第2話 血と嘘
星空が夜空いっぱいに広がっていた。
家々の灯りが静かに外を照らし、誰もいない道は深い闇に包まれている。
その静寂を破るように、小さな鼻歌がほのかに響いた。
暗がりの中から現れたのは、桃色のショートボブに緑色の髪留めをつけた、小柄な女性一まるで少女のようなあどけない顔立ちをしている。
泉桃泉桃いずみ ももは、楽しげに鼻歌を口ずさみながら歩いていた。
(思ってたより早く終わったな。今日は、菜沙ちゃんのあったかいご飯が食べられそう)
自然と口元が緩む。
彼女は灯りの点る自宅へと、足取り軽く帰路をたどった。
桃は食事のことを思い浮かべながら家に帰り、扉を開けた。
その瞬間、つ・い・さ・っ・き・嗅・い・だ・匂・い・が鼻をくすぐる。
その匂いを嗅いだ瞬間、桃は勢いよく靴を脱ぎ、匂いのする方へ駆け出した。
たどり着いた先で、桃の目に映ったのは───
「おかえり、桃ちゃん。今日はお仕事早かったんだね。お疲れさま」
夕食を作っている菜沙の姿だった。
その光景を見た途端、桃は何も言わず、菜沙をそっと抱きしめた。
「どうしたの、桃ちゃん?」
首をかしげる菜沙に、桃は小さく呟く。
「・・・ううん、なんでもないよ」
「そう? 今日はシャワーでいいかな?」
「・・・・・うん・・・」
桃はそっと菜沙の体から離れ、入浴所へと向かった。
菜沙は服に隠れている手首を見つめながら、再び調理に戻った。
「ふぅ・・・」
湯船に身を沈め、桃は一息ついた。体の芯まで温まるにつれ、心も少しずつほどけていく。日々の疲れを癒しながら、自然と頭に浮かんだのは、菜沙のことだった。
「・・・菜沙ちゃん・・・破っちゃったね・・・」
ぽつりと呟いた声が、静かな浴室に響く。
やがて桃は静かに立ち上がった。
洗面所のタオル掛けから柔らかいタオルを取り、水滴を丁寧に拭った。
寝巻きに着替えた桃は、リビングへ向かった。
テーブルには、夕食がずらりと並んでいる。
「すごいね」
「え? そうかな?」
菜沙は照れくさそうに頬をかいた。
テーブルの上には、桃の好きな中華料理が揃っていた。
桃が椅子に座ると、菜沙も向かいに腰を下ろす。
二人はそろって手を合わせた。
「・・・いただきます」
「いただきます」
箸をとり、一口食べる。
菜沙は幸せそうに微笑んだ。
だが、桃には料理の味がしなかった。
夕食を食べ終えると、菜沙は食器を片付け始めた。
桃はソファに座り、録画しておいた番組をぼんやりと見ていた。
食器を洗い終えた菜沙が、そっと桃の隣に腰を下ろす。
菜沙は桃の横顔を覗き込むようにして問いかけた。
「ねぇ桃ちゃん、ご飯・・・美味しかった?」
その声はかすかに揺れていた。
桃は菜沙の顔を見つめ、小さく頷く。
菜沙の肩から、力が抜けたのがわかった。
「良かった・・・」
菜沙は柔らかく笑みを浮かべ、桃の顔をじっと見つめた。
数秒間、ふたりの視線が交差する。
沈黙のまま、菜沙はそっと手を伸ばし、桃の頬に触れた。
そのまま顔を近づけ、唇を重ねようとする——
だが、その瞬間。
桃の人差し指が、ふたりの唇の間にそっと差し込まれた。
菜沙はわずかに距離を取ると、首をかしげた。
「どうしたの、桃ちゃん?今日はそんな気分じゃなかったの?」
桃は何も言わない。ただ視線を落とす。
「・・・桃ちゃん?」
不安げに呼びかける菜沙に、桃は小さくつぶやいた。
「・・・よね」
「えっ? なんて言ったの、桃ちゃん?」
ゆっくりと顔を上げた桃が、菜沙の瞳をまっすぐに見つめて、告げた。
「菜沙ちゃん、私に隠し事をしているよね・・・?」
その言葉に、菜沙は目を逸らした。
それを見て、桃は確信した。
同時に、込み上げる憤りと悲しみが胸を締め付けた。
「私が・・・桃ちゃんに隠し事なんて、するわけ──」
菜沙は誤魔化すように言った。
だがその態度は、桃にとって火に油を注ぐようなものだった。
「だったらなんで! 手首から血の匂いがするの!?」
桃は菜沙の言葉を遮り、右手を掴むと袖をまくった。
目に飛び込んできたのは、包帯の巻かれた右手首───
それを見つめながら、桃は胸を締め付けられるような痛みとともに、かすかに呟いた。
「ねぇ菜沙ちゃん・・・私って頼りないの?」
その言葉に、逸らしていた菜沙の目が揺れ、慌てるように彼女は言った。
「ち、違うよ、桃ちゃん。桃ちゃんは頼りなくなんてないよ」
「じゃあどうして・・・私に・・・話してくれないの?」
菜沙は口を開きかけて、言葉に詰まる。桃は俯きながらも、潤んだ目で続けた。
「私、怒ってるんじゃないの。菜沙ちゃんがリスカしたことにじゃなくて・・・私を頼ってくれなかったことに、怒ってるの・・・」
桃は知っている。
菜沙が自傷癖を持っていることを。
それを知った桃は、菜沙とある約束を交わした。
その約束は、辛い時や悩みがあるときには、決して隠さずにお互いに打ち明ける、というものだった。
しかし、菜沙はその約束を守れなかった。心の奥底で抱え込んだ苦しみが、彼女をどんどん締め付けていったのだ。
「確かに私は、菜沙ちゃんと比べたら頭も良くないし、気を使うこともできない・・・頼りないのは、私自身よく分かってる。でも・・・」
桃は言葉を詰まらせ、目を伏せた。
しかし、涙が瞳に溢れ、彼女の心の奥底からこぼれ落ちた。
顔を上げ、目を真っ直ぐに菜沙の目を見つめながら、桃は震える声で続けた。
「それでも、私は菜沙ちゃんの力になりたい。
たとえその悩みが解決できなくても...頼って欲しいんだ。だって、私は・・・菜沙ちゃんの恋人だから・・・」
涙が頬を伝って流れ落ちるのを止められなかった。
自分の本音を隠すことなく、全てを菜沙に打ち明けた。
その言葉を聞いた菜沙の胸は痛んだ。自分がどれほど桃を傷つけていたのか、今更ながらに気づいた。
菜沙は目に涙を浮かべ、ゆっくりと桃に手を伸ばした。引き寄せるように、彼女を自分の胸に抱きしめた。
「ごめんね、桃・・・私、ちゃんと約束守れなくて・・・」
菜沙の声は震えていた。
桃はそっと菜沙の背中に手を回し、優しく抱きしめ返した。
「大丈夫。私がいるから」
ここまで読んでくださりありがとうございます!
また近いうちに3話作出しますので
続きが気になるからはぜひ読みに来てください