第1話 追放最弱、世界樹に拾われる
追放の足音は、石畳に残った汚れみたいにしつこい。
広間の扉が背中で音を立てて閉まり、俺は光の消えた廊下にひとり取り残された。
「ユウ、最後に床、磨いとけよ」
勇者隊長の軽い声が耳に残る。笑っているのがわかった。みんなも笑っていた。魔王城目前、最後の野営地で、俺は荷物と同じように置いていかれた。
俺の固有技能【清掃】は、彼らの目には“戦いの役に立たない”の象徴だったから。
扉の外の風は山の匂いがした。茜色に染まった空の下、俺は肩に古い箒を担ぎ、腰の雑巾袋を確かめる。誰も見向きもしなかった俺の“武器”だ。
足元の石畳は、幾世代も騎士や商人が踏みしめたのだろう、真ん中がわずかに凹んでいて、そこに雨と泥が溜まって黒く光っている。
「……最後の床磨き、か」
独り言は空気に沈んで消えた。
この世界に呼ばれてから二年。戦いの才能はなかった。炎も雷も呼べないし、剣を振れば手のひらがすぐに水ぶくれになった。代わりに与えられたのは【清掃】。
最初は自分でも笑った。だが、拠点の廊下や武具庫を磨けば、剣はよく切れ、足運びは軽くなり、みんなの気持ちも少し穏やかになった。……俺には見えていた。汚れが“詰まり”を生み、詰まりが人を鈍らせ、鈍りが運を悪くする。
けれど「見えている」のは、たぶん俺だけだった。
振り返らず、街道を外れて森へと降りた。取り合った食料は干し肉が少しと、荷袋に入った古い蜜蝋。夜を越すには十分ではない。
杉のような針葉樹が立ち並ぶ谷あいは、夕暮れが早い。誰も通らない獣道には落ち葉が積もり、踏みしめるたびに湿った音がした。
やがて、風が変わった。土の匂いに、古い紙のような乾いた香りが混じる。
木々の間、苔むした石段が見えた。上は黒ずんだ祠だ。屋根は欠け、扉は半分落ちている。何十年も手入れされていない。
「……祠?」
近づくと、扉の隙間から冷えた空気が流れ出て、腕の産毛がぞわりと立った。
中は暗い。けれど、微かな光が奥で瞬いた気がした。
俺は箒の柄で扉を押し上げ、頭を下げて中に入った。
足元が柔らかい。積もった埃がサラサラと靴底で鳴った。拝殿の中央には、割れた供物台。奥の扉は歪み、隙間から地下に続く石段が口を開けている。
そして、台座の上――茶碗ほどの小さな芽が生えていた。芽といっても、光でできている。薄い葉脈が脈動し、青白い粒子がふわりふわりと宙に舞っていた。
『……だれ?』
声が、頭の中に落ちた。鈴の音みたいにかすかで、眠たげで、幼い。
俺は周囲を見回したが、誰もいない。芽が、かすかに震える。
「……俺はユウ。行き倒れの掃除係だよ」
『そうじ……? ああ、そうじ。手入れ、できるひと?』
手入れ。その言葉が胸に刺さった。
俺は思わず笑って、頷いた。
「できる。これしか、できないけど」
石段から吹き上がる空気は湿って冷たい。奥から、重たく淀んだ気配が漂ってくる。
俺は腰の雑巾袋から、長年使い込んだ白布を取りだした。布の端は黄ばみ、ところどころ縫い合わせた跡がある。
深呼吸をひとつ。掌に意識を落とす。
「【清掃】」
いつも通り、声に出してから指を滑らせる。
――見えた。
薄闇の中、薄い糸の束みたいな汚れの流れが、床から壁へ、壁から柱へ、柱から台座へと、絡まり合うように走っている。固まった煤の核。湿った苔の膜。誰かの祈りが腐ったみたいな黒いしみ。
それらに触れると、皮膚の裏側がチリチリと痛んだ。嫌な冷たさ。けれど、怖くはない。俺は何百回も、こういう感触を溶かしてきた。
雑巾が床を滑る。
黒いしみが、息を吐くみたいにスッと薄くなる。
その瞬間、祠の中の空気が、わずかに甘くなった。湿り気がほどけ、胸が楽になる。
俺は台座の周囲、柱、扉の蝶番、石段の一段目……詰まりの核から順に、黙々と拭っていった。
時間の感覚が消える。手は勝手に動き、目は汚れの流れだけを追う。耳のどこかで、水滴が落ちる音がしている。
『……あったかい。ひさしぶり。ひさしぶり、だ』
芽の声が、少しだけはっきりした。
台座のひびの隙間に指を入れて、煤を掻き出す。雑巾が真っ黒に染まるたびに、光の粒が一つ、二つ、空へと浮いた。
石段の口にしゃがみ込む。冷気が強い。下から吹き上げる風が、埃と腐葉土の粉を巻き上げる。
俺は箒を逆さに持ち、段の角を払う。ある角だけ、ありえないほどザラついていた。目に見えない“何か”が、そこに詰まっている。
「ここが、栓か」
息を吐き、柄を握り直す。
雑巾に蜜蝋を少し塗り、掌で温めた。滑りがよくなる。
角に布を当て、静かにこすった。
――コリッ。
小さな音。次いで、音が広がった。
ざざざざっ、と枯葉を踏むようなさざめき。祠全体が、長い眠りから目を覚ますみたいに震え、床の下から透明な風が湧き上がる。
石段の奥で、光の水が流れた。
冷えた空気が甘く、瑞々しくなる。鼻腔の奥がツンとするほど清らかな匂い。
台座の上の芽が、ぱっと明るく開いた。葉がもう一枚、増えている。
『とおった。とおった! ありがとう、管理者!』
「え?」
俺は手を止めた。
「いま、なんて?」
『管理者。ここは世界樹ダンジョンの入口。ずっと詰まってたの。あなた、通した。だから、管理者』
世界樹――。どこかで聞いた神話の名。世界の底を貫く巨木。魔素を吸い上げ、空へと吐き、季節と海流と人の運を回す“見えない根”の話。
冗談だろう、と思った。けれど、祠の奥から吹き上がる循環の感触は冗談ではなかった。
俺は笑うしかなく、膝に雑巾を乗せたまま、息をついた。
「……掃除で、世界樹?」
『そうじは手入れ。手入れは循環を戻すこと。あなたは戻した。だから、あたらしい管理者』
芽は嬉しそうに揺れた。
そう言われて、はじめて気づく。俺の身体の奥、胸骨の中心に、見えない紐が一本、すうっと伸びて、祠の床下のどこかへと繋がっていた。
心臓の鼓動が、それに合わせて少しだけリズムを変える。吸って、吐いて。
ゆっくり息を整えるうちに、台座の裏から何かがコロリと転がり出て、足元で止まった。
ビー玉ほどの透明な球――中に、針の先ほどの若葉が入っている。手に取ると、冷たいのに、指先から肘へ、心地よい温度が走った。
『浄滴。そうじの、おまけ。ふつうは出ないけど、いっぱい詰まってたから』
「おまけ……」
笑いが喉の奥で泡になった。
俺は球を布で包み、革袋にしまった。手の中が軽くなった気がする。
石段からの風は落ち着き、祠は少し明るい。柱の木目が見える。床の黒ずみは灰色になり、苔の緑が戻りつつあった。
『下、まだ詰まってる。瘴気だまり、いくつも。こわい?』
「……こわいけど、汚れを放置するほうが、もっとこわい」
俺は立ち上がり、雑巾を洗う水がないことに気づいた。祠の隅に壊れた甕がある。苔が張り付き、口に泥が詰まっている。
甕の内側に手を入れて、こそげ落とす。
掌で浄滴を一粒つぶして、甕に垂らした。
透明な水が、音もなく満ちていく。甕の表面から泥が剥がれ、苔がきらめく薄緑へと色を変える。
雑巾を浸して絞ると、布から甘い香りが立った。手は軽い。肩の重さも半分になった気がする。
『……あたたかい。世界樹、息できる』
芽の声は、さっきより少し大人びていた。
俺は笑って、石段に足をかける。
下へ降りる前に、ふと振り返った。祠の入口の外、山の黄昏が紫に変わりつつある。風に葉が揺れ、小さな光の粒が二、三、宙に浮かんだ。
こんな場所があるなら――俺の技能も、ただの無駄ではなかったのかもしれない。
「名前、教えてくれるか?」
『フリュネ。芽のなまえ。……ううん、女神のなまえ』
女神。さっき芽と言ったそれが、誇らしげに葉を震わせる。
俺はうなずき、右手で柄を握り直した。
「俺はユウ。フリュネ、手入れをしよう。ここからだ」
石段の奥は、冷たく青い。
最初の踊り場まで降りたとき、壁の苔の裏に、粘つく黒い膜がうごめいているのが見えた。
それは、汚れというよりログだった。誰かの失敗、呪いの言葉、途切れた祈り。何十年も溜め込まれ、流れを塞いだ記録の泥。
ぞっとする。だが、目を逸らせば、流れは再び詰まる。
「【清掃】」
布が膜に触れた。
音はない。だが、静けさが剥がれる音が、胸の内側で鳴った。
黒い膜が薄くなり、壁の内側からほのかな光が染み出す。苔は瑞々しい緑となり、階段の段差がはっきりする。
足元の空気が軽くなった。肺がよく膨らむ。
そのとき、踊り場の向こうの闇から、目が開いた。
――目?
暗がりの中、黒いゼリー状の塊がこちらを見ていた。瘴気スライム。森の木の根から栄養を盗み、祠の隙間から流れ込んだ穢れを食べて、膨らんだもの。
通常の討伐なら火か雷だ。俺にはどちらもない。
スライムは、ゆっくりとにじり寄る。床に触れた場所が腐り、木目が黒く波打つ。
『こわい? たたかう?』
「たたかわない。磨く」
俺は一歩踏み出し、スライムの前にしゃがんだ。
雑巾を軽く振り、蜜蝋をかすかに足した。
呼吸を合わせる。
汚れは逃げる。追えば逃げる。だから、逃げ道を先に磨く。
スライムの横手――壁と床の境目を滑らせる。角に溜まっていた黒が抜け、光の筋が一本通る。
空気が吸い込まれた。
スライムが、光の筋を追うように身を細くする。
俺は次の筋、次の角、次の段差……出口に向かって細い道を連ねた。
スライムは、逃げ道があると、そちらに形を合わせる。形が決まれば、汚れは“ただの素材”になる。
雑巾が最後の角を拭った瞬間、スライムは糸のように細く伸び、ぽんと音を立てて透明なゼリーへと変わった。
『……友だちになった』
フリュネの声が、嬉しそうに弾んだ。
足元に残った透明なゼリーは、ぷるぷる震えながら俺の靴先に触れ、まるで忠誠を誓うかのように、段の影に静かに座った。
触れると、ほんのり温かい。べたつかず、手に吸い付く心地よさ。
そこに、また球がころん、と転がり出た。さっきよりも少し大きい。中には、細い葉脈が螺旋を描いている。
『浄核。スライム、きれいになったごほうび』
「ごほうびの出る掃除、悪くない」
俺は笑って、球をポーチにしまった。
階段の下から、風がひとつ、またひとつと通り抜ける。
祠の上――地上の木々が、さっきよりも軽やかに揺れた気がした。
ふと、胸の奥に引きがかかる。見えない紐が震え、どこか遠くから、濁った流れの音がする。
ああ、と気づく。
これは、世界樹の詰まりだ。俺の【清掃】は、ただの床拭きではない。流れの形を見て、逃げ道を作り、詰まりを解く。
なら、やることはひとつだ。
「フリュネ。下の図、あるか? 詰まりの位置を知りたい」
『ある。けど、黒く塗られたところが多い。情報の汚れ。……でも、あなたなら、注釈をはがせる』
「注釈?」
『あとで、エリ……えっと、まだいないひと。司書のひとが来るといい。今は、わたしが読む』
芽の声は拙く、けれど確かだった。
俺は頷くと、階段の踊り場に小さく当番表を描いた。
今日の目標:一層の詰まり三か所。
道具:雑巾(洗浄/乾拭き)、蜜蝋、箒、浄滴×一。
休憩:詰まり一か所ごとに水を飲む。
文字を書きながら、自分で自分に呆れた。俺はどこへ行っても、こうして掃除当番票を作ってしまう。
でも、こうして書けば、心が落ち着く。やることが見える。
勇者の肩書きは似合わなかったが――管理者なら、少しは似合うかもしれない。
そのとき、祠の外で雨の音がした。
雨? いや、違う。
石の屋根を打つ柔らかな音。空から降ってきたのは、水ではなく――小さな素材の粒だった。
透明な欠片、緑の薄片、金の粉。俺が開けた通り道から、森じゅうの詰まりが少しずつ抜けて、素材として還ってきている。
『おかえり。世界樹の、こまかい部品』
フリュネが笑った。
俺は掌をひろげ、ひとつの薄片を受け止める。指に触れた瞬間、薄片は形を変え、小さなブラシになった。
思わず、息を呑む。
「……これが、俺の“クラフト”」
『そうじの道具は、世界の道具。あなたが使えば、世界は手入れされる』
俺は頷いた。胸の中のひもが、はっきりとした鼓動を打つ。
追放の足音はもう、遠い。
ここでなら、俺の【清掃】は、ただの地味なスキルじゃない。世界を動かす力だ。
階段の先に、うっすらと明かりが見えた。
俺は新しいブラシをポーチに差し、雑巾を絞り直す。
「さあ、仕事だ。詰まりを抜こう」
祠の上の雨――素材の雨は、まだやまない。
最初の一歩が石段に落ちたとき、確かに聞こえた。
どこか、遠くの井戸が光る音。
本日の清掃ログ
場所:山間の祠(世界樹ダンジョン入口)
詰まり除去:3(台座下の煤核/石段角の栓/一層踊り場の瘴気膜)
獲得:浄滴×1、浄核×1、素材小片×多数(自動クラフト:若葉ブラシ)
改善値:空気清澄度+18%/循環量+12%/祠内明度+9%
友好化:瘴気スライム→清澄ゼリー(待機)
新規クラフト
若葉ブラシ:細部の“注釈汚れ”を剥離。情報汚染に強い。耐久小。
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**次話(本日20:30予定)**は「空から素材が降る日」――市場がざわつき始めます。
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