3 【棒は棒でも】
鉈おじさんの私刑から間一髪のところで救い出してくれた勇者様は、僕を抱えながら黙って森の中を歩き続けた。どれくらい歩いたのかまでは覚えていないけれど、水の流れる音が聞こえる場所だったことはよく覚えている。その場所まで来た勇者様は僕をお姫様のように丁寧に地面に降ろすと、慣れた手つきであっという間に火を起こし、隣に座って話しかけてきた。
「それで、アリー……ちゃんでいいのかな?」
1人で放浪するようになって最初の頃、僕は世の男たちから甘い言葉やら食べ物やらをぶら下げられては身体を狙われるという手口に散々あった。その経験から、当時の僕は自分の身を守るために髪を短くカットにして、ボロでグルグルに巻いて胸を潰し、口調も変えて、パッと見ても女には見えないように過ごしていた。流石の勇者様でも自信がなくて、僕に直接確認をしてきたんだと思う。
「はいっ!! いやっ!!」
僕は元気よく肯定してから否定した。この時の肯定については女の子ですよ? あとはわかりますよね? っていう意味で間違いはない。何を否定したかについては、当時の僕の心境を説明しないと絶対わからないと思うから、説明させてほしい。
本当は勇者様と過ごす日々の中で少しずつ心を開く繊細な、いかにも勇者様が好きそうな女を演じたかった。でも、好きが止められなくって。気持ちが先走っちゃった、というか。乱暴な言葉使いの男の人は決して好きじゃないけど、好きな男の人だけには僕の事を所有物のように扱ってほしい、といいますか。そういう思惑があって、僕の事は呼び捨てにしてください、という意味で否定をしたわけ。
「え? どっち?」
勇者様は混乱していた。当たり前だけどね。気持ちだけを前に前に出しても、きちんと言葉にしなきゃ愛しの彼からの返事というのはこんなもんなんです。それを知らなかった僕は最初の作戦を失敗した。しかもここから、あと1年ぐらい、恋とかいう、おそろしい化け物に苦しめられることになる。
「だから僕は、女の子なんですけど……」
僕は今した説明と同じようなことを勇者様に言おうとしたけれど、この時『呼び捨て』という単語が全然出てこなくて黙ってしまった。もどかしいかもしれないけれど、温かく見守ってほしい。この時の僕はまだ世界の事を何も知らない生娘だったんだから。
「うん……」
勇者様は唸るような声を出しただけで、信じられない事に僕が次にアクションを起こすまでの間、優しい顔でずーっと待ってくれていた。未婚の若い女で。魔物使いで。話してる最中に急に黙って。相手が普通の男の人だったら冗談抜きにもう殴られている。少なくとも、それまでに僕が見てきた世界というのはそういうものだった。
何とかしなきゃと思った僕は勇者様の顔色をうかがった。全然怒ってない。イライラしてない。優しい。目も可愛いけど、よく見ると口もちっちゃくてすごく可愛い。好き。そんな事ばかりに脳みそを使っていると、ますます何も言えなくなっちゃって。
「……ごめん、なさい」
とうとう泣いちゃったりして。最悪だよね、もう。勇者様も意味わかんなかったと思う。だって泣いてる僕がその涙の理由をわかってなかったんだから。振り返って考えてみると、この時僕が泣いたのは彼と過ごす時間が幸せすぎたから、かな。ずっと1人だったんだもん。あとは焚き火の力。火なんかずっと焚けなかったし。そんなことしたら、すぐに居場所がバレちゃうからね。
「大丈夫だぁ……嫌なら、無理に話すことはねぇ」
そう言って勇者様はくるりと背中を向けて、ご自分の股のあたりで両手を激しく動かし始めた。
「……ゆ、ゆうしゃさま?」
僕はといえば、いきなり一人でおっぱじめてしまった勇者様に驚きすぎて、涙が引っ込んでしまっていた。
「うん?」
「あの……酷い見た目かもしれませんけど、あなたの目の前にいるのは確かに女です。どうか……おひとりで、なさらないでください」
とっくに覚悟はできていた。けれどまさかまさかの、このタイミングで。勇者様は泣いてる痩せ女がお好みだったのかしら。まぁ……いいか。きっかけはどうあれ、これで僕も晴れて一人前の女になれる。
「別に見た目は悪くねぇけど……手伝ってくれんの? どうもありがとう」
僕もなかなかの田舎生まれだけど、そういったことに関してはとても閉鎖的な環境で育った。でも勇者様の故郷ではどうやら違ったらしい。彼はすごく気楽に、股間の部分を僕に見せつけるようにして振り向いてきた。
「疲れてるとこ悪いんだけど、ちょっと乳鉢持っててくれる? 一人だと滑っちゃって、やりにくいんだ」
勇者様の股間にあったのは乳鉢と乳棒だった。乳鉢の中には茶色い木の実がわんさと入っていた。
「アリーちゃん?」
「……アリーでいいです!!」
肩透かしを食らった僕はキレ気味に呼び捨てを強要した。勇者様は少し驚いた顔をさせてから声を出して笑った。
「はっはっは。ごめんよ? アリーが痩せてっから、栄養あるもん食べさせてやりてぇなと思って……いっぱい入れすぎちった」
「……ありがとうございます」
この優しさが僕をずっと、ずーっと、何なら今でも苦しめ続けてくれている。出会ったその日に生きる喜びを与えてきた勇者様を、僕は一生許さないと心に決めている。