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官庁街から10分ほど歩いた所にある繁華街の角にある赤提灯の店「みすず」に入った。アカネに連れられるまま洋輔はついていき、奥のカウンター席に座った。
「あら、アっちゃん。そちら初めての方ね」
「別の課の新人だよ。おばちゃん、生二つと灰皿」
「あいよ」
おばちゃんと呼ばれた三角巾をつけた年配の女性店員が親し気にアカネに話し、アカネがこの店の常連だと洋輔は理解した。カウンター越しから先ほどの女性店員が灰皿を出してきた。アカネはポケットから煙草とライターを出してまず一本火を点けて吸う。警察署でよく見る光景なのだが、アカネの横顔は美しく、まるでドラマのようで洋輔は見とれてしまう。
「お前吸わねぇの?」
「あ…えっと……す、吸わないです」
「ふーん…今時喫煙なんて流行んねぇか」
煙を吐く姿もスマートで洋輔の心臓は掴まれるような感覚になる。
「アっちゃんも歳を考えて禁煙しちゃえばいいのに」
「いいんだよ」
おばちゃんが生ビールと小鉢に入った塩辛を二人の前に配膳する。
「じゃ、お疲れ」
「お疲れ様です」
社交辞令のように乾杯をするとアカネは半分以上を一気に飲みこむ。洋輔もアカネほどではないが疲れ切った体はビールの冷たさを求めていたらしく、いつもの倍は一気に飲んだ。
「で、ボウズは何食べる?」
「灰島警部補、俺はボウズじゃなくて」
「東海林 洋輔だろ? 知ってっけど面倒だからボウズな。あとその警部補ってのやめろ。普通に呼べ」
「じゃあ……灰島さん……てか灰島さんも普通に呼んでください」
洋輔は不貞腐れたようにそう言うとアカネは煙草をひと吸いし、煙を吐いて「めんどくせぇ」と頭を掻くと吸殻を灰皿に押し付けた。
「お前絶対オンナに面倒臭がられるタイプだろ、洋輔」
不意打ちに下の名前で呼ばれた洋輔は妙に嬉しくなったらしく頬が緩んでいた。
「何ニヤついてんだよ、キモ」
アカネは残りのビールを飲み切ると、すぐにおかわりを頼んだ。ジョッキをおばちゃんに渡すと同時にもつ煮が出された。
「きたきた。お前も食えよ」
割り箸を割ってアカネはもつ煮のレバーを食べた。洋輔は勧められるままアカネと同じくレバーを食べる。
「あ…美味いっす!」
「あらー、お兄さんも気に入ってくれたかしら」
洋輔の反応におばちゃんは嬉しそうな表情を浮かべる。
「アっちゃん、久しぶりだなぁ。これサービスだよ、お連れさんも」
奥からタオルを巻いた大柄の初老の男性が出てきた。男性は焼き立てのつくねタレ串を2本出してくれた。
「大将ぉ、サンキューな」
「いいってことよ。ところで青井の倅はどうにもなんなかったのか?」
大将は悲しそうに眉を下げた。「青井の」というワードで洋輔はぴたりと動きが止まり、耳を立てる。
「暴対法も強化されたしな…凌雅も覚悟してたみてぇだし、出てきたらアイツの好物食わせてやってくれよ」
「そっか…もし会ったら俺らは待ってるぞって伝えておいてくれ」
「わかったよ」
アカネも悲しく笑うと大将は厨房に戻る。アカネは2本目の煙草に火を点けた。
「あの…灰島さん……この店って、青井 凌雅と関係あるんですか?」
「ああ。凌雅もここの常連だ」
「どうしてヤクザと同じ店に通ってるんですか?」
アカネは「ふー」と長めの煙を吐いたら、二杯目のビールを飲んで洋輔の方を向いた。
「警察署員の中には、元ヤンや貧困層の出身がごまんといる。俺もその中の一人だ。普段お前が接してる捜査一課はいわゆる『エリート』って、ほんの僅かな人種だということを忘れるなよ」
アカネの言うことが洋輔の胸に強く刺さった。αで生まれ、いい大学に進学し、周りも同じような環境下で、その世界しか肌で感じたことがなかった。
「一課には、できないですね」
「あ?」
「俺はαで、Ωって長年の差別から致し方なく犯罪に走ってしまうんだなって思い込みがありました。今日、灰島さんはΩ相手にどうして寄り添ってあげないんだろうって最初は疑問でした。だけどΩが発情期やフェロモンをコントロールするなんて…知らなくて…無知だなって、俺」
「Ωの不妊治療でフェロモンを放出する薬は合法で流通してる。Ωも故意に盛れる時代になってんだよ、覚えとけ」
つくね串を一本頬張ると、すぐさまアカネは2杯目のジョッキを空けた。洋輔もついていくようにやっと1杯目を空にする。
「次、何飲む?」
「あ…えっと……俺はコークハイボールが、いいです…」
洋輔の酒の好みは甘い酒だったが、この古い店にはカクテルなどはなく、卓上のメニューで甘そうな酒は「コークハイボール」か「ジンジャーハイボール」だった。
「あんな甘いのよく飲めるな。おばちゃん、ビールおかわり! あとコークハイとポテサラ」
「あいよー!」
ジョッキをおばちゃんに下げてもらうと、少し砕けた空気になったところで洋輔は踏み込んでみる。
「あの…さっき興奮剤って言ってましたけど、そのぉ…灰島さんも使ったことあるんですか?」
「あー…あるぞ。警察学校の時に」
「ぅえ⁉ だ、だだだだだ大丈夫なんですか⁉」
「大丈夫だって。くっそセクハラするαの教官と同僚追い出すのに使っただけだし」
洋輔は警察学校出身の同期から聞いたことを思い出した。ここ10年でΩの警察官の採用が急がれ、Ω性の学生もいたが、彼ら彼女らがヒートを起こし、自制できなくなったα、βの学生が懲罰を受け退学させられ、前科一犯がついたという事例があったらしい。
「俺の頃はΩの採用や保護もなかったが男女問わずにレイプは犯罪だったし、その辺の規則を利用したんだよ。Ωはみーんな周期になってヒート起こして無抵抗で弱い存在って思い込んでくれたおかげでな」
「思い込み…ですか?」
「俺は自発でヒート起こせないんだよ。子宮ねぇから」
アカネは立ち上がると、洋輔の手を引いて店の奥に連れて行った。連れ込まれたのは狭い個室トイレだった。鍵をかけ、アカネはジャージをずらして下腹部を洋輔に見せた。
「あ……」
下腹部の中心に痛々しい傷跡があった。ここから子宮を取り除いたのだろうと分かる。
「こういうΩもいるってこと、覚えとけよ」
「はい…」
洋輔は思わずその傷に触れると、自然に涙が流れた。
(もう今日は疲れたのかもしれない…)
疲れた体と脳みそには容量オーバーな知識量と現実なんだと言い聞かせることにした。
(目の前のΩの人は、αの俺と背もそんなに変わらない…180センチ近いかな? 身体だって俺なんかすぐにぶっ飛ばされるくらいに鍛えられてるし、Ωの持つと言われる儚さとか可愛さは一切ない……だけど美しい…)
「なーに泣いてんだよ。出るぞ」
「あ……はい…すいません」
アカネはすぐに席に戻ったらしい。洋輔は手洗い場で顔を思い切り洗った。