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邪剣使いと悪神の二人旅  作者: デポジットカンチョーワールドカップ
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壱、三日重命

(初めて朝陽を怨んだのも、こんな日だったな……)


 重なり合った木の葉の隙間を縫って眼球を貫く陽光に瞼を薄めた瞬間、不意に過去の記憶がまざまざと黄泉帰ってきた。


―がっ!?―


 背中を突き抜ける衝撃と道着の上から突き支える玉砂利の感触。仰向けに見上げた雲一つ無い空と、その中心でじりじりと焼き付ける太陽に目を細めながら、漸く自分が道場から吹っ飛ばされたことを理解させられた。


―っぷ、はははははははははははははは!!!!!!―


 一拍遅れて聞こえてきた割れんばかりの嘲笑。その中心に立つのが得意気に残心を取った弟なのは何時ものことだった。


―何やってんだよ兄貴―


 袋竹刀を左手に下げて開け放たれた道場の扉から顔を出した陽久(はるひさ)がこっちを見下しながら出し抜けにそんな言葉を浴びせかけてくる。その目元に浮かぶ明らかな嘲笑に虫唾が走るのを感じながら、それでもせめてもの面目として口を開こうとしたところで弟が鬱陶しそうにシッシと手を振った。


―あー、もういい。それよりも他の奴らの稽古の邪魔だからさっさと上がってくれ―


―……―


あしらう様な口調。事実、まともに相対する気は無いんだろう。ただ、格式を重んじる道場の決まり事として、高弟への礼だけを命じてさっさと道場の中へと引っ込んでしまう。


―……―


―おい、早丸!―


まだじんじんと痛む背中に顔を顰めながら自分が吹っ飛ばされた道場の雨戸に手を掛けたところで、道場の中心に立つ陽久からの叱責が飛んできた。


―入り口から入れ―


―……申し訳、ございません―


顎で道場の正門をしゃくる弟に謝罪をすると、どこからかプッと噴き出すような音が聞こえた。けれど、悪いのがどちらかと言われれば、道場の規律を破ろうとした自分の方なのは誰の目にも明らかだった。背中から浴びせられるひそひそとした侮蔑の言葉に追い立てられて玄関口に回り足の土を払って道場に上がると、不思議なほどに似通った無数の嘲りの笑顔が待ち受けていたのだった。


―礼!―


―……―


弟の号令に従って頭を下げると、弟が当然の様に胸を張ったのが空気で分かった。道場の主である先生や師範代が居れば形ばかりは頭を下げ返してくるものの、その二人が不在の時までぼくに頭を下げる気は無いということみたいだった。

 そして、追い立てられるように道場の端に引っ込むと、遠巻きにした他の門下生達が一斉に小馬鹿にした薄ら笑いを向けてきたのだった……。


「……今の方が全然マシか」


 記憶の一片が終わった瞬間、口をついてそんな言葉が出てきた。たとえ鬱蒼とした茂みの中で飛散する藪蚊に苛まれていたとしても、あの日のことに比べれば心情的には遥かに……。



それが今この瞬間、何者かに命を狙われていたとしても、そう思えてならなかった。

 


 実家の父に廃嫡と勘当を宣告されたのはつい四半刻前のことだった。

 正直に言えば、それ自体には特に違和感を覚えた訳ではなかった。元々、組頭の家系から藩の執政をも視野に入れんと怜悧な頭脳を巡らせる父と比べて自分が非才であることは常日頃から感じていたし、人付き合いも苦手な自分では派閥の醸成に勤しむ父の助太刀にすらなれないことは誰よりも自分自身が理解していた。その名目も本家である先の筆頭家老・坂本図書の葬式を取り仕切る父に逆らったからという体裁を整えた内容で、これが昨日今日の思い付きではないことがはっきりとわかった。

 ただ、その場に居合わせた弟が浮かべる例のニヤニヤ笑いと、後ろで何とも言えない表情を浮かべた家人の姿が妙に記憶に残っただけだった。

 そうして身の回りの物を整えると、手切れとでも言うように雀の涙ほどの路銀を投げ渡されて生家だった坂本家の邸宅を後にした。その際、刀は持っては来なかった。剣術を苦手とする自分には無用の長物だったし、父も持って出ることは許さなかっただろう。ただ、あの時土下座してても安刀を持ち出していれば、今の状況も多少はマシだったかもしれない。

 それ(・・)に気が付いたのは数刻前のことだった。

 長い畦道を歩きながら隣藩の城下を目指していると、不意に背後から人の気配を感じた。


―……―


振り返ってみれば、そこにいたのは二人の武士だった。ただ、その足元には脚絆も巻いていなくて、とてもこんな田圃の真ん中を歩く様な装いには見えなかった。とはいえ、だから何があるという訳でもなく、そのまま前を向き直って歩き出した……けれど、次第にその気配が大きくなってきたところで、もう一度後ろを振り返った。


―……―


果たして、その二人の武士はまた素知らぬ顔を浮かべて畦道を歩き出す。けれど、その距離は明らかに先の目測から縮んでいて、二人がこちらとの距離を詰めに掛かっているのは明白だった。そして、視線を向けた瞬間に歩みを緩めたのも。


―……―


確信があったわけじゃなかった。むしろそんなことを頭に上らせる時点で自意識過剰と笑われることかもしれない。ただ、無言で距離を詰めてくる二人の武士の姿に妙な君の悪さを感じたせいもあってか、自然と早足になってしまっていたのだった。


―……―


直後、聞こえてくる足音の間隔が明らかに狭まる。丁度、早めたばかりのぼくの足音に合わせたかのように。


―……―


もう一度振り返ってみれば、もうだめだった。瞳孔が開き、浅くなった呼吸。その全身からは隠しようもない殺気が滲み出ていた。

 件の二人も感付かれたことに気付いたらしく、引き戻した手で腰の物の鯉口を切ったところだった。


―!!―


直後、駆け出したのは誰が最初だったか。暫しの間遮るものの無い畦道を駆け抜けた末にやっとのことで視界の悪い小山へと辿り着いたところで、ぼくは無我夢中で藪の中へと飛び込んだのだった。

 そうして鬼事が隠れん坊に変わったのがほんの少し前のことだった。


「……」


草葉の揺れ動く音とジージーと鳴る蝉の音に合わせて呼吸を取る。努めて周りの景色と音色に混ざり合うようにしながら……

 昔から人目を避けて気配を押し殺すのは得意だった。それも、弟やその取り巻き達に見下され馬鹿にされる様になってからは更に磨きが掛かったような気がする。あの、常に人の輪の中心に立つような性質だった弟に一度標的とされれば、忽ち周りの人間を含めた衆目の全てがこちらを苛んで纏わり付く藪蚊へと成り果てるのだから。そんな弟は剣の腕が立たない上に嫡子だというだけで家の跡取りと目されていたぼくを蹴落とすことを自身の使命と思い定めたらしく、ぼくに攻撃を加えることに努力と執念を惜しまなかった。そして、そんな人間に四六時中監視を受ければ、自然とこういった隠れごとが得手にならざるを得なかったのだった。

 ただ、気がかりなのは先の二人に入山の間際を目視されていたことで、例の二人がぼくのことを諦めるには相当の時間を要することになるだろう。


(それまでの間に、見付らなければいいけれど……!)


 そんなことを考えていると、不意に背後から人の気配がした。不規則ながらも流れる様な山風の音色の内で、ガサガサと間の早い不協和音。それが次第に大きくなるにつれ、間に入る苛立たし気な悪態も同様に大きくなっているのが分かった。


「ちっ、あの臆病者め、逃げ足だけは速いみたいだな」


そんな声がはっきりと聞こえたころには件の二人との距離は十間も無いみたいだった。


「それに隠れるのも得意ときたか。まるで鼠だな」


片割れの言葉を受けたのか、もう一人の武士がそう返したみたいだった。そして、二人同時に面倒臭そうにあからさまな溜息を吐き出したのだった。


「……」


その明らかな軽侮の色に、内心を苦いものが過った。けれど、その会話を聞く限りはまず間違いなく二人はこっちのことには気付いてもいない。


(このまま、どっかに行ってくれれば……!?)


そう思いながら息を更に潜めた瞬間、体を隠していた草葉がガサリとやけに大きく鳴ったのだった。

 視線を向けるとそこには青草と青草の間からヌッと顔を突き出した茶色い山犬の姿。そして一拍置くと、その突き出た短い鼻の下で黄色い山犬の犬歯が剥き出しになったのだった。


(まずい!)


内心そう思った。けれど、その口を手で塞ごうにも、激しく動けばこの場を察知されて本末転倒に陥る訳で。


「アオッ! アオンッ!! アオォォンッ!!!」


逡巡している間にも大きく口を開いた山犬がキャンキャンと大きく吠えかかって来たのだった。


「「むっ!?」」


そして、それは当然、丁度この場を通り過ぎようとしていた二人の武士にも気付かれてしまう。

 振り返った二人と山犬の尻、そして、青草に隠れながらもその奥に居るぼくとが一直線に立つことになる。


「いたぞ!!!」


「!!!」


武士の一人が怒号と共に白刃を抜いたのに合わせて、ぼくはその場から飛び出て二人と一匹に背中を向けた。


(どうしよう……)


獣道すら無い藪を掻き分けながら、内心を押し潰されそうになりつつも何とかそんな自問を捻り出す。もう、ここまで距離を詰められた以上、隠れてやり過ごすという手は使えない。そもそもが多勢に無勢という時点で隠れるには不利だ。かといって、何か有効な手がある訳でも……

 思案の定まらないまま、濁流で藻掻く様な状態で喘ぎながらも何とか必死で両脚を繰る。例え、ぼくがどうあろうがこのまま後ろの二人に追い付かれたら、一瞬のうちに膾か活け造りされてしまうのは自明の理なのだから。


「ハッ……ハッ……ハッ……ハッ?」


そうしてガサガサと不格好に逃げ惑ううちに、視界の端をチラッと何かが過った気がした。


「……」


普通に考えればただ無視をすべきものだっただろう。けれど、その通り過ぎたはずの何かがなぜか胸中に残って仕方なかった。もし、このまま通り過ぎれば体勢を大きく捩って振り返ることになる。そうなるくらいならいっそ……

 そんな打算にもならない言い訳を抱きながら背後を振り返ると、そこにあったのは傍からもあばら屋と分かる、朽ちてぼろぼろになった小さな木造の何か。それ以上の何物でもないはずのその建物はけれど、視線を外して走り過ぎようとしたその一瞬、チラッと山中ではまずあり得ない小さな“朱”が見えた気がした。


「っ!」


一度目を瞬くと確かにあった小さな“朱”。それは半ば以上朽ち落ちて剥げ上がった小さな鳥居の漆だった。


(鳥居……神社……っ!?)


そう考えた瞬間、脳裏をとある可能性が過った。それは必ずしも高い可能性ではない。むしろ、かなり分の悪い賭けだろう。けれど、今の状況を鑑みれば、躊躇している余裕はなかった。賭けに負ければ死ぬかもしれない。けど、賭けなければ絶対に死ぬ……そう考えれば、迷っている余裕なんて無かった。


「くっ!」


既にパンパンになった両脚に力を込めて、何とか逃げる向きを切り替える。それまで横へ下へと逃げていた舵を山頂側へと切ったことで、後ろの二人が「おい!あっちだ!」と叫んだのが聞こえた。

 そんな追手二人の声を背中に背負いながら、湿った山肌を踏みしめて何とか駆け上がると、漆の剥げた鳥居を潜り、格子が折れて黄ばんだ障子紙が小さく張り付いただけの社の扉を力任せに開け放つ。

 薄暗い小さな社の内に祭られていたのは無数の稲藁を束ねて作られた大きな人形のカカシ。豊穣祈願のために近くの農村の秋祭りの折にでも納めたと思われるそれが両腕を広げた堂々の立ち姿でぼくを出迎えた。そして、


「あった」


その股間に(・・・)、ぼくが目的としていたものがあった。

 それ(・・)の先を掴み引くと幸いなことにこちらの手入れも行き届いているのか、内の身には一点の錆も浮いていない。


「……」


次第に落ち着きを取り戻しつつある血脈の中で、胸の内のものだけがドクンと強く脈打ったのを感じた。それでも、逸る内心を押し殺して何とか息を整える。もし次の機を逃せば、後は自分の躯が残るだけだった。


「追い付いたぞ!」


そう思い定めて数瞬、不意にドカドカと鳴った木板を踏み鳴らす音と伽藍洞の社に反響する怒声。その中に浮かぶ微かな疲労と明確な嘲意がこの瞬間唯一の間合いを測るための伝手だった。


「ったく、手間取らせやがって!」


「……」


「何とか言ったらどうだ! 坂本の面汚しが!!」


さらに続く男の怒気にも振り返らずにジッと呼吸を潜める。望むのはただ一つ、


(あと一歩……あと一歩!)


「チッ」


只管口を噤んでいると、後ろの男が苛立たし気に舌打ちをした。その呼吸は明らかに遠く、そして間違いなく一段低い。幸い、仲間と思われる男の方は呼吸が遠い。狭い社の中なのと、何よりも窮したとしても歯向かう様な牙は無い……そう見切ったのかもしれなかった。


「最期に言い残す言葉は無ぇのかよ」


「……」


「それとも、ブルッて口も利けねぇのか!?」


まだだ。まだ、振り返れない。男が明らかな侮蔑を投げてこようと、振り向くことは出来ない。そして、


「何とか言ったらどうだ坂本の面汚し!!!」


(今っ!!)


とうとうしびれを切らした男がバンッと社の床板を踏み締めた瞬間、待ちに待った最初で最後の“機”にそれ(・・)を引き抜いた。


「か……?」


男の怒号が止まった。一回り目を見開いたお男の手には乱雑に握られた刀が一振り。そして、その首からは男が握っているのと全く同じ白刃が暗がりの社から伸びていたのだった。


「ごふっ」


未だ自分の置かれた状況が信じられずにいるのか、傷口を抑えることもなく刀を振り被ろうとした男の腹を蹴り飛ばして刀の切っ先を引き抜く。白刃を携えたまま、仰向けになった男はどうと仰向けに倒れるとそのまま足場を滑り、ゴツッと鈍い音を立てて苔むした石畳に頭を打ったのだった。


「田村っ!?」


蹴倒した男の姿に、もう一人の追手が悲鳴染みた叫び声をあげる。その声が木々の合間を縫って山中へと響き渡るのを聞きながら、ぼくはいつでも刀を合わせられるように注意を傾けながら狭い暗がりの社から外へと出る。木々の葉に覆われているとはいえ、暗がりにカカシが一体安置されただけの伽藍洞に比べたら幾分以上に明るい木漏れ陽に思わず顔を顰めながらも、鳥居の下に立つ男にそのまま切っ先を向ける。


「おのれぇ!!!」


そこでようやくもう一人の追手は自分の仲間が斬り捨てられたことを理解したらしかった。顔を真っ赤に染めて腰の物を抜き放ち切っ先を天に八双へと構える。


けれど、その一拍は先手を取るのに十分な間だった。


「っ!」


 もう一人の追手が抜刀するその動作の間、ぼくは蹴倒した男の手から太刀を毟り取ると、そのまま男に向かって思いっきり投擲をする。もちろん、当てずっぽうなだけの大ぶりの一撃はまともな照準となる訳もない。けれど、回転する刀の全長は相応のものがあって、件の追手は「ああっ!?」と叫びながら身を捩ったものの、その時には既に浅く肩を斬れていた。しかも、その動作の拍子に山道の泥濘に滑ったのか男はべちゃっと音を立てて尻餅をつく。


「しっ!!」


その最大の好機に、隣の躯が持つ残弾(・・)――腰に差した小太刀を引き抜いて追撃となる投擲を行う。


「ぐあっ!?」


果たして、二投目の小太刀はしゅるしゅると回転して、男の腹の端へと突き刺さる。二人目の追手は堪らず構えを解いて、深々と小太刀が刺さった腰元へと手を伸ばした。


「づっ!!!」


「あっ、なあっ!?!?」


 そうして開く胸元に、構えた刀の切っ先を向けて一気に突っ込む。ドスッという衝撃とずぶずぶずぶっと肉に太刀が埋まる感触、そしてブチブチッと臓腑を引き千切った音を聞きながら急所を穿った男を山道へと押し倒した。


「ひ、卑怯な……」


仰向けに倒れ、どこか虚ろな視線を空に向けた男が最期の呪いを吐き出す。けど、


「あんたに……言われる筋合いはない」


ぼくの応えが事切れた男の耳に届く機会は永遠に訪れるはずもないのだった。


「はぁ……はぁ……」


 二人の男の間で肺に溜まった空気を吐き出す。


(次が来るかもしれない)


ビクッビクッと首筋を揺らす血流に鼓膜を打たれ頭がじんじんと麻痺したような奇妙な感覚に陥りながらも、なぜかそれだけははっきりと思いつくことが出来た。そして、



―ほう、コソ泥のくせに中々どうして見事な手並みではないか―



呼吸が整いかけたその瞬間、突如山と木々の間を荘厳な……一種異様な声が朗々と響き渡ったのだった。


「!?」


咄嗟に立ち上がって刀を構えるけれど、人の気配は……無い。それはつまり、こっちからは相手の姿が見えていないにも関わらず、相手からはこちらの姿が筒抜けであることを意味していた。


「……」


ぼくは直前まであれだけ五月蠅く鳴っていた血の気がサーッと引くのを感じた。もし今この瞬間不意打ちをかけられれば、ぼくには避ける術が皆無だった。


「……」


―そう怯えるな。まるで必死に尾を逆立てる幼猫だな?―


「ッ……ッ……」


―ククク。まあそろそろ種明かしをしてやろうか―


「っ!?」


威風を湛えながらもどこか人を食ったような声がそう言うと、不意にバサッという音が鳴った。その源は先の伽藍洞となった襤褸社で、稲藁のカカシが崩れ落ちたものに思えた。


「……」


思わず唾を飲みながら切っ先を社へと差し向ける。もし、ここで逃げを打てば背後から何をされるかも分からなかった。ただ、だからと言って真っ向から相対することも正とは思えなかった。状況が分からない。それ以前に得体も知れない……少なくとも、ぼくがこの刀を引き抜いた瞬間、あの社の中に人の気配なんてものは一切無かった。


(化生……物の怪の類?)


そんな、ありもしない可能性を脳裏に浮かべながら内心で呟きつつ、声の主の姿を待つ。


「ほう、流石にここで尾を巻くほど愚かではないか」


まず最初にキシ……と社の床板を踏み締めたのは小さな右足。それも、雪景色を思わせる純白の、いっそ人ならざるものではないかと思わせる磁器の様に透き通った色合いの足元だった。


(……ん?)


やっぱり、思った通り化生の類かと思った瞬間、ふと妙な違和感を覚えた。


「ま、その手並みの人の子があっさりと逃げを打ってはつまらんか」


けれど、その答えに行き着く前に、先に思考に割って入った声の主が更に一歩前に進み出る。


「え?」


そして、その瞬間顕わになったそれ(・・)に、ぼくの口からはついそんな声が漏れ出ていた。

 最初に目に映ったのは黄金色に染められた艷やかな飾り紐の襞だった。次いで黒、紺、群青に染まった一場面を横一直線に切り裂く橙と、それを挟んで上下に置かれた金の星とカカシ人形の姿。その派手ではないものの意匠の凝らされた布地が“化粧まわし”であることに気付いたのはその場で一拍置いてからのことだった。


(なんで化粧まわし???)


頭にいくつもの疑問符を浮かべていると、白い御足の化粧まわしが更に一歩前に進み出る。板葺きの軒先から出ると、丁度陰になっていた姿の最後が顕になった。

 それは御足と同じく白い肌をしながらも、小柄でありながらがっしりとした力強い体躯だった。同時に胸元には幾重にも“さらし”が巻かれているにも拘らず、内の肉がそのさらしをたっぷりと押し上げていた。


(あ……)


 傲岸に組まれた両の腕に持ち上げられた大きな胸元に、ぼくはようやく直前の違和感の正体に気が付いた。初め、朗々と辺りに響いていたはずの厳かな声が、目の前の社から響くにあたり、なぜかその音が数段と高くなり、まるで若い青年のものから一回り幼い女児を思わせるものになっていたのだった。

 果たして、最後に姿を現したのは声の通りの小さな小柄な少女だった。

 深い青味がかったやや乱雑なおかっぱに、側頭部から天に向かってぴょこんと立ち上がった木菟(ミミズク)を思わせる癖っ毛。口元には不敵な笑みが浮かんでいて、白い歯と整った鼻筋は一目でも美貌のそれだと見て取れた。

 けれど、それ以上に目を引いたのは、その“眼球”だった。

 丸い眉の下に置かれた意思の強さを感じさせる大粒の両眼は本来であれば白であるはずの部分が漆黒に、逆に黒くあるはずの中心部が白磁にと不自然な色違いが起きていた。


(化け物!?)


その人間ではあり得ない双眸に、目の前の女の子が人ならざるものであることを理解させられて咄嗟に剣を強く握り締める。けれど、目の前の女の子は「クク……」とくぐもった笑みを漏らすと、悠然と組んだ両腕を解くとノシッ……ノシッ……と二段に分かれた社の階段をゆっくりと降りてきたのだった。


「この姿を前にしても肝を潰さんか。ますますもって良いな」


軋む階段を踏み降りて、ペタリ……ペタリ……と石畳の上へと降り立った彼女は出し抜けにそんな言葉を口にする。


「先の立ち回りといい、この気骨といい……見事だ。人の子よ」


その惜しみない称賛は一片の嘘も含まれていないように思えた。けど、


「……っ」


その瞬間、胸に去来したのは……苦く鋭い痛みだった。そして、そのぼくの胸中が顔に出てしまっていたのか、目前で対峙する力士の女の子が「不服か?」と誂う様な口振りで小首を傾げた。


「真正面から相対し、己の剣技だけであの場を潜り抜けられんかったことに存念があるのか?」


「それは……」


「たとえそうだとしても、生き残ったのは貴様だ。小僧」


「っ!」


見透かした様にぼくの想いを言い当てた彼女は、けれど依然変わらずニヤニヤとした不敵な笑みのまま、先の闘いの経緯を是と言ったのだった。


「自が身を隠れ蓑に一突き。さらには奪い取った戦利品を次戦へと生かす……何一つ恥じることのない立派な兵法よ」


「そう……かな」


尚も称賛を重ねる少女の言葉に思わずそう問うていると、目の前の少女は「そうとも」鷹揚に頷いた。小柄な少女のものとは思えない、堂に入った仕草に思えた。


「それで、そんな貴様の名はなんと言う?人の子よ」


「っ」


そう言ってコテンと首を横に倒す女の子。そんな彼女の問いに、また胸にチクリと痛みが走った。


「なんだ自分が……家が嫌いか?小僧」


「……」


自分では顔に出していないつもりだったけど、その僅かな変化を目敏く捉えたのか、彼女はそう問いを重ねてきた。押し黙るぼくに、彼女は「まあ良いか」と呟いて首を横に振る。


「あ、あの……」


「む?」


そんな彼女の所作を見るうちに、不意に口の奥から声が出ていた。


「どうした?」


「あ、え、えっと……」


不思議そうに小首を傾げた彼女に見据えられて、自分から声を掛けたくせに言葉に詰まってしまう。荘厳で皮肉気なのに、妙に気安い彼女の雰囲気につい口を開いてしまったものの、続ける言葉を用意していなかった。


「その……さ」


「うむ」


「女の子……だったんだね」


やっとのことで搾り出したのは、先の邂逅の直後にふと抱いた違和感についてだった。


「あ、いや、やっぱ「クク……そう見えるのも仕方ないかもしれんな」え……?」


我ながら拙い話題選びに前言を撤回しようとしたものの、当の彼女から返ってきたのは意外にも楽しむ様な含み笑いだった。


「だが、それは大きな間違いというものだ」


「んん?」


けれど、次に彼女は首を横に振るとキッパリとそう言い切ったのだった。いや、え?


「クク……」


混乱するぼくを前に、再び腕を組んで人の悪い含み笑いを浮かべる彼女。


「我こそは三日重(ミカノエ)。日の本にてまつろわぬ神が一柱。彼の天照大御神に抗いし悪意なる男神である!!」


「!?」


次いで放たれた轟雷を思わせる咆哮が辺りの木々を巻き込んで、この山一帯をビリビリと震わせた。まるで天災の様な名乗りにその震源をまじまじと見遣ると、当の本人はどうだ!と言わんばかりに胸を張っている。正直、色々と言いたいことはあるんだけど……


「いや、その外見で“男”神は無理があるでしょ」


ぼくの口から出てきたのは三日重が名乗った肩書に対する突っ込みだった。


「おお、それが第一声か。中々に太いやつだ」


「いや、だって……ねえ?」


ニヤニヤと笑う三日重に、ぼくは思わずそう返していた。

 先の登場の仕方や異様な風貌、更には今見せた咆哮といい、三日重が“神”と言ったのには違和感を覚えたりはしなかった。けれど、その直前に口にした“男”の方には突っ込まずにはいられなかった。


「どう見ても可愛い女の子だし……」


「なんだ、我を口説いているのか?」


「いやいやいや!?」


ケラケラと笑い出す三日重に、ぼくは思わず手を振った。いくら家を放り出された勘当息子とはいえ、そんな行きずりの相手を口説くほど身を持ち崩したつもりはない。……持ち崩す様な()も無いだろうと言われればその通りかもしれないけど。

 対して、ぼくの狼狽を前に一頻りヒーヒーと笑った三日重は薄っすらと目尻に浮かんだ涙を拭いながら「あー笑った笑った」と言った。なんて言うか、諸々の話抜きに、分かりやすく人が悪い。


「我がこの様な(なり)と成り果てたのは偏に貴様のせいだぞ?」


「流石にそれは言い掛かりが過ぎない?」


「言い掛かりなんぞであるものか。貴様が引っこ抜いたのだぞ?我が魔羅を。何なら今も正に握り締めておるではないか」


「何を……」


三日重の言葉に反駁しようとしたところで、ふとある光景が頭を過った。

 ぼくの手の内にあるのは先の社で引き抜いた御神体の一部である刀だった。そして、この刀は社の中で祀られていた大きな豊穣祈願のカカシに突き刺さっていた物だった。その突き刺さっていた場所というのが……


「ようやく気付いた「うわ、汚っ!?」おう、祟られたいのか小僧」


思わず刀を取り落としたぼくに、三日重が地の底から響く様な怨念を向けてくる。その声に慌てて神刀を拾い上げるけど……正直持っていたくない。


「ま、本来なら不敬でそのまま祟り殺してやるつもりであったが……一つ取引をせんか?」


「取引?」


「うむ」


頷いた三日重が薄っすらと悪い笑みを浮かべる。


「我はこの山の麓にある村に祀られて長いが、戦乱も無く変わり映えのせん状況にいい加減飽き飽きしておったのよ」


そう言って大仰にため息を吐く三日重。けれど、すぐに両目を開くと迷いなくこっちを見据えてくる。爛々と輝く白黒逆の眼にはどろどろとした欲望が浮かんでいて、今にも踊りかかってきそうな野趣が顕在している。


「そこに貴様が通り掛かった訳だ。それも単なる行き掛かりなどではなく、斬り合いをしなければならん身の上という訳だ」


「まあ、はい……」


「なら、貴様に付いていく限り、あまり退屈はしなさそうという訳だ。少なくとも今よりはな」


そう言って、三日重はニヤリと我欲と共に白い歯を剥き出しにする。


「神は己が宿る神体を離れる事は出来んが、裏を返せば貴様が我が本体であるその太刀を持てば我もこの退屈極まりない山から離れられるということだ。のう?」


「それは……」


「我が魔羅を存分に使った駄賃だ。我を連れて行け」


「言い方ぁ!?」


「クカカカカッ!」


一瞬躊躇ったのを見て、とんでもない言い方をしてきやがった。


「それで、返答は?」


「……」


突き付けられた三日重の要求に、一瞬言葉に詰まる。正直、先の名乗りを聞く限り目の前の彼女……彼?は明らかに悪神の類いだ。そして、それを裏付けるような悪意と愉悦に満ちた表情。間違いなく、この要求を飲むことは日の本に災いを振り撒くことになるだろう。


(けどな……)


じゃあ、そこまで後生大事に考えるほど日の本に愛着を抱いているのかと聞かれれば、それも間違いなく否だった。少なくとも、家に捨てられて国許に捨てられた身の上で、そんな忠を求められる筋合いも無い。端的に言えばどうでもよかった。それよりも、目の前の自称祀ろわぬ神が言う通り、ぼくは彼を使った経緯がある。そう考えれば……


「……」


「そうか」


ぼくが首を縦に振ると、ニッと笑った三日重が「契りは成ったな」と頷いた。


「では社にある鞘も持って行け。あれも我が神体の一部……丁度魔羅の皮にあたる故な」


「なんでわざわざ詳細に説明した!?」


この神、単純に性質が悪いだけじゃなく、下の話好きなのかよ。


「はあ……」


つい出たため息と一緒に構えを解くと、三日重は「クカッ」と愉快そうに漏らした。そんな三日重の脇を通り抜けて襤褸社の中に入ると、社の中に置かれていたはずのカカシが忽然と姿を消していて、唯一カカシの股間から伸びていた男根を模した鞘がポツンと取り残されていた。


「……」


刀に付いた血を拭って鞘に収めると、外で待っていた三日重が「行くぞ」と言う様に鳥居を顎でしゃくった。その隣に降りると、ペタペタと石畳の上を三日重が歩き出す。


「でだ」


と、半歩先を歩いていた三日重が唐突に何かを思い出したようにこっちを振り向いた。


「先程渋い顔をしておったから追及はしなかったが、始終貴様では不便だろう?」


「それは……」


三日重の指摘に一瞬言葉に詰まりかける。けど、それを言った三日重はすぐに「あー、勘違いするな」と手を振った。


「何も名乗れなどと言うつもりはない。だが、代わりの名は必要だろうからな。我が“名”をくれてやろうというのよ」


「それは……」


三日重の提案に、僅かな逡巡を覚える。けど、呼び名が無いのが不便というのはその通りだし、代わりとして名をくれるというのなら是非もなかった。


「じゃあ、頼める?」


「よし、任せろ」


ぼくがそう言うと、大きく頷いた三日重がニヤッと笑う。……もしかして、早まった?


「あ、あの「そうだな。黄昏(たそがれ)というのはどうだ?」


あんまり変な名にはしないでほしい……そう言いかけた瞬間、三日重が口にしたのは人の刻の終わりであると同時に人ならざるものの刻の始まり……逢魔が刻の名だった。


「祀ろわぬ神たる我と出逢った人間への名だ。これ以上なく相応しいだろ?」


「あー……うん」


意外に様になっている名前に、ぼくは思わず首を縦に振っていた。正直、“糞太郎”とか“尻丸”とか、面白半分にそんな名前を付けられるかと思ってた。


「なんだ、そういう名の方が好みだったか?」


「なわけあるか」


思わず突っ込むと、ケタケタと悪神は屈託ない笑顔を浮かべた。


「ちなみに、この名にはもう一つ意味がある」


「ふーん?」


そう言って謎掛けをするように流し目を送ってきた三日重に、ぼくは首を横に倒す。と言っても、昨日今日どころかつい今しがた出逢ったばかりの相手の思考なんて読めるわけもなし……。


「ダメ。降参」


「ふん。根気の無い奴め」


そう言って嗤った三日重はパンッと自身の横まわしを打った。


「我はな、天照が大嫌いなのだ」


「おい」


「クカカカカッ」


この自称神、さらっと朝廷と日の本の全てに喧嘩を売りやがった。


「ま、そういう訳だから、貴様は今この時より我が神官・黄昏だ。よいな?」


「駄目って言っても受け入れる気無いでしょ?」


「御名答! クカカカカッ!!」


そう言って、一段と哄笑を深くする三日重。その大笑に煽られて、辺りの木々が大きく空を薙いだのだった。





     ■





「あ、そうだ」


「む?」


 三日重神社を出ようとしたところで、ふと忘れ物(・・・)の事に気が付いた。


「どうかしたのか?」


「ちょっとね」


不思議そうに小首を傾げる三日重を一旦置いて、さっき斬った二人の武士の骸に引き返す。……うん、あった。


「なんだ、それは?」


「んー……戦利品?」


 後ろから覗き込んできた三日重に、武士の懐から引っ張り出した小さな巾着袋を掲げて見せる。


「なんだ、死体漁りか」


「まね。この二人がどこの家中の何様であろうと、お金になるならそれに越したことはないからね……予定より一人増えちゃった分、路銀はあればあるほど良い訳だしさ」


「そうか」


ぼくの肯定に口端を持ち上げた三日重が「なら、あっちも漁らんとな」と言って、社前で喉を貫いた死体の方へと向かう。……あ、


「ねえ、三日重」


「どうした? 黄昏」


「路銀もそうだけど、刀も取っておいてもらえる?」


「おお、そうだな。これも売れば路銀の足しにはなるだろう」


「あと、服と褌は洗って乾かせば……」


「む?」


「ついでに刀で髪も削いでもらえる? 鬘屋に売れば、そっちもそれなりの額になるからさ」


「お、おう」


「ん? どうかした?」


ぼくが死体の片割れの身ぐるみを剥いで、剃り落とした髪の毛を手拭いにくるんでいると、なぜか三日重に妙な視線を向けられる。


「黄昏」


「なに?」


「我が言うのも何だが、貴様も随分と容赦が……いや、この場合は躊躇が無いのか?」


「???」


「その死体、三途の川の奪衣婆ですらここまでやらんぞ。まあ、我がどうこう言う話でもないが」


そう言って、ぼくの足元に残った坊主頭の裸の死体をしゃくると鮮やかな手つきでもう一つの死体の髪を落としていく。


「ほれ、髪だ」


「ん、ありがと」


差し出されたもう一束の髪の毛もくるんで懐に仕舞うと、剥ぎ取った衣服の乾いたところで刀の血糊を拭い落とす。


「後は麓の水路か川で服を洗ってから出発かな。三日重の方は他に何かやっておきたいことはある?」


「無用だ。この狭苦しい社を出る備えなど百年も前に出来ているとも」


そう言って、ニヤッと笑った三日重。そんな三日重の不敵な笑みに軽く肩を竦めながら、今度こそこの場を後にする。

 後ろには二つの死体と、神の無くなった社だけがポツンと取り残されるだけだった。






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