一 蛇の山
まだ薄暗い明け方。
鬱蒼と木々が生い茂る山の中に、山羊の足音だけが響いている。
どこまでも続くかと思われた木立――、それが突然に終わりを告げ、視界が開けた。
目の前に立ちはだかる山を見て、あまりの驚愕にニユもモイザも絶句せずにはいられない。
だってその山の地肌は見えず、代わりに一面の蛇が待ち受けていたのだから。
仙人の家を後にし、山伝いに北へ進む事二日。
朝から晩まで木々の群がる道なき道を行き、そしてやっと三日目の朝早くに目的地の山へ着いたと思ったら――。
小山を覆い尽くす数え切れない黒い大蛇がお出迎えという、この有様である。
「……うげ、気持ち悪い」
ニユの背後で身を強張らせるモイザが、やっと発した言葉がそれだった。
漆黒の鱗で全身を覆った無数の蛇達が、こちらへと注目していた。紫色の舌をチロチロと揺らめかせ、金色の瞳は獲物を前にした猛獣の嬉々とした色を宿している。
その姿は間違いなく、見慣れた魔獣だった。
「でもどうして……?」ニユは思わず首を傾げる。
何故なら魔獣は共食いし、滅びた筈だからだ。一部例外もいたが、こんなに群れている筈はないのである。
分からない。何も分からない。
しかし怖気付き、引き返す訳にはいかない。
「この頂上に、東の悪魔がいるんだもん」
エジーからひょいと降りると、ニユは棍棒を構える。これだけの数を相手にするのは久し振り――、だが負ける気はしない。負けてやるものか。
「モイザ、やるよ!」
「……分かったわよ」
溜息混じりのモイザの返事を聞きながら、ニユは蛇の群れへと突進して行く。
無数の蛇が牙を剥き、ニユへ飛び掛かって来た。しかし、「遅い!」
瞬きの後、蛇どもの頭が棍棒に叩き潰されてひしゃげ、血が辺りを舞い散った。
だがすぐに、ニユの背後へ漆黒の魔蛇が迫り、彼女の首を狙う。
「させないわよ!」
赤毛の少女の叫び声と共に降り注ぐ深紅の雨。大蛇の首が鉈で切り落とされたのだ。
「ありがとうっ」
モイザはすぐにそっぽを向き、別の敵へと攻撃を仕掛け始める。
ニユも負けてはいられない。蛇の群れへと駆け出し、その太い棍棒を振りかざした。
「やあっ、やあっ!」
グシャ、グシャ。次から次へと棍棒に蛇の頭が叩き割られ、鉈に真っ二つにされた猛獣の黒い下半身が宙を舞う。
そんな血みどろの時間が、どれ程続いただろうか。
背中に噛み付こうとして来た大蛇を肉片に変えてチラと横目で見渡してみれば、もう周囲には蛇の死骸だらけで、生き残っている魔獣はいなくなっていた。
「ふぅ。とりあえず、やっつけたみたい……」
それを見て少し安堵したニユ。そろそろエジーの元へ戻らなければと思い振り返った彼女は、息を呑んだ。
仲間達の死を見た大蛇が四方八方から押し寄せて来ているのだ。
「危ない!」
まだ何も気付いていないモイザへ、魔蛇の群れが襲い掛かろうとしている。
そこへ咄嗟に飛び出し、ニユは棍棒を振るった。
直後、腕に牙を突き立てようとしていた大蛇の全身が肉の塊へと化し、モイザは危機一髪で救われた。
「大丈夫?」
微笑む茶髪の少女に、赤毛の少女は軽く頷く。それに胸を撫で下ろしながら、だがニユは気を抜ける筈もない。
次々に襲い来る第二軍、それらを退治しなければならないのだ。
「もっと頑張って、やっつけちゃおう!」
叫び、ニユは蛇どもへと駆け出す。
蛇山の戦いは、まだまだ続くのだった。
一体どこから沸いて来るのやら。倒しても倒しても、魔蛇の群れは尽きる事を知らない。
どうしてこんなにこの山には魔獣が屯しているのか。モイザの考えでは、この山の主、東の悪魔が魔獣を使って自分を守っているのではないかという事だ。当然だが、悪魔というのはなんとも厄介である。
それはともかく、戦い始めてからもうかなり経つ筈である。
一軍と二軍は一掃し、エジーに跨って山を登り出したのだが、この道のりがなかなか進んでいない。
何故なら、少し登った先に三軍、四軍と蛇軍団が待ち構えていたからだ。
「はぁ、はぁ……」
息を切らしながら、ピンクのワンピースを揺らして跳躍、蛇の頭を叩き潰す。そしてニユはへなへなと座り込んだ。
「これでどうやら、ひとまずは収まったみたいだわ」
「そうだね。はぁ、疲れた……」
現在、時刻は朝の九時。
今やっと、四軍を退治し終えた所である。朝早くから戦いっぱなしなので、良い加減ニユもモイザも疲れ果てていた。
「なのにまだ山の三分の一しか登ってないなんて……」
見上げれば、蛇だらけの山の頂上が見える。まだ彼らはこちらに気付いていないようだが、一度気が付けば狙って来る事間違いなしだ。
「とりあえず朝食にしましょう。うち、お腹空いたわ」
モイザの言う通り、ニユも腹ぺこだった。そう言えば朝から戦いに次ぐ戦いで、朝食を食べていない。
「そうだね。食べながら考えよう」
効率の良い蛇の倒し方。
千や二千なら、武器で倒す事もできるだろう。しかし今まで倒して来た分でそれの二、三倍は簡単に超えている。この先にはもっといると思われ、そんなのを一々殺してはいられない。
「でもどうすれば……?」
蛇を避ける方法は? 恐らくないだろう。あったとしても、その方法をニユもモイザも知らない。
大蛇の体長は三メートル以上。ちょっとやそっとで逃げたりするとも思えない。
つまり、皆殺しにするしかないという事になるが――。
「そんな方法なんて……。あっ!」考え悩んでいたニユは突然に閃きを得た。
「どうしたの、ニユ?」訝しげにモイザがこちらを見つめて来る。「まさか、何か?」
「うん」
とても突飛な発想で、実現できるかどうかは分からない。だが相談してみる価値は充分にあると、ニユは思った。
「ねえモイザ。この山に火を付けない?」
茶髪の少女の発言に、赤毛の少女は唖然となる。「……山を焼く?」だがすぐにそれは嘲笑に変わった。「馬鹿ね。それじゃ、うちらまで焼けてしまうわ」
赤いリボンの少女は首を振り、笑顔で答えた。
「それは心配ご無用。……一回山を降りて、逃げとけば良いんだよ」
炎が、黒かった山を橙色に染めて燃え上がり始める。
あちらこちらから魔獣の高い断末魔が響き渡り、灼熱の舌に舐められた蛇達が次々と黒焦げになって行っていた。
「うまく行ったでしょ?」
自慢げなニユの隣で山を眺めながら、モイザは吐息。「そうね。驚いたわ、あんたもたまには頭が回るのね」
その褒めていない賞賛に、だがニユは素直に笑顔だ。お人好しぶり、またまた発揮である。
ニユが提案して、渋々モイザが了承するなり、山の随所に、ランタン用の蝋燭で付けた火が放たれた。
そして瞬く間に山は業火で包まれ、黒蛇が火炙りにされる今の状態である。
「まあ、途中モイザが炎に呑まれそうになって危なかったんだけどね」
「それは言わないの」
蛇に絡まれ逃げ遅れそうになった彼女を、ニユとエジーが協力して助けた一幕があったのだが、それは割愛。
少女二人と傍の白山羊は、しばらくの間遠くから炎の山を眺め続けた。
けたたましい魔獣の絶叫と悲鳴がやがて小さくなり、そして聞こえなくなると、モイザが「そろそろ良い頃合いだわ」と言って山の方へ駆け出す。
その後を追い、ニユも跨ったエジーを業火へ飛び込ませる。
無謀な自殺行為――に見えるかも知れないが、これはきちんと理由がある。
直後、ジュウジュウと音を立て、ニユの周囲の炎が消えた。
何故なら彼女が大量の飲み水を火に浴びせ掛けたからだ。
このまま山に火が燃え広がっていては、頂上の悪魔の所を目指せない。
だから放った火はきちんと消火する訳である。まあ、飲み水は無駄にするが、また買えば良い。
真っ赤に燃え立っていた火の手が轟音と共に消え失せて行き、半時間後、辺りには真っ黒焦げの死骸が散乱していただけだった。
見事、魔獣を一掃できたのである。
「やった!」
ニユは喜び、満面の笑顔。モイザも安堵の溜息を漏らした。
こうして、魔蛇戦は幕を下ろしたのだった。
そして昼過ぎ。
山を登り切った少女達は、石造の異様な祠を目の前にしていた。
「ここが……」
目的地、東の悪魔の寝ぐらである。
「この中に、『望みを叶える』悪魔がいてくれたら良いのだけれど」
本当にモイザの言う通り、そうであってくれれば良いなとニユも切に願っている。
どんな悪魔なのだろう。ニユの心に一瞬不安が差すが、彼女はすぐ首を振って拭い去った。
「何が待ち構えていたとしても、きっとモイザと力を合わせて勝ってみせるんだから」
扉の前に立つ。宝石の装飾が施された、とても美しい石扉だ。それを力一杯に押し開こうとする。
だが、開かない。重過ぎるのだ。
エジーが扉へ体当たりを食らわせ、「仕方ないわね」とモイザも協力して押し始める。
「ありがとう」
三人で一生懸命石扉を押す。押して押して、押し続け、そして――。
グググ、ググググ。
轟音が山中に轟き、ゆっくりと扉が開いた。
「よし。……行くよ」
そう言ってエジーを連れて中に入ろうとするニユに、モイザが待ったを掛けた。「ニユ。こいつは置いて行った方が良いわ」
「どうして?」
「だって、祠の中はきっと狭いわ。こいつがいたら、邪魔になる」
確かにモイザの言う通りだった。
「うん。……ごめんねエジー。ここで待っててくれる?」
少し心配そうな目を向けて来る白山羊。だが大人しく了承してくれた。
「絶対戻って来るからね。――じゃあモイザ、行こう」
エジーを外に残し、ニユとモイザが扉の向こうへ足を踏み入れると、中は真っ暗だった。
ランタンで四角い部屋の中を照らす。と、一面の石の壁以外の異様な物が視界に入った。
一体何だろう。そう思い、ニユが目を凝らそうとした瞬間、祠中に美声が響いた。
「……可愛い黒蛇達を殺して、ワタクシの眠りをよくも覚ましてくれやがったのね、人間」
その声の主を見て、ニユは身を硬くする。
それは、翼を広げた漆黒の鱗に全身を覆った竜だったのだ。
「驚いているようなのね。ワタクシは東の悪魔、ラフレシアなのね。……わざわざワタクシの城へやって来て、一体何の用なのね?」
美しいドラゴン――否、悪魔は少女達を見下ろし、そう笑ったのだった。