。細く透ける糸が生まれる。

 それを板の見出しの下線に沿って張り、端を清澄ゼリーの小さな吸盤で固定する。

 糸に意識を落として、ゆっくり弾いた。


 ――ピン。


 糸の振動に合わせ、黒い脚注の棘が震え、根元がわずかに浮く。

 若葉ブラシでそこを払えば、刺は音もなく抜け落ち、板の文字が一行分見える。

 俺はもう一本糸を作り、見出しの主題と条件の境目にも渡した。


「索引糸。骨に沿って脚注を浮かせる」


『すごい。文字、息できる』


 清澄ゼリーは喜んでぷるぷるし、刺が抜けた穴に薄膜を塗った。穴は閉じ、再付着が難しくなる。

 俺は試みに、別の板――『井戸の手入れ』――にも索引糸を張った。

 黒い脚注には『今は無理』『とりあえず後回し』『誰かがやるだろう』といった、怠けの言葉が混じっていた。

 はがすたび、胸の中の紐が軽くなる。人の癖は、言葉からも流れを止める。


 そうして通路の一本を掃いていたとき――

 棚の影から、紙の擦れる音と、微かな喘ぎが聞こえた。


「……だれかいるのか?」


 返事の代わりに、ひゅ、と薄い影。紙束の人形――書記ゴーレムがこちらに向かってふらつき、胸に貼られた脚注の束に足をもつれさせて倒れ込んできた。

 慌てて支えると、ゴーレムの胸板の紙に黒いスタンプが押されているのが見える。

 『閲覧停止』『破棄予定』『暫定』――。

 息をするように、ゴーレムの折り目が震えた。声は、紙の裏から滲む。


「……た、たすけ……脚注、が、胸に……」


「動かないで。糸を通す」


 索引糸を、スタンプの外周に沿って回す。

 フリュネが主語を温め、ゼリーが薄膜を用意する。

 若葉ブラシを添え、俺は糸を二度弾いた。


 ――ピン、ピン。


 黒いスタンプが浮き、端からめくれる。

 裏側に、見慣れた刺の字がある。『権限がない』『まだ早い』『後ほど審査』。

 俺はそれを一括ではがし、ゼリーの膜に落として封印した。


 ゴーレムは胸を平らにして、深く折り曲げて礼をした。


「恩にきる。……閲覧室、いま、死んでる。参照が通らない。索引、ねじれてる」


「索引糸で組み直す。閲覧室へ案内を」


 ゴーレムは通路を導いた。

 角を三つ折り返し、薄暗いをくぐると、広がったのは吹き抜けの閲覧室。

 床は円い格子、中央に回転台。四方の壁は棚で、見出し板が渦のように並ぶ。

 だが、中央の回転台は止まっていた。軸に黒い脚注が巻きつき、台の上には『参照先不明』の札が山のように積まれている。


『見えない矢印が、絡まってる』


「矢印を見えるようにする」


 俺は浄滴を二滴、甕の蓋の裏に垂らし、粉類をごく少量混ぜた。

 薄い光が霧に変わり、矢印の形で空中に浮く。

 元は中央から四方の棚へ、主題→参照→詳細と流れるはずの矢印が、あちこちで逆走し、循環せずに同じ場所をぐるぐる回っている。


「見出し灯を立てる。主題の上に置き、矢印を上流から下流にそろえる」


 葉類と滴類で小さな灯を作り、芯に若葉繊維を通した。

 灯を主題の棚に置くと、その棚から出る矢印だけが明るくなり、行き先の棚の縁がほのかに光る。

 矢印は、光があるほうへ流れたがる。

 俺は矢印の交差点に索引糸を張り、必要な参照だけを通す輪にした。


『……呼吸が通った』


 フリュネの声が柔らかくなる。

 中央の回転台の周りに、注釈の煙が立った。

 煙は形を取り、人影に変わる。薄い、ねじれた顔。

 『脚注霊』――言い訳が凝って、人の形になったものだ。


「磨く」


 俺は回転台の軸に若葉ブラシを当て、ライカの磨耗逆転ワックスを極薄に塗った。

 台の寸法が一瞬、元に戻る。

 そこへ索引糸を一回転させ、主語を温める。


「誰が」「何を」「いつ」「どこで」「どうして」「どうやって」


 六つの問いの輪が台を包む。

 脚注霊は、問いの輪に顔をしかめ、のどから紙やすりのような音を立てた。

 霊の輪郭がほどけ、ただの煙になり、ゼリーの膜がそれを吸い、清らかに吐く。


 台が一段回った。

 棚の見出しのいくつかが、ぱらぱらと開く。

 ページ(板)の裏から、薄く青い光が差し、索引のねじれがほぐれる。


 そのとき、閲覧室の入口に細い影が立った。

 灰色の外套。手には巻物束。瞳は淡い琥珀――いや、光の当たりで灰緑にも見える。

 影は線の外――入口の監視線の前で足を止め、静かに言った。


「ここが、世界樹の閲覧室……。管理者殿は、どちら?」


 声は落ち着き、しかし疲れている。

 俺が振り向くと、影は外套を外し、軽く膝を折った。

 肩までの白茶の髪。耳に紙片の耳飾り。腰には細い筆筒。

 彼女は自ら名乗った。


「エリシア。司書ししょです。各地の図書が詰まっていくのを見て、辿ってきました。……手伝わせてください」


 胸の紐が、ぱち、と音を立てたかのように軽くなる。

 フリュネが歓喜して、葉をぱたぱたさせる。


『司書、きた! うれしい! エリシア、注釈、はがすの上手?』


「得意です。分類と見出しの骨を立てること。それが司書の初歩であり、最後です」


 エリシアは足元の監視線を指先でなぞり、にこりと笑ってから、線を跨がずに待つ。

 彼女は順番を尊ぶ。

 俺はうなずき、線の横に来訪者の当番札を描いた。

 『司書の補助:主題の骨立て』『脚注はがし:一次審査』。

 彼女の札を一番上に挿し、手招きする。


「歓迎する。主語を温め、索引糸を張り、見出し灯で矢印を揃える。脚注は根から外す。……司書のやり方も見せてくれ」


 エリシアは頷き、巻物束から一本の薄筆を取り出した。

 筆の先に、かすかに浄核粉をまぶす。

 筆致は迷いがない。見出しの『はじめに』の二文字を太くし、横に三つの小さな丸――箇条の印を置く。


「頭を太く。箇条は三つまで。多い脚注はまず外に出す。本文に入れず、参照に回す」


 彼女の薄筆が一行引くたび、黒い脚注が居場所を失う。

 俺は索引糸を弾いて根を浮かせ、若葉ブラシではがし、ゼリーが封印する。

 呼吸が合った。

 回転台は二段、三段と滑らかに回り、閲覧室に風が生まれた。

 フリュネの葉脈が、深く息をする。


『図、きれい。文字、きれい。……世界の言い方、戻ってくる』


 作業の合間、エリシアが短く問いかけた。


「管理者殿は、どうやって注釈を嗅ぎ分けるのです?」


「骨と流れを見ている。骨が細くなるところへ、言い訳が絡みつく。流れが止まる角には、**“後で”**が溜まる」


「同じですね。司書も、骨を見る。主語を太らせ、時制を揃える。……不思議です。掃除と司書は、とても似ている」


 彼女の笑みは静かで、少しだけ寂しそうだった。

 世界のあちこちで、図書が詰まり、言葉がひねくれるのを、ずっと見てきたのだろう。


「助かる。君がいれば、この層はもっと早く息を取り戻す」


「私も、居場所がほしい。当番票に、私の名前も」


「もちろん」


 そうして夕刻までに、閲覧室の主題棚は七割方、読めるようになった。

 回転台の脇、夥しい『参照先不明』札の山は、いくつかの新しい索引箱に整理され、参照の輪が三つ組み上がる。

 棚の最奥、重い見出し板がゆっくりと開いた。

 そこに、古い太字でこう刻まれていた――


 『管理者の抹消手順』


 空気が、冷える。

 板の下には、真っ黒な脚注がべったりと貼られていた。棘は太く、根は深い。

 読まなくても、読めてしまう。『管理者が循環を乱したとき』『管理者が権利を侵したとき』『管理者が不適格であると判定されたとき』……。


 胸の紐がぴんと張る。

 エリシアが眉を寄せ、薄筆を握り直した。


「……これは本文ではない。誰かの注釈が、本文を塗りつぶしている」


『始源のにおい、する』


 フリュネの声がわずかに震えた。

 俺は索引糸を二重に張り、若葉ブラシを両手で握った。

 ゼリーがそっと前に出て、薄く膜を広げる。

 エリシアは薄筆で、見出しの上に小さく仮題を書いた。

 『管理者の再教育』。


「本文が見えるまでの仮です。本当の『言い方』が浮かべば、置き換えましょう」


 俺は頷き、骨を探す。

 これは恐れから生まれた脚注だ。権利の乱用を恐れる声。破壊の記憶。

 その恐れが悪いのではない。だが、本文は恐れではない。

 本文は、手入れだ。


「フリュネ。主語を温めてくれ」


『うん。管理者は』


 葉の光が言葉の骨を温め、エリシアの薄筆が動詞を太らせる。

 俺は糸を弾き、刺を浮かせ、若葉ブラシで根を払う。

 脚注の塊が、一層、二層とはがれ、黒の下から灰色が現れ、さらに薄緑が滲む。


 薄緑の本文の上に、ゆっくりと文字が浮いた。


 『管理者は、循環を乱したとき、まず自らを手入れする。

  次に、当番票に従い、公開で理由と手順を示し、

  見守りを受けて修正する――。』


 エリシアが小さく息を呑み、フリュネの葉がぱあっと明るくなった。

 俺は笑って、仮題の横に正題を書き込む。


 『管理者の手入れ手順』


 回転台が、ひとりでに一段、回った。

 閲覧室に薄い風が吹き、棚の角に溜まっていた細かな埃が糸のほうへ流れ、ゼリーが喜んで吸い取る。

 胸の紐の張りが、静かにほどけた。


 ――そのとき。

 閲覧室の上方、吹き抜けの格子の間から、小さな金属音が降ってきた。

 地上の工房から伸びる鈴糸が震え、ライカの声が淡く響く。


「ユウ。広場、ちょっと荒れそう。外の連中、短縮を求めてる。当番票、見ないで直送を……。でも、バルサが止めてる」


 黒い脚注の根の残りが、わずかに疼く。

 俺はエリシアに目で合図し、フリュネに短く頼んだ。


「ここは骨が通った。残りは任せる。俺は外の脚注を剥がす。順番を見失わせない」


『うん。エリシアと、やる。見出し灯、きれいに並べる』


 エリシアは薄筆を胸に当て、微笑んだ。


「当番、了解しました。ここはお任せを」


 俺は索引糸の端を回転台に結び、反対端を腕に巻いた。

 言い方の骨と、外の流れを、一本で繋ぐために。


 階段を駆け上がる。

 地上の光が近づくにつれ、鈴糸の音は明確になり、人のざわめきが渦のように聞こえた。

 “ざまぁ”を言うのは、まだ早い。

今日は公開で理由と手順を示す日だ。


本日の清掃ログ


場所:B2図書層・閲覧室


詰まり除去:見出し板の黒い脚注(主語温め+索引糸+若葉ブラシ)/回転台軸の注釈汚れ(薄ワックス)/『管理者抹消手順』上書き脚注の第1層


獲得:閲覧参照速度+45%/主題棚可読率+70%/“参照先不明”札→新索引箱×3


発見:本文『管理者の手入れ手順』/脚注霊の発生と封印パターン


人流:新規来訪者=司書エリシア(当番札登録)


新規クラフト


索引糸:浄滴+若葉繊維の極細糸。見出しの骨に沿わせて脚注の根を浮かせる。


見出し灯:主題棚の上に置く小灯。矢印を上流→下流に可視化し、参照を整流。


脚注封印膜:清澄ゼリーの薄膜。はがした注釈の再付着を防止。


薄筆(司書式):浄核粉を微量含ませ、本文の骨(主語・時制)を太らせる。


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次回「広場の公開手順オープン・ハンドブック」――“直送”の誘惑に、当番票と理由で応える。公開ざまぁの予告編です。

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