第3話 カニバリズム
深夜になり、部屋には静けさだけが漂っていた。カーテンの隙間から差し込む月明かりが、2人の影をぼんやりと浮かび上がらせている。
桃は、ソファに座ったまま、菜沙の話を黙って最後まで聞いていた。
「そうだったんだね・・・」
「うん。でも、もう大丈夫。桃ちゃんが聞いてくれたから、なんだかすごく楽になれたよ。ありがとうね」
菜沙は、そっと手を伸ばして、桃の頭を優しく撫でた。
「私こそ、話してくれてありがとう」
桃がふっと微笑むと、菜沙も穏やかに微笑み返す。
「明日も学校だし、そろそろ寝なきゃね」
その言葉に、桃は首を傾げた。
「え?何言ってるの、菜沙ちゃん?」
「え・・・明日も学校あるから、そろそろ寝ようって・・・」
桃は一瞬きょとんとした顔をしたあと、何かに気づいたように小さく首を傾げた。
「ねえ、菜沙ちゃん。もしかして───『罰』、忘れてない?」
その一言に、菜沙の目がぱちりと大きく開かれた。
二人には、もうひとつの “秘密の約束"があったのだ。
それは───約束を破ったら、何か罰を受けること。
そのルールを思い出した菜沙は、確認するかのように口を開く。
「その罰の内容って、どんなの・・・?」
桃はにんまりと笑い、八重歯をチラリとのぞかせる。
「ヒントは、『歯」だよ」
その一言で、菜沙は小さく口角を上げた。
「あ、明後日大学ないから・・・明後日とかにしない?」
「別にいいけど、"手加減なしコース"にするけどいい?」
「い、今すぐやりましょう桃様!」
菜沙は拒否権がないと分かり、すんなりと認めた。
「りょーかい。それじゃ、ベッド行こっか」
桃は無邪気な笑みを浮かべると、菜沙の手を取り、そのまま寝室へと歩き出した。
桃は寝室に入るなり、ベッドのシーツを吸水シートに取り替えていた。
「どうして変えるの?」と尋ねると、「ベッドが血で汚れるから」と、桃は当然のように答えた。
その一言で、"罰”の内容を察した菜沙は、黙って窓の外へ視線を向けた。
空には、満月がくっきりと浮かんでいた。
「今日は満月か・・・この月の美しさに免じて、今回はなかったことにできない・・・?」
ぽつりと呟いた菜沙に、桃がため息混じりに顔を向ける。
「そんなこと言ったら、明後日までのコースにしちゃうよ」
「一日またぐのはエグいって、桃ちゃん」
苦笑する菜沙の横で、桃は手早くシートの交換を終えると、菜沙のほうを向いた。
「シート交換、終わったよ」
「ありがとう」
「うん!あ、そうだ、お願いがあるんだけど」
そう言って、桃はクローゼットへと歩き、白いワンピースを一着取り出した。
「これ、着てくれない?」
「いいけど・・・サイズ合う?」
「大丈夫!それ、菜沙ちゃんの部屋から持ってきたから」
自慢げに言う桃の額に、菜沙はデコピンをお見舞いした。
「いたっ・・・」
「次からは、一言断ってから入って」
「はーい」
頬をふくらませながら着替え始めた菜沙に、桃の視線が注がれているのを感じた。
(・・・いつも思うけど、なんでそんなに肌白いの。羨ましいな)
見られていることに気づいた菜沙は、イタズラっぽく微笑みながら振り返った。
「見惚れちゃった?」
「見惚れるに決まってるよ」
「え、あ、ありがとう......って、ちょっと恥ずかしいから後ろ向いてて」
「ほーい」
桃が素直に背を向けると、菜沙は小さく息を吐いて着替えを再開した。
からかうつもりが、思わず自分の方が照れてしまった。桃の真っ直ぐな言葉が、思った以上に効いている。
ワンピースに袖を通し終えると、菜沙は桃の方をちらりと見た。
さっきのことが頭に残っていて、まともに顔を見られない。
視線を逸らしたまま、ひと言。
「ど、どうかな?」
「可愛いよ。これからずっとワンピース姿でいて
ほしいくらい」
「どんな褒め方それ・・・」
笑いながらも、心が少し温かくなった。
そんな菜沙の目に、桃がリモコンを手に取る姿が映る。
「あれ?電気消すの?」
「うん。この部屋、ちょうど月明かりが入るから。そっちの方がロマンチックでしょ?」
桃がボタンを押すと、照明が落ち、窓から差し込む月の光がゆっくりと部屋を染めた。
光の筋は、ちょうどベッドの上に静かに降りている。
その光景に、菜沙は自然と微笑んだ。
「・・・確かに。ロマンチックだね。まさか桃ちゃんがそんなこと考えるなんて」
「バカにしてる?」
「あ、バレた?」
「も一っ!」
桃は頬を膨らませ、まるで音が聞こえそうな勢いで軽く菜沙をポコポコ叩いた。
けれど、痛みはなかった。
「ごめんって、冗談だよ」
菜沙が笑いながら桃の頭を撫でると、ふくれていた桃の表情がほぐれて、やわらかく微笑んだ。
すると、菜沙の中で何かが決まった。
「それじゃあ桃ちゃん、そろそろやろっか」
「いいけど、もう駄々こねたりしないの?」
「さすがにもうね。これ以上、恥ずかしいとこ見せられないから」
「ふふ、いいよ」
桃がそっと菜沙の手を取る。
二人は静かに、月明かりに照らされたベッドに座った。
二人はベッドに腰掛け、向かい合った。
菜沙には、桃がどんな“罰”を用意しているのか、なんとなくだが察しがついていた。
「ヒントは歯」───あの時、桃がそう言った。
桃のことをよく知る菜沙には、それが何を意味するか、嫌でも想像がついてしまう。
菜沙は心を踊らせながら、桃に一つ質問した。
「ねぇ桃ちゃん。今さらだけど・・・なんでワンピースなの?」
「え?そんなの、似合ってるからに決まってるじゃん」
桃の答えはあまりにも単純で、あっけにとられる。
そうかと思えば、次の瞬間、桃が菜沙の身体を押し倒した。
「えっ・・・」
一瞬、何が起こったのかわからなかったが、桃が自分をベッドに押し倒したのだと、菜沙はすぐに理解した。
桃は菜沙の腰の上にまたがり、じっと彼女の顔を見下ろしていた。
「菜沙ちゃん、そろそろやるね」
その言葉に、菜沙は小さく頷いた。
桃はそっと菜沙の手を取り、その温もりを確かめるように握る。
次の瞬間、桃はその手に顔を寄せ、静かに口を開いた。
迫ってくる桃の顔に、菜沙の身体は反射的に強張る。歯を食いしばったその瞬間───
「んっ!」
桃の歯が菜沙の手首に深く食い込んだ。
一瞬で肩にまで走った激痛は、全身を貫いた。
菜沙は声にならない悲鳴を押し殺し、必死にシーツを握り締める。耐えるしかなかった。逃げることも、拒むこともできなかった。
やがて、桃は菜沙の手首からそっと顔を離す。
その唇の端には、滴るように赤い血がついていた。
そして、桃は静かに咀嚼した。
激痛。
手首に走る焼けつくような痛みが、現実を突きつける。
手首を見ると───リスカした所が桃に食べられていた。
「菜沙ちゃんのお肉、とっても美味しいよ!」
桃は飲み込むと、恍惚とした笑みを浮かべた。
桃はただの人間では無い。
桃は人の肉を食べる食人欲望───カニバリズムを持つ人間である。
桃は生まれつきのカニバリズムではない。
桃が小学生の頃、突然、人肉を食べたいと欲望が芽生えてから定期的に人肉を食べている。
人間が食べる食べ物を食べても拒否反応無く食べれるが、幾ら人肉以外の食べ物を食べても欲望は抑えられない。
その欲望があることは、菜沙は知っている。
「うっ・・・」
菜沙は食べられた手首の痛みを歯を食いしばりながら、必死に声を抑えた。
桃は久々に食べる菜沙の肉に夢中になっている。
菜沙が苦痛に満ちた表情をしているのを気づかないまま、再び菜沙の手首に歯を食い込み、千切り、咀嚼する。
僅かに骨が露出しているというのに、菜沙は呻き声を漏らすだけで、気絶しなかった。
その異常さに、桃は何も思わない。
なぜなら、菜沙の肉を味わっているから。
ただそれだけの理由で、桃は菜沙の顔も、震えた指先も目に入らなかった。
荒くなる呼吸を抑えきれずにいながら、菜沙は目の前の光景に目が入った。
自分の肉を、美味しそうに、幸せそうに咀嚼する桃。
その顔を見ているうちに、菜沙の胸は、奇妙な充足感で満たされていった。
菜沙の肉を嚥下すると、桃はそっと菜沙の白い脚に手を添えた。
撫でるように指先を滑らせながら、ゆっくりと顔を脚に近づける。
そして、ためらうことなく、その脚に舌を這わせた。
「ひゃっ・・・!? も、桃ちゃん!?」
突如感じた、生温かく柔らかな感触に、菜沙は愛らしい声を上げた。
「ん? どうしたの、菜沙ちゃん?」
「い、いや・・・いきなり舐めてくるから・・・」
「だって、菜沙ちゃんの脚があんまり綺麗だから、つい」
桃は無垢な笑みを浮かべながら、次の瞬間、その脚に静かに噛みついた。
それから数十分ー
桃は、無心に菜沙の肉を貪っていた。
手首、脚、腕、肩。
その柔らかな身体のあちこちに、深く歯を立てては、幾度も肉を引き裂いた。
痛々しい噛み跡から、じわじわと血が滲み出し、やがて流れ落ちた。
真紅の液体はベッドのシーツに広がり、菜沙のワンピースにも深く染み込んでいく。
「はあ・・・はあ・・・」
息を荒げながら、出血し続ける菜沙の姿を見つめ、桃は自分の手についた血を舐めた。
その瞳には、陶酔の色が浮かんでいた。
「血まみれの菜沙ちゃん、かわいいね」
「・・・・・あ・・・・・」
菜沙は微かに声を漏らしたが、言葉にならなかった。
菜沙は何かを言おうとした。
けれど、全身を襲う激痛と、止まらぬ出血に意識は霞み、声にはならなかった。
微かに動いた唇を見て、桃は血に濡れた手で菜沙の頭を優しく撫でた。
「お仕置きは終わりだよ、菜沙ちゃん。お疲れさま。もう、寝ていいよ」
その言葉が耳に届いた瞬間、菜沙の瞼まぶたは静かに閉じた。
薄闇に沈むように、彼女はゆっくりと眠りへと落ちていった。
桃は、菜沙が眠ったことを確かめるように、そっと菜沙の頬を指で突いた。
その反応がないことを確認すると、顔を近づけ、菜沙の冷たい頬を撫でた。
そのまま、無言で唇を重ねた。
「おやすみ、菜沙ちゃん」
呟くように言葉を漏らし、桃は菜沙から離れて、静かにベッドを降りた。
机の上に置かれたスマホを手に取り、画面を起動させると、何事もなかったかのように、特定の人物へ連絡を入れた。